声なき紙片 1
Silent Note 1
「あ、イオさん。実はオレ、ちょっと気になることがあって……」
新井蒼が、トラックパンツのポケットから、もぞもぞとスマートフォンを取り出した。そして、スマホカバーから四つ折りの紙片を引き出す。
五百蔵悠は、小首を傾げながら、長い指でそれを受け取った。
「その紙……マンションの郵便受けのとこで拾ったんです。でも、中身が意味不明で」
手書きだから読みにくいんですけど。
なんとかして翻訳アプリにかけてみたら「タガログ語」って判定されて。
ただ、訳してもなんだかよく分かんなくって。それでちょっと気になってて――
蒼が、要領を得ない感じで説明を始める。
五百蔵は親指を顎先に軽く当て、紙片に視線を落とした。
五百蔵は、身長百九十センチはありそうな長身。
しかも、背が高いというだけではなく、肩幅、身体の「厚み」が半端ない。
2・5人掛けのソファーに座っているというのに、なんだかすこし窮屈そうに見えるほどだ。
いま、ふたりがいるのは「ソアラ綜合事務所」の応接セットのソファー。
といっても、司法書士兼行政書士である五百蔵ひとりの事務所で、しかも住居と兼用だった。
すこしして読み終えたのか、ふわりと顎先から指を離し、五百蔵がゆっくりと目を上げる。
「蒼くん。これ『郵便受けのところで拾った』って言ったよね」
「ハイ、チラシとか捨てる用のダンボールの脇に落ちてて」
「いつ、拾ったのかな?」
「木曜……ハイ、木曜です。夜、仕事帰り」
「そうか」
噛み締めるように言って、五百蔵が続けた。
「おそらく……これ、僕宛のものだと思う」
「へ?」
「うん、上手く郵便受けに入らなかったのか、それとも薄すぎて隙間から滑り落ちちゃったのかな。きっちりと折り目をつけてあるからね」
えっと――
「イオさん。それってどういうコト……ですか?」
*
木曜日。残業帰りの夜。
蒼は溜息をつきながら、一階のホールにある郵便受けを開けた。
この春、蒼は「よんどころない事情」で実業団の水泳部を退部した。
定時後の「練習」は、もうない。
蒼は、入社数年目にして初めて、いわゆる普通の「残業」というものを経験していた。
郵便受けの下には、チラシ廃棄用の段ボールが置かれている。
無意識めいた仕草で、そこへチラシとダイレクトメールを投げ入れようとしたとき。
蒼はふと、段ボールの脇に落ちている「紙片」に気がついた。
「紙片」というか、きちんと四つ折りにされた紙――だった。
まだパリッと新しいような、ゴミにしては違和感のあるたたずまいに、なんとなく注意が引かれたのかもしれない。指を伸ばして、蒼はそれを拾い上げる。
折り目を開いて、中を見た。
青のボールペンで、癖のある文字が書き連ねられている。
アルファベットだ。でも明らかに「英語」ではない。
「何語? これ」
蒼はスマホを取り出す。カメラ対応の翻訳アプリを立ち上げた。
だが、手書き文字をうまく読み取れないのか、まるで歯が立たない。
仕方がないので、普通の翻訳アプリに切り替えた。
「これ絶対、外国人が書いたんだろうな……」っていう、独特に読みにくいアルファベットに手こずりながらも、一文字一文字、翻訳ボックスに入力していく。
まず日本語に訳させてみたが、結果はまったくの意味不明。
しかたないので、英語で出力してみた。
アプリが自動判別した元言語は「タガログ語」。
蒼には全くピンとこない。
タガログ――って、どこの国だっけ? とか検索しなおす始末。
「フィリピン? の公用語……かぁ」
へぇ、フィリピンって英語とかじゃないんだ……と。
無知蒙昧なモノローグを呟いて、蒼は翻訳結果に目を落とす。
英訳でも、やはり文章の体裁はほとんどなしていなかった。
no, paper..............not go home, ; case no divorce.
court decisions
// help want not certification
apostille no home
「ノット ゴーホーム? 『ヘルプ』って……なんだよ、これ」
意味不明とはいえ、判断できた単語の断片は、なんとも「不穏」な感じがした。
なんとなく唐突な「助けて」という言葉には、どうにも心がザワついてしまう。
だから蒼は、その紙片を「ゴミだ」と捨てることもできなくて、でもどうしようもなくて。
ただなんとなく、手にしていたスマホのカバーに差し入れたのだった。
*
「実はね、今週の木曜日、来るはずのお客さんがひとり、来なかったんだ」
手にした紙片を丁寧な手つきで折りたたみながら、イオが言った。
「え? 『ドタキャン』ってことですか!?」
蒼は勢い込む。
だがイオは、
「うん、まあ。そうだね、そうとも言うかなぁ」と、どこかふんわり、言葉を漂わせた。
「あの、イオさん。その紙、アプリで英訳したら、なんか『divorce』とか『court』とかって出てきてて。裁判とか離婚ってコトですよね」
「たぶん、そうなんだろうね。依頼内容、少しだけ予約の電話のときに聞いたんだけど。『フィリピンの裁判所に書類を出したい』って言ってたから」
「ドタキャンされた後、その人から連絡は」
「なかった。だから、こっちから折り返して連絡したかったんだけど」
「……けど?」
え、なんで。すりゃいいじゃん。
「最初の電話がね、公衆電話からだったんだ。だから、折り返す連絡先が分からなくてね」
公衆電話!?
いや、今どきそれって。探す方が難しくないか、公衆電話。
なんでわざわざ。
「っていうか、イオさん。なんで連絡先も聞かないまま、予約なんか入れちゃうんですか? ありえなくないですか、シゴトとして」
「蒼くん、意外と手厳しいね」
イオが困り顔で頭を掻く。
「手厳しい」って。いやいや、そんなの「普通」でしょう? 普通。
「うん。なんだかね……その人、『言いたくなさそう』だったんだよ。ひどく」
「なにをです?」
「連絡先を。あと細かい相談内容とかもね。なるべく早く通話を切り上げたそうにしてた。だから僕も、いろいろと訊ねなかった」
――いや、ちょっとよく分かんないですけど。
「だって仕事でしょう? そんなんで、いろいろと大丈夫なんですか?」と。
蒼が食い気味に問いかけたとき、ピンポンと、「ソアラ綜合事務所」の玄関チャイムが鳴った。