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ユリウスの身体から、じわじわと黒いよどみが生じている――認めたくない現実に、沈黙の時間が少し続いたのち。ユリウスがおもむろに口を開いた。
「君は……何も悪くない。これは、俺の宿命なのだから……」
「……」
「君の――他者を思いやる心は、とてもかけがえのないものだ。しかし、これ以上ここにいては、君を大切に思う人々を悲しませてしまう」
そして、ユリウスは、ナタリーに頭を下げて――。
「……君が生きてくれること――幸せでいることが、一番大事なんだ……だから早くここから」
真っすぐと、そして思いを込めるように。
「……逃げてくれ」
そう、彼はナタリーに言った。
その言葉を聞き、ナタリーは思わず胸が詰まり……無言になってしまう。そして何度も脳内で反芻すれば――彼の言葉から痛いほど伝わってくる想いに理解がいく。
ナタリーの幸せのために、逃げてくれ……と。理性では分かっているのだ、きっと地下遺跡で起きた魔力暴走とは比にならないくらいの、危険な状況だということ。
逃げたほうが安全、分かっている……分かっているのだ。
(でも、それが私の幸せになるなんて……)
ユリウスの言葉を思い出すたびにナタリーは、ふつふつと抑えきれない感情が溢れてきて――。
「わかりませんっ!」
「……え?」
「宿命だなんて、そんなもの……私は認めませんっ!」
ユリウスの言葉とは反対に――ナタリーは彼の方へ近づいていきながら、口をしっかりと開く。
「そもそも、あなたは私に言わないことが多すぎるのです!」
「それは――」
「言えないことがあるのは……仕方がありませんわ。ですが、そうだとしても一人で勝手に決めつけておりませんか?」
頭を下げていたユリウスが、ナタリーの言葉に反応して顔を上げる。そしてその間に、彼のもとへナタリーは辿り着き、彼の側へ腰を落とし――膝立ちになった。
「私の幸せは、ここから逃げること――ではありません」
「……」
「たしかに、ここに来るまで……お父様、お母様、周りの大切な人たちに、心配をかけてしまいました」
「それなら……今からでも、遅くは――」
ユリウスが、気遣うように――ナタリーへ声をかける。その声を聞き、ナタリーは自分を鼓舞するようにきゅっと手を握りしめ。
「でもっ!私は、ここから離れませんの!」
「……っ!」
そうナタリーが告げれば、ユリウスの赤い瞳が大きく揺れた。そう言われるとは思わなかったのか、驚きを隠せないユリウスを前にしてナタリーは続ける。
「それに、優しさだとか、使命感で私はここに来ているわけではありません」
「そ、れは――」
「ここにいるのは、私の意思なのです!」
ユリウスは、ナタリーの言葉に身体が固まってしまったのか瞬きをするだけだった。そんな彼に語り掛けるようにナタリーは、一息ついてから口を開く。
「あなたと再び出会った日から……私、おかしくなってしまったんです!」
「っ!」
「私にはない力で、あなたは助けてくれて……しかも、気遣われて。冷たいと思っていたのに……温かい気持ちにも触れてしまって。ずっとずっと、心臓がおかしくなっていますの!」
「す、すまない……」
ナタリーの言葉にユリウスは呆気に取られているようだった。そして自分を見つめる彼に一度開いた口をそのまま動かし、さらに言葉を紡ぐ。
「でも、それ以上に……あなたの優しさに、想いに、どうしようもなく胸が焦がれて――手放したくないんです!」
「……っ!」
「あなたと、もっと話をして……時には季節で移りゆく景色を見たり、他愛もなく笑いあう。そんな日々が欲しくてしかたないと――そう、思うんです……っ」
ナタリーがユリウスの瞳をしっかりとみつめれば、ユリウスは息を呑み――「俺が……美しく眩しい君を……守るのが……だというのに、そんな、そんなことは……」とぶつぶつと小さくつぶやいているようだった。
そんな様子にナタリーはじれったく思い、彼の両肩に手を置き――。
「かっ……」
閣下――と呼びかけようとして、ナタリーは口を閉ざす。その時、ふと思い出したのは、彼が戦争で重傷を負った際のことだ。寝言だったが、ナタリーの名前を無意識に呼んでいた彼の姿がそこにはあって。
(私だけが、呼べないのなんて――過去に囚われているなんて……そんなのは)
――いやだ。
「ユリウスっ!あなたは、どうなのですか……!」
「っ……」
「魔力暴走や過去のこと、あなたが言いづらそうにしている事実は関係ありませんわ!私が焦がれているのは、今のあなたなのです。だから――」
(……私は過去の彼を含めて、すべてを愛することはできない。けれども、ひたむきで不器用な優しい彼を――)
「だから……今のあなたの気持ちを、私は知りたいのです……!」
ナタリーのアメジストを思わせる瞳が、ユリウスの姿を捉える。真っすぐな瞳に射抜かれたユリウスは口を震わせ、はくはくと音が出ない声を上げた。
数秒、数分――まるで時が止まったかのように、互いを無言で見つめあっていれば、ユリウスが絞り出すように声をあげ。
「俺は――……」
そう言葉を紡いだのち、赤く輝く瞳からツーっと滴が流れる。そのまま、再び口を動かし――。
「君と……っ、一緒にいたい……そばに、居たいんだ」
そう告げたユリウスの瞳は、熱を帯びていた。そして。
「ナタリー、君を……愛している」
堪えきれずに涙を流しながらも、ユリウスはナタリーに語り掛けた。
そうしてユリウスの言葉をじっと聞いたのち、ナタリーは自然と彼の頬に手を伸ばす。リアムにした時と同じく、赤い瞳からこぼれる滴をそっと指で優しくぬぐった。
ナタリーが膝立ちをしているため、下にある彼の顔を見て涙を拭いていたはずだった。
なのに、ぽたりと……また彼の頬に水滴がついてしまっていることに、疑問を感じていると。ユリウスの瞳がまんまるく、ナタリーを見つめていることに気が付く。
彼が「大丈夫か?」と心配そうに気遣う中、ナタリーは自然と笑みがこぼれていて。
「ふふ、家族揃って――泣き虫さんが多かったんですのね」
そう明るく言うナタリー自身の目からも、ぽろぽろと涙が流れていたのだ。ユリウスは、ナタリーと視線を合わせながらも、事態を飲み込むのに必死な様子だった。加えて、なにやら歯がゆそうな表情をしていた。
というのも、ユリウスに巻き付く黒いよどみが彼の上半身にまで浸食を始め――地面で姿勢を支えていた彼の手を、縫い留めるように拘束していたのだ。
ユリウスの様子に気が付いたナタリーは、痛ましそうに眉をひそめてから……ふと、辺りを窺う。すると、周辺がまた暗くなりつつあることが分かり――ナタリーは意を決するように、ユリウスの肩に置いていた手にきゅっと力を入れ。
「共に、ここから出ましょう」
「そ、れは……」
ユリウスに言葉をかければ、彼はその内容に戸惑いを見せていることが分かった。きっと、自身の魔力暴走で迷惑をかけていると自責を感じているのかもしれない。
そんな彼に、ナタリーは「大丈夫です。私を、信じてください」と言葉をかける。そして、続けて。
「あっ!それと……お返事がまだでしたね?」
「え?」
「私も――」
ナタリーは自身の瞳からこぼれる涙を気にせず、柔らかな笑みを浮かべた。そのまま癒しの魔法をかけるため、身体中にある魔力を集めたのち――手に力を込めながら……ユリウスの顔に近づき。
「あなたを、愛しております」
そう言葉を紡ぐとナタリーは瞳を閉じ、ユリウスの唇に――自身の唇で触れた。
手だけではなく、身体全体で魔法を発動するかのように……ユリウスの身体へ自身の魔法を注いだ。
ユリウスの魔力暴走が、抗うように反発をしてきてピリピリとした違和感や……熱いほどの火傷にも似た痛みを起こす。しかし、どれほど痛くとも――ナタリーは決してユリウスから離れなかった。
そしてナタリーの脳裏には、いくつもの思い出が再生される。
――自分が怪我しようとも、私を、家族を守ってくれた姿
――私が悲しまないようにしてくれた、不器用な優しさ
――屈託のない彼の……笑顔
確かに、怖くて距離をとっていた時もあった。
しかし今思い出すのは、ユリウスとの温かい日々で、そのすべてが。
(とても、愛おしいの)
ナタリーの中でも、いつの間にか……こうもユリウスの存在が大切になっていて――そんな彼を死なせたくない、そう強く思うのだ。
『いい?後悔をしない気持ちを大切にしなさいね』
(お母様、私――後悔はありませんわ……!)
ナタリーの背中を押してくれるように、出かける時に聞いたお母様の言葉が、脳内で思い出された。自分の気持ちを確かめて、さらに身体にある魔力をかき集める。
そして抗うユリウスの魔力へ、癒しの魔法を精一杯かけ続けた。
――ビュンッ。
大きな風が辺りに吹き荒れる――そんな音が聞こえた。おそらく、ユリウスの魔力とナタリーの魔法が反発しあっているからこそ、起こっているのかもしれない。
その風と共に、縄が引きちぎれる音も響き始める。
しかし、あまりの強い風にナタリーが体勢を崩してしまいそうになる。そんな時、ぎゅっとナタリーの身体を支えてくれる――逞しい腕の感触に気が付いた。
きっと風によって、ユリウスの手を拘束していた縄が消えたのだろう。彼の支えを感じて……大丈夫だ、とナタリーは自分に喝を入れ、さらに魔法を強めていく。
すると同時に、ナタリーの頭に熱がこもる。そこから――全身が熱くなった、その瞬間。
まるで煌煌と輝く太陽の如く……ナタリーの手からは、大きな光が生まれた。
それは、まぶたを閉じているナタリーにもわかるほどのまばゆい光となり、暗くなっていた辺りをかき消すように包み込んだ――。