犯人なき殺人7
五津氏が屋敷を後にしたのは、日が傾き、壁の金唐紙の文様が薄闇に融ける頃合いだった。
氏としてはまだまだ語り足りていない様子だったが、すでに九十歳を超える彼の年齢を鑑みると無理はさせられない。そもそも今日の目的は、氏を桃子さんに引き合わせることであって、インタビューは半ば口実に過ぎない。
「みづき君」
ベンツに乗り込む間際、ふと、五津氏は思い出したように僕を振り返った。
「彼女は、賢いがとても寂しがりやな女性だった。君に寄り添ってもらえたことを、きっと、喜んでいるだろう」
「……はい」
勝手に代弁しないでくれ。彼女の言葉なら僕には聞こえているし、悲しみの涙も視えている。ただ、逆に言えばそれだけだ。それだけしか僕にはわからない。五津氏に比べるならあまりにもちっぽけな繋がり。想い出に至っては皆無に等しい。なのに……
そんな、よくわからない怒りを抱える僕など知る由もない五津氏は、柔和な顔に包み込むような笑みを浮かべた。
ほどなく五津氏の乗るベンツは、滑るようにロータリーを出て行った。
「で、どうだ、桃子は成仏しそうか」
遠ざかるベンツのテールライトを見送りながら、ふと兄さんが問うてくる。
「わからない……でも、心残りは消えたと思う……」
「マジか? やったな! 並み居る地上げ屋を薙ぎ払ってきた伝説の悪霊も、ついにお陀仏ってかうははははは!」
早くも勝利を確信してか、高らかに哄笑する兄さん。だが僕は、そんな兄さんにつられて明るく笑う気にはなれなかった。
「とりあえず……中に戻ろう、兄さん」
応接間に戻ると、意外にも桃子さんはまだ現世にいた。
元々五津氏が座っていた長椅子の上で膝を抱きしめたまま、ぼんやりと虚空を見つめている。余程ショックだったのだろう。七十年以上も待ち侘びた人が実は生きていて、自分の知らない場所で人生を歩んでいたことが。
彼女に七十年もの待ち惚けを強いたのも、ほんの些細な行き違いだった。
戦時中、こと日本では、敵に囚われた将兵の多くが戦死者として報告されたそうだ。生きて虜囚の辱めを受けず――そうした風潮が当たり前とされる中では、戦死として扱った方が、まだ、残された家族の面目が保たれたのだろう。おそらくは五津氏も、そうした理由で家族に戦死が報告されたのに違いない。
戦後、彼が収監先のアメリカから帰国し、ようやくその誤解が解かれた時にはしかし、すでに桃子さんは亡くなっていた。その頃には屋敷も占領軍に接収されていたから、五津氏が桃子さんの霊が待つ屋敷に戻ることも叶わなかったのだ。
その誤解が何十年ぶりかに解け、五津氏とも再会できたことで、彼女の魂が癒えたかどうかは僕にはわからない。ただ少なくとも、氏は約束を果たしてくれた。兄さんに招かれてではあるが、それでも約束は果たされたのだ。
桃子さんの願いは叶った。
少なくとも、彼女が現世に留まる理由は最早、ない。
「どうだ。桃子の奴、成仏したか?」
「う、ううん。まだ……でも、」
「んだよ、まだ成仏しやがらねぇのか! しつっこいガキだなおい!」
「兄さんは少し黙って!」
ふと桃子さんは椅子から降りると、とぼとぼと、力ない足取りで窓際へと歩み寄る。その背中を見守りながら、ああ、いよいよだなと僕は予感した。
本来、死者が現世に留まるには強い意思を必要とする。
だが、今の彼女からは最早そうした意思が一切感じられなかった。おそらく彼女も、遠からず旅立ってしまうのだろう。僕ら生者では赴くことの叶わない、どこか遠い世界へと。
それはとても幸福なことで。
なのに、なぜ僕はこんなに悲しいのだろう。
本当はもっと、もっともっといろんな音楽を聴いてもらいたかった。音楽だけじゃない、現代でしか味わえない食べ物や面白い漫画、アニメ、その他諸々の楽しいこと。そういうものを、もっともっと触れてほしかった。驚いてほしかった。……笑ってほしかった。
「……桃子さん」
行かないで。
どうか、もう少しだけ、僕と――
「決めたわ」
その背中が、不意にこちらを振り返る。その目は、先程の茫然自失ぶりが嘘のような強い意思にぎらついていた。
「ねぇ瑞月さん」
「えっ、は、はい」
「そこのハンサムな守銭奴に伝えてちょうだい。たかが一つ二つ我儘を聞いて貰ったからって、年頃の女の子が満足するはずないでしょう、って」
そしてにんまりと微笑む彼女に、僕は、ほんの数分前まで彼女との別れを惜しんでいた自分が懐かしくなる。……が、言われてみれば彼女の言う通りなのだ。約束こそ果たされたが、確かに、彼女は何一つ満たされていない。
「おい瑞月、まさかあいつ、まだ現世に居座ってやがるのか!?」
噛みつくように訊ねる兄さんに、僕は渋々頷く。すると兄さんは喜色を一転、PKを外したストライカーよろしく絶望顔で天を仰いだ。
「マジかよおおおおおお!」
うう、言えない。この上さらに先程の桃子さんの台詞を伝えた日には。そんな僕のきりきりと痛む胃袋を知ってか知らずか、なおも桃子さんは楽しそうに僕を眺める。その目は、捕まえた獲物を生かしたまま甚振る猫のそれを思わせた。
「ふっざけるなよ! 俺がどんだけ苦労して、下げたくねぇ頭も下げてIZUの名誉会長に渡りをつけたと思ってんだクソババアっっ!」
「落ち着いて兄さん! ――あの、桃子さん。現世に残ってくださるのは構わないんですが、五津さんと再会した以上、もう、この屋敷に留まる理由は……」
そうだ。屋敷さえ賃貸に出せればそれで僕らの勝利だ。とりあえず屋敷から彼女を――怪異を追い出すことができればそれだけで。
「つまり、出ていけというわけ?」
「はい……あ、いやいやいや! ただ僕らとしては、このお屋敷を是非賃貸に出させて頂きたい、と……駄目ですか?」
おそるおそる上目遣いで訊ねる。すると彼女は細い指先を形の良い顎に当てると、しばし黙考し、答えた。
「そうね。それは構わないわ」
「えっ? ほ、本当で――」
「ただし、あなたもここに住まうこと」
「えっ」
意外な言葉に耳を疑う。今、彼女は何と……?
「だって、あなたがいなきゃ不便じゃない。工事の音がうるさくても、私一人では文句の一つも言えやしない。かといって、今更住み慣れたこのお屋敷を離れるなんて嫌よ、私。――悪い話じゃないでしょ。一階はレストランにでもして、あなたは二階に住まえばいいじゃない。家具を置くぐらいは、ええ、この際だから許してあげる」
「えっ……そ、それは……」
構わない。というか正直な話、僕もかなりしんどかったのだ。一月二月でころころ部屋を変える生活は。……何より、これまでの言動を踏まえるなら、今の話は彼女なりに相当妥協してくれているのでは……?
いや。
仮に僕がここに移り住むとして、そうなれば当然――
「ねぇ兄さん」
「何だ?」
「もし……もし仮にだよ? 彼女が、僕がここに住むのを条件に一階を賃貸に出してもいい、って言って来たら、どうする?」
そのコンマ一秒後。兄さんの口から僕が予想した通りの答えがなされ、そして案の定、桃子さんとの間で僕を介しての不毛な言い争いが始まったのだった。