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麻布1丁目1番1号  作者: 路地裏乃猫
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犯人なき殺人6

 僕らの報告を一通り聞き終えた彼女は、案の定、何の感慨も浮かべはしなかった。


「私は、私を殺した〝犯人〟を探しなさいと申し上げたの。犯人はこの中に含まれている、なんて一覧を見せられて、私が納得できるとでも?」


「納得もしねぇし、成仏もしねぇだろうな」


 僕が伝言した彼女の言葉に、兄さんは落胆するでもなくむしろ平然と肩をすくめる。

 応接室のテーブルに広げられているのは、兄が米国防省から取り寄せた資料だ。その資料には、一九四五年五月某日に行なわれた軍事作戦の参加者の名が、司令官から末端の実行部隊に至るまでずらりと記されている。彼らは皆、アメリカ海軍の航空隊に属する将兵で、この日は、今の武蔵野市にかつて存在した軍需工場を破壊する任に就いていた。工場では当時、主に戦闘機用の航空エンジンを生産しており、これを破壊するのが本作戦の目的だったそうだ。

 そのリストに名を連ねる男たちの一人が、彼女を殺した人物。

 これが僕らの辿り着いた結論だった。


「ついでに言えば、仮に特定したところで無駄だろうよ。何せ、こいつらは〝犯人〟じゃねぇ。少なくとも、裁判はそのようには裁かなかった、だろ?」


 その言葉に、初めて少女は軽い驚きの色を見せる。やはり、最終的にはそのように言い逃れるつもりだったのだろう。


「……案外頭が回るのね、あなた」


「まぁな。こう見えて、い・ち・お・う、東大出てるからなぁ俺。……おっと、東京帝国大学と言った方がお前には伝わりやすかったか?」


「結構よ。あの戦争が終わって、この国がどういった変遷を遂げたのか。その程度の事情なら一応、把握しているもの」


 見縊るなと言いたげに吐き捨てると、彼女はふと睫毛を伏せた。ただ、その目はテーブルに広がる資料ではなく、その先に広がる遠いどこかを見つめている。

 その目がふと僕に向けられ、僕は慌てて居住まいを正す。


「死因が特定できたということは、もちろん、私の正体も?」


「え、ええ……」


 頷くと、僕は別の資料の束をテーブルに広げる。そこには、僕が兄さんに頼まれて調べ上げた彼女の情報が、コピー用紙数枚に渡ってプリントされていた。

 彼女の名前は大岩桃子。桃子はトウコと読むらしい。珍しい読み方だ。

 昭和四年――西暦で言えば一九二九年、彼女は、五津伯爵家とは親戚関係に当たる大岩家の長女として生を享ける。ところが、その大岩家は昭和恐慌の煽りを受けて間もなく破産。桃子さんは五津家に引き取られ、以来、、この屋敷で育てられることとなる。

 そして昭和二十年五月、桃子さんは勤労奉仕先の軍需工場で戦闘機の機銃掃射に遭い、死亡する。彼女は戦闘員ではなかったから、当時の国際法に照らしてもこれは立派な殺人に当たる。しかし、多くの日本人が歴史の教科書で学んだ通り、〝裁判所〟は桃子さんを殺した者たちを〝犯人〟としては裁かなかった。

 おそらく桃子さんは、それを承知であのような条件を提示したのだろう。それが、不可能な命題だと理解した上で。

 歴史の陥穽に、人知れず置き去りにされた〝犯人〟なき殺人――


「大したものね」


 テーブルを埋めるレポートを見渡しながら、やはり大した感慨もなく彼女は言った。

「あの程度のヒントでここまで調べ上げたことは、素直に称賛するわ。地上げ屋なんて下品な稼業はやめて、いっそ探偵業にでも鞍替えなさったらどう?」


「えっ……あ」


 さすがに今のは兄さんがキレる。昔から兄さんは、上から目線で他人に褒められるのを何よりも嫌っているからだ。加えて地上げ屋呼ばわりのコンボ技。ここは、うん、曖昧に聞き流しておこう……


「何だ。また俺を馬鹿しやがったのか、そいつ」


「ふえっ? い、いや、何も」


「伝えて頂戴。別に構わないでしょ? どのみち叱られるのは瑞月さんではないのだし」


「あうう」


 渋々伝言すると、案の定、兄さんは弾かれたようにソファから立ち上がった。


「誰が地上げ屋だ誰がッ! 俺たちはなぁ、投・資・家だっ!」


「似たようなものじゃない。三十年ぐらい前の話かしら、成金じみた下品な連中が次々とお屋敷に押しかけてきて、そのたびに私、二階からそいつらを突き落としてやったのよ。バブル景気……と言ったかしら、騒々しい時代だったわ」


 眉を寄せ、忌々しげに吐き捨てる桃子さんはしかし、昔の武勇伝を誇るようでもあって、口調とは裏腹に当時はそれなりに楽しんでいたのでは、などと僕は密かに邪推した。

 とはいえ、彼女の称賛もあながち間違ってはいないと僕は思う。あれしきの情報で全てを暴き立てた兄は、きっと、探偵に鞍替えしても充分やっていけるだろう。

 実のところ兄さんは、彼女が記憶喪失を装っていたと耳にした時点で、彼女が先の戦争の被害者だと九割方確信していたそうだ。

 全てを憶えていたとして、なぜ今更犯人を捜してほしいなどと要求するのか。それが僕らを追い返すための無理難題なら、なぜ、出題者である彼女はそれが無茶な命題だと知っていたのか。――その無茶な理由が、彼女の言うように〝犯人が存在しない〟故であるのなら、では〝犯人が存在しない〟殺人とはどういったものを指すのか。

 自殺説を疑った僕は方向性としては間違っていなかったのだろう。ただ、兄さんは僕に比べて引き出しの数が段違いだった。少なくとも、僕の引き出しには「下手人が戦勝国の兵士だったが故に罪を裁かれなかった」殺人、なんて答えは存在しなかった。


「とりあえず、これでわかったでしょう」


 半ば強引に話を締めくくると、桃子さんはつい、とソファを立ち上がった。


「私の要求を叶えることは不可能――そう不可能なのよ。私を殺した人間はいても、〝犯人〟はどこにも存在しない。まさか当時の裁判官を天国から呼び戻して、審理のやり直しをさせるわけにもいかないでしょう?」


「そうだな。それに、そんなことはお前も望んじゃいない」


 そう。問題の本質はそこなのだ。

 そもそも桃子さんは、彼女を殺した連中の贖罪など端から望んでもいない。今更そんな願いを叶えたところで、桃子さんの魂がこの世界から解放されることはないのだ。が、このままでは僕らは永遠に屋敷を賃貸に出せないし、何より、彼女自身も救われない。

 だからこそ僕らは、すでにある一手を用意していた。


「じゃあ諦めて。私はね、この屋敷を護らなくてはいけないの。百年でも、千年でも、」


「そこまで長く待つ必要はねぇよ」


「えっ?」


 桃子さんが驚きに瞼を見開くのと、表のロータリーから車のエンジン音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。窓に目を向けると、いつしか表に一台のベンツが停まっている。

 やがて、その後部座席からスーツに中折れ帽という洒落たスタイルのご老人が、運転手の介添えを受けながら、杖を支えにゆっくりと降りてきた。


「さてと、んじゃ俺は、お客様の出迎えに行ってくる」


 手早くテーブルを片付けると、足早に兄さんは玄関に向かう。一方、桃子さんもまたソファを立つと、こちらは、普段の気丈さが嘘のような覚束ない足取りで窓に歩み寄った。


「どうして、だってあの人、南方で、」


「戦死したはず、ですか」


 つい言葉を引き継いでしまった僕を、桃子さんが弾かれたように振り返る。ただ、その目に怒りや叱責の色はなく、というより、今は誰かを責める余裕もないらしい。

 この反応を見るかぎり、やっぱり……


「ご存じなの、あの人のこと」


「えっ? え……ええ。それはもう、有名な方ですし……」


 むしろ、経済界では今や伝説と化した彼の名前を知らない日本人の方が少ないだろう。もっとも、イヤホンの存在すら知らなかったほど時代に取り残された彼女には、そんなことは知る由もなかったのだろうけど。

「自伝によると、昭和十九年のレイテ沖海戦で乗艦を沈められたものの、直後に米軍の艦船に救助され、以降、終戦までアメリカ本土の収容所に収監されていたとのことです」


「収監? それはつまり……捕虜として?」


「はい。ですが終戦後間もなく日本に送還されています。復員……と言いましたっけ」


「……そんな」


 やがて、応接間に先程のご老人が現れる。福々とした笑顔が染みついた柔和な顔は、彼が歩んだ幸福な人生を自伝よりもなお雄弁に語っている。


「ようこそお越しくださいました、五津様」


 恭しく腰を降りながら、兄さんはご老人にソファを勧める。ご老人は「ありがとう」と目を細めると、ベンツを降りた時と同じ緩慢な動作でソファに腰を下ろした。その背後に、先程の運転手がぴたりと侍る。おそらくボディーガードも兼ねているのだろう。


「いや、まさか死ぬ前にふたたびこの屋敷を訪れることになろうとはね」


 嗄れた声でしみじみ呟くと、ご老人は応接間の壁をゆっくりと見渡す。

 彼の名前は五津義正。かつてこの屋敷を施工した五津義久伯爵のご子息だ。

 五津伯爵家に三男として生まれた氏は、戦後の華族制度廃止とともに一度は没落の憂き目に遭った。が、氏はその後、海軍時代に培った技術で新事業を立ち上げ、後にそれは日本を代表する電機メーカーへと成長する。現在は経営を後継に託し、自身は田園調布の豪邸で穏やかな余生を過ごしているらしい。


「驚いた……本当に、何もかも昔のままだ……」


 なおも五津氏は、目に映るもの一つ一つを目に焼き付けるかのようにゆっくりと顔を巡らせる。余程感慨深いのだろう。無理もない、彼にしてみればおよそ半世紀ぶりの〝帰宅〟になるのだから。ただ、その目が桃子さんに止まることは、遂に一度もなかった。

 そんな五津氏を、窓際に立つ桃子さんは相変わらず茫然と見つめている。


「いや、写真を見た時は半信半疑だったが……本当に、綺麗に残っているものだねぇ。こんなことなら……ああ、もっと早くに戻ればよかった」


「氏が戦後、この屋敷を買い戻そうとなさらなかったのは、荒れ果てた屋敷を目にしたくなかったから、ですか」


「ああ」


 兄さんの問いに、五津氏はこっくりと頷いた。


「ここは、私の生家でもあるが……同時に、美しい想い出の場所だった。ところが戦後、このあたりの屋敷は軒並み占領軍に接収されてしまってね……奴らときたら酷いもんでね、金唐紙の壁紙も、磨き上げた樫造りの床も、ぜんぶまとめてペンキで塗りたくってしまう。ほら、やはりGHQに接収された安田生命ビルがあっただろう。あれなんかも酷くやられて、パージの後はそりゃもう修復に苦労したらしい」


 長話が堪えたのだろう、氏はふぅと息をつくと、やがて、温厚そうな氏にしてはひどく冷たい声色で、低く、小さく吐き捨てた。


「見たくなかった……奴らに踏み荒らされ、変わり果てた屋敷など」


 当初、五津氏は屋敷を訪れることをひどく躊躇っていたという。そんな五津氏の重い腰を動かしたのは、先日、兄さんと二人で撮影した屋敷の室内写真だった。

 五津氏を安心させるために、兄さんは僕と連れ立って屋敷の写真を何十枚と撮影した。写真に目を通した五津氏は、涙を流して兄さんに感謝したという。曰く、本当はずっと屋敷の様子を気にかけていたのだそうだ。ただ、戦後は米軍に手酷く荒らされ、その後も経年劣化で朽ち果ててしまったであろう生家を目の当たりにするのが怖かったのだと。

 だが、屋敷は荒らされてなどいなかった。死後、幽霊となって屋敷に棲みつき、終戦後は米軍将校たちを、バブル期には地上げ屋たちを問答無用で叩き出してきた桃子さんによって、屋敷は荒らされることなく昔日の姿を保ち続けた。

 そんな彼女の七十余年に及ぶ孤独な戦いが、愛する人を再びこの場所に呼び寄せた。


「早速ですが、このお屋敷での想い出をお話し頂けますか」


 向かいのソファに腰を下ろすと、インタビュアーよろしく兄さんは問う。まぁ実際、今日の兄さんはインタビュアーではあるのだけど。というのも今回、兄さんはフリーのライターという触れ込みで五津氏に接触を図っていて、この屋敷に彼を招いたのも、屋敷での過去の想い出を記事にしたい、という名目のためだった。


「……ああ」


 兄の問いに深く頷くと、五津氏は照れ臭そうにはにかんだ。


「若い人たちの前でこんな話をするのも……少し、照れ臭いんだがね。まぁ、古い人間の、古い青春の一頁だと思って、適当に聞き流しておくれ」


 そして氏は語り始めた。彼の美しい昔日の物語を。


「昔、この屋敷に大岩桃子さんという女性が住んでいてね。元は親戚の家の子だったんだが、いろいろあって、当家で引き取ることになったんだ。私は末っ子で、下には誰もいなかったから、実の妹同然に可愛がっていたよ。あの子も、お兄様、お兄様と私の後ろをついて回ってね。いや、可愛かったな、本当に」


 振り返ると、桃子さんは僕の視線を避けるようにぷいとそっぽを向いた。照れ臭いのか、褒められて喜ぶ自分を見られたくないのか。


「でもね、ある日ふと、気付いてしまったんだ。それが、単なる妹に対する愛情ではないことにね。……いつしか私は、女性として、彼女を愛するようになっていた。しかし、私の母は彼女をとても嫌っていてね。私は、母に勘付かれないよう、彼女との恋を必死に伏せていた。母の不興を買って、屋敷を追い出されては可哀想だと思ったんだ。あの子の家はとっくに離散していて、他に頼るべき親戚もなかったからね」


 そして五津氏は、ふぅ、と重い溜息をつく。単なる息切れか、あるいは、当時の切ない恋心を思い出したのか。


「……約束をね、していたんだ」


「それは、桃子さんと?」


「ああ。必ず、生きて帰るとね。たとえ死んでも、魂となってこの屋敷に戻ると。……なのに、日本に帰った時には、もう、僕を待つはずの彼女はどこにもいなかった。……ああ、あの日、昭和二十一年の春……あの日のことは、ああ、今も夢に見るとも……箱根の別荘で、彼女の小さな位牌に手を合わせた日のこと……僕は泣きに泣いた。畳を掻き毟って、子供のように泣きじゃくった。悔しかったんです。ただもう悔しかった。なぜ彼女を護れなかったのか。なぜ、彼女のために護国の鬼に徹しきれなかったのか。なぜ、僕一人が、おめおめと、生き永らえてしまったのか!」


 枯れ枝のような指先が、胸ポケットからのろのろとハンカチを引っ張り出す。それを五津氏は両手いっぱいに広げると、顔を埋め、肩を震わせて激しく慟哭した。


「……義正さん」


 そんな五津氏のもとに、おもむろに桃子さんは歩み寄る。やがて、その足元に膝をつくと、縋るように、五津氏の痩せた膝に顔を寄せた。


「私はここにいるわ、義正さん、私はここにいるのよ……あなたが会いに来てくれて、私の死を悼んでくれて、私、本当に嬉しいの。嬉しいのよ。だから……もう泣かないで」


 が、五津氏は気付かない。目の前にいるはずの桃子さんの呼びかけに、顔を上げるそぶりすらない。そもそも生者である五津氏には、桃子さんの姿は視えもしなければ声すら聞こえもしないのだ。触れ合う手のひらも、せいぜい肌を撫でる風としてしか認識されない。随分前に死者は風になる、といった歌詞の曲が流行ったそうだが、事実、死者の魂が生者に与える触感は風に酷似している。


「……ひどいわ」


 やがて桃子さんは言った。その声は、すでにひどく掠れ、上擦っていた。


「生きていると知っていたら……どうして、彼を連れて来たの……私には、もう、触れることも……声を届けることも、何も……できないのに」


 ひどいと言いながら、なおも彼女は五津氏の膝に縋りついたまま肩を震わせる。その横顔は、肩からこぼれ落ちた髪に隠れて見えない。ただ、もはや隠されることもなくなった悲痛な嗚咽だけが、悲しいほど僕の鼓膜を震わせる。

 彼女が言う通り、残酷な仕打ちになると予想はしていた。

 それでも、彼女の望みを叶えるにはこうする以外に方法はなかったのだ。事前に五津氏が兄さんに語った話から、桃子さんが屋敷に留まる理由はすでに明らかだった。それが現世における彼女の思い残しなら、僕の役目は、それを解消するまでのこと。

 だから、間違ってなんか。なのに――


「か……彼女は、います、今も」


 僕の言葉に、五津氏はのろりとハンカチから顔を上げる。皺だらけの彼の瞼は、今は涙にふやけて赤らんで見えた。


「ああ、わかっているよ」


 しみじみ頷くと、五津氏はやんわりと頬を緩めた。


「だからこそ、帰って来たんだ……彼女は今も、ここにいる」


「……」


 違う。

 五津氏の〝いる〟は、僕が意味する〝いる〟とは決定的にずれている。おそらく彼は、単に観念的な意味でその言葉を用いているのだろう。

 だが、僕の言う〝いる〟は、まさに字義通りの意味なのだ。

 彼女はそこにいる。文字通りそこにいる。今この瞬間も、愛する人に存在を気付いてもらえずに嘆き悲しんでいる。


「ち、違うんです、僕は――」


「瑞月」


 冷たい声に呼び止められ、見ると兄さんが、黙れ、と言いたげに僕を睨みつけていた。

 兄さんとしては、これ以上、僕に余計な口を利かれると困るのだろう。確かに、霊が視えるだの死者の声が聞こえるだのと言えば、兄弟揃って社会的な信頼を失うのは目に見えている。……そう、所詮、僕の感覚が一般的ではない以上は。


「みづき君、と言ったかな」


 振り返ると、五津氏の穏やかな双眸がじっと僕を見つめていた。


「は、はい……」


「いいかい、みづき君。頁とはね、生きている限り続くものだ。……彼女を喪った後も、私の人生は続いた。生きている限り腹は空くし、腹が空いたら、稼ぐために仕事をしなきゃならん。仕事をすれば、たくさんの人間と関わるだろう。そうして……やがて、素敵な女性とも出会う」


 そう語る五津氏の横顔に、もはや悲しみの色はなかった。むしろ晴れ晴れと虚空を見上げる眸は、ただただ幸福な色に満ちている。あるいは彼の人生も、こんなふうに、絶望から幸福へと一歩一歩、踏みしめるように這い上がっていったのかもしれない。


「彼女は、当時の取引先に勤める女性だった。太陽みたいな女性でね、ただそこにいるだけで、私や家族、従業員……皆の心を温めてくれる、私には勿体ないほどの得難い女性だった。彼女のおかげで……私の人生は笑顔が絶えなかった。辛い時も、苦しい時も……その妻にも、すでに先立たれてしまったがね、しかし、幸福な日々だった」


 しみじみと語る彼の言葉は、今は亡き奥様への情愛に満ちていた。それは、五津氏にとっては幸せに満ちた物語のはずで、ただ、僕だけは素直にその幸福を寿ぐことができなかった。

 桃子さんが歩むはずだった人生。手に入れるはずだった幸福――


「どうしたね、みづき君」


「いえ……ただ、やっぱり桃子さんが……」


 それ以上、僕は何も言えなかった。兄さんはよせと言うだろう。所詮は死者ごときに肩入れはするなと。それでも僕は悲しくて悔しくて、事実、目頭から溢れてしまうものを止めることができなかった。


「……桃子さんが、哀しくて」

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