犯人なき殺人4
翌日。麻布の屋敷に赴くと、何故か彼女の姿はなかった。
半月前の交渉に使われた応接間。奥の食堂とそのさらに奥のキッチン。昔は食糧庫として使われていたらしいキッチン横の納戸。どこも一通り覗いてみたが、やはり彼女の姿は見つからない。
「あれ? 留守なのかな……?」
とりあえず殺されずに済んだことにほっとしつつ、一旦玄関ホールに戻る。
それにしても広い家だ。現代の建売住宅が独房かと思えるレベルで一つ一つの部屋が馬鹿でかい。図面の表記によればリビングが三十畳、ダイニングが十五畳、キッチンですら十畳はある。キッチンは、壁のL字キッチンとは別に作業台を擁したアメリカンホームドラマでよく見るタイプのキッチンで、施工当時としてはかなり先進的な仕様だったのだろう。今は故障しているが空調もセントラルヒーティング式で、改めて、当時この屋敷を施工した五津伯爵家の財力が伺えようというものだ。
「す……すみませーん……」
今一度声をかけてみる。が、相変わらず彼女が姿を見せる様子はない。がらんどうの空間に動くものといえば、天窓から注ぐ光の中をふわふわと舞う埃ばかり。ただ、音の方は静かとは言えず、というのも、表の道路が絶賛工事中のため、その騒音と振動とで屋敷の中も相当に騒がしい。
そんなことをぼんやり考えながら、とりあえず二階へ上がる。高級ホテルのロビーにあるような、吹き抜けを利用した回り階段を上がると、広い廊下に面して五つほど扉が並んでいる。いずれも頑丈そうな樫造りの扉だ。
「し……失礼します」
とりあえず端の部屋から一つ一つ覗いてみる。いずれも一階の応接室に劣らない豪華な造りだ。金唐紙を張り巡らした壁と大理石製のマントルピース。ただ、部屋の広さには明らかな違いがあり、前庭に面した部屋だけが馬鹿みたいに広いほかは、八畳程度の、今の住宅事情から見ても常識的な広さの部屋が並んでいる。
最後のドアを開くと、そこは意外にも洋室ではなく、六畳ほどの畳の間だった。方角も北向きで、窓があるのに恐ろしく薄暗い。
その、薄暗い部屋の片隅で、先日の少女が蹲ったまま小さく震えていた。
「え……?」
まさか僕に怯えて? いや、それだけはたとえ天地がひっくり返ってもありえない。そもそも、本当に僕が怖ければ先日のように投げ飛ばせば良いだけの話で。
一方の少女は、相変わらず部屋の隅に蹲ったまま膝に顔を埋め、両手で耳を押さえている。
「あの、大丈夫ですか?」
「……えっ」
僕の声に、おそるおそる少女は顔を上げる。
その顔が、驚きと後悔、恥ずかしさで目まぐるしく表情を変えるのを、僕は一瞬も余すことなく見守った。というより、目が離せなかったのだ。見開かれた大粒の瞳も、みるみる赤く染まる純白の頬も。
「あなた、こんなところで何を――ひっ!」
またしても少女は顔を伏せると、両手でぎゅっと耳を塞ぐ。もはや原因を問うまでもなかった。どうやら彼女は、表から響く道路工事の音に怯えているらしい。
ただ、ここまでの怯え方はいくら何でも異常だ。確かに、金属が岩石を穿つ重い音は、大多数の人間には不快に違いないだろう。ただ、子供でもないかぎり恐怖を強いられるほどの音ではない。
あるいは、殺される際にこの音と似た音を耳にした……?
相変わらず少女は、僕の目などお構いなしに蹲り、震えている。屋敷への侵入者はたとえ所有者だろうと叩き出す怨霊の威厳は、もはや見る影もない。逆に言えば、取り繕う余裕もないほどに怯えているのだろう。……確かに、この怯え方はとても演技には見えない。
これまでも、工事の時はずっとこんなふうに、独りで……?
「あのっ」
彼女の前に駆け寄り、膝をつく。殺されるかも、という恐怖がほんの一瞬脳裡をよぎったが、それでも僕の手は、足は止まらなかった。
「あの、これ」
ジーンズのポケットから取り出したものを彼女に差し出す。少女は怪訝な顔でそれを見下ろすと、やがて説明を求める目で僕を見上げた。
「ええと……ワイヤレスイヤホンです。耳栓代わりになればと思って」
「耳栓? これが?」
「いえ、本来はイヤホンなんですけど、とりあえず、耳栓の代わりに」
どうやら彼女はワイヤレスイヤホンの存在を知らないらしい。いや、あるいはイヤホンの存在自体知らないのか。その彼女は、僕の手から一つずつイヤーピースを取り上げると、とりあえず尖った方を耳の奥に押し込もうとする。が、そちらはアンテナであってスピーカーではない。何より尖り過ぎていて危険だ。
「待って!」
慌てて引き留め、正しい方向に直してから装着する。もう片方の耳にも同じように嵌め込むと、スマホを取り出し、プレイリストから当たり障りのないJPOPを選んで再生した。
「ひあっ!?」
「ど、どうしました!?」
「お……音楽……?」
慌てて周囲を見回す見開く彼女は、やはりイヤホンの存在と用途を知らなかったようだ。少なくとも、イヤホンが登場する頃にはもう生きていなかった、ということか。
「違いますよ。その耳栓から聴こえているんです」
自分の耳を指さしながら、身振り手振りで説明する。少女は右耳のイヤホンをつけたり外したりすると、やがて、ようやく事情を理解したのかほっと安堵の息をついた。
「あの、リクエストとか、あります?」
と言っても、実はガチオタな僕のプレイリストはほとんどがアニソン、もしくはアニメのBGMに占められていて、世代も音楽の好みもわからない相手の趣味に対応できる自信はない。まぁ、いざとなれば音楽サイトからダウンロードすれば済む話なのだけど。
「……リクエスト?」
「はい。好きな曲を仰ってください」
「そうね、じゃあ……いえ、あなたの好きな曲で構わないわ」
途中、慌てて口を噤んだのは、曲の好みから世代が割れるのを危惧したのだろう。やはり彼女は生前の記憶を残しているらしい。ということは、ここは兄さんの説が正しかったと見て間違いないだろう。
つまり彼女は、自分を殺した犯人は絶対に見つからないと確信していて。
それと同じだけ、自分の死が誰にも顧みられることはないと確信しているのだ。
相変わらず少女の顔から恐怖の色は抜けない。それでも、魔法少女たちのチアフルな歌が功を奏しているのか、当初に比べれば随分と落ち着いてるようだ。
やがて工事の音が止み、僕は、外の様子を確認すべく部屋を離れた。先程のバカ広い洋室には前庭に面したバルコニーがあり、庭や門扉、そして敷地外の道路を見渡すことができる。そのバルコニーから外を見下ろすと、作業員たちが早くも撤収の準備を始めていた。騒音の元と思しきホッピングマシンの親玉みたいなドリルも、すでに片付けられている。
とりあえず今日は、これ以上彼女が苦しむこともなさそうだ……
ふたたび奥の和室に引き返す。相変わらず彼女は部屋の隅に蹲っていたが、僕の姿を目にすると、強張っていた頬をほんの少しだけ緩めた。
「工事、終わったみたいですよ」
「そう……」
おそるおそる立ち上がると、彼女は何かを思い出したようにはっとなり、それから、不意に僕を強く睨みつけた。
「ところで今日は、何のご用かしら」
外したイヤホンを僕に突き出しながら、そう少女は僕に問うてくる。先日と同じ、絵に描いたような仏頂面だが、問答無用で暴力を振るってこないあたり、一応、イヤホンの件には感謝してくれているのだろうか。
「用というほどではないんですが……一応、所有物件ですし、お掃除をと」
イヤホンを受け取りながら、そう僕は答える。
半分は本音だが、もう半分は嘘だ。
そして、その嘘とはつまるところ、彼女だった。己の死など悼まれなくとも構わない。そう冷ややかに割り切る彼女を、僕は、どうしても独りにしたくなかったのだ。もちろん兄さんには内緒だ。ああ見えて心配性の兄さんは、僕が一人で屋敷に行くなどど言った日には手足を縛ってでも止めただろうから。
「結構よ。お掃除なら毎日やっているもの。だって、あの人が――っ」
またしても少女は不意に言葉を切る。ついうっかり記憶の存在を示唆する言葉を口にしてしまい、慌てて口を噤んだのだろう。
あの人――彼女の言う、あの人とは?
「……ええ、そうよ」
そう吐き捨てる彼女の口調は、悔しさと、それ以上に深い悲しみを湛えていた。
「何もかも、全部憶えているわ。生前のこと」
「えっ、じゃあ――」
兄さんの推理、というより邪推は当たっていたのか。
「もちろん、誰が私を殺したのか、なぜ私は殺されたのか……全部、何もかも憶えています。だからこそ断言するわ。犯人は絶対に見つからない。見つかりっこない。なぜ? 存在しないからよ。私を殺した犯人は、そもそも存在すらしないの」
そう言い切る彼女は、自信に満ちた口調とは裏腹に、やはり、どこまでも悲しげに見えた。