犯人なき殺人3
「よーし、忘れ物はないかぁ瑞月!」
「うん。大丈夫」
「オーケー。よっ、と」
ばちん、とブレーカーの落ちる派手な音とともに部屋の明かりが一斉に消える。この二か月、僕らに温かな寝床を提供してくれた中野駅徒歩五分の2LDK中古マンションの一室は、このたびようやく借り手がつき、明日から壁紙の取り換えとクリーニングに入る。
この部屋も、かつては札つきの曰くあり物件だった。部屋で孤独死した独居老人が、夜な夜な入居者に時代錯誤の説教を垂れるという、怖いというよりただただ迷惑きわまる霊障のおかげで入居者が定着しなかったこの部屋を、兄さんが買い上げたのが今から三ヶ月前。ただ、当初は困難に思われた除霊は、僕がひとしきり老人の説教に相槌を打つと、嘘のようにすんなり完了してしまった。どうやら自分の話に耳を傾けてくれる若造を欲していたらしい。
「ありがとうございました。今度の入居者さんはとても良い方なので、どうか楽しみにしていてください」
「待て、誰と話してる」
部屋から出て来た兄さんが、ぎょっとした顔で問うてくる。まだ誰か居残っているのかと勘違いさせてしまったらしい。
「あ、違うんだ。今のはその、部屋に……」
「は? 部屋?」
「うん。短かったけど、一応、雨露を凌がせてくれたし」
「んだよ、びびらせやがって」
うんざり顔で溜息をつくと、いよいよ兄さんは部屋のドアを閉ざす。そのまま僕らは、めいめいボストンバッグと段ボールを抱えてマンションを出た。
「次はどのマンションだっけ」
「こないだ首吊って自殺した男の霊を祓っただろ、あそこだ」
「えぇ……」
つい難色を見せてしまったのは、そこが首吊り自殺が起きた部屋だから、ではない。今更その程度の心理的瑕疵にビビる僕ではないし、そもそも部屋の除霊はとっくに終わっている。
むしろ問題は、その祓い方にあった。
「いや、あの時のお前ときたら傑作だったなぁ。酒も飲まねぇのに真っ赤になってさぁ!」
「そ、そりゃなるに決まってるだろ! あんなにたくさん女の人に囲まれて……犬みたいに撫で回されて……こ、怖かったんだから、ほんとに!」
彼を現世に縛りつけていたのも、やはり生前の思い残しだった。ただ、問題はその中身で、若くてかわいい女の子に思いっきり踏まれたいっ! という仏性もへったくれもない願望に、よせばいいのに兄さんもノリノリで応え、学生時代に交流のあった女友達を総動員、肝試しと称してのピザパーティーを敢行したのである。そこで僕は、集まった女性たちに「陽ちゃんの弟だー」「かわいー」と散々に撫でくり回され、怖くなった僕はぶるぶる震えながら独り、部屋の隅っこで冷えたサラミピザを齧ることを余儀なくされた。
結果的に除霊は無事成功したのだけど、無邪気に笑い合う女の子たちの足元やお尻の下で満足そうに踏みしだかれる彼の姿は二度と思い出したくないし、また思い出す機会もないだろう、と思っていた……思っていたのに。
「怖かったぁ? 何言ってんだよお前、二十一にもなって! ……ったく、俺の弟ともあろう者が。俺がお前ぐらいの頃はな、そりゃもう凄かったんだぜ色々と!」
「ど、どうせ……兄さんと違ってモテないよ」
学生時代は女子生徒の告白をちぎっては投げし、毎年二月一四日にはチョコでいっぱいの四十リットルゴミ袋をサンタクロースよろしく肩に担いで学校から持ち帰った兄にしてみれば、成人した今も恋人どころか女友達の一人もできない僕は、さぞや情けなく見えるのだろう。
最寄りのバス停で路線バスに乗り込み、一路、新居を目指す。車内は帰宅中と思しき学生やサラリーマンで混み合い、荷物の多い僕は嫌でも居心地の悪さを余儀なくされた。一方、僕と同じだけの荷物を抱える兄さんは、荷物を持たない方の手で平然とスマホを弄っている。横からそっと覗き込むと、表示されていたのは2ちゃんねるのオカルト板だった。
「またオカ板?」
「ああ。赤羽によ、もう何人も死んでるやべぇ部屋があるらしい。何でも、一年前に無理心中があったとか――おっ、大島てるに詳細が載ってる。へぇ……」
嬉々と目を輝かせる兄さんの目には、事故物件情報サイトの過去の殺人事件を示す炎マークも、ホテルバイキングにずらりと並ぶごちそうにしか見えないのだろう。
「そういや、例の件は何か進展があったか?」
「例の件?」
「麻布の屋敷の件に決まってんだろ。ったく、自分を殺した犯人をノーヒントで探し出せだなんてよ。かぐや姫の要求でもそこまで無理ゲーじゃねぇぞ?」
「いや、さすがにかぐや姫よりはマシだと思うけど……」
しかし、無理ゲーという例えはあながち間違いでもない気がする。その証拠に、あれから一週間が経つ今も、僕は犯人に関する情報を何一つ集められずにいた。
「一応、近所の人たちに一通り話を聞いてみたんだ。でも、過去あの屋敷で殺人事件が起こった、なんて話は一度も聞かなかった」
屋敷に憑いている以上、彼女はそこで生じた殺人事件の被害者、という線で疑うのが順当だろう。例えば、空き家状態の家に連れ込まれ、そこで殺害されたといった――だが、あの屋敷ではそうした事件は一度も起きていない。念のため図書館でも調べてみたが、やはり、それらしい事件の記事は一つも見当たらなかった。
「ってことは、やっぱ過去のオーナー絡みか……おっ、こっちは一棟まるごと霊障だってよ。やべぇ。リアルホーンテッドマンションかよ」
「……あの、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。屋敷じゃ殺人は起きてない、つまり、奴は屋敷で殺されたわけじゃないって話だろ?」
「う、うん」
聞き流されたと思いきや、結論を先回りでお出しされてしまった。これだから兄さんは。
「でも、あの屋敷で殺されたのでないなら、もう調査のしようがないよ。……大体、誰が殺されたのかもわからないのに」
「ふむ……やっぱここは、順当に奴の正体を洗う線で行った方が早いかもだな」
「正体って、彼女の?」
「それ以外に何があるってんだ。まぁ、何かしらそれっぽい事件が見つかりゃ関係者含めて丸ごと押さえられると思ったんだが、さすがにそう簡単にはいかなさそうだ。……ってことで、次は奴そのものに調査の焦点を当てる。OK?」
「お、おっけー」
やっぱり兄さんには敵わない。何も考えていないようで、僕には見えない数手先のことをすでに考えている。
「で、だ。屋敷で殺されたのでないなら、次に考えられるのは屋敷の元住人って線だろう」
「うん……それはどうかな。仮に屋敷の人が別の場所で殺されたとしてもだよ、何かしら近所に噂が残ると思うんだよ。まして、あそこは東京の中でも昔ながらの住民が多い街だし、そうした噂が残りやすいと思うんだよね。……なのに、一つも残っていないなんてありうるのかな。それも、あんな立派なお屋敷に住むような人の噂がだよ?」
「だからこそ隠蔽された、って線もありうるぞ。あれだけ立派な家に住む奴らだ。下手に外聞を悪くして、一族そのものが社会的なダメージを被るよりは、とかな」
そういうものなのか。僕には、そうした人達の考え方はいまいちよくわからないのだけど。
「それより……奴はどういう格好をしていた」
「格好?」
「ああ。奴の服装や髪形、メイクから時代を推理できねぇのかって話だよ。どれも数年単位でころころ流行りが変わるし、手がかりとしちゃ一番わかりやすいと思うんだがな」
「は、流行り?」
いや、兄さんと違って女の子との接点≒ゼロの僕にそんなことを訊かれても。
そうでなくとも、無個性な白いワンピースと流行無視のロングヘアーからどうやって時代を特定しろと。メイクに至っては……多分あれはノーメイクだ。まぁ、僕なんかに女性のすっぴんとナチュラルメイクの見分けなんかそもそもつくはずがないのだけど。
「それって、昔流行った……ええと、なんとかソックスみたいな? いや、そういう流行り物は一つも……無地の白いワンピース以外、本当に何も身に着けていないんだ」
「何も? アクセサリーもバッグも? それにネイルもなしか?」
「うん」
すると兄さんは、うんざり顔でむぅと顔を顰める。僕の観察眼のゴミっぷりに呆れたのかもしれない。相棒のシャーロックホームズに小馬鹿にされるワトソン君の気持ちが、今の僕には痛いほどよくわかった。
「あの、ごめん……本当に、それ以上何も」
「いや。お前が謝るべき話じゃない。……なるほど、そういうことか。あのクソガキ」
「え?」
やがてバスはマンションの最寄りの停留所に到着する。次のマンションは練馬駅から徒歩七分の、やはりファミリータイプの中古マンションだ。駅前には飲食店が充実し、外食中心の僕らが食事に困ることもなさそうだ。ありがたい。
「あいつ多分、覚えてるぞ」
「えっ?」
「だから。覚えてんだよ、何もかも。だからこそ〝隠す〟って選択肢が取れるんだ。お前の話しが本当なら、いくら何でもシンプルすぎる。大方、俺たちに生きた時代を推理させまいとする擬装だろう」
「でも彼女、生前のことは何も覚えてないって……」
「だーかーら! それが嘘だって話をしてんだよ俺は! 人の話を聞け馬鹿!」
「ひっ……ご、ごめん」
それを言えば兄さんも大概じゃないか、と言いたくなるのを僕はぐっと堪える。兄さんの場合、態度がアレなだけで話の筋はきちんと掴んでいるのだ。本当に、態度がアレなだけで。
「でも、じゃあどうして犯人を捜せだなんて……だって、自分を殺した犯人が分からなくて……それが悔しくて成仏出来ずにいたんじゃないの」
すると兄さんは、今度は肺が裏返るほど盛大な溜息をついた。また一歩、僕はワトソン君のお気持ちに寄り添えた気がした。
「お前、ほんっっとに俺の弟かよってぐらい馬鹿がつくほどのお人好しだな。だから、こいつはただの口実なわけよ。奴としては、どうあっても俺らを追い返したい。んで、わざと達成困難な注文をつけて、俺らに音を上げさせる戦略を取ったわけよ。わかるか?」
「……うん」
さすがにそれぐらいは……それはそれとして、やっぱり無理ゲーだったのだ。最初から彼女は、自分の死の詳細が暴かれることはないと確信していた。確信した上で、わざと僕らにあんな注文をつけたのだろう。
だが……逆に言えばそれは。
「とりあえず俺は、過去の住人に当たってみるわ。運が良けりゃ何か探れるだろ――って、どうした、瑞月」
「えっ? あ……ううん」
曖昧な笑みで茶を濁すと、僕は手元の段ボールをうんしょと抱え直す。とりあえず新居に着いたら荷物を置いて夕飯に出かけよう。ここ数日は引っ越しの手続き等々でパンかカロリーメイトの日々が続いていたから、今夜ぐらいは麺か米でがっつりいきたい――
などと卑近なことを考える僕の脳裏にちらつく、黒髪の美しい少女。
それでいいのだろうか、彼女は。
このままでは、本当に誰も……