犯人なき殺人2
兄さんがこの屋敷を手に入れたのはほんの一週間前のことだ。
そこは、都内でも超超超一等地とされる麻布にある一軒屋で、この国にまだ貴族制度が存在した当時、伯爵だか公爵だとかいう人物が居住用に建てたものらしい。その偉い誰かさんが金に糸目をつけずに施工してくれたおかげで、九十年が経つ今も基礎や壁材のコンクリートは頑強そのもの。専門家の鑑定によれば、現在の耐震基準も難なくクリアできるという。
場所は元麻布の住宅街真っ只中。麻布十番からも程近く、内装や設備にリノベーションをかければ入居者には困らないはずのこの物件は、しかし、昔から投資家界隈では特級の地雷として敬遠されてきた。
理由は、工事のたびに頻発する謎の怪異だ。そしておそらく、原因は――
「世間知らずのお兄様を持つと苦労するわね。どのみち今回も二束三文でこのお屋敷を手に入れたのでしょうけど、安物買いは往々にして痛い目を見るものよ?」
冷ややかに告げる少女に、僕は「ええ」と愛想笑いを返す。彼女の忠告はごもっともだ。僕も、さすがに今回は反対したのだ。それでも兄さんは聞き入れてくれなかった。まぁ、兄さんに言わせれば僕の意見などあってなきがものだろうけど。
「それで、あなたは……?」
「私? 見ての通り、幽霊よ」
「いえ、そうでなくて、お名前は」
「そんなものを聞いて、何になるの」
「えぇ……」
どうやら答えるつもりはなさそうだ。まぁ僕として最悪、彼女の要望さえ聞ければそれで良いのだけど、でも……
「と……とりあえず、中を拝見しても?」
「見るだけ? それなら構わないわ」
「あ、ありがとうございます」
自己所有物件を内見するのにいちいち誰かの許可を得る、というのも変な話だが、とりあえず彼女に頭を下げると、いよいよ僕は屋敷の奥へと足を踏み入れた。
中は相変わらず暗いが、それでも目が慣れてくると、天窓から注ぐ光だけでも充分に中の様子を見回すことができた。玄関ホールは二階まで吹き抜けになっていて、壁に沿って伸びる階段が立体的な空間の広がりを美しく演出している。三和土はなく、どうやら靴のまま家に上がる仕様らしい。
とりあえず一番手前の部屋に入ってみる。と――
「……わぁ」
そこは、どうやら応接室らしかった。事前に見た図面の表記では二十畳だっただろうか。ただ、天井が高いせいかやけに広く感じられる。
壁紙には、見るからに豪奢な文様の壁紙がふんだんに用いられ、床や腰板、装飾用の梁材には丈夫な樫材が惜しげもなく投入されている。戦後、とりわけ近年の分譲住宅では絶対にお目にかからない贅沢な仕様だ。
「凄いね兄さん! こんな豪華な部屋、僕、見たことないよ!」
「あぁ? 当時の建物としちゃむしろデフォだろデフォ。ただ、うん、保存状態は意外と悪くねぇな。こいつは……へぇ、金唐紙か」
壁紙をまじまじと見つめながら、兄さんが関心したように嘆息する。この反応を見るに内見は今回が初めてらしい。
「また中も見ずに買ったの」
「仕方ねぇだろ。不動産ってのは早い者勝ちなんだよ。実際、今回もタッチの差で危うく上海の投資家に獲られそうになったんだから」
部屋には、前庭に面して大きなフランス窓が設けられている。その先には広いテラスが。ただ、この窓もやはり所々が派手に割れており、段ボールとガムテープで無造作に塞がれている。まさに応急処置だ。
「あなたたちは、なぜこのお屋敷を買ったの」
なおも警戒の目で僕らを見つめながら少女が問うてくる。
「ああ、説明が遅れました。兄は不動産投資業を営んでいて……ええと、具体的には収益不動産を買って、そのお家賃で暮らしているんですけど」
「つまりここも、いずれは人に貸すつもり、と?」
「はい。居住用としても使えるでしょうし、あと、カフェやレストランなんかをオープンさせても良いですよね。場所柄、流行ると思うんですよ僕……あ、もちろん、あなたの許可が頂けるなら、の話ですが……」
「瑞月」
振り返ると、兄さんが冷ややかに僕を睨んでいた。
「どういう流れの話かは知らねぇが、ここをどう使おうがそいつの許可は必要ねぇ。何より、いつも言ってるだろ。死人の前じゃ堂々としてろってな。生きた人間ってのは、ただ生きてるだけで死人なんぞより何倍も偉いんだ」
「えっ、うん……」
死人より生きた人間が偉い。それは兄さんのいつもの口癖で、今回も大した考えもなしに口にしているのだろう。
ただ、こと今回に限っては相手の逆鱗に触れる禁忌ワードだったらしい。
「随分と傲慢な仰りようね」
そう告げる彼女は、顔は笑っているが目はちっとも笑っていなかった。
「でも、先程のお兄様の言葉には承服しかねるわ。今現在、貴方たちが生きるこの世界を築いたのは、今は死者となった過去の人々よ。そうした人々を軽んじる物言いには、きっちりおしおきをしなくてはね」
「おしおき……?」
すると彼女は、おもむろに僕らに歩み寄る。相変わらずその目は全く笑っていない。さすがにここは謝っておいた方がいいのでは……でも、ここで頭を下げるとまた兄さんにどやされそうだ。
やがて彼女は兄さんの目の前に立つと――
「危な、」
「っ!?」
不意に少女は兄さんを強く突き飛ばす。身構える暇もなく押し倒された兄さんは、そのまま板張りに床に尻餅をつくと、当惑も露わに周りを見回した。兄さんにしてみれば、突然見えない力に押し倒されたようなものだ。驚くのも無理はない。
「な、何だ、何が起こった!?」
「彼女だよ。彼女が突き飛ばしたんだ」
「んだとぉ!?」
当惑から即座に表情を怒りに切り替え、跳ねるように立ち上がる兄さん。ただ、僕のような人間が一緒でもなければ、今の現象には怒ることすらできなかっただろう。実際、これまで屋敷を訪れたオーナーや工事関係者たちは、そうやって〝怪異〟に恐れをなし、結果的に屋敷を手放してきた。
逆に言えば。
だからこそ兄さんは、この手の曰くあり物件にも手を出せるのだ。僕が〝視える〟人間だから。
「なるほど。あなた達にはいつもの脅しが利かない、というわけね」
さして残念がるでもなく、むしろどこか面白そうに言うと、少女は細い指を顎に添える。
「それでも、私のなすべきことは変わらないわ。このお屋敷を護る。たとえオーナーだろうと、お屋敷に余計な手を加えるつもりなら私、容赦しなくてよ」
「余計な、と言うと……割れたガラスを張り替えることも?」
「その程度なら構わないわ。ただし、床を剥いだり壁紙を張り替えたり、余計な家具や調度品を置くのは駄目よ」
「えぇ……」
部屋の内装云々はともかく、家具調度品まで禁じられるのはさすがに痛い。商業用としてはもちろん、居住用としても条件のハードルが高すぎる。ところが彼女の方は、これで用は済んだとばかりに早々に踵を返すと、すたすたと屋敷の奥に消えてゆく。
その背中を、僕は慌てて呼び止めた。
「まだ何か?」
振り返る少女の、虫でも見るような顔に僕は気圧される。が、ここで黙って圧されては、兄さんの付き添いでわざわざ屋敷に足を運んだ意味がない。
「あ、あなたも、このままでは辛いばかりだと思うんです。いつまでも現世に留まるのは、何か、強い思い残しがあるからでしょう、違いますか」
僕が今日、ここに足を運んだのには理由がある。
僕には死者が視える。しかも視えるだけではなく会話もできる。そんな僕の特技、というか体質に目をつけた兄さんは、今の仕事、つまり本気で出る格安事故物件を買い取り、僕に除霊させた上で賃貸に出す独自のスキームを編み出した。
霊と会話ができるだけで除霊は可能なのか、という問いには「YES」と答えるしかない。
黙っていれば極楽浄土に行けるのに、わざわざ好き好んで現世に留まる死者にはある共通点がある。それは皆、何かしら強烈な思い残しを抱いている点だ。逆に言えば、それさえ解消すれば彼らはおのずと旅立ってゆく。そうやって僕は、これまで何十人もの死者をあちらに見送ってきた。
「よ、よろしければ、僕に成就のお手伝いさせて頂けませんか。あなたは、確かに強い力をお持ちです……ですが、そんなあなたにもできないこと、生者の手を借りなければないことも、きっと、あるはずなんです。それを、どうか手伝わせて頂けませんか」
駄目で元々。むしろ、ここまでの流れから考えて、彼女が僕の提案を受け入れてくれる可能性はうんと低い。
それでも受け入れてくれたなら、もはや奇跡だ。
「ふふっ」
「え?」
「これまでも私の除霊を試みた方はいらしたけど、そのような提案を持ち掛けられたのは、今回が初めてだわ」
そして彼女は、またもや軽快な笑い声を漏らす。まさか、本当に奇跡が……?
「あ、ありがとうございます! あの、ご要望があれば何でも仰ってください! 僕で良ければ力になります!」
深々と腰を折りながら、僕は心の中でガッツポーズを作る。一時は絶望視された彼女の除霊。だが、まだ希望は残されている。解決への道筋も――
「では、私を殺した犯人を見つけてくださらない?」
「わかりました、犯人ですね――えっ?」
予想外の単語につい目を瞠る。そんなものが存在するということは、つまり彼女は、何者かに殺された……?
「ちなみに、その、犯人というのは、」
「だから、それを見つけて来てくださらない? とお願いしているのだけど」
「ええ。それはもちろん……ただ、そのためにもまずは犯人に関する情報を教えて頂かないと、」
「お生憎様、でも、無理なのよ」
そして彼女は、肩にかかった長い髪をふわりと払う。
「私ね、誰かに殺された、という以上の記憶は、自分のことも、私を殺した相手のことも全部綺麗さっぱり忘れてしまったの。――ああ、だからといって適当な人間を殺人犯に仕立てて報告などなさった日には、その場で縊り殺してあげますからそのおつもりで。そちらのお兄様はともかく、あなたの嘘はすぐにわかるのよ、瑞月さん」
言い残すと、今度こそ彼女はドアの向こうに消えて行く。幽霊だから、その気になればすり抜けることもできるのだろうが、それでも律儀にドアを開いて戸口をくぐったのは、あるいは彼女なりのこだわりだろうか。……いや、そんなことは今はどうでも良くて。
「で、何だって?」
それまで黙って会話を見守っていた兄さんが、訝しげに問うてくる。
そんな兄さんに、今の状況を上手く説明する術を僕は持たなかった。いや、普通に考えてこんなものはただの無理ゲーだ。顔も名前も性別も生年月日すら何も分からない、さらに言えば、いつ、どこで誰をどのように殺したのかもはっきりとしない殺人犯を捜せ、だなんて。