犯人なき殺人
地下鉄麻布十番駅を降り、元麻布方面へしばらく坂を登った先にその屋敷はあった。
「あれかな、兄さん」
「だろうな」
昭和後期、あるいはそれ以降に建てられたと思しき豪邸が立ち並ぶ中、その屋敷だけは時が停まったように戦前の佇まいを残している。チューダー様式、と言うのだろうか。いわゆる世間が言うところの洋館のイメージそのままの外観は、東京有数の高級住宅街においてもなお近寄りがたい高貴な印象を与える。花崗岩の外壁と、スレート葺きのとんがり屋根。昔の洋風建築では一般的だったが近頃ではついぞお目にかからない、縦長の細い窓。
ただ、長らく空き家の状態が続いているせいか窓は割れ、外壁にはびっしりと蔦が這っている。庭もロータリーも雑草まみれで、以前のオーナーだか管理人だかが踏み固めた細い獣道を除けば、もはや完全に雑木林の様相と言っても良かった。
「まるでお化け屋敷だね」
「まるで、じゃねぇから買ったんだろ?」
サングラスを外し、Tシャツの襟ぐりに引っ掛けながら兄さんは言う。
一八〇センチをゆうに超える長身と高い等身、すらりと長い手足、さらにはアイドルにも引けを取らない精悍な顔立ちの兄さんは、大抵は何を着てもファッション誌のグラビア並みにクールに着こなしてしまう。ただ、何にせよ例外はつきもので、江戸勘亭流の力強いフォントで『不労所得』と描かれたシャツはさすがにクールとは程遠く、駅からここまで歩く道すがら、幾度となく通行人の視線を集めては、隣を歩く僕は他人のふりを余儀なくされた。
そしてまた、地元のマダムと思しき二人組が僕らの姿を笑いながら通り過ぎてゆく。
「は……早く入ろう、兄さん」
一足先に門扉に飛び込み、兄さんを促す。とにかくさっさと屋敷に入ろう。これ以上、兄さんの面白Tシャツを麻布マダムの目に晒すのは忍びない。
雑草だらけの獣道を踏み越え、玄関先に至る。八月もすでに下旬に差し掛かっているが、まだまだ残暑は厳しく、パーカーの下のシャツは汗でぐっしょりだ。それでも、聞こえる蝉の声のほとんどが今やツクツクホウシで、些細な変化の中にも季節の移ろいが感じられる。
さっそく兄さんはジーンズのポケットから鍵を取り出すと、錆びついた鍵穴にそれを差し込んだ。鍵は意外とすんなり回り、扉の奥で錠の開くカコンと乾いた音が響く。
「よし、んじゃ、始めるか」
ノブに手をかけると、ついに兄さんはドアを開く。ぎい、と金属の擦れる音とともに暴かれる漆黒の闇。流れ出すひやりとした冷気が、異界めいた不気味さをより一層際立たせる。そんな深い闇の只中に――
「あ」
「どうした」
「ええと……視える? あの子。前方五メートルぐらいに立つ白い服の女の子」
兄さんは眉間に皺を寄せて闇の奥に目を凝らすと、「いや」と小さく被りを振る。どうやら兄さんには視えていないらしい。が、僕の目には確かに映っている。伸びやかな痩躯に、飾り気のない白のワンピースをゆったりと纏った少女が。
年の頃は高校生ぐらいだろうか。雪のような白肌と、肩まで届く黒髪が玲瓏な美貌に良く似合う。
「じゃあ……彼女が?」
「そうらしいな」
囁き合う僕らを、なおも少女はじっと見守る。限りなく無表情に視えるその顔には、しかし、ほんの僅かながら驚きの色が窺える。
「驚いたわ」
やがて彼女は言った。水琴窟に響く水音に似た、冷たく澄んだ声だった。
「あなた、私が視えるの?」
「君は……?」
「人様に名前を訊ねる時は、まずは自分から名乗りなさい、と、お母様に教わらなかったのかしら?」
ゆるりとした口調で返すと、彼女は切れ長の瞼をすい、と細める。外見こそ幼いが、その眼差しは生半可な反論を封じる妙な圧を感じさせる。
「し、失礼しました。……ええと、僕は比良坂瑞月と言います。で、こちらは五つ上の兄の比良坂陽介。今日はたまたま残念なTシャツを着ていますけど、こう見えて頭は良いですしスポーツも万能で……弟の僕が言うのも何ですが、自慢の兄です」
「おい」
したたか背中を叩かれ、バランスを崩した僕は勢い余って二、三歩つんのめる。
「幽霊相手に、なに悠長に自己紹介なんざやってんだ」
「いや、だって彼女が、まずは名を名乗れって」
「名前? 知るかよ。そもそも相手は不法滞在者だぞ? 名乗るにしても堂々と名乗れ。俺らはこの屋敷のオーナーなんだからよ」
「う、うん……」
「あら、オーナーなの、あなたたち」
耳をくすぐるような笑声まじりの声で問われ、僕は猛烈に恥ずかしくなる。いくら死人でも相手は女性。そして僕は、そもそも女性に対する耐性がゼロに等しい。
「は、はい……先日、兄さんが購入して……」