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此岸 8

 ホテルに到着すると、俺たちはその建物を見上げた。若干古いのか、外壁全体に薄い染みのような跡が広がっている。外観は質素で、ホテルの看板がなければ一体何の建物なのか分からないといった感じだ。

 ロビーに入る前、俺はトコマのよれた襟元を整えてやり、肉まんの油でべたついた口元をティッシュで拭ってやった。するとトコマは俺にこう言った。


「将陽よ、君は若干お節介ではないか?」

「トコマは女の子なんだから、もっと身なりに気を使うべきだ。それにこれはホテルから怪しまれないためのリスク回避だ」


 フロントで受付を済ませるとさっそく部屋へと向かう。ロビーは赤い絨毯、シャンデリア風の照明、印象派の絵画と、頑張っている感が漂ってはいたが、一歩内部に足を踏み入れると、どこぞのマンションの共用スペース? と思ってしまうほどに殺伐としていた。

 俺たちの部屋は六階の角部屋であった。別に眠るだけなので閉鎖された空間であればどこでもいいのだが、やはり部屋の前に人の往来がないというのは安堵感が湧くというものだ。しかしだ、扉の鍵を開け室内へと入ると、俺は酷くガッカリさせられてしまう。別に汚いとか臭いとかではない。ベッドが一つしかなかったからだ。確かにフロントでダブルを指定しなかった俺も悪いのかもしれないが、普通確認するのが常識であろう。


「部屋を変えてもらうか」と俺は、誰にではなく呟く。


 するとトコマは持っていた和傘をベッドの脇に立てかけながらこう言った。


「いや、このままでいい。むしろ好都合だ」

「は? じゃあ二人一つのベッドで寝るっていうのか?」

「だからその方が都合がいいと言っているだろ」

「都合ってなんだよ」


 トコマはベッドの左側に座り、ポケットから巾着袋を取り出すと中を漁った。そしてその後、俺の質問に対しまるで思い出したかのように答えた。


「……それは、後で分かる」


 まあいいや、と、心の中で思うと、俺はベッドの右側に腰掛け、先ほど購入したペットボトルのお茶を一口口に含んだ。


「あまり水分を取り過ぎるとお漏らしをするぞ」

「ていうか……」そう言われ、俺は思わず声をあげてしまう。「下手すれば二日間以上寝たきりだよな。それってトイレとか食事とかどうすんの? 普通にやばくないか?」

「それに関しては心配ない。我々術者はミッションの進行中、長い間寝たきりになるのが分かりきっている。だから絵十清水の方から身の回りの世話をしてくれるスタッフが派遣されるんだよ。ここの場所も先ほど、しっかりと知らせておいた」

「なるほど、それはまたシステマティックな……」俺は頷き、一人納得した。


 ベッドから立ち上がったトコマは、手に持った白い小皿に目を落としつつ、壁際にある電話台の方へと向かった。中には先ほど小田留から切り取った数本の髪の毛が、何らかの液体に浸された状態で入っている。そしてそれを電話台の隅に置くと、マッチを取り出し火を付けた。その透明な液体は可燃性の何かなのだろう。幻想的な緑色の炎がゆらゆらと揺れる。薄っすらと煙があがっており、髪の焦げる臭いがほんのかすかではあるが漂ってくる。


「随分と本格的だな」俺はその不思議な炎を見つめながら言う。

「本格なのだから当たり前だろ」


 次にドアの方へと向かうと鍵を開けた。その行動を見た俺は訝しげな表情をトコマに向ける。その視線に気が付いたのだろう。トコマは俺の疑問を解消するかのごとくこう言った。


「この後すぐに世話焼きスタッフがくるからな。開けておく必要があるんだよ」


 そして最後に窓際へと歩を進めると、カーテンがしっかり閉まっているかの確認をし、こちらに戻ってきた。

 トコマは俺の方を向き軽くあぐらをかいて座った。それを見た俺もトコマの方に体を向け、同じようにあぐらをかいて座った。すると彼女は足首と足首が交差する辺りに巾着袋をのせ、ガサガサと中を漁り、二本のオーブリンクを取り出した。ただしそれは先ほど小田留の太ももにつけた赤い石の編み込まれた物ではなく、緑色の石が編み込まれた種類の違う物であった。

 トコマは二本のうちの一方を俺に渡すと、もう一方を自分の手首に巻きつけた。俺もそれにならい、手首にオーブリンクを巻きつける。


「ちなみにオーブリンクはあちらの世界では不可視になる。なのでなくなっていても気にしなくていい」

「分かった。見えなくなっていても気にしない」

「よし、これで準備はできた。ではこれからドルーフィムーリドに潜入するが、持ち物は大丈夫か?」

「携帯に財布。財布の中には五万円。服装は学校の制服。これは仕方がない。なんか他にいりそうな物あるか?」

「大丈夫だ。あと靴は脱ぐなよ。これを失敗する人が結構いるんだ」

「あぶない。言われなければ俺、確実に脱いでたわ」

「では横になるぞ」


 薄っすらと笑みを浮かべると、トコマは和傘を手に取りベッドに仰向けになった。

 俺も同じように、彼女の隣に体を横たえる。

 テーブルランプの橙色の光を淡く反射した、どこか世界の果てを連想させる寂しげな天上が目に映った。そこには普段は気付かないだろうかすかな起伏により生じた、うねるような影が浮かんでいた。

 そっと、トコマが俺の手を握った。その手はほのかに温かく、少しだけ汗ばんでおり、そしてなによりも柔らかかった。

 俺はとっさにトコマの方に顔を向ける。しかしほぼ同時に、強い強い眠気が何の前触れもなく俺を襲った。


「チェイサーはナビゲーターの体のどこかに触れていないとドルーフィムーリドに入れないんだよ」


 薄れゆく意識の中で俺はその言葉を聞いた。


 なるほど。ベッドがシングルで構わないというのはそういうことか……。


「では、またあちらで」


 抗うことのできない圧倒的な眠気。俺は底なし沼にはまり、ズブズブと沈んで行くかのように、眠りの世界へと落ちてゆく。

 この土壇場において俺の脳裏に浮かんだのは、非常に現実的なものであった。

 つまりこうだ。


 目覚めたらトコマがいなくなっていて、現金の抜かれた財布だけが残されているとかだったらどうしようか……。


 である。


 結局のところ俺は、この局面に至ってもなお、夢の世界なんてものを信じてはいなかったのだ。

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