此岸 7
病院から出ると辺りは既に薄暗くなり始めていた。金曜の夕刻時とあってか町は人々で賑わっているようにも見える。
カランコロンという下駄の音に耳を傾けながら、俺はそんな繁華街の中を進んで行った。
前方からくる人々の大半は、過ぎ去り際にトコマを一瞥した。確かに場に合わない服装をしているというのもあるのかもしれない。だがおそらくは、その整った顔立ち、可愛らしい相貌に目を奪われたのだろう。
「一体どこに向かっているんだ?」俺は聞いた。
「泊まる所を探しているんだ」
「泊まる所? どうして?」
「マスターの夢に入るということは、つまりチェイサーである我々も入眠するということだ。故に今回の場合、今日を含め三日間、誰にも邪魔されない、そんな睡眠スペースの確保が必須条件となる」
「あー……」とだけ言ったが、どう突っ込めばいいのか分からない。こうなったらとりあえず、最後まで付き合ってみようと、俺は決意するではなく思った。
その時だ。トコマが突然立ち止まった。その動作が唐突であったため、危うく俺は彼女にぶつかってしまうところであった。
「ここ、宿泊施設だよな?」トコマはその建物を見上げる。「ここにするか?」
俺は彼女の視線を辿り、その建物を見てみた。
まるでお城のような豪奢なたたずまい。周囲は南国風の木々が植えられており、正面入り口の脇にはマーライオンを模したであろう石像が、威風堂々といった面持ちで立っていた。もちろん口からは景気よく水が吐き出されている。
「トコマ、お前ここラブホテルだぞ」俺は唖然とした表情で言った。
「ラブホテル? ホテルなんだろ?」トコマはポカーンとした面持ちで聞く。
「何するところか知ってるのか?」
「宿泊する所じゃないのか?」
「まあそうだし、そういう風にも使えるかもだけどー……」
ガシガシと頭をかく俺を、トコマは不思議そうな顔で見つめる。そんな無垢な表情を見た俺は、説明するのも馬鹿らしくなり、サッと手を取るとラブホテルとは正反対の方へと向かった。
「お、おい。一体どこへ行こうというんだ?」
「あっちにビジネスホテルがある。そっちに行くぞ」
「そうか、ではそちらに行こう……と、その前に」ここでまたもや足を止める。「将陽よ、君は今お金をいくら持っている?」
「金? 今はあんまり持ってないけど」俺は振り返り答えた。
「今すぐおろすことは可能か?」
「可能だし、今からATMに行こうと思ってたんだ。どうせホテルの料金足りないし」
「なるほど。ではできるだけたくさんおろすんだ」
「できるだけって、いくらぐらい?」
「できるだけたくさんだ」
「え? 何で? やっぱりお金たくさん払ってほしくなったわけ?」
これを聞いたトコマは小さく首を横に振る。そして少しだけ考えるような表情をしてから話し始めた。
「チェイサーがドルーフィムーリドに入る際は、入眠時に身に着けていた物がそのまま引き継がれるんだ。だから今の将陽の状態で入眠した場合、学校指定の制服姿、つまり上は紺色のブレザー、下はねずみ色のズボン、そして肩にかけている鞄という姿でドルーフィムーリドに入ることになる」
「なるほど。眠る前に現金のたくさん入った財布をポケットに入れておけば、ドルーフィムーリドに現金を持ち込めるというわけか。でも夢の世界でお金って使うのか? ていうか日本円でいいのか?」
俺はあれこれ頭の中でイメージしてみたが、どうもうまく思い描くことができない。
トコマは俺の制服の袖を指先でつまみ、小さくくいくいと引いた。歩きながら話す、という意味なのだろう。俺はこれに対し頷いて応じると、まずはコンビニのATMに行くため、トコマを先導するように歩き始めた。
「ドルーフィムーリドでお金が使えるかどうかは、正直実際に入ってみないと分からない。向こうの世界がどのようなものかは、結局のところ入って確認しないことには分からないからだ」
「それって、とんでもない世界だったりするってことか? 何て言うか例えば、いきなりジャングルの中とかそんな」
「あり得る。だがおそらくは心配に及ばんだろう。絵十清水の今までのデータからすると、九十二パーセントがマスターの祖国だ。時代比率は、五十一パーセントが現代、三十五パーセントが過去、残りの六パーセントが未来だ」
「残りの八パーセントは?」
「六パーセントが祖国以外の場所。そして最後の二パーセントが想定外だ」
「想定外? 嫌な響きだな」
「つまり何と言うか、妄想世界であったりファンタジーな世界であったり。詰まるところ異世界だな」
コンビニに到着した。俺はトコマとの問答をここで一度中断し、ATMでお金をおろすことにする。正直、トコマの話を真に受け、ここで本当に大金をおろすのはどうなのだろうか? と思ったため、五万円にとどめておくことにした。
「夢の世界でいくらお金を使おうが、現実世界のお金はなくならないんだよな?」俺は念のために聞く。
「なくならないぞ。だから今ここでたくさんおろしても、また預け直せば問題はない」
その後俺は、ペットボトルのお茶二本と、肉まんを二つ購入し店を出た。そしてホテルに向かう道すがら、お茶と肉まんをトコマに差し出す。すると彼女はそれを受け取りながらこう言った。
「私はだね、緑茶ではなく麦茶、肉まんではなくあんまんが好きなんだよ」
「はいはい以後気を付けますよー」
トコマは肉まんの端を小さく噛むと、顔をほころばせた。なんだかんだいってお腹は空いていたようだ。それを見た俺も肉まんにかぶりつく。
「でさ、さっきの続きなんだけど、向こうの世界が九十パーセントぐらいの確率で日本だから、日本円を持っていけば使えるだろうって話なんだよな?」俺は言った。
「いや、例え向こうの世界が異国だろうと異世界だろうと、基本的にはマスターの国の通貨がその世界の通貨となる。少なくとも今までの経験からいくとほぼ間違いないだろう」
「なるほどな」
「ついでに言っておくが、時間の流れに関しては現実世界と同じだ。ドルーフィムーリドで三時間の時が流れれば、現実世界でも三時間が経過している。だから潜入する際には必ず日付と時間の分かる物を持って行くんだ」
トコマはズボンのポケットから趣のある古い懐中時計を取り出し、俺に向かって垂らして見せた。
「携帯電話でもいいんだよな?」
「問題ない。何度も言うが今回は時間との勝負だからな」