此岸 2
随分長い間悪天候が続いている気がする。最後に青空を見たのがいつだったのか思い出せない。一週間前だっただろうか? 二週間前だっただろうか? そのように考えると本当にこの世界に青空というものが存在するのかさえよく分からなくなってくる。
憂鬱な気持ちを天気のせいにするのは容易い。だが根本がそうではないと理解しているのだから、それはただの逃避でしかないとすぐに答えが出てしまう。
どうしようもできないことが、この世には確かに存在する。それを否定することも、ないものとして扱うことも、今の俺には絶対的に不可能であった。
金曜日の放課後はどこかうかれたような雰囲気が漂う。これは全国どこの学校でも同じなのだろう。そんな生徒たちの気持ちが空気を伝い、俺の中にも流れ込んできた。
「将陽、この後カラオケでもいかね?」
声のした方へと顔を向けると、そこには倉崎龍之介がいた。彼とは同級生であり、よく一緒につるむ間柄だ。茶色の短髪はいつもワックスによりツンツンにされている。どちらかといえばチャラい生徒に分類され、スクールカーストでいえばまず間違いなく一群に入る存在だ。
「あ、わるい、ちょっと今日は……」
俺は机に視線を落とし、無理やりな微笑を浮かべた。
「ああそっか、今日病院か。じゃあまた今度な」
言うと同時に龍之介は、ドア付近で待つ何人かの男子生徒の方へと向かい足早に駆けて行った。
正門から出ると大通りに続くなだらかな坂道を下った。そして立ち止まる。あの横断歩道に。
あれから一ヶ月の月日が流れたということもあってか、事故の痕跡はほぼなくなっていた。
車が激突した斜向かいの電柱やガードレールは新しい物に変えられていたが、皮肉にも、その新しく変えられたという現状が、俺にとっては事故の痕跡として目に映ってしまう。
ここに立つたびに、俺はあの日のことを思い出した。脇を通り過ぎ、車道中央に立ち止まる子供を。その子を助けるために駆け出した自分を。そしてなによりも、そんな自分と子供を助けるために身を投げ出した小田留を……。
俺は手で口を覆い、小さく肩を震わせる。頭の中には、どうして? という疑問だけが次から次へとデリートされることなく積み重なって行く。
不意に視界の片隅に、俺の脇を進行方向へと駆けて行く人影が映った。気が付けば俺はその少女の手をつかんでいた。その動作は自分でも信じられないものであった。全く意図せずに、完全なる無意識としての行動だったからだ。もしかしたら俺の中にある現在と過去とを隔てる仕切りのようなものが、後悔が故の願望により決壊しつつあるのかもしれない。
――この世に奇跡があるのならば、もう一度やり直すチャンスをください。
俺は心の中で祈った。何度も何度も、何度も何度も。
「脳死です」
それは事故から二週間後のことであった。俺はこの言葉を診察室のドア越しに聞いた。聞いた瞬間、俺の中からストンと、何かが足元から抜けていった。視界は霞み、全身から冷たい嫌な汗が吹き出した。平衡感覚を失い、普通に立っているはずなのに体が右へ右へと傾いて行くような感覚を覚えた。
俺は壁に手をつきうつむくと、蛍光灯の光を反射するリノリウムの廊下に対し、ただただ視線を落とし続けた。
どれぐらいの間そうしていたのだろうか? 数十秒だろうか? あるいは数十分だろうか? 時間の感覚はほぼ皆無であり、正確どころか大体の時間さえも弾き出すことができない。
診察室の扉が開き、緊迫した面持ちの小田留の両親が出てきた。母親の方は真っ赤な目で涙ぐみ、ハンカチで口を覆っている。
それを目の当たりにした瞬間だ。俺はほぼ崩れ落ちるような格好で廊下に跪くと、そのまま土下座した。額の皮が剥けるんじゃないかと思われるほどに強く、土下座した。
涙は頬にではなく額の方へと流れて行き、髪を濡らし、頭頂へと滴った。鼻水は鼻頭より床へと糸を引いて垂れた。
そして俺は叫ぶように言った。謝罪の言葉を。ただただ許しを請う言葉を。小田留の両親に向かって、そして小田留に向かって。
今思えば、この時ですら俺は、まだ希望を抱いていたのかもしれない。小田留の心臓はまだ動いている、と。であるならばまだ可能性はあるはずだ、と。
だが、そんな何の根拠もない不完全で脆弱な希望は、小田留の手帳から発見されたとある一枚のカードによって儚くも崩れ去ってしまう。
それは『臓器提供意思表示カード』であった。そのカードには、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球、七つの臓器を提供するという小田留の意思が記されていた。そして彼女の両親は、娘の死が誰かの命になるというのであれば、という理由で、それを承諾したのである。
正直なところ俺は、やめろ、と思った。どこかの誰かが助かるよりも小田留が助かってほしいと、そう思った。だがそんなことは口にできなかった。できるはずがなかった。この世界の誰よりも彼女の死を嘆き、悲しんだ両親の、絶望の先にようやく決断した答えを、誰が否定することができるのだろうか?
俺は記憶の中の小田留に質問を投げかける。
『小田留、どうしてそんなカードに書き込んだんだ? そのせいで、ほんの少し、ほんの数パーセントあるかもしれない可能性を、捨てる結果になるかもしれないんだぞ』
記憶の中の小田留は何も答えない。彼女はただただ薄っすらと笑顔を浮かべ、首を傾げるだけだ。
そんな疑問が明らかになったのは、意外にもすぐのことであった。
臓器提供が決まり、その日程を知らされた際、俺はそのカードを一度見せてもらったのだ。もしかしたらその行動は、自分の中にある納得できない感情を、何かにぶつけるための当て擦りのような嫌いがあったのかもしれない。少なくとも小田留がそのような意思を本当に示したのか、それをこの目で確認するまでは諦めることができなかったのである。
カードは緑色であり、白いハートの中に天使が描かれているといったデザインであった。そしてカードを裏返すと、そこには署名年月日が書かれていた。
――2015年3月29日
小田留の誕生日だ。そしてこの日付を見て、俺は全てを悟った。これは正真正銘小田留本人の意思である、と。
このカードを持とうと考えた小田留の真意を一言で表すとすると、おそらくは『感謝』ではないかと思う。それはこの世に生まれることができた感謝であり、この歳まで生きることができた感謝であり、生かさせてもらった、支えてくれた、そんなたくさんの人たちへの感謝だ。だから思ったのだろう。もしも自分に何かがあった場合、その身をもって恩を返したいと。
頬に涙が伝った。それは今までのような幼稚な涙ではなく、小田留の善意に感化された、あまりにも純粋な涙であった。
バサッという音がし、少女の持っていた赤い和傘が地面に落ちた。俺が突然手をつかんだものだから驚いてしまったのだろう。その子は俺の方に顔を向けると小さく口を開け、疑問を投げかけるかのように小首を傾げた。
少女は小柄であり、背は俺よりも頭一つ分低いぐらいだろうか。黒のおかっぱに色白の小顔と、どこか霊妙な雰囲気を漂わせている。服装はなぜか白の着物だ。腰の位置で藍色の帯を締めており、裾の下からは青のハーフパンツを履いたすらっとした脚が伸びている。
「なんだ? 私になにか用か?」
少女は瞬きのない眼差しで俺の目をのぞき込みながら聞いた。
「あ、いや、ごめん……」
俺はすぐに手をはなし、地面に落ちた和傘を拾おうとする。
するとその少女は「いい! 触るな! 自分で拾う!」と言い、俺を押しのけるように和傘を拾った。
そうこうするうちにも歩行者信号は赤に変わってしまい、俺たちは再びしばしの足止めを食らってしまう。その間少女は、和傘を見たり触ったりしながら破損等がないかを確認していた。
俺はそんな様子を横目でちらちらと見ながらおもむろに言う。
「……ほんとごめん。もしも故障とかあったら、弁償するから」
「問題ない。大丈夫だ」少女は簡潔に答えた。そして目だけでこちらを見ると言葉を続けた。「ところでどうして突然私の手を取ったんだ? 誰か知人と間違えたのか?」
「一ヶ月ぐらい前にここで事故があっただろ? 多分その影響で……」
「事故? ……ああ」
「気に障ったなら謝るよ」
「もう何度も謝っているじゃないか」
少女はくすりと笑うと前方へと駆け出した。いつの間にか信号は青に変わっていたのだが、偶然にも他に歩行者が一人もいなかったため気が付かなかったのだ。
俺はそんな少女の後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、そっと空へと視線を移す。
灰色に淀んだ雲が、まるで俺の心を反映するかのように重々しく頭上を覆っていた。