此岸 1
六月のある日のことだ。その日は朝からあいにくの空模様であり、結局放課後になってもそれら悪天候が変わることはなかった。
帰りのホームルームが終わると、大抵の者は教室を後にした。例に漏れず俺も教室から出ると、これから部活にいく何人かの友人と軽い別れの挨拶を交わし、そのまま昇降口へと向かった。
二階の階段踊り場に差し掛かった時だ。俺はそこで一人の女の子に出会った。
端正な顔立ちに健康的な肌。肩の辺りまで伸ばされた長い髪は、日の光を反射し淡い栗色に染まっている。他の女子に比べ若干背が高いためか、制服の上からでもそのスタイルのよさは十二分に分かる。
彼女は高松小田留といい、俺とは同期生兼幼なじみであった。
「よお小田留。今日俺んちで晩飯食う日だよな? なんか食べたいもんあるか?」
「…………」小田留は薄っすらと笑みを浮かべる。「何でもいいです」
「これからスーパーに買い物に行くんだけど、小田留も一緒にくるか?」
「この後、職員室に行かなければいけません。多分、すぐに終わると思いますが……、とりあえず先に行っててくれませんか? すぐに追いつきますから」
「おお。じゃあ俺なるべくゆっくり歩くから、あんまり急がなくていいぞ。危ないし」
「ありがとうございます。では、また後で」
そう言うと小田留は、廊下を職員室の方へと歩いて行った。
高松家とは、家が隣同士、そして同い年の子供がいる、ということからも、幼少時代より家族ぐるみでの付き合いが頻繁にあった間柄だ。小田留の両親は共働きであり、両親共に帰宅は決まって深夜近くであった。そのため向こうの親から、今日娘の夕食をお願いできないだろうか? と、よくお願いされたのである。その名残が今もなおあるのかもしれない。毎週金曜日はうちで夕食を食べようという約束が、暗黙の了解として根付いているのだ。
俺の隣にはいつも小田留がおり、たくさんの月日を、たくさんの季節を、共に過ごしてきた。俺はそんな小田留を自然と、友人や親友を越えた家族のような存在として、無意識にも認識していたといえる。
昇降口から出ると、俺は自ずと空を見上げ手をかざした。この行為がいけなかったのかただの偶然なのか、途端にぽつぽつと雨が降り始めた。俺は小さく溜息をつくと、鞄から紺色の折りたたみ傘を取り出した。
なだらかな坂道を下ると大通りに出る。そこは十字路になっており、直進すればそのまま市街地へ、左右のどちらかに進路を取れば別の町に行けるといった感じだ。
俺は直進しなければならなかったので、横断歩道を渡るためにも、信号が青になるまでその場に待つことにする。
ふと視線を右方向へと向けた。そこには小さくもなければ大きくもない、一通りの遊具がそろった公園があった。ちょうど屋根のある休憩所の所だ。小学生と思しき幾人かの子供たちが空を見上げ立ち尽くしている。おそらく遊んでいる最中に雨が降り出し、仕方がなく避難したといったところだろう。話している内容からも、どうやら濡れるを覚悟で走って帰ろうかというのを決めかねているようだ。
俺はそれに関し特に関心を抱かなかった。別に珍しくもない、日常的な光景の一部としか目に映らなかったからだ。
正面に視線を戻すと、赤く光る歩行者信号を見つめながら、晩ご飯の献立について漫然と考えを巡らせた。
信号が青になったので、俺はとっさにその足を踏み出す。
――と、ここで、俺の中にある生存本能が警鐘を轟かせた。視界の隅に映ったこちらに向かってくる車の影を、無意識下においていち早く察知したのである。
その車は横断歩道寸前でさらにスピードを上げた。おそらくギリギリいけると考えたのだろう。
なんてことはない。それだけのことだ。それ以上でもなければそれ以下でもない。信号待ちをしている歩行者や他の車が、その不躾な車に対し不穏な視線を向けるだけで、その数十秒後にはその事実も、そして抱いた感情すらも忘却してしまうほどの、そんな取るに足らない些細な出来事……。
だがしかし、ここで予想外のことが起こった。誰かが、ちょうど俺の背の半分ぐらいの者が、凄い勢いで脇を通過したのだ。それは公園にいた子供のうちの一人であった。歩行者信号が青になるのを契機に、意を決して悪天候の中を帰宅のために走り出したのである。
俺はそれをぼやけた周辺視野で捉えると、これから何が起ころうとしているのかを瞬時に悟った。
「――っちょ」
言うと同時に腕を、その子供の方へと向かい中途半端な位置まで伸ばす。
子供は猛スピードで接近してくる車に気付いたのか、反射的にその動きを止めてしまう。そう、あろうことか左車線のど真ん中で。
――いけない! そう思った俺は鞄と傘をその場に投げ出し、子供の方に向かい駆け出した。この行動には一応勝算があった。それは、子供がほんの目と鼻の先にいた、というのと、寸前に車のブレーキ音が聞こえた、という二点だ。ブレーキ音に関しては、車が止まろうとしているのだから逃げるのに若干の余裕ができるはずだ、という意味合いだ。
だが、事はそんなにうまくは運ばなかった。路面が雨により濡れてしまっていたため、車のブレーキは通常よりも効きにくい状態に陥っていたのだ。
俺は子供をかばうように抱きかかえると、首だけで車の方を見た。そこにはぐんぐんと迫る鉄の塊があった。もう駄目だ、と考えるではなく理解し、目を閉じ衝撃に備えた。
ドンッ、と、強い衝撃が俺を襲う。背後からではなく、真横から。硬く冷たい無慈悲な衝撃ではなく、温かく柔らかい慈悲深い衝撃が。
俺は子供を抱えたままの状態で左車線から右車線へと弾き出された。そしてその最中、俺はそこに信じられない光景を目にする。
――小田留…………?
小田留がいた。彼女は両腕をこちらに向かって突き出している。
それを見た俺は小田留が俺たちに何をしたのかをすぐに理解した。
小田留は俺を、そしてこの子を助けた。自分の身を投げ出してまでして……。
視界はスローになり、そのおかげもあってか小田留の表情がくっきりと、そしてはっきりと見取ることができた。彼女は不安そうな、しかしどこか安心したような、そんな表情を浮かべていた。
その後の展開は非常に早かったといえる。それはまるで凝縮された時間が解き放たれるような、あるいは絡まり塊になった糸が一気に解けたような、そんな何らかの決壊を連想させるほどの目にも止まらぬテンポであった。
車は物凄い勢いで小田留の体に激突し、彼女をボンネットへと押し上げる。小田留はそのままフロントガラスに体を打ち付けるが屋根の方へはいかず、左のサイドミラーを破壊するかたちで地面へと強く落下、ゴロゴロと何度か回転し、数メートル先でようやく止まった。
車は反射的に右にハンドルを切ったのだろう。そのまま対角線上にある電柱にぶつかり、フロント部分を大きくへこませ動きを止めた。窓ガラスはひび割れ真っ白になっていたが、薄っすらと中の様子をうかがうことができる。運転手の若い男性はハンドルを強く握ったままエアバックにその顔をうずめており、気を失っているのかピクリとも動かない。
辺りは騒然となった。下校時間とありたくさんの生徒がその場に居合わせた。後続車両が次々と連なり、一気に渋滞が発生した。
子供はしばらくの間放心したような顔をしていたが、突然堰を切ったかのように泣き出した。その泣き方は、泣かなければいけない、と、反射的に察したような本当に突発的なものであった。
俺は恐る恐る、半開きの口のまま、小田留の方へと顔を向ける。そして彼女の無残な姿が目に映ると、震える足で立ち上がり、ゆっくりとゆっくりと歩を進めた。
小田留のすぐそばに膝をついて座ると、一度彼女の全身を見た。小田留はまるで時間が止まってしまったかのように一切の動きを見せない。強くぶつけたのか、ブレザーの制服は肩の部分から大きく破れ、腕はあり得ない方向に曲がってしまっていた。
めくれ上がったスカートを元の位置に戻すと、抱きかかえるようにして仰向けの状態にする。全身から力が抜けているのか、小田留の首がごろんと俺の方へともたれかかってきた。
俺は小田留のその顔を見ると心臓が高鳴った。それと同時に胸の辺りに圧迫するような嫌な感覚が広がった。
――駄目かもしれない。絶望的な思いが、胸中に込み上げた。
頭から流れ出した大量の血により、彼女の顔の半分は真っ赤に染まってしまっている。しなやかな髪はべっとりと頬に張り付き、口からは若干泡立った唾液がだらだらとこぼれている。
そこからの記憶は曖昧だ。頬に張り付いた髪を優しくすいてあげた気もするし、口元を手で拭ってあげた気もする。名前を呼びかけた気もするし、ただただ涙を流し続けた気もする。何もかもをしたのか、それともそれら全てができなかったのか、現実と空想を、俺はひどく虚ろな精神で一人彷徨ったのだろう。
次第に大きくなる雨音が耳に響く。それらは世界を真っ白に染めてゆき、虚空の空間へと俺と小田留を閉じ込める。押し寄せる絶望感と理由のない後悔は俺の意識をグチャグチャにし、目の前の視界を滲むように歪ませた。
……雨音が聞こえた。いつまでもいつまでも、雨音が鳴り響いていた。