第87話 そして勇者は〈世壊呪〉を知る
――あれは、小学5年の夏休み。
魔法世界メガリエントに、勇者として初めて召喚される……その少し前のことだ。
家族旅行で山に行った俺は、親からは危ないからと止められていたのに、宿の裏手に広がる森の奥へと踏み入った。
……別に反抗心だとかそんな大それたものじゃなく、子供ながらの冒険心ってヤツだ。
加えて、旅行なんて滅多に行けなかったから、テンションが上がってたってのもある。
――当時、亜里奈は5歳かそこら。
うちは母さんも銭湯の仕事で忙しいから、俺が面倒を見ることも多く……そのせいだろう、何をするにもしょっちゅう俺の後ろにくっついていた。
だから、俺のちょっとした冒険に、「あぶないからダメ」って亜里奈が反対したときは驚いたけど……結局、俺が押し切る形で、亜里奈も付いてくることになった。
確か、「オバケが出ても兄ちゃんが守ってやるから心配すんな!」とかなんとか、そんな感じのことを言った気がする。
その頃から、歳のわりに賢く、しっかりしていた亜里奈だけど……それでもやっぱり5歳。
俺には甘えることも多く、そのときも、そもそも整備されてない山歩きは小さな身体にはつらかったんだろう、「疲れた」と休憩をせがまれた。
しょうがないな、って、亜里奈をちょっと広まった場所で平らな岩に座らせ、リュックサックに入れていたお菓子を渡した俺は、まだまだ元気が有り余ってたから……。
ちょっと偵察してくる、とか言って、一人であたりをぐるりと見回った。
そうして、広場に戻ってきたら……ヤツがいたんだ。
体高1m近い、バカでかい野生のイノシシが。
――本能的に、ヤバいと思った。
イノシシに突かれて死んだ人もいるって、どこかで聞いた話が、ふっと頭を過ぎった。
でも……。
ソイツが、驚いて身動き出来ずにいる亜里奈を狙ってるのに気付いた瞬間。
亜里奈の口が、かすれた小声で、俺に助けを求めるのを聞いたその瞬間。
――俺は。
湧き起こる危機感も、恐怖感も追いやって――。
手近な石ころを拾って投げつけつつ、大声で注意を引いて――亜里奈をかばおうと突っ込んでいた。
そのとき、とっさに――念のためにって、着替えやらタオルやらを詰め込んであったリュックサックを、前側に背負い直したのが生死を分けたかも知れない。
ついでに言えば、こっちから距離を詰めていたおかげで、向こうもあまり勢いのついた突進が出来なかったってのもあるだろう。
とりあえず俺は、狙い通りこっちに向かってきたイノシシの突進をなんとか凌いだ――といっても、思い切り弾き飛ばされたし、牙で片方の脇腹を少しばかり抉られたんだけど。
ただこれも、リュックサックに買ったばかりの水筒が入ってなければ……それが防いでくれなければ、もっと深手になっていたに違いない。
そのあとのことは、あんまり詳しくは覚えてない。
ただ、突進をマトモに食らったら終わりだし、牙もヤバいってことで……必死に肉薄して、牙を両手で掴まえて、力比べのような状態に持っていった記憶はある。
そうやって、亜里奈に逃げるように言って……。
そう、それから『根性さえあれば勝てる』って母さんの言葉を思い出して、思い切り頭突きをぶちかましてやったっけ。何度も。
野生のイノシシ相手にどれだけの威力があるんだって感じだけど、気迫って意味では効いたのかも知れない――なんせ、ケガをした小学生が、助けが来るまで力比べで渡り合えたぐらいなんだから。
で、結局、亜里奈が助けを呼んでくるまでもなく……。
幸運なことに、たまたま山に入っていた猟師のおっちゃんが近くにいて、騒ぎを聞いて駆け付けてくれたおかげで、俺はなんとか助かったわけだが……。
脇腹のケガのせいで、夏休みはほぼ棒に振ることになった。
そして……その事件以来。
それまでは、なにかと「おにーちゃんおにーちゃん」って俺に甘えていた亜里奈が、あまり甘えやワガママを言わなくなった。
気にしているんだ、亜里奈は――未だに。
あのとき、自分が「疲れた」ってワガママを言わなければ、イノシシと出遭わずに済んだのに、って。
あのとき、自分が「助けて」って甘えなければ、俺が死ぬような目に遭わなかったのに、って。
もちろん、そんなのは単なる思い込みだ。
休憩を取らなくてもイノシシとは遭遇したかも知れないし、助けを求められなくても、俺は亜里奈を見捨てたりしなかった。
それにそもそも、責任と言えば、言いつけを破って森に入った俺にこそあるんだ。
亜里奈はやめようと止めすらした、なのに聞き入れなかったバカな俺がケガをするのは自業自得だし、それこそ、亜里奈に怖い思いをさせた責任を取らなきゃいけないぐらいだ。
そして実際、そのことをちゃんと言い聞かせた。お前はなにも悪くない、って。
亜里奈も、納得はしてくれた。
だけど……多分。
頭で理解はしても……納得は出来ていても。
本能的な部分で……どうしても気にしてる。怖がってるんだ。
それがきっと――亜里奈が甘えベタになった、大きな理由の一つだろう。
……いや、まあ……単にお年頃、ってこともあるのかも知れないけど……。
それに、やっぱり女の子だからなあ……男の俺には分からんこともあるだろうし。
……さておき。
そうした『甘えベタ』のせいで、助けを呼べなかった亜里奈を、ハイリアが〈呪疫〉から守ってくれたのは事実らしい。
俺は改めて、パジャマ姿の亜里奈――の中にいるハイリアに、頭を下げる。
「……経緯は分かった。
とにかく、亜里奈を守ってくれたことには礼を言わせてくれ。
――ありがとう、助かった」
「……礼には及ばん。余が好きでやったことだ」
ふん、と小さく鼻を鳴らすハイリア……見た目が亜里奈だけになんか複雑だ。
「それから、2回とも、襲われる直前の亜里奈の記憶については、ちょっとした暗示で封印してある――多少の違和感はあろうと、前後の記憶と自然と辻褄が合うように。
先に言ったが、余の存在に気付くことで、亜里奈の精神に悪影響が出かねんからな。
……最悪、余を人格の一つと認識してしまったりすれば、融合の危険性もある」
「ア、アアアアリナと融合とか、その字ヅラだけでゴハン5杯はいけそうなモーソーを平然と語ってんじゃねーぞコラ!
――てか、悪影響恐れてンならなんで今回、襲われてもないのにしゃしゃり出てきやがったんです!
いやむしろ、それならさっさとアリナから出ていきゃいいでしょーが!」
両手をバタバタさせてわめくアガシー。
しかし…………ふむ。
ヘンタイ的なモーソーについてはともかく、アガシーの言うことにも一理あるか……。
「……そうだな。当初息を潜めていたのは、状況を見極めていたからだが……。
今現在、聖霊の問いにまとめて答えるなら――〈世壊呪〉としての力が問題であるから、だろうか」
「……どういうことだ?」
「――増してきているのだよ、〈闇のチカラ〉が。
恐らく、〈霊脈〉の汚染に応じて、チカラが流れ込んできている形なのだろうが……。
今のところ、余が吸収する形で処理して、事なきを得ているものの……それを今後も続けると、亜里奈の中で余の存在が強くなりすぎてしまう危険性がある。
ゆえに、余裕があるうちに対応を取りたいと、今回こうして表に出たわけだ」
……つまり、どうやって亜里奈と分離するか、という手段の話か……。
「ああもう、やっぱいっそのことシルキーベルに引き渡して、コイツだけ浄化してもらったらいいんじゃないですかね!
そうすりゃ、アリナもコイツの魔の手からキレイさっぱり逃れられて、もう万々歳ってやつじゃないですか、ねえっ?」
「亜里奈と一緒ってのが、お前にとってどれだけうらやましいのかは知らんが、そうスネるなよ……」
ぷんすかと暴言を吐くアガシーをなだめる俺は、当のハイリアが眉根にシワを寄せていることに気が付いた。
アガシーの言葉に、さすがに頭にでも来たのかと思ったら――。
「……やはり勘違いしていたか」
――なんて、意味ありげにつぶやきやがる。
なんのことかと思ったら、俺がそれを聞く前に、ハイリアは口を開いた。
「……勇者よ、はっきりしておこう。
〈世壊呪〉とは、余のことではない」
そう言って……自分を指差す。
「……???」
なんの冗談だ?
コイツ、ちょくちょく人を煙に巻くような言い方とかしたりするからなあ……。
「いや、だから……お前だろ?
亜里奈の中の魔王、ハイリア=サイン」
「……まだ分からんか」
ハイリアはやれやれとばかりに、大きなタメ息をついた。
「よいか? どうして、生まれつきこれほどに魔力の器が大きいと思う?
どうして、この広い広隅の地にあって、さっき話に出たときと、昨日の体育祭やらのとき、2度も〈呪疫〉が近くに現れたと思う?
どうして、昨日は勇者や聖霊よりも先に、その出現の予兆を感じられたと思う?
そして、何より――。
どうして、人ならざる闇のチカラ――世界を滅ぼすほどのチカラをもつ魔王たる余が、あっさりと憑依してしまうほどに相性が良かったと思う……?」
「………………まさ、か」
俺の口からこぼれ出たのは、自分でも驚くぐらいにかすれた声だった。
そして――非情にも。
「そう……そのまさかだ、勇者よ。
〈世壊呪〉とは、まず間違いなく――」
否定してほしかった、俺のその思考を。
ハイリアは――きっぱりと認めた。
「お前の妹――赤宮亜里奈のことだ」