第331話 その電話は、勇者を始まりの地へと導く
「……あっ」
千紗の手から転がり落ちたペンが、病室の床で乾いた音を立てる。
「ああ、いいよ、俺拾うから」
「ご、ゴメン……ありがとう」
慌てて椅子から立とうとした千紗を制して、足下に転がってきていたペンを拾い……返しながら、俺は。
「……大丈夫?」
と、そう尋ねずにはいられなかった。
――もうしばらくしたら用事で家に戻る千紗と交代で、ドクトルさんの付き添いでもしようと病室にやってきていた俺は……。
とりあえず昨日のように、千紗と夏休みの宿題を進めていた――んだけど。
そんな、ほんの小一時間程度の間に、千紗がこうしてペンを取り落とすのはもう2度目だったからだ。
それでなくても、今日の千紗は朝からどことなく、思い詰めてるような感じに見えたしな――さすがに、何かあるのかと心配にもなるってものだ。
けれど、やっぱりって言うか――。
千紗は「大丈夫」と、何でもない風を装って笑うだけだった。
「たまたま、ホンマにたまたまやから……!
ペン連続で落としたぐらいで大ゲサやなあ、裕真くん……そんなこともあるて」
「んー……だったらいいんだけど……」
ゼンゼン何にもない、って感じじゃないんだけど……本人がそう言うなら、あんまりこっちから追求するのも良くないかな……。
そう思って、それ以上そのことを話すのは止めて、またしばらく宿題に向かっていると――。
その合間に、何度か俺の方を窺うようにしていた千紗が……ポツリと尋ねてきた。
「裕真くん……亜里奈ちゃん、なんか悩んでたりとか――してへんかな?」
「――え?」
今度は、俺がペンを落としそうになるのをとっさに掴み直し――向かいの千紗の顔を見る。
「あ、えっと……!
そう言うても、昨日いっしょにお風呂入ってたとき、なんとなーく……もしかしたらって、ちょっと思っただけやねんけど……」
俺が思った以上に真剣な顔をしていたからか――千紗は自分の発言を否定するみたいに、小さく両手を振った。
「亜里奈に何か、そんな素振り……あったの?」
「あ、ううん……いかにもそれっぽいのは、何も……」
「じゃあ、体調が悪そうだった、とか?」
「ううん、それも大丈夫――やと思う」
続けて、俺が確認していくと……そのどちらをも否定した千紗は、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「……な、なんやゴメンな……裕真くん。
こうやって確認してたら……やっぱりウチのカン違いみたいな気、してきた。
――もしかしたら、ウチがおばあちゃんのこととかでいろいろ考えてたせいで、心配した亜里奈ちゃんが気ぃ使てくれたりしたんが……。
ウチからしたら、悩みを隠してるみたいに見えただけ、なんかも……」
「ん、そっか……。いやでも、謝ることなんてないって。
むしろ、亜里奈のこと、気に掛けてくれてありがとう。
朝からちょっと思い詰めてる感じだったのも、これを言おうかどうかで悩んでたんじゃない?」
「え? あ――うん、そんな感じ……かな」
ちょっと曖昧にうなずく千紗。
……んー、それだけじゃないってこと、かな……。
まあ、それにしても――。
もしかしたら亜里奈が、自分が〈世壊呪〉であることに気付いて――それで動揺していたりしたんじゃないかと思って、ついつい前のめりに食いついちまったけど……。
どうも、そういうわけでもなさそうだ。
……でも、そうだよな……。
今朝の亜里奈だって、特別おかしな感じはなかったんだし……。
ひとまず、亜里奈のことについては早とちりだったみたいで、少しホッとする。
……とはいえ、それはともかく、亜里奈ももう小6だ。
俺相手じゃ言いにくいような悩みぐらい、実際にあったっておかしくないわけで――。
そういうところ、同性で年も近くて……何よりアイツが、姉として慕ってる千紗に、少しでいいから力になってもらえたらな……って。
そんなことを、ちょっとお願いしておこうかと思った――そのときだ。
テーブルに出していた俺のスマホが、ブルブルと震えて着信を告げた。
相手は――
「……衛? ゴメン千紗、ちょっと出てくる」
「あ、うん」
千紗に一言断って、スマホを手に病室を出る。
そして、電話をしていても迷惑にならなそうな場所まで移動して……通話をタップ。
「――もしもし、衛?」
そう言えば……おキヌさんが昨日、衛のところに晩メシを作りに行くって話してたっけ。
しかも、そのイベントにはイタダキも便乗してたわけで……。
あの頂点ヤローのことだ、泊まって夜通しゲームした挙げ句、「もうちょっとでコレ、クリア出来んだよ〜……!」とか何とかぬかして、今もまだ居座ってたりするかも知れない。
……となると、だ。
この電話だって、衛のスマホを使って、イタダキが掛けてきてるって可能性もあるんだよなー……。
タダでさえウザいイタダキの、ロクに寝てないハイテンションとか、相手してられねーよな……と、警戒しながら出た電話は――。
『あ、もしもし、裕真?』
……幸いにして、ちゃんと衛本人からだった。
『ゴメン、もしかしてドクトルさんのところだった?
電話、大丈夫かな?』
「ああ、それは大丈夫。
……んで、どうかしたのか?
ちなみにだけど、イタダキが未だに部屋に居座っててウザいから、俺も道連れにしようとか――そういう話は却下だからな?」
俺が先んじてクギを刺すと、電話の向こうで衛は笑う。
『なるほど、そういう手もあったねー。
そうだよ、そうすればお昼は買い置きしてた袋麺じゃなく、裕真に何か作ってもらえたのになあ』
「いやお前、それ、俺を便利に使い過ぎだろ……」
ちょっと前に衛の家で、俺たち男子どもだけでやった鍋パーティーのことを思い返し……反射的に頬が引きつる。
あのときは結局、鍋の用意どころか、軽食作りまでやらされたもんなあ……俺。
『まあともかく、イタダキならもう帰ったから、そこのところは安心していいよ』
「……ならいいんだけどさ。
で? それじゃ、本題は?」
『ああ、うん、それなんだけど……』
そこで一旦、間が空く。
言いづらいことなのか、言葉を選んでいるのか……。
ともかく、少ししてからまた聞こえてきた衛の声には――ここまでとは違って、真剣な調子が感じられた。
『実はこれから……ちょっと、2人で会って話がしたいんだ。
相談――っていうか』
「……俺とか? 電話じゃなく?」
『そう、裕真、キミと。
電話じゃなく、直に……ね』
……ふーむ……電話じゃしづらい相談――とかか?
ああ、もしかしたら……実家絡みのことかも知れない。
旅行中に剣道勝負して、衛から直に、じいさんとの確執について打ち明けられたの……俺だもんな。
うーん……今日も千紗の代わりに、ドクトルさんについてるつもりだったけど……。
さすがにそういう真剣な話なら、無下にも出来ないか。
「分かった、構わねーけど……場所はどうする?
イタダキも帰ったってことなら、俺がお前の家に行けばいいのか?」
『それなんだけど……待ち合わせでお願い出来るかな?』
そう前置きして、衛が告げたのは……。
特別なランドマークでも何でもない、とある高架下の空き地だった。
周囲に何か施設があるわけでもないし、主要道路からは外れてるしで、あんまり人も来ないような場所だ。今日みたいな天気ならなおさらだろう。
ただ……実は俺としては、それなりに思い出深い場所でもある。
なぜかと言えば――そこは、俺が〈クローリヒト〉になった場所。
初めて、この日常の世界での非日常……そう、シルキーベルという魔法少女と遭遇した場所だからだ。
……と言っても、そんなことは衛には関係ないわけだけど。
「……ってか、なんでまたそんな場所なんだ?」
『そうだね……。
話をするついでに、いつかみたいに手合わせをお願いするかも知れないから、かな』
なるほど……やっぱり、だな。
衛の答えに、俺は内心うなずく。
おキヌさんも衛のこと、ちょっと心配してたけど……。
もしかしたら、ドクトルさんがこうして入院するのを見た上に、お盆も近付いてきたことで……衛の中で、じいさんに対しての心境の変化があったのかも知れない。
たとえば、一度実家に帰って、改めてじいさんと向き合ってみる気になったとか……。
その想いを整理したり、踏ん切りをつけるために、以前も勝負した俺と、拳ならぬ剣を交えたいってことなら……俺に断る道理はない。
おキヌさんにも衛のこと、『頼む』って言われてるし――。
だいたい、それでなくても……友達なんだからな。
「……分かった。
それじゃあ、そういうことで――また後でな」
『うん――また、後で』
そのあいさつをキリにして、俺たちはお互い、ほぼ同時に電話を切っていた。
「……さて、と……」
そして俺は、その足ですぐにドクトルさんの病室に戻ると――。
千紗に、衛との電話の件を告げた。
衛との約束を果たすとなると、当然この後、千紗の代わりをするわけにもいかないから。
「……ゴメン千紗、ここまで来ておきながら何だけど……」
頭を下げる俺に、千紗は――むしろ『そんな気を使わなくても』とばかりに、両手と首をブンブン振る。
「ええよ、そんなん! 大丈夫やから気にせんとって?
そもそも、それやったらウチこそ、おばあちゃんに付き添っとかなあかんねんから。
――やから、それより……国東くんの相談、ちゃんと聞いてあげてほしいかな」
「ありがとう。もちろん、そうするよ」
広げていた宿題や筆記用具をしまい、手早く荷物をまとめて病室の出口に向かう俺を……。
千紗も、わざわざ席を立って見送りに来てくれた。
「……じゃあ、行ってくる。
話が済んだら、また連絡するよ」
「うん、行ってらっしゃい。車とか、気ぃつけてな?」
「ありがとう。千紗も、帰るときは気を付けて」
ドアの前で、優しい笑顔と一緒に手を振ってくれる千紗に、手を振り返して――。
俺は、病室を後にしたのだった。