第309話 魔王は、評判の味を楽しんでばかりもいられない
――今日も今日とて、松じい殿の古書店〈うろおぼえ〉にて、稀覯書や古書を閲覧させてもらっていた余だったが……。
ふと気が付けば、既に時刻は昼を回っていた。
朝食当番が亜里奈や養母上であれば、養父上の分を作るついでだからと、余にも弁当を用意してくれたりするわけだが……。
生憎と、今日の当番は聖霊だったこともあり、そうした恩恵は無い。
まあ、余は押しかけ同然の居候の身なのだ――小遣いを頂けるだけでもありがたいところへ、毎度弁当まで用意してもらうのも、むしろ気が引けるというもの。
そもそも、アルタメアで魔族の王たる地位にいたときも、食事を摂るヒマすら無いほど仕事に忙殺されることなどいくらでもあったゆえに……今さら昼食程度、抜いたところでどうということはなく。
それにいざとなれば、この世界ならコンビニにでも寄れば、手軽にちゃんとした食料を調達出来るわけだしな――。
……そんな風に考え、さして気にするでもなく再び読書に耽ろうと思っていた余を――しかし松じい殿は気にかけてくれたらしく。
昼メシを食うのにちょうどいい、ウマい店があるぞ――と、一軒の喫茶店を紹介してくれたのだった。
「ふむ……こんな形で訪れるとは思わなかったが」
――親切に紹介されたことであるし、余とて、美味いものと聞けば興味も湧く。
なので、素直に教えてもらった通りの店へやって来たわけだが……。
世の中とは狭いもので……そこは、話には聞いたことのある喫茶店だった。
――純喫茶、〈常春〉。
確か、後輩の白城の実家で……ナポリタンとやらが特に美味いと評判だったはず。
勇者の奴も、おスズと来たことがあるらしく、その味を絶賛していたな。
その勇者が、亜里奈にも「食べさせてみたい」と(亜里奈なら味を再現出来るのではないか、という期待を含めて)言っていたことを思えば、それこそ余が連れてきてやりたかったところだが……。
それはまたの機会に、といったところだな。
まずは、自身の舌で味見してみるのもいいだろう――。
そんな風に考えながらドアを開け、心地良いベルの音に歓迎されていると。
「……おや? ハイリアくんじゃないですか」
カウンターの向こうに立つ、白城の父親だろうマスターよりも早くに――。
テーブル席を1人で占拠している、見覚えのある大学生が余の名を呼ぶ。
〈うろおぼえ〉の常連で、余も幾度となく世話になっている――質草殿だった。
「ハイリアくんもお昼ですか?
――ちょうどいい、良かったらボクと一緒にどうです?」
向かいの席を示しながらの質草殿の誘いに、特に断る理由も無いと、余も同じテーブルにつく。
たまたま空いている時間だったのか、店内には、他の客は年配の夫婦ぐらいしかおらず……よく手伝いをしているという、白城の姿もなかった。
「そちらのお客さん、質草くんのお知り合いかな?」
「お嬢の学校の先輩ですよ、おやっさん。
そして、ボクとは古書仲間でもあります」
水を持ってきてくれたマスターに、質草殿が紹介してくれるのに合わせ……余も、目礼とともに名を名乗る。
「ほ、ほう、堅隅高校の……?
あ~……と、ところでハイリア君、キミは、その〜……うちの娘とはどういう……」
「ふむ? どういうも何も、質草殿が紹介してくれた通り、同じ学校の先輩と後輩……知人、と言ったところだが」
「あ、ああ、そう、そうだったね!
いやー、すまないね、妙なことを……」
苦笑するマスターの姿に、なるほど、と思い至る。
これは、亜里奈のこととなると、勇者が妙に余につっかかってくる……アレと同様のものか。
保護者というのも大変なものよな。
……まあ、余も子を持てば、その気持ちが分かるのやも知れぬが……。
そんなことを考えながら、余は予定通り、ナポリタンを注文する。
メニューの写真を見る限り、似たような料理はアルタメアでも食したことがあるので……こちらの世界ではどう違うか、大変興味深いところだ。
一方で、質草殿は『いつものやつ』で通していた。
本人いわく、入り浸っていると言っても過言でないほどの常連らしい。
ちなみに、その『いつもの』は、ケチャップを多めにしたオムライスだそうだ。
「……む?」
そうして注文を取り、カウンター向こうへと戻っていくマスターと入れ換わるように……窓際を伝って、1匹の三毛猫が近付いてきた。
「ああ、その子はキャラメルと言って、この店の……まあ、いわゆる看板ネコというやつですね。オスですが。
――ネコアレルギーとか、大丈夫ですか?」
「それは問題ないが……」
質草殿の説明に応えながら……余は、こちらを見つめる三毛猫と目を合わせる。
そう、別に余はネコ嫌いでもなんでもないが……。
ふむ、このネコ――。
何と言うか、魔力めいたものを、うっすらと感じるような……?
「うむ……三毛のオスか。大変に珍しいと聞くが……」
触れば分かるかと、余は、何気なく手を伸ばしてみるが……。
当のネコは、小さく一声鳴いたきり、すぐさまきびすを返して……もう一組の客である年配の夫婦の方へと立ち去っていった。
「ふふふ、キミのような中性的美人でもそうなりましたか。
……基本的にあの子、男性にはあまり近寄らないんですよ」
「なるほど。ある意味、正直な奴――というわけだ」
質草殿のフォローに、苦笑を以て応える。
……結果として、あのネコが本当に魔力を持っているのかどうかははっきりしなかったが……。
そもそもが、違和感とすら言えないようなものだったからな……気のせいだと言われればそうなのかも知れん。
いや、それよりも、『魔力』と言うなら……。
この店というか、土地というか――『場』そのものにこそ、余は先ほどから特殊なチカラの流れを感じていた。
……もっとも、あからさまに異質だったり、害を及ぼすようなものではないので――たとえば〈霊脈〉の要のような、もともとそういう影響が出やすい『場』であるだけかも知れないが。
先ほどのネコに魔力を感じたように思ったのも――この『場』ゆえの錯覚だとすれば、その方が説得力はありそうだ。
……ともあれ、まったく気にならんわけでもないが……。
それこそ、結界のような術式めいたものが視えるわけでもなし――今は、ここはそういう特殊な『場』だと、そのように理解しておくしかあるまい。
――と、そんなことを考えている間に、料理が運ばれてきて……。
余は改めて、質草殿と古書について語りつつ……評判の味というものに触れることとなった。
そして――
「ふむ、なるほど……これは確かに美味い。
特別珍しい味がする、というわけでもないのだが……。
とにかく、じわりと味わい深く……飽きの来ない美味さだ。
ついつい手が止まらなくなるし、腹が満たされてなお、いずれまた食べたいと……そう思ってしまうな」
「それはありがとう。気に入ってもらえたようで良かったよ」
昼食を抜こうなどと考えていたとは思えぬほど、あっさりと一皿を平らげてしまった余の正直な感想に……マスターもまた、満足そうに微笑んでいる。
……実際、素晴らしい味だった。クセになる――というやつか。
なるほど、勇者が亜里奈を連れてこようと考えるのもうなずける。
ふむ、だが……。
亜里奈に頼るよりも――まずは先に余が、日頃食事を用意してくれることへの感謝を込めて、この味の再現に挑んでみるのも良いやも知れぬな。
しかしどちらにせよ、亜里奈は、トマトのソースが好きなようであるし……このオリジナルの素晴らしい味を食べさせてやりたいとは、素直に思うところだ。
……もっとも、そうしたことを気兼ねなく楽しむには、やはり今起こっている問題をどうにかする必要があるわけだがな……。
当然、亜里奈の――〈世壊呪〉の問題も。
「……おや、どうしました? 押し黙って。
〈常春〉名物の味に感動し、言葉も無い――とか?」
「うむ……まあ、そんなところだ」
質草殿の軽口に、微笑みながら応じつつ……余は、冷水の入ったグラスを手に取る。
と――いつの間にかグラスの縁に付いていた赤いものが、水の中に落ちて溶けた。
……どうやら、ナポリタンのソースが跳ねていたらしい。
トマトの染みは洗ってもなかなか落ちないと聞いた気がしたので、ナポリタンを食す際、シャツに付かぬようには注意していたが……グラスの方までは気が回らなかったな。
「おや、ソースが跳ねてたみたいですね。
――替わりのお冷を……」
「いや、問題ない。この程度で取り替えるなど勿体ないからな」
質草殿が気を遣ってくれるのを丁重に断り、態度で示すように、余は冷水に口を付ける。
故郷の〈魔領〉は、場所によっては綺麗な飲み水はそれだけで貴重品であったからな……。
この日本では、少々貧乏くさい態度やも知れぬが……つい、な。
実際、まだなみなみと残っていた冷水は、レモンの香り付けがされていたこともあり、味にはまるで影響などなかった。
そう、ほんの僅かなトマトソースが溶けたところで――
「…………」
……いや、待て。
器を満たす多量の水に、わずかな異物が溶けたところで……?
「――――っ!」
瞬間、脳裏に一つの考えが閃いた余は――思わず、反射的に立ち上がる。
「? どうかしましたか?」
「あ、ああ、すまない……1つ、急用を思い出してしまってな。
質草殿、今日はこれで」
怪訝そうな質草殿に小さく頭を下げ、冷水を一息に飲み干した余は……。
伝票を取ろうとしたところ、先んじて笑顔の質草殿に奪われ――。
「ここは、ボクにお任せを。
……ああ、お気になさらず。こう見えてボク、実は小金持ちなので」
一瞬、厚意に甘えるべきかを考えるも、ここは年長者の顔を立てることにし、素直に礼を述べてから――。
改めてマスターにも、ナポリタンの味について賞賛の言葉を贈り……その足で、すぐさま〈常春〉を後にした。
「……余としたことが……!」
――トマトソースの溶けた冷水を見て、思い至ったのは……亜里奈のことだ。
魔剣グライファンの一件以来、我らは、亜里奈に流れ込む〈闇のチカラ〉が細っていると感じていたわけだが……。
それが――そもそも間違いだったのやも知れん……!
……そう――亜里奈にはもともと、巨大とも言える魔力の素養があった。
余自身、以前に、亜里奈の身体を借りているときに実感したことだ、間違いない。
そして亜里奈は、その、〈世壊呪〉としてのチカラとも密接に関わるだろう『魔力の器』を、根こそぎ奪われかけたのだ――グライファンに。
そんなことがあれば……生命というのは本能的に、自らを守るべく、次は同じ轍を踏まぬようにと――失いかけたものをより強固に、より大きくしようとするだろう。
そのこと自体は考えていた――だが。
余は……亜里奈の素養を、甘く見過ぎていたのではないのか?
もともとが巨大な器を持つゆえに、亜里奈は……。
その器を、余の想像を遙かに超えて、急速に成長させていたのではないか――。
そして――冷水に満たされたグラスに、ただ一滴のソースが溶けても分からぬように。
たとえれば、海ほどに大きい水溜まりなら……異物が、それこそ日本ほどの広さで雨と降ろうと、全体から見れば大したことではなく――。
いきおい、些細なものと見えたのではないのか――その器の大きさに比べて、流れ込む〈闇のチカラ〉が。
そう――実際には、以前よりその量が増えていたとしても……!
「……っ……!」
……幸いにして、最近の亜里奈の様子からして、この仮説が正しかったとしても、その悪影響が大きく出ている――ということはないだろう。
だが、気付いていれば、もっと早くに対策を立てることも出来たのは事実であり――。
「……まったく、迂闊な……っ!」
その程度のことに、今の今まで思い至らなかった己の不明を呪いながら……。
すぐにでも亜里奈の状態を確認してやらねば――と。
余は、逸る心と苛立ちをそのまま叩き付けるかのごとく……足を速めるのだった。