第302話 魔王は夜の闇にこそ向かう――座卓に
――夜も更け、そろそろ日付も変わろうかという時間になった。
しかし、空気はまだまだ日中の熱を持ち越しており……マシにはなっているものの、やはり暑いと言えるだろう。
ただ、生まれ育った〈魔領〉が、極寒の土地であると同時に、随所に空いた洞窟の地下には溶岩が流れるような、寒暖両面においてのまさしく『極所』であり――。
その上、そもそもが、そうした土地で生き続けてきた一族の出自であるために。
余は寒暖どちらにも、半ば『慣れ』に等しい耐性を有しており――。
昼間の日射しの下などはさすがに多少の暑さも感じるが、この程度ならばまるで大したものでもなく……空調などに頼らずとも、ばば殿から借り受けた扇風機1台で充分過ぎるほど快適であった。
「……さて……」
そんな中、余は、自室の畳の上に置いた座卓に……ノートに筆記用具、洋書和書といった幾らかの文献、そしてスマホを広げる。
それらで何をするのかと言えば――。
そう、亜里奈を〈世壊呪〉という呪縛から解放すべく……そのチカラだけを抽出・封印するよう、余を封じていた〈封印具〉の改良術式を組み上げる作業だ。
昼間は極力、古書店〈うろおぼえ〉に赴き、店主の松じい殿から、この世界の魔法に関わる稀少な古書を見せてもらったり、話を聞かせてもらったりで知識を蓄え――。
〈天の湯〉の手伝いなども済んだ、こうした夜遅くの静かな時間に……得た知識をまとめつつ、術式について試行錯誤する――。
それが、ここのところの余の日課となっていた。
「……ふむ……」
手にしたボールペンを指の間で回しながら、ノートをめくり……まずは、これまで思いつくまま書き殴ってきた術式を振り返っていく。
ちなみにだが、余が鉛筆などでなくボールペンを使うのは、訂正箇所を消さないようにするためだ。
明らかなまでの過ちであろうと、それは残しておくからこそ意味がある。
その過ちの跡こそ学びとなり、そして時には新たな気付きとも成り得るからだ。
ともかくも、初めにそうして、ここまでの試行錯誤を認識し直した上で……改めて、今日新たに得た知識を資料と加え、思考を進めていく。
進めるまま、思いつくままに……ともかく、ノートにペンを走らせてみる。
……深く考えるのは、ひとまず二の次にして。
まったく新しい術式――他世界の魔法体系すら取り込んで組み上げようとする、そんな術式を生み出すのに大切なのは、何より『閃き』であり。
――となれば、今、この時点で詳細な計算や整合性といったものに思考を振り分けていては、『追い付かなくなる』からだ。
そう――閃きとはその言葉通り、的確に捉えるには、とにかく素早いものゆえに。
もっとも、その考えの根底にあるのは……とある人物の受け売りではあるが。
『ハイリア……キミは何でも考えすぎるきらいがあるんだ。
まったく、下手に頭が良いのも困りものだよ』
余を見上げるというよりは、ふんぞり返り――立てた指をこれ見よがしに突きつけてくる、小柄な幼馴染みの姿が思い出される。
『閃き』は待ってなどくれない上に、帰ってくる保証もない……というのが、魔族切っての天才であった彼奴の持論だった。
……まあ、それ自体は間違いではないし、特段珍しいことを述べているわけでもないのだが……。
彼奴の場合、その持論を盾に、時も場所も選ばず、何かを思いつくととにかくすぐに書き殴るクセがあったのが問題であった。
それが、常に彼奴のためにペンと紙を常備していた、〈人獅子〉の家令が側にいるときであればともかく――そうでなければ、本当に一切何の遠慮会釈も無く、書けそうなものにあらゆる手段で『書いて』しまうのだ。
その暴挙には――。
宮廷画家が〈魔領〉の有力者たちを前に、新作の絵画を披露した際……いきなり魔法で指先に熱を灯し、まさにその絵画に、焦げ跡をもって、新たな染料の組成方とやらを書き連ねる――などというものもあった。
そのときは、件の画家が我が父たる王の気に入りということもあり、列席者が軒並み凍り付いていたが……。
何より当の画家本人が、その組成によって生まれる繊細な『色』を長年欲していたらしく、むしろ感謝されるという結果に落ち着き……。
さらには、その新たな染料が用いられた新作を父がいたく気に入ったことで、咎められるどころか褒美さえ下賜される始末だった。
……ちなみにそのとき、まったく悪びれる様子も無いどころか笑顔さえ浮かべて、まだ10歳だった彼奴が余に宣ったのは――
『反射的に、「ここなら書いても大丈夫だ」と思ったからこそ書いたわけでだね。
つまりは、そもそもその程度の絵画だったってことだろう?』
……などという言葉であった。
余もまた子供であったが、そのとき改めて、天才という輩は――と呆れかえったものだ。
そう、羨望に嫉妬に、尊敬――それらの入り交じった感覚とともに。
「……まったく……。
今少し、この凡人でも役に立つ金言を遺しておけば良いものを……」
懐かしさに笑みを漏らしつつ、悪態を吐きつつ……とにかくペンを動かし、浮かんだ考えをひたすら形にしていく。
才が足りぬとなれば……なおのこと、数をこなす他にないからな。
そうして――どれぐらいの時間が経っただろうか。
集中が少し途切れたところで、一息吐こうとペンを卓上に転がしたちょうどそのとき……部屋の引き戸が控えめにノックされた。
「ハイリア、いいかしら?」
――どうやら、ばば殿のようだ。
問題ない、との余の答えを受け、引き戸を開けて入ってきたばば殿は……盆を手にしている。
上に載っているのは……湯気の立つ緑茶が入った余の湯呑みと、一切れの羊羹の小皿だ。
「勉強熱心なのは良いけれど、一息入れてはどう?」
緑茶と羊羹を座卓に置き、ばば殿は柔らかく微笑む。
……まあ、このノートは一見したところでは、外国語を使って数学の図形問題を解いているようにも見えなくはないからな……。
もちろん、だからこそ下手に隠したり擬装したりせずにいるわけだが。
しかし……わざわざばば殿が、こうして茶を持ってきてくれるとは思わなかった。
「……さすがに、お夜食というほどではないけれど。
あなたのことだから、まだ今しばらくは頑張るつもりなのでしょう?」
「これを……わざわざ余のために?
申し訳ない、ばば殿もじじ殿も、既に休まれていたはず……起こしてしまっただろうか」
「気にするようなことじゃありませんよ。
たまたま目が覚めた……そのついでですからね」
「いや、しかし……」
「――ハイリア、前にも言ったでしょう?」
つい恐縮する余に、ばば殿は苦笑しつつ首を振ってみせる。
「子供の助けとなるのが、私たち大人の務め。
ましてや、それが努力している子となればなおのこと――今のあなたのようにね」
ばば殿に諭され……以前、グライファンとの戦いの後に寝込んだ際、迷惑をかけることを詫びた折にも――同じような言葉を頂戴したことを思い出す。
そうすれば、余の口元に自然と浮かんだのもまた……微苦笑であった。
……まったく……ばば殿には敵わぬな。
「……そうであった。余としたことが……進歩の無い。
では――ばば殿。
その心遣いに感謝し、この茶と羊羹、有り難く頂戴する」
「ええ、どうぞ。
――さて、それじゃあ私は休みますけど……。
あまり根を詰めすぎても良い結果は出ないものよ、ハイリア、あなたもほどほどにして休みなさい?」
「ああ、そうするつもりだ。
――お休み、ばば殿。今一度感謝を」
改めて頭を下げる余に、ええ、ともう一度上品に笑いかけ……ばば殿は部屋を出て行った。
それを見送った余は、座卓に向き直ると、羊羹と茶に手を合わせ――「いただきます」と小さく口にしてから、それらを頂戴する。
そうすれば――
「……うむ、美味いな……」
ほうっともれる吐息に、自然とその言葉が乗った。
羊羹の甘みが、緑茶の旨みが……じんわりと身体に染み渡り、疲れも解きほぐされていくようだ。
改めて、ばば殿の心遣いに感謝しつつ……「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
そうして、ペンを握り直せば――。
この小休止のお陰だろう、すっかり集中力も戻り――いや、それどころか。
「ふむ……? いや、そうだ――」
新たに湧き上がってくれた『閃き』を……とにかく、捉えては書き殴る。
その勢いは、この数日で一番とも言えるもので――。
「うむ……これならば……!」
ようやく、というか……。
余は、これまでよりも効果と実現性の両方が高そうな術式を数パターン、書き出すことが出来た。
だが……それでも、まだ雛形でしかない。
実際には、さらにこれらを綿密な計算の上に組み上げていかねばならず、それによって破綻が生じる可能性もあるわけだが……。
書き出している最中から、一種の手応えのようなものはあった。
恐らく、修正や調整の利かないほどの、壊滅的な破綻は出ないだろう。
ただ……それもあくまで、余が『理解・制御出来る範囲』においては、であり――。
「……やはり……足りぬ、か……」
余は一度ペンを置き……緑茶をすする。
そう――どうしても、今の知識だけでは、不確定な部分が生じてしまう。
足りないのだ……やはり、これを完全なものとするには。
アルタメアと異なる世界の魔法の知識――その深奥たるものが。
「……メガリア術法の、マーシア定式――」
以前、勇者から聞かされた、魔法世界メガリエントの、失われた奥義とでも呼ぶべき高度術式の話が思い浮かぶ。
その難解さゆえに時とともに失われ、勇者ですら、僅かな断片を学んだに過ぎなかったという、それを学べたならば――。
いや、学ばずとも……。
改めて、直に目の当たりにすることが出来るならば、あるいは――。
たった一度見ただけで、あらゆる魔法を本質まで理解する……そんなシュナーリアほどの才は無い余でも。
切っ掛けを掴み取ることだけなら、可能やも知れん――。
「と、なれば……サカン将軍、か――」
余は、緑茶をすすりつつ、網戸の向こうの澄み渡った夜空を見上げつつ……。
あの、かつて別世界の〈勇者〉であったという男と、再び相見えられぬものかと――そのようなことを願うのだった。




