第298話 疲れた彼女の帰り着く場所は
「あれ? っかしーな……なんでこうなるんだ?」
「あ、裕真くん、それ……そこのXの値、間違うてるよ。
そっちやなくて……こっち」
ウチの向かいで、ペンで頭を小突きながら首を傾げる裕真くん。
その解きかけの数学の問題を覗き込んで……ウチは、すぐに目に付いた間違いを指摘してあげる。
そもそもがうっかりミスみたいなもんやったから、特に説明するまでもなく、裕真くんもすぐに理解してくれた。
「え? あ〜……ホントだ。
さんきゅ、ンじゃ、もっかいやり直してみる」
「うん。解き方自体は間違ってへんから、これで大丈夫やと思うよ」
――ある意味昨日の約束通りに……ウチらは今、一緒に宿題を進めてた。
でも、場所は図書館とかやなくて、おばあちゃんの病室。
……昼間に、おキヌちゃんたちがお見舞いに来てくれて……でも帰ってもうてからは、やっぱりちょっと寂しい感じがしてたところに――。
ちょうどおキヌちゃんたちと入れ替わる形で、おうちから戻ってきてくれた裕真くんが……「昨日約束したんだし、宿題でもしよう」って提案してくれたから。
裕真くん、ウチが朝方家に帰ったとき……病室での息抜きになるかと思て、宿題持って来たんを知ってたから、わざわざそれに合わせてくれたんやろな……。
「そう言やさ……。
俺が初めてドクトルさんに会ったの、勉強会のときだったんだよなあ」
ウチが間違いを指摘した問題を解き終えた裕真くんが、折りたたみテーブルに頬杖を突いて。
ベッドで眠るおばあちゃんの方を見ながら……つぶやいた。
そう言えば……そう、やったっけ。
ほんの3ヶ月ぐらい前のことやのに……その短い間に色んなことがあったからかな、随分前のことみたいにも思える。
「そうやったね。
……あのときおばあちゃん、勉強会やのに、いきなり腕相撲大会とか言い出すから……」
その日のことを思い出すと……自然に、苦笑いが込み上げてきてた。
勉強会の途中に、息抜きで腕相撲大会とか……そんなん言い出すん、おばあちゃんぐらいのもんやろなあ……。
そんで、裕真くんも同じことを思い出したみたいで、やっぱり苦笑してた――でもちょっと、楽しそうに。
「あれって、ドクトルさんなりに、俺を試そうとしてたんだよなあ……」
「多分、それだけやないと思うけどね。
……おばあちゃんのことやし、どっちかって言うたら、『面白そうだから』の方が大きいんちゃうかなあ……」
「はは、ありそう。
……にしても、あんときゃ焦ったよな……。
ドクトルさん、優勝賞品が千紗の『恥ずかしい写真』なんて言うからさ……もうゼッタイ、イタダキたちに見せるわけにいかねーって、マジになっちまったし」
そう言って、恥ずかしそうにペンで頭を掻く裕真くん。
「あれはウチも、ホンマに何言うてんの、って思った……。
でも――でもな、あのとき、裕真くんがウチのこと想っておばあちゃんに意見してくれたん……すごい嬉しかったよ?」
ウチが、そのときのことを思い出しながら、笑いかけると……。
裕真くんはますます恥ずかしそうに、目を泳がせた。
「ま、まあ、そりゃあさ……!
やっぱり、ダメなことはちゃんとダメだって言わなきゃいけないと思うし……!」
「――うん。
おばあちゃんも、裕真くんのそういうところ、ホンマに気に入ってたもん」
今になっても恥ずかしがる裕真くんが、なんか可愛いなぁ……って思いながら。
ウチも、おばあちゃんの方に目を向ける。
……おばあちゃんが起きてたら、今、ウチのことをこうやって――ごく自然に、でもしっかりと、側で支えてくれてる裕真くんのことを……。
きっと、「見込んだ通り」――って、ますます気に入ってたんやろうなあ……。
「うん、ホンマに……ウチを好きになってくれたんが。
ウチが好きになったんが――。
……裕真くんで、良かった……」
「……千紗……」
思わず、気持ちが上擦って……。
ちょっと鼻をすすりあげて、ベソをかくみたいになってもうて……。
裕真くんが、それを心配してくれたみたいで……テーブルの上のウチの手に、自分の手を重ねてくれる。
その手は、おっきくて、あったかくて……ただそれだけで、じんわりと身体に安心が広がるのが分かった。
「……ゴメンな、なんかウチ……。
だいぶ落ち着いてきてると思っててんけど……」
「いいよ、大丈夫。
まだ昨日の今日なんだからさ、当たり前だよ。
……吐き出したい感情があったら、いつでも何でも、俺にぶつけてきてくれればいいから」
「でも……そんなん……」
「だってほら、俺って……体育祭以来、『勇者』だろ?
で、勇者なら、世界を救ったりもしなきゃいけないわけだし。
――それならまず……大好きな女の子をしっかり受け止めてあげるぐらい、ちゃんと出来なきゃいけないもんな?」
裕真くんはウチを、あの、強くて真っ直ぐな瞳でしっかりと見つめて――。
それからすぐ、大丈夫、って……朗らかに笑ってくれる。
『勇者』……うん……ホンマに。
裕真くんは、ウチにとっては――ホンマに、ホンマの勇者みたいやなあ……。
「……裕真くん」
思わずウチも……。
自分の手に重なった裕真くんの手に、もう一方の手を合わせて――。
……でも、ちょうどその瞬間。
「ゴメン千紗ちゃん、いいかなー?」
そんな呼びかけとともに、病室のドアがノックされて……。
「「 ――――っ!? 」」
ウチと裕真くんは、別に何や悪いことしてたわけでもないのに――。
同時に、反射的に……お互い素早く手を引っ込めていた。
「いやー、なんかその、ゴメンね〜……」
ノックの主……病室に来てくれた真里子さんが、気まずそうに頭を掻きながら、そう謝ってくれるのを、ウチはブンブン首と手を振って否定した。
ほぼ同時に、裕真くんも同じように。
「だだ、大丈夫です!
裕真くんとは、その、宿題してただけですからっ!」
「そ、そーだよ、別になんでもないっての!」
「うんうん、いいのいいの」
小さく手を振って、穏やかに笑う真里子さん。
……うう、なんか誤解されてそうやけど……。
「……まあ、それはともかくとして。
千紗ちゃん、これからのことなんだけど――」
「え? あ、はい……。
さすがに病院の迷惑にもなるし、昨夜みたいにずっとおばあちゃんに付いてるわけにもいきませんから……。
今日はもうちょっとしたら帰って、また明日の朝にでも来ようと思てます」
病室にかけられた時計を見上げて、ウチは答える。
さすがにそれぐらいは今のウチでも考えてたから、特に悩むまでもなく。
「そう、そのことなんだけどね……」
けど……真里子さんの答えは、「そう、分かった」みたいなものやなくて。
それどころか、表情を引き締め……ちょっと真面目な調子で、言葉を続ける。
「千紗ちゃんたちのおうち、この病院からちょっと遠いでしょう?
それに……ドクトルさんと2人で過ごしてきた家に1人ってさ、きっと、余計に――考えてるより、ずっと寂しく感じると思うの。
そこでね――」
「! 母さん、まさか――!」
話を遮って被せてきた裕真くんの、驚きに満ちた一言に――。
真里子さんは、ちらりとだけ視線を向けてから……ウチへ大きくうなずいて答える。
「ええ、そう。
だから――うちに来なさい、千紗ちゃん」
「え――?
……え、ええええっ!?」
完全に予想外のその提案に……ウチも、とにかく驚く。
「ま、真里子さん、でも……!」
けど……真里子さんは、ウチの反応なんか分かりきってたって言わんばかりに、動じる気配はまったくなく――話を続ける。
「そもそも千紗ちゃん、あなたは……百枝さんたちから聞いてるけど、おうちの仕事の一環で、どうしても広隅でしなきゃいけないことがあって――だからわざわざ、関西から1人で出て来たんでしょう?
そして、それほど大事なことなら、ドクトルさんが入院したからといって、完全に放っておけるものでもない……でしょう?」
「そ、それは……そう、ですけど……」
真里子さんの、迫力さえ感じる――そして真っ当な言葉の数々に、ウチは、うなずくしかない。
「なのに、その上、この状況だと必然的に一人暮らしになっちゃうのに、さらにドクトルさんにも付いててあげようとか……そんなの大変よ?
その点、うちにいれば……家事にせよ病院へ様子を見に来るにせよ、あたしたち一家が臨機応変に協力してあげられるわ」
真剣な様子で、そこまで言って……最後に真里子さんは小さく、イタズラっ子みたいな笑いを見せる。
「まあね、ついでに、ヒマがあったらちょこーっとでも、うちのこと手伝ってくれたりすると、それはそれで助かるなー、とも思うけど」
「いや、でも、母さん……っ!」
そこで、今度は裕真くんが戸惑ったような声を上げるも……。
真里子さんは、やっぱり動じることなく――冷たいジト目を向けるだけ。
「……なに?
裕真、アンタ千紗ちゃんがうちに来るのイヤだとか言わないわよね?
――それともまさか、よからぬことを考えてるんじゃ……」
「ンなわけねーだろ! そうじゃなくて――」
「そ。ならいいじゃない。
……と言うかね、千紗ちゃん。
あなたのことをご両親から頼まれた身としては、これぐらいはさせて欲しいのよ。
ドクトルさんのためにも――ね」
ウチの目を……裕真くんにも受け継がれてるのが分かる、あの強くて真っ直ぐな瞳で見据えて――真里子さんは、小さくうなずく。
「……真里子さん……」
「……と、まあ、それはそれで本心なんだけど。
実は――」
そこで急に……。
雰囲気を一転、真里子さんは――あはは、と、イタズラが見つかった子供みたいに表情を崩す。
そして――
「昼の間に、亜里奈とアガシーに指示して、半物置状態だった客間を使えるように掃除させちゃったから……。
もう事後承諾みたいなものって言うか、決定事項なんだけどね!」
茶目っ気たっぷりに、可愛らしく、ペロリと舌を出すのだった。




