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マグロ義務

作者: 空見タイガ

 献辞に目も止めなくなり、それすらも物語に組み込むようになったとき、私は大人になったのだと思った。「けんじって何?」あなたへ、あるいは、あなたに捧ぐ。丸まっていた彼の背がごろんと揺れて踏み込み板にぶつかった。膝を抱える両肘を捕まえた両手が、指先だけあそんで通行人の足音を刻んだ。踏み幅にすっぽりと収まり、向かいの住宅を睨みつけていた。「弟のために作られたごはんをすっかり平らげてしまう話?」私の足は二段下に投げられていた。腹と膝のあいだにたたんだジャケットを挟み込んで、左脇に置いた鞄が倒れないように手でときどき押さえていた。「だったら大人になるのってたいへんだね」弟がいるのか。目前の道を車が走った。夕食のにおいが漂いはじめ、濡れた背中から冷えるような風が吹いた。「ううん、弟はいないよ」マンションの住人が帰ってくる。私たちを不審そうに見下ろしつつも階段を上り、押しボタンを操作する。立ち上がろうとしたところで、少年に手を引っぱられた。交互に見やるうちに、住人の背が透明の自動扉に遮られる。「次、行こうよ」腰を落ちつけて、考える。たった四桁の数字を忘れて閉め出された人々に捧ぐ、物語はないものかと。


 学生時代に住んでいたマンションでは二つの鍵を持たされた。転勤するまでの社宅では特殊な形状の鍵で開けられた。ここに来てからというもの形を失った。共通する四桁の数字が鍵となり、人々の脳にすり込まれた。

「授業でえほんを作ってる」

 定時に退社して職場と部屋の間にあるコンビニエンスストアに寄って帰るころには決まって彼が座っている。

「ほんとうに、えほんみたいな紙でね。表紙がきちんと分厚くて、固い」

 話しながら少年はぶるぶると震えた。最近、日が暮れるのが早くなった。ぴたりとひっついてくる重みを、心地よく感じられる季節が近づいている。

「でも、そうやってきっちりしてあると、あんまりふざけられないから嫌だなあって」

 ふざけたいのか。彼は身を抱きしめるように膝を抱える。

「まじめに考えるとおかしいことってたくさんあるし」

 老婆がスーパーの袋を足に何度もぶつけながら重そうに歩いている。そのすぐそばで自転車がすれ違い、老婆の荷物が一度地につく。そして誰の支えもなしに彼女は袋を持ち上げてふたたび歩いて、視界から消える。

「だからね、ぼくがお話を書くときはたくさんふざけるようにしてる」

 何か書いているのか。小さな頭がわずかに上下する。

「日記帳に書いてる」

 答えにはならなくても、時折、答えになる。その瞬間を忘れられないでいられたら……しかし四桁も覚えられない人間が、はたしてそれよりさらに長く重いものを記憶していられるだろうか。

 よかったら読ませてほしい。マンションの住人が帰ってきて、私たちは立ち上がった。


 “海や川にいるどうぶつはいつも同じところにすんでいるとはかぎりません。つねに自分にとってよき環境に身をおくために、海のあちこち、川と海をめぐる努力家のどうぶつもいます。一方で、いつも同じ場所にすむどうぶつもいます。彼らはそこで暮らすことしか知りませんが、それでも幸せでした。ところが、よきせぬ海の流れが彼らを押し流して違う場所に連れていってしまうことがあるのです。”

 どこがふざけているのか、尋ねようとしたところで、私の顔をずっとのぞき込んでいたらしい少年に気づいた。

「面白くない?」

 まだ、物語は始まったばかりだ。汗を吸い込んで少ししわしわになったページをめくる。

 “このようなどうぶつは多くのばあい、もとの場所に帰ることはできません。そして環境の変化にたえられなくてハンショクすることなく死んでしまいます。しかし、ときどき違う環境でも生きのこるどうぶつもいます。彼もそうでした。絶対にここを離れるものかとちかった快適なおふとんからたたき出されて、道順を覚える間もなく、たくさんの流れと流れがぶつかって出来た大きな流れにのみこまれ、やっと落ちついたときには家族とも友だちとも別れて、たった一匹、ぽつんとそこにいたのです。彼は大声をあげました。「太陽さん、太陽さん。ここはどこなのですか」「大海原だよ」「違います、違います。ここはくわしくはどこなのですか」「どこを説明するにはどこ以外の場所がないといけません」彼は自分たちが今までどこで生きていたのか、ここはどこなのか、ここ以外はどこなのか、なにひとつわかりませんでした。太陽さんはやがて去ってゆきました。「月さん、月さん。わたしはここで生きてゆけるのでしょうか」「海はまだ干からびないよ」「違います、違います。季節がめぐっても生きてゆけるのか心配なのです」「あなたは何があれば生きてゆけるのですか」彼は自分たちが今までどうやって生きてきたのか、何がなければ生きてゆけないのか、なにひとつ知りませんでした。月さんはやがて去ってゆきました。「大きなサカナさん、大きなサカナさん。あなたはどこにゆき、どうやって生きるのですか」「泳げる場所にゆき、泳いで生きてゆくのだ」「違います、違います。わたしにはなにもわからないのです」「何が違う。泳がなければ息ができない。息ができなければ生きられない。生きられる場所で、生きるのだ」大きなサカナさんはやがて去ってゆきました。冷たい季節がやってきました。あたたかい季節がやってきました。彼はまだひとり、一匹でいました。ここに来たばかりのころ、彼はいつも不安でした。あのすばらしい場所から放り出されてしまった。かなしみにくれていました。いちばんの幸せを失ったように感じました。だからこそなおいっそう、あのとき過ごした日々を美しく思いました。しかし月日がたちました。彼は生き延びることができました。かなしみは枯れはてました。意外と心地もわるくないと知りました。あのとき過ごした日々は、色あせたように思われました。そう振り返られるのも、生きてきたからなのです。"

 少年のやわらかな首が伸びて、私の肩に彼のあごが当たった。「どうだった?」たしかに、ふざけた話だった。「違う話もあるよ」また次の機会に読ませてくれ。マンションから出ようとする住人を見つけて、私たちは走り出した。


 雨が降りそうだった。彼は震えながらノートを開こうとしたが、濡れるとよくないといって鞄に戻させた。

「読んでもらいたい話がたくさんあるのに」

 今では会うたびに彼の物語を読まされていた。“日記帳”に書かれた物語は、私と彼がすごす時間だけでは読み切れないほどの量になっており、一作一作にわずかなつながりが感じられた。いきなり繊細になる描写や露骨な題材に彼の一日を想像し、台詞のひとつひとつ、一行一行に彼の思想が流れていることを意識した。

 私は疲れていた。

 読んでもらえなくて垂れる頭を撫でていると、彼はおずおずと私の手をつかんで小声でたずねた。

「ぼくといっしょにいて、たのしい?」

 たのしい。

「どうして?」

 一緒にいることを納得させる物語を私はいくつか持っていた。ひとりで待っているのはさびしいから。ひとりだけ帰れないのはかなしいから。しかし、彼が聞いているのは消極的な理由ではなかった。

 きみの物語が好きだから。

 私の言葉に、少年はうなずいた。最初にこくんと、次にうんうんと。ぽつりと雨が手の甲にあたって、流れて、おちた。


 次に会ったとき、彼はすでに待っていた私の手に何度も折って固くなった小さい紙を押しつけて、そのまま段を進み、電気錠を解除してマンションに入っていった。

 消えた背中から目を離して、紙を開く。たくさんの折り目のついた、よれよれの手紙だった。

 “ぼくはうそをついていました。かぎを知っていたのに、家に早く帰るのがいやで、知らなかったふりをしました。お兄さんといっしょにいた日々はとてもたのしかったです。さいごに別れたとき、ぼくの書く物語が好きだと言ってくれましたね。あのとき、たぶんとてもうれしくて、帰ったあとすぐに日記帳をひらいて、お兄さんのために、けんじ、を書こうとしたのです。でも、だめでした。ぼくはあれから物語を書けなくなってしまったのです。なぜなのか、考えてみました。ぼくはずっとひとりで書いていました。自分のために書いていました。だれかにささげるために書いたことはありませんでした。だからだと思います。ぼくにはだれかにささげられるものが何一つない。それどころか、いやなんです。だれかのために書きたくない。ママはぼくの日記帳を知って「おまえは作家になるかもしれない」と言ったことがあります。ぼくはそのとき、絶対に作家にはならないと心のなかでつよくちかいました。むかし、ぼくは飼っていた金魚をどぶのような大きな川に流したこともあります。おそらく死んだでしょう。なのに、よいことをしたという気持ちが消えないのです。めちゃくちゃになってごめんなさい。ぼくが書きたかったのは、もうお兄さんといっしょにいられないということです。ほんとうに、ごめんなさい。あなたに何もささげられなくて、ごめんなさい”

 たった一桁でも間違えれば開かない鍵が、私と彼のあいだを阻む。

 あきらめて、すぐに答えを聞けばよかったかもしれない。忘れたことは咎められても、それはだれにでもありうることなのだから。

 彼の温度がなくなった、側面を擦る。

 きみのことが好きだから。

 伝えられなくて、ほんとうによかった。

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