ウィトゲンシュタインの信仰とドストエフスキーの幸福論
ウィトゲンシュタインの死の前に書いた著書「確実性の問題」は感動的な著作に思われる。…無論、この感動などというものをもっとも禁欲的に、秘教的な領域に追いやったウィトゲンシュタインという男の著作を「感動的」と言うにはそれなりの手続きが必要となる。ウィトゲンシュタインが「確実性の問題」で何を語ったのか、と問う場合、それを我々が理解する事の意味自体が問われる事となる。理解する、知るとは通常、我々が何かを得る事のように想起されるが、のめり込んでいくと、我々が土台としている立場自体が揺らぐという体験に変わっていく。ウィトゲンシュタインという哲学者は、特にそれが強く起こる哲学者であり、だからこそ、ウィトゲンシュタインという名前は世界的に有名なのにも関わらず、相変わらずウィトゲンシュタインが我々の目に覆い隠されているのはそういう理由があるからだと思う。(人は自分の土台を覆してまで、対象にのめり込みはしない)
「確実性の問題」では信じるという事についてよく言及されている。例としてあげる。
「分別のある人は、ある種のことは決して疑わないものだ。」
「私が知っていることはまた私の信じていることである。」
これだけ引用しても、意味不明であろうが、ウィトゲンシュタインが「信じ」ようとしている事は、霊魂の存在や神の存在ではなく、自分には二本の手があるか、というような基礎的な命題についてだ。
ウィトゲンシュタインはあまりにも普通の、基礎的な命題ーー例えば「明日、地球は存在するだろう」のようなーーを「信じよう」としている。これは普通の人々にとってはあまりにも当然の事で疑う事すらしない問題である。だからこそ、哲学者を変な人物と見る一般的な見方も成立する。
そして、ここでウィトゲンシュタインが言おうとしているのは、正にそんな風に、「明日、地球は存在するであろう」という事を疑わないという生き方が、『正しい』、いや、そのような基礎的な命題を信じる事から始めなければ、「疑う」という言語ゲームすら不可能になるという事である。
先日、読書会に行って、カフカの話をしたが、カフカの無限に掘り進めるような不安と疑いのゲームは、どこかで終わりがくる。それというのは、それを疑うと疑う事自体が不可能になるような場所というのがあって、そこにまで至ると、疑いは止むのである。ある意味では、デカルトが自分を内的に見つめ「我思う故に我あり」に到達したのに似ているが、ウィトゲンシュタインはより深い場所に到達した。
ウィトゲンシュタインの話はいくらでもできてしまうので、ドストエフスキーの幸福論に移る。ドストエフスキーは「人は自らを幸福と気付いていないから不幸なのだ」と言っている。これは言葉の取りようによっては浅くもなり、深くもなる。
僕はこう言いたいわけである。ウィトゲンシュタインが「信じる」といったあまりにも基礎的な命題は、我々の生活の根幹を形成しており、それゆえにそれを思考する事がなく、思考する意味もわからないほどのものである。ドストエフスキーが言わんといているのも同じ事だ。問題は我々が「幸福だ」と気付く事ができない事にあるのだが、それはあまりにも当たり前すぎて、気付く事ができない。『だから』我々は不幸である。
この両者の見解を捻じ曲げれば、容易く平凡な生活、普通の生活を送っている我々は素晴らしい!というテレビCMレベルの倫理に収斂されてしまう。僕の考えている事は、このような見解とは一線を画するというのは注意しておきたい。同様に、ドストエフスキー、ウィトゲンシュタインの二人もこのような平俗な見解とは違う見方をしていると思われる。
ドストエフスキーは、「人は自らを幸福であると知る事ができないから不幸だ」と言っている。この時、「知る」という言葉を使っているわけだが、僕はこう思う。自らが幸福であると認識している我、そのような形而上的な我というのは、我々が現に幸福である所、つまり、平凡な生活を送っている我とは違うものであると。つまり、人が幸福であると「知る」事ができるのは、その人が幸福ではない、幸福とはまるで真逆の自己を持っているからこそ可能であると。そう考えたい。
これと同じ事がウィトゲンシュタインにも当てはまる。ウィトゲンシュタインは僕らが全く疑わない、基礎的な命題について「信じる」と言う。彼がそれを信じる、信じる他ないのは、正に彼が当のそれではないからであり、彼があまりにも基礎的な事を見つめ、それを肯定できるのは、彼がそれとは全く違う形而上的な我を所有しているからである、と。
この考え方は非常にわかりにくいと思われるので、もう少しわかりやすく言おう。ドストエフスキーにしろ、ウィトゲンシュタインにしろ、彼らは大天才である。ドストエフスキーは文学そのもの、ウィトゲンシュタインは哲学そのものと言っていいほど、その領域に入り込んだ人だ。そしてそれは、我々普通の平凡人とは全く違う。
だが、彼らはそれゆえに、我々平凡人がいかなるものであるかを知ったのだ。目は自分自身を見る事はできない、という基本的な事を思い出そう。我々は、ドストエフスキーの定理によれば、幸福である。だが、我々は正にそれそのものであるがゆえに、それを「知る」事ができないのだ。ここで何が起こっているのか。
我々は平凡であり、幸福である。普通に生きている。しかし、それを認識する事ができないのは、我々が「幸福ではない我」を持てないからである。だから、幸福を認識するにはそれとは違う、疎外された領域を持たなければならない。ドストエフスキーもウィトゲンシュタインも共に、この領域から我々を見た。その時、我々の姿(自分自身の姿)が彼らの目に映った。この時、彼らは我々の中にあるなにものかを見たのだが、それ故に彼らは不幸であり、また同時に、幸福でもあった。彼らも生活者である以上、認識と行為が二重に織りなされているから、彼らも天才ではない自己を幸福と感じられもするのである。
彼らが、我々にとって逆説的と見える言葉を吐いた時、彼らの立っている位置が我々とは全然違うから、その言葉の意味がよくわからないのだ。「自分達が幸福である事を知らないから不幸だ」とドストエフスキーは言う。その時、彼はそれを知った者としての、言ってみれば、極限の不幸のみが、平凡な幸福を知る事ができたという場所にいた。極限の不幸とは何か。それは幸福でない事、言ってみれば「人間ではない事」である。彼は、「人間ではない」ような場所に立ったからこそ、「人間」の素晴らしさ、良さが垣間見えたのだった。
同様に、ウィトゲンシュタインが「信じる」と言う事が可能なのは、彼の懐疑、不幸、絶望がそこまで達したからなのだった。絶望があまりにも深く進んだ時、もうこれ以上に絶望できない、絶望それ自体が崩壊してしまう絶望というものがある。真理を知ろうとする事が真理という概念そのものを崩壊させるような場所。そこに至った時、その人間の絶望は止むのである。そしてそれは通常の言語では語り得ない。
ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの二人は、それぞれの道を辿ってそのような場所に到達した。彼らが見ている場所、立っている場所は、我々とは違う場所である。しかし、それゆえに我々がよく見える場所である。我々には彼らの天才性はよく見える。しかし、彼らがどんなヴィジョンを見たのかは見えない。だから、我々には我々自身が(それと同一である限りにおいて)見えない。
さて、この文章はここで終わるが、ここ最近に書いたいくつかのエッセイ・批評において、自分は自分がいかなる場所に立つべきか、どのような視点を持つべきかは明白になったと思う。その為にウィトゲンシュタインやドストエフスキーを駆り出してきたのだが、自分にとっての結論はよく見えるようになった。結論とか答えとかいうものを求めると、その道筋が無限に続く事が見える瞬間というのがあって、そこで人はこの道には「終わりがない」と認識する事になる。僕らが現に生きている事、それ自体が答えであるという答えは通常の、目的や夢を追う人には不満足なものだろうが、目的や夢という概念の先にはそのようなものがあるというのは、行く所まで行った人には見えるだろう。僕は自分なりにウィトゲンシュタインやドストエフスキーについて考えて、概ねの答えは出たかと思う。この答えを人がどう受け取るかは、僕の手を離れた答えとなる。