私が私にかえる場所
私に帰る場所なんてない。
それなのに結局ここに戻ってきてしまった。
高校を卒業を期に家族で東京に出たから、もうここには実家もないし、祖母が亡くなってからは、親戚の家に泊まっていても肩身が狭いというのに。
人間関係に疲れて、永年働いた会社も辞めてしまった。
真面目に働いていたはずなのに、会社は適当に最低限の仕事しかしない彼らの方を選んだ。
母はもともと自分のことしか見えておらず、父は血の繋がらない私に時々暴力を振るった。
そんな両親に頼ることも出来ず、私はひとり心を病んで引きこもっていた。
引きこもりの末、これではいけないと思い立ち、取り敢えずここまでやって来た。
どんなに長く都会で暮らそうとも、逃げ帰る場所はここなのだ。
何の特徴もないありふれた田舎町。
かといって本当の田舎と言うわけでもない。
駅前はそこそこ拓けていて、全国区のチェーン店もそこそこある。
そんな何処にでもある、時間が止まっているかのようなありふれた町だ。
それでも、私の住んでいた頃の町とは確実に変わっていた。
通っていた女子高はいつの間にか共学校になっていて、通い慣れた校舎も自慢だった制服も新しくなり、私達の通っていた頃の面影はない。
あの頃の事なんてなかったかのようだ。
それが少し嫌で、従姉妹から自転車を借りて町中をいろいろ廻ってみた。
私はこの町で普通免許を取得しなかった。もちろん東京に出てからも。
こんな田舎町で、いい歳をした大人が自転車で走り廻っていることに、正直笑えた。
いい大人どころか、もう33歳になる。何やってるの?私。
この町には城山と呼ばれる城跡があった。正確には城跡というより、石垣とお堀り跡しか残されていなくて、くねくねと登りづらい石段を登りきった先は、市内を見渡せる小さな公園になっていた。
古びた感じがいい雰囲気だったのに、今は石段も公園も綺麗に整備されているらしい。
『やっぱり15年も経つと、それなりに変わってしまうんだなぁ。頭の中の地図が全然役にたたないよ。淋しいけど仕方ないことだよね。あっ、そう言えば、あそこは今、どうなっているんだろう』
祖母の家の近くに、お堀り跡が残されていて、大部分は埋め立てられてしまったけど、一部は湿地のようになっていた。
住宅街の裏手が竹林になっていて、いろいろな植物が自然のままに生い茂り、お堀り跡の緑っぽい水に、空や雲が映ってすごく綺麗だった。何処か浮世離れした雰囲気があって、あの頃の私のお気に入りの場所だった。
『そうだ。行ってみよう。もう埋め立てられて宅地になっているかも知れないけど、とにかく行くだけ行ってみよう。どうせ、暇なんだし』
城山の方に向かって自転車を走らせると、晴れていた空がだんだん曇ってきた。
目的の場所に近付くけれど、周りは新しい住宅が続いているだけだ。
やっぱりもう残ってないのかも・・・
ガッカリしながら自転車を走らせていると、見覚えのある古い家の後ろに竹林が見えた。
『あっ、ここだ。まだ残ってたんだ』
嬉しくなって自転車の速度を上げる。
もうお昼はとっくに過ぎているのに、何故か早朝のようなひんやりした爽やかな空気を感じ、朝靄のように周りの景色が白く霞んできた。
『なに、なに。確かにこの辺は霧が出やすいけど、この時間帯でもそんなことってあるのかな。ちょっと気味が悪い。マジで周りが見えない』
私はライトをつけて、白い靄の中を懸命に自転車を走らせた。すると本当に急に、スポッという感じで靄を抜けた。
そこは私の記憶通りの場所だった。
さっきまでは、周りも見えないくらい靄っていたのに、今は青空に白い雲が浮かび、陽射しが眩しいくらい輝いていた。
竹林がさらさらと風に鳴り、チチチっと小鳥がのどかに鳴いている。
湿地には思ったよりも水があって、青空と白い雲を映して、水面がキラキラと光っていた。
キショウブの黄色い花色が鮮やかに映えて、水面近くを銀色のトンボがすいすい翔んでいた。
本当に不思議なほど記憶通りだった。
むしろ記憶よりも鮮やかに存在していた。
『こんなに残っているものなの?何だか夢の中にいるみたい』
「まあ、現実の世界ではないからな」
何処からか声がして、ちゃぽんと何かが跳ねたような水音がする。
「えっ?何いまの?誰かいるの?」
慌てて辺りを見回すけれど誰もいない。
思わず水辺に近づいて、腰を屈めて水面を覗きこむと波紋が拡がっている。
「何だったんだろう?もしかして幻聴?き、気のせいだよね」
「迂闊に水辺に近付いてはいけないな」
今度ははっきりと低い男の声が響いた。
「えっ!」
驚いて一歩下がろうとした時、突然ザバッと水面から白い腕が現れて、私の手首をぎゅっと掴むと、ぐいっと勢いをつけて水の中に引き込んだ。
『ぎゃ〜っ!何これ、怪物なの?それともお化け?』
掴んだ手の力は強く、驚いてもがく私を構うことなく、グイグイと水の中を引っ張って行く。
恐る恐る目を開けてみると、水の中は思ったよりもずっと深くて澄んでいた。とても湿地の水の中とは思えない。
『うっ、泥んこの中に落ちたと思ったのに。何なの、ここは?水深は池と言うより湖くらい深い。これってほんとにあの湿地なの?』
あまりにも非現実的な状態のせいで、妙に冷静に心の中で呟く。
緑の長い藻がゆらゆら揺れて、斜めに射し込む光がキラキラと輝いている。
何よりも不思議なのは、息をしなくても苦しくないってこと。
私の腕を引っ張る存在は、すぐそばで腕を掴んでいるのに、周りがキラキラと反射していて、その姿が全然わからない。
『やっぱりお化けなのかなあ。私、さらわれちゃってるの?でも、こんなおばさんさらってどうするの?食べられちゃうの?』だんだん不安になってきた。
『そんな訳あるか!私はお化けではないし、お前を食べるとかあり得ない。そもそも、お前があちらにいたくないと思ったのではないのか?』
憮然とした男の声が頭の中に響いた。
『えっ?やっぱりさっきの男の人の声だ。声に出してないのに返事した。やっぱり、お化けじゃないの?』何が何だかわからなくて困惑するばかりだ。
男の手を離そうと、手を引いて抵抗してみる。
『こらっ、暴れるな。ここは様々な世界に繋がっている。はぐれて迷子になったら帰れなくなるぞ』
彼の声にビクッと体が震えた。
もう大人しく彼に従うしかない。そうするより他に手だてがなかった。
透き通った水の中を、手を引かれて泳いで行く。
結構長く泳いでいるはずなのに、息をしてないのにやっぱり苦しくない。
息をしてないと言うよりも、水の中でも普通に呼吸できている、と言うのが正しいのかも知れない。
私の手を引いている存在は、相変わらずキラキラとした白い光に包まれていて、はっきりとした姿がわからない。ま、眩しい!
「私、カナヅチのはずなのになあ。何でこんな風に泳げているんだろう?」
泳いでいるのとは少し違うかも知れない。まるで水流に乗って導かれる様に進んで行く感じ。
しばらく進んで行くと、周りに白いゴツゴツした岩場が増えてきた。
まるで何かの遺跡のようだ。崩れかけた建物や彫刻された太い円柱の跡が点在している。
アーチになった大きな岩を潜り抜けると、急に水流が渦巻いて、上へ上へと登っていく。
『いつの間にこんなに深く潜っていたんだろう』
そう思うくらい水面は遠く、出口が小さく輝いていた。
ざぶんと水面に顔を出すと、そこは森の中の小さな泉だった。
泉は白っぽい岩で縁取られていて、その先はふかふかの草地になっていた。
森は大きな広葉樹がたくさん生えているのに、木の間隔が空いているせいか、陽射しが降り注いでいてとても明るかった。どこか神性を感じさせるほどの、張りつめた空気に包まれていた。
泉から上がって驚いた。
濡れていないのだ。髪も服も体も。
肩まで伸びた髪もお気に入りの水色のチェニックもジーンズも靴も、水の中に入る前と少しも変わっていない。
「ビックリした!何で濡れてないの?」
自分をここに連れてきた存在を探したが、近くには見当たらなかった。
さっきまで確かにいたのに。手首にはまだ掴まれた感触が残っている。
「探した方がいいのかな。それとも今のうちに逃げるべき?」
辺りを見回しながら、逃げるか声をかけるか迷っていると、「逃げるのは得策ではないと思うぞ」急に後ろから声をかけられた。
「えっ、何で?さっきまで誰もいなかったはずなのに」
慌てて振り向くと、白い人影がすぐそばに立っていた。
銀色の陽に輝く長い髪、顔も色白というよりは青白く、瞳は先ほどの泉のように蒼い。白くて長いローブのような服を着ていて、長身で細身、端整な顔立ちで表情のない、どことなく人間離れした雰囲気を醸し出している男だ。
雰囲気には圧倒されそうだが、見た感じは年下っぽいなと思う。
そして不思議なことに彼もやっぱり濡れていないのだ。
『えっと、どこの国の人?それともやっぱりお化けなの?』
「ふっ、まだそんなことを言っているのか」
男は少し呆れたように呟く。
「お化けなどではない。私は龍神だ。名は青と言う。今は人の姿を取っているがな」
「りゅ、龍神・・・?」
「信じられないか?」
「普通そんなこと信じられないんじゃ・・・でも、やっぱり人間じゃないじゃないですか。まあ、そう考えれば納得出来ることもありますけど。そうなると、これは夢なんじゃないかなって気持ちになります」
正直にそう告げると、龍神と名乗った男がじっと私を見つめてくる。何だかすごく居心地が悪い。
「お前、名前は?」
「私ですか?わ、私は碧といいます。竹内碧です」
「では碧。聞くが、お前は子供の頃からずっと、今とは違う場所に行きたいと願っていたのではないのか?」
「えっ?」驚いた。それは、子供の頃から自分の居場所を見付けられずに、苦しんでいた私の願い。
親に愛されず、人との関わりも器用にこなせず、心のずっとずっと奥の方に隠していた私の願いだった。
「何故それを・・・」
初めて男の深く澄んだ蒼い瞳を見つめた。
「お前は小さい頃から、あの場所に何時間も座って、ただひたすら水面を見つめていた。どこか違う世界へ行きたいと、泣いていたこともあった。私はそんなお前をずっと見ていたのだ。そして今日、久し振りにお前を見かけ、お前の目を見てわかった。お前が今もまだ、違う世界を求め、自分の居場所を探していることに」
子供の頃って、そんな昔から?誰も見ていないと思ってたのに。
今更ながら恥ずかしくて、龍神の何処までも澄んだ瞳を、真っ直ぐに見つめ返すことができない。
「今この瞬間、あの場所に辿り着けるのは、お前のように他の世界を求めているものだけなのだ。あの場所は、実際にはもうないのだからな」
龍神は私の頭に手を置くと、ポンポンと優しく叩いた。幼い子供にするような仕草だった。
「お前は自分の世界に居場所を見出だせなかった。違う世界を求めていた。それならば、ここにいるがいい。ここは私の世界だ。私の結界の中の森だ。お前を傷付けるものは何もない」
龍神は俯いた私の瞳を覗き込む。
それは私がずっと言って欲しかった言葉だった。涙が出そうなほど嬉しかった。でも・・・
「でも、そんなに簡単に言わないで!」
考えれば考えるほど混乱して、私は龍神から逃げ出した。後ろを振り向かず、この見知らぬ森の中をひたすら走った。
ずっとずっと何処かに居場所が欲しかった。
ここにいていいと言って欲しかった。
でもそれは、こんなに急に、こんなに簡単に、誰かに与えられていいものだろうか。
あの龍神を信じていいんだろうか。
私は膝がガクガクするまで、森の中を夢中で走った。
こんなに走ったのは久し振りだった。
龍神が後を追ってくる気配はなかった。
はあ、これってほんとに夢じゃないのかな。逃げてしまって、ほんとに良かったの?
ため息をつきながら、目の前にある苔むした倒木に思わず腰を下ろした。
汗ばんだ体に涼やかな空気が気持ちよく感じる。
さっきまで、痛いくらいの静寂を感じていたのに、耳をすますと色々な種類の小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
この森、普通の森みたいに動物も住んでいたりするのかな。
あの人、どうやって私にここで暮らしていけって言うんだろう。こんな何もない所で。
あ、人じゃないからわからないのかな。よりによって龍神だなんて現実味なさずぎだよ。
よくわからない『龍神』と言う存在に、思わず文句を言ってしまう。
「ん?」足元に気配を感じで下を見ると、茶色くてふわふわしたウサギが、口元をむぐむぐさせながら、私の方を見ていた。
「か、可愛い。ふわふわだ〜」
思わず膝の上に抱き上げた。
「すごく人に慣れているのね。それとも人間に会ったことがないの?何もしないから逃げないでね」
ウサギが膝の上で大人しくしているので、思う存分ふわふわを堪能した。
しばらくウサギを撫でていると、少し気持ちが落ち着いてきた。
『あれ〜、青様の匂いがする〜』
ウサギが膝の上に立ち上がって、顔を上に向けると鼻をすんすんさせた。
「えっ?今、この子が喋ったの?」
ウサギを目の高さまで持ち上げてじっと見る。
『え〜っ、ここの動物はみんな喋るよ〜』
「ウサギさん、それほんとう?」
ウサギは可愛い見た目に合わない、ちょっとバカにしたような目付きで言った。
『だって〜、僕の声、聞こえてるんでしょう?それから〜、僕のことをウサギさん、なんて~呼ばないでくれるかな。ちゃんとリーヤって名前があるんだからね~』
ウサギが私の手の中でじたばたしたので、仕方なく膝の上に戻した。
「リーヤは龍神のこと知ってるの?」
優しく頭を撫でながら問いかけると、『青様は〜この森の主なんだから、龍神なんて呼んじゃダメだよ~。龍神様とか青様とか、尊敬を込めて呼ばなくちゃね~』とたしなめられてしまった。
「あ、ごめんね。そうだよね。失礼だよね」
私はこの状況に焦ってしまったけど、素直に謝った。
『ところでさぁ〜、君は誰なの?みんな興味津々なんだよね〜』
「えっ?私?」
驚いて顔を上げると、周りの繁みからたくさんの動物たちが私の様子をうかがっている。
私と目が合うと、ビクッとして繁みに隠れてしまう子もいるけど、おっかなびっくり近寄ってくる子もいる。
その中でも1匹のリスが、チョロチョロと私に近付いて来て、ピョンと膝に跳び乗ると肩まで駆け上がった。
『ねえ、リーヤ。この娘、安全みたいだね』
『そりゃ〜ね。青様が連れてきたんだから〜、大丈夫なんじゃない?』
リーヤは「ねッ」と言う感じで私を見た。
私は警戒させないように微笑みながら頷いた。
「私は碧って言うの。あなたは?」
肩の上のリスに問いかけると、『俺?俺はチム。青様に名前をつけて貰ったんだよ』と少し得意気に答えた。
「あの。青様って、どんな方なのかしら?」
恐る恐る尋ねると、『『どんなって・・・』』と、リーヤとチムは顔を見合せる。
『碧、青様がどんな人か知らないで付いてきちゃったの?』
「う〜ん、普通そう思うよね」と心の中で呟いた。
「え〜とね。気が付いた時には、ここに連れて来られてたの」
『それって〜、青様が碧のことを〜無理に連れて来ちゃったってこと?』
「そうなの!いきなりだったから、すごくびっくりしちゃった。それに、とっても怖かったんだよ」
『え〜っ、何か〜信じられないよ〜』
『うん。俺も。だって青様はこの森の主だけど、俺たちが嫌なことなんてしないからさ 』
リーヤとチムが首を振りながら否定する。
その時、急に背後から声が掛けられた。
「怖かったのか?」
低くくてよく通る龍神の声だった。
驚いて反射的に立ち上がってしまったので、リーヤとチムを振り落としてしまった。
綺麗に着地したふたりを、慌てて抱き上げようとしたけれど、ふたりとも嬉しそうに龍神の足元に駆け寄って行ってしまった。
「怖がらせてしまったのなら、申し訳なかった。だが、取り敢えず逃げないでくれ。話がしたい」
龍神はふたりを抱き上げると、私が座っていた倒木に腰を掛けて、私にも座るように促した。
私は龍神と少し間を開けて、遠慮がちに腰を下ろした。
何だかすごいオーラを感じてしまって、近付きづらいし、先ほど逃げてしまったこともあって、目を合わせることもできずに俯いた。
「私はお前が、あちらに居場所がないのだと思った。だから、ここに連れて来たのだが、それは間違いだったのか?お前は、あちらに戻りたいか?」
龍神が静かな声で話しかけてきた。
私はどう返事をしたらいいかわからなくて、困ってしまい、ますます俯いた。
「碧?」
龍神に優しく促されて、おずおずと口を開く。
「じ、自分の居場所がなかったのも、何処か違う世界へ行きたかったこともほんとです。でも・・・」
口ごもる私に「でも?」と、龍神が問いかける。
「でも、あまりにも突然だったから・・・私、あなたのこと、龍神様のこと、全然知らなかったし、急に水の中に引き込まれて、やっぱりすごく怖かったです」
辿々しく言葉を紡ぐ私に、龍神は少し顔をしかめた。
「そうだな。すまなかった」
龍神が私の方を向きなおって、急に私の手を取った。
突然の龍神の行動にびっくりして、私は体が固まってしまった。
龍神の手は大きくて、思った以上にひんやりとしていた。
「私にとってお前は、昔から見守っていた子供の様なもので、まさか怖がられるとは思わなかったのだ」
龍神が少し気まずそうに告げた。
「わ、私は龍神様の存在を知りませんでしたし、今までお姿を拝見したこともないかと・・・」
すると思わぬ所から援護の声が上がった。
『それは〜、青様が悪いよね〜』
『うん。碧がビックリしちゃうのも無理ないと思うな』
リーヤとチムが、龍神の膝の上からのんびりした声を上げる。
「お前たち・・・」
青様が渋い顔で膝の上のふたりを見る。
私は何だか微笑ましい気持ちになった。
思ったよりこの龍神様は怖くないのかも知れない。
「それで、碧はどうしたいのだ?やはり戻りたいか?」
青様は心配そうに問いかける。
私は自分の気持ちがわからなくなっていた。
「確かに、何処か違う世界へ行きたいって、ずっと思っていましたし、実際に今は居場所がなくて困っていました。ここにいてもいいって言っていただけたことは、ほんとうに嬉しかったです。でも、こんな風に簡単に逃げてしまっていいのかなっとも思うんです。このまま龍神様の好意に甘えてしまっていいのかなって・・・」
自分の気持ちが上手く言葉に出来なくて、龍神の真っ直ぐな視線と、握られた手が何となく落ち着かない。
すると突然、龍神が話題を変えた。
「碧、私のことは青と呼んでくれないか」
「えっ?」思わず顔を上げると、龍神と目があってしまった。
「龍神様ではなく、青と呼んで欲しい」
真剣な龍神の眼差しに、何故かドキドキしてしまう。
「せ、青様?ですか?」
「そうだ」ふっと青様が柔らかく微笑んだ。
『え〜っ!青様が笑った〜!』
『ほ、ほんとだ!俺、初めて見た!』とリーヤとチムが、嬉しそうにピョンピョン跳び跳ねた。
『えっ?そうなの?』
ふたりの方を見ると何度も頷く。
確かに今まで青様は少し無表情だった。表情よりも、視線や声の感じで語るというか。
青様はちょっぴり興奮状態のふたりを見て「そんなことはないと思うが・・・」と、ため息をつきながら私の手を離し、リーヤとチムの頭を撫でた。
そんな青様を見ながら思いきって尋ねてみた。
「青様。ここに私が残ったとして、森でちゃんと暮らしていけるものでしょうか?人間には暮らすために必要なものが色々ありますし。それにここにいて、何か私にお役にたてることがあるのかと思って。青様のお情けでおいてもらうのは嫌なんです」
私がしょんぼりしているのを見て、青様はまたポンポンと私の頭を優しく叩いて「大丈夫だ」と言った。
「もうずいぶん昔になるが、この森で人間が暮らしていたこともある。住む所もあるし、食料は森の精や動物たちがわけてくれるはずだ。必要な品物があれば、私が『泉の路』を通って調達しよう」
「『泉の路』って私が通ってきたとこですか?」
「そうだ。碧の世界に通じてる水路以外に、幾つもの水路が繋がっているのだ。大きなバザールが立つ広場や、高原の牧場、様々な鉱脈を持つ鉱山、海の近くの洞窟にも繋がっている。色々な泉の出口に私の結界があるのだ」
「凄いですね」私は目を輝かせた。その不思議さにワクワクした。
「それに、碧にして欲しいこともある」
「何ですか?私に出来るでしょうか?」私は身を乗り出して聞いた。
「碧にしか出来ないことだ」
「私にしか・・・」そう思うと嬉しくなってしまった。
「私や動物たちの話し相手になって欲しい。私は人間と話すと言うことがほとんどないし、森の動物たちもお前に興味津々のようだからな」
『そうそう、僕たち〜碧に興味津々なんだよね〜』
『もちろん、他の子たちもだよ』
リーヤが私の膝に跳び移って甘えてきた。私の手に鼻先をすりすりするのが、可愛くて仕方がない。
もちろん他の子たちとも仲良くなりたい。
ここはもふもふ天国だ。しかも喋る!
「取り敢えず、住む場所を見てみないか。ここでの暮らしが無理だと思ったら、必ず私が碧のいた世界まで送っていくから」と、青様が立ち上がった。
ふたりがチョロチョロと青様の後を追うので、私も慌てて追いかけた。
青様が振り返りながらふっと表情を緩めた。
「碧、慌てると転ぶぞ」
「私、もう子供じゃありません」
むしろ、もうおばさんなんだってば〜っ!と、心の中で突っ込む。
「そうか。人の子と言うのは、あまりにも早く大きくなってしまうものなのだな」
その表情は慈しみに満ちているが、ぷんぷんしている私は気が付かずに軽く睨む。
「青様こそおいくつ何ですか?」
「そうだな」と少し考えて、「人間的には千年は越えているが、龍神としてはまだ若い方だな」
青様は何でもないことのように答えるが、私は目を白黒させて呟いた。
「せ、千年・・・」
う〜っ!確かに私なんかひよっこで~す!生意気言ってすみませんでしたあ、と心の中で絶叫した。
青様は森の中を迷いない足どりで進んでいく。
近くの繁みから、相変わらずたくさんの動物たちが私たちを覗いている。
ほんとうに興味津々みたいだ。
いったいどんなお家なのかな。昔住んでいた人がいたってことは、今は結構ボロボロなのかも。ドキドキしながら、青様の後に付いて行く。
青様が「ここだよ」っと振り向いた場所は、広場のように拓けた草地の、周りの木よりも一際大きい樹の前だった。
「ここですか?」
周りをキョロキョロと見回してみても、家と呼べるようなものはない。
「えっと・・・」私が戸惑っていると、「こっちだ」青様が大きな樹の向こう側へ手を引いた。
大人が3、4人で抱えるほど、ほんとうに大きな樹だ。思わず見上げてしまう。
回り込んでみると、樹の反対側には大きな虚が空いていて、何故かそこには扉が取り付けてある。側に窓らしき開口部もある。
「ま、まさかここですか?」
「そうだ」と言って青様が扉を開けた。
私は後ろから覗き込みながら、「いくら大きな樹の中だとしても、これじゃぁ立って寝ないといけないくらい狭いんじゃ」と不安を口にする。
もう、もとの住人は小人さんだったんじゃないの?と口の中でぶつくさ言っていると、青様がどんどん奥に進んでいく。
「えっ?何で?」と思った時には、中の空間がぐぐっと拡がって、心地よさそうな部屋が現れた。
「ま、魔法?」
私が呆然と呟くと、「私の結界術の一種だが、まあ魔法と思ってもらってもいいかも知れないな」
青様が何でもないことのように言う。
扉を入った所は、居間のような作りになっていて、座り心地がよさそうなゴブラン織りのソフアと、どっしりとした使い込まれたテーブルと椅子が中央に置かれていた。
床には暖かみのある丸い手編みの敷物が敷かれている。
壁の片面は、いろいろな本がぎっしりと並んだ本棚と、ガラス瓶に入った木の実やジャム、その他よくわからないものが並んだ棚になっていた。
もう片面は壁に沿った木の階段になっていて、どうやら2階があるらしい。驚きの一言だ。
「奥に台所があって、2階が寝室になっているらしい」
青様の説明を聞いても、私は状況についていけなくて、ぽか〜んとしまっていた。
「着替えや寝具、リネンは、取り敢えずあるものを使ってくれ。食事もしばらくは森の精に頼んである」
「待ってください。そんな風に迷惑を掛けてしまうのは私・・・」
戸惑って首を振ると、青様は私に向き合ってゆっくりと頷いた。
「取り敢えずの間だ。落ち着いたら碧が自分でやらないといけない」
「はい。それはもちろんです」
結局、今のところ自分では何もできないのだから納得するしかない。
それに私にはもう1つ、気になるワードがあった。
「あの〜青様。『森の精』って?この森には精霊か妖精が存在するんですか?動物たちと同じように意思の疏通は取れますか?」
森の精にお世話になってしまうなんてちょっと、いやかなり心配だ。
「ああ、紹介がまだだったな」
青様がいったん外へ出て、私を手招きした。
入り口の前に立っていると、向こうから誰かが全速力で走ってきた。
『青様〜っ!』嬉しそうに手を振って、何故か頭にフクロウを乗せて走ってくる。
薄緑色の柔らかそうな髪に、オリーブ色の上着とズボン姿の可愛らしい男の子が、ニコニコしながら青様の前まで駆けてきた。
雰囲気は小学校高学年くらいに見える。『森の精』相手に人間と比較するのも変だけど。
『青様〜っ!お久し振りです。クロウ様から伝言を受け取って、お部屋はキチンと整えておきました。ご安心ください』と、頭を下げて挨拶をした。
「ああ、リン。急にすまなかったな」
『ほんに、ここを使うなど何十年ぶりのことで、慌ててしまいましたぞ』
リンの頭の上のフクロウが、ちょっと不満げに羽をバタつかせた。
「それはすまなかった。クロウ」
青様はフクロウに向かってちょっと苦笑した。
クロウは満足げに頷くと、碧の方に向き直った。
『では、この方が・・・』
「ああ、碧と言う。これから面倒をかけるが、よろしく頼む」
「よ、よろしくお願いします」
私は慌てて頭を下げた。
「こちらがクロウ。『森の賢者』だ。困ったことがあったら何でも相談するといい。そしてこの子が森の精のリンだ。リンの一家に碧の世話を頼んだから、これから仲好くやって欲しい」
「クロウ様、お世話になります。なるべく早く慣れるように努力しますので、それまでよろしくお願いします。リンくんにもお世話になります。ご家族の皆さんにも、よろしくお伝えください」
私はもう1度深く頭を下げた。
クロウは『ウムっ』と頷いて、周りを見回すと後ろの大きな樹の枝に飛び移った。
『何かあったら、いつでも声をかけてくだされ』
クロウ様、しばらくここで見守ってくれるのかな。
『遠慮しないで、何でも言ってくださいね』
ちょっと照れたようにもじもじするリンくんが可愛い。
『お食事は後で運んできます。何か苦手な食べ物はありませんか?基本、森の中のものと、僕たちが家で作ってるものしかないんですが』
「好き嫌いはないので大丈夫です」
『よかった』リンは明らかにホッとしたように呟くと、今度は青様に尋ねた。
『青様は今日のお食事はどういたしますか?碧様とご一緒に召しあがりますか?』
「ああ、そうだな。そうしてくれるとありがたい」と青様が頷くと、『では、準備して参りますので、しばらくお待ちください』
リンはそう言って、また全速力で帰っていった。
『リンは〜、ちょっと落ち着きがないよな〜』
リーヤが青様の足元で耳をピクピクさせた。
『俺はクロウ様が近くにいて緊張する。そろそろ家に戻って食事にしようよ。もうすぐ日が落ちるよ』
チムの言うとおり、木々の間から見える空が、だんだんオレンジ色に変わってきた。
「貴方たちのお家はここの近く?」
今日初めて出来た友達に確かめてみた。
『うん。わりと近くだから〜また遊びにくるね〜』
『何なら朝、起こしに来てやってもいいぞ。なあ、リーヤ』
『『じゃあ、またなぁ』』そう言いながら、嬉しそうにふたりでピョンピョン走っていった。
「ずいぶん仲好くなったのだな」
「最初に声をかけて貰ったからかも知れませんね」
振り返ると青様が少し目を細めて見つめていた。
あ、もしかしたら私たち、2人きりになっちゃったの?何だか急にドキドキしてしまう。
「今のうちに、ゆっくり部屋の中を見ておいた方がいいのではないか?」
そう言って青様が扉を開けたので、一緒に中に入る。
わかっていても、この入り口と部屋のギャップには当分慣れそうもない。
中にはいつの間にか灯りが点いていた。
天井と壁に埋め込まれている水晶のような鉱物が、暗くなると点灯するようだ。
何て便利なんだろう。これってやっぱり魔法じゃないの?と心の中で突っ込む。
「水は近くの小川から引いているようだな。源泉はあの泉だから安心だ。台所もキチンと片付いているようだ。竈でこの固形燃料を燃やしておけば、いつでも煮炊き出来るようになっている」
青様がいろいろと家の中を見回って教えてくれる。
「青様は人間の暮らしにお詳しいんですね。普段でも人の姿で暮らしていらっしゃるの?」
私も戸棚とかいろいろチェックしながら話しかけた。
「必要に応じて人型を取ることがあるが、本来は龍神として、龍の姿で水の中で暮らしている。お前と一緒にいるには少々大き過ぎる。今はこの姿の方がいいだろう」
ふっと笑って青様は自分の姿を見下ろした。
本来の姿ではなくても、今の青様は素敵だと思う。そう考えてしまって、少し落ち着かない気持ちになった。
そうだ。お茶くらい入れよう。
テーブルにお茶セットが用意されてるのに気がついて、台所のケトルを使ってお湯を沸かす。
「じゃあ、青様のお家はあの泉なんですか?」
「まあ、あの泉は広いからな。それの何処かは秘密だ」青様は意味深に呟くと、わずかに綺麗な顔を歪めた。
「私には守らなければならない場所が多い。敵もいる。だから常にこの森にいる訳ではない。それに龍神は眠るところをだれにも見せないものだ」
「青様はずっとここにいらっしゃる訳じゃないんですね」
私が心細い顔をしていたのか、青様がそばに来て、優しく頭を撫でてくれた。
「お前が慣れるまでは、しばらくここにいる。大丈夫だ」
それがすごく嬉しかった。心細いのかな、私。
用意されていた茶葉はハーブティーだった。カモミールに近い落ち着く香りがする。
「よかったら、お茶をどうぞ」青様にカップを差し出した。
「ああ、ありがとう」
二人でテーブルに着いてお茶を飲む。
「いい香りだな」
「青様は、いつも食事はどうしてますか?やっぱり森の精にお願いしてるんですか?」
もし生活に慣れてきたら、私が作ったりできないかと思って聞いてみた。
自炊をしていたので、材料さえ揃えばわりと作れると思う。
「私は自然から得るエネルギーだけで生きられるから、必ずしも食事は必要としない。食べれば、美味しいと感じることもあるが、あまり率先して取ることはないな」
「そうですか・・・」
私はガッカリして力なく呟いた。
「ん?どうした?」と青様が私の顔を覗き込んだ。
「もちろん、しばらくは一緒に食事をしよう。心配するな」
ガッカリした私を見て、青様がそう言ってくれた時、扉がノックされた。
「はい」私が慌てて扉を開けると、リンくんともうひとり女の子の森の精が立っていた。
『お待たせしました。これは僕の妹のミーです。ひとりだと持ちきれなかったので連れてきました』
『ミーです。青様、碧様、よろしくお願いします』
リンに似た可愛い女の子だ。薄緑色の髪の毛を肩まで垂らして、オリーブ色のエプロンドレスを着ている。
「あ、碧です。こちらこそよろしくお願いします。あとよかったら、碧って呼んでくれませんか。『様付け』は落ち着かない気持ちになるので」
私がそう言うと、二人は青様の方を伺うように見た。
「碧がそう言っているのだからいいだろう。むしろこちらが世話になる訳だし、気にするな」
『はい。わかりました』
二人は頷くと、トレイを持って部屋に入ってきた。
私たちの前に料理を並べて料理の説明をした。
『今日はカボチャのスープと、青菜のサラダ、川魚のフライ、トウモロコシのパン、デザートはりんごの甘煮です』
食材は普通なんだなっと、リンの説明を聞いて安心した。
『では、ごゆっくりお召し上がりください』と二人は頭を下げて帰っていった。
「私のいた世界と食材も違わないみたいで安心しました。料理方法も変わらないんですね。よかった」
「そうだな。森の精たちは畑も作ってるし、わりと自給自足の生活をしているからな。慣れてきたら、碧もできるだけ自分で食材を揃えて欲しい。もちろん私も協力するから安心してくれ。そう言う生活自体を楽しんでくれたら、私も嬉しい」
「はい。もちろんです」
「じゃあ、いただこう」
「いただきます」
私たちは静かに食事を始めた。
食事はとても素朴な味わいで美味しかった。
川魚は鱒に近い味がしたし、青菜と言うのはルッコラやセロリに似ていた。
何と言っても、りんごの甘煮が疲れた心と体を癒してくれた。
あ〜スイーツ最高!
「すごく美味しかったです。特にこのりんごの甘煮が甘酸っぱくて最高です。やっぱりデザートには、酸味のあるりんごが合いますね」
私が頬っぺをおさえながら言うと、青様が嬉しそうに笑った。
「それはよかった。やっぱりお前は笑っていた方がいいな」
あまりにも優しい言い方にドキドキしてしまう。
青様、貴方もねっと心の中で突っ込む。
ほんとうにもっと笑ってくれればいいのに。そしたら森の動物たちも驚くし、大喜びすると思うのに。
「もうお腹いっぱいです。ご馳走さまでした。お茶のおかわりはいかがですか?」
「ありがとう。いただくよ」
青様が空いたティーカップを差し出した。
「久し振りに食事を取ったが、食べると言うことも、たまにはいいものだな」
そう言って、ゆっくりと食後のお茶を口にする。
「そうですよ。私は美味しいものを食べると、それだけで『幸せ!』って感じるんです。またお食事、ご一緒できたら嬉しいです」私は思わず身を乗り出して言った。
「ああ、そうしよう。お前もひとりより二人の方がいいだろう」
青様が同意してくれたので、やった〜!っと心の中で叫んだ。
その後、食器を洗ってトレイに戻すと、階段を上がって2階の探索をした。
青様は階下で、本棚の本をいろいろ調べている。
2階は想像通り寝室になっていて、ベッドとクローゼットと、小さな書き物机があった。
ベッドに掛けられたパッチワークのカバーの、少し古くなった感じがいい味わいになっていて、全体的に可愛らしい雰囲気を醸し出していた。
書き物机の側の丸い窓には、ガラスが入っていないけど、変なものが入って来ないのかな。
少し心配だけど、青様の結界の中だから大丈夫なのかも知れない。
クローゼットにはリネンのナイトウェアやエプロン、ゆったりとしたシルエットのワンピースが掛けられていた。丈も足首くらいまであるので、私が着ても大丈夫そうだ。引き出しの中には新しい下着も入っていて、私はホッと胸を撫で下ろす。
どんな人が住んでいたんだろう。
一通り探索を終えて階下に戻ってみると、青様が本棚から何冊かの本を取り出して、テーブルに積み上げていた。
「ここに英語で書かれた本を何冊か出しておいた。こっちは英和辞典のようなものだから、役に立つと思うぞ」と、1冊の本を手にしながら私の方を振り返った。
「青様ったら、どんだけ人間の世界に詳しいんですか!しかも私の住んでた日本のことも詳しいんですね。『英和辞典』て凄すぎです!」
私が思わず素の自分になって叫ぶと、「まあ、私は長く生きているからな」と、普通に返された。
「お前の国の歴史なら、きっとお前より詳しいはずだ。実際に見てきたからな」
「それは、確かに・・・」悔しくて口をもごもごさせてると、また近寄ってきて頭を撫でる。
青様、スキンシップ多過ぎです!
私がドキドキする心臓を宥めていると、「この家の物にはだいたいラベルが貼ってある」
今度は棚のガラス瓶を手に取って、青様が指摘する。
「ラベルは英語で書かれている。英語がわかれば中身がわかるはずだ。ここに人がいなくなった後、『時止めの結界』を張っていたから、物が劣化していることはないはずだ。問題なく使用できると思うが、中身がわからないものは決して使わないこと。わかったな」
『時止めの結界』って。凄すぎる!だからこの家、ずっと使ってないのに綺麗なんだ!思わず納得。
「わかりました。他に何か注意することはありますか?」
「少しずつでもここの本を読んでおくと、ここでの暮らしに参考になると思う。焦ることはない。少しずつだ」
青様はまた私の頭を撫でると、少し屈んで瞳を覗き込む。
「では、そろそろ私は帰ろう。ゆっくり休みなさい」
「えっ?帰っちゃうんですか?」
私はめちゃめちゃ心細くなって、思わず青様の袖にしがみついた。
「大丈夫だ。ここは私の結界の中。何かあればすぐに飛んで来る」
「は、はい。お休みなさい」
私が小さな声で言うと、青様はゆっくりと出ていった。
何処かで『ホー、ホー』とフクロウが鳴いている。クロウ様だろうか?
自分の世界では、独りぼっちに慣れきっていたけど、ここで青様の存在を知って、動物たちやリンくんたちと知り合って、何だか急にひとりが淋しくなってしまった。
「もう、寝てしまおう」私は早目にベッドに入った。
次の日から私は、英和辞典を頼りに家にあるラベルのチェックをしたり、本を読んだり、森の中を散策したりして、少しずつこの世界に慣れていった。
リーヤたちもリンくんたちも、ひとりで暮らしている私に優しくしてくれる。
ここの暮らしは穏やかでホッとする。
青様も昼と夜の食事を共にしてくれた。
私もこの森のやり方をリンたちに習って、少しは料理ができるようになった。
今日も朝起きると、普段着にしているワンピースに着替え、エプロンをつけて階下に降りるとお茶の準備をした。
ガラス瓶のラベルをチェックしていて、紅茶を何種類か見付けていた。ハチミツも種類が豊富で、いろいろ重宝している。
ほんとうに、ここにはどんな人が住んでたんだろう。女の人っていうのはわかるけど。不思議だなあ。
ガラス瓶の中身が特殊過ぎる。
もちろん、紅茶やハチミツなんかの食材も多いけど、ハーブや漢方薬ぽいものや、鉱物とか、普段家庭で使わなそうな物もいろいろあって、ほんとうに不思議。まるで魔女の隠れ家みたい。
その他、布とかレースとか、いろいろな色の刺繍糸とか、天然石のビーズや染料、エッセンシャルオイルなんかもあって、もともとハンドメイド好きの私は小躍りして喜んだ。
ここでなら退屈しないですみそうだ。
いい香りのするお茶と、きのう焼いたクッキーをのんびり味わっていたら、小さなノックの音が聞こえた。
「来たな!」私は毎朝の訪問者を迎えるために扉を開けた。
「おはよう!リーヤ、チム!」
『おはよう、碧!』
『おはよう〜。あれ〜すごくいい匂いがするよ〜』
リーヤが鼻をヒクヒクさせながら入ってきた。
『ほんとだ。ハチミツクッキーの匂いだ!』
チムがピョンピョン跳び跳ねた。
「うふふっ、貴方たちったら、ほんと鼻がいいわね」
リーヤとチムが椅子に飛び乗ったので、クッキーをお皿に載せてあげた。
『『ありがとう。碧!』』
ふたりが大人しくクッキーをもぐもぐしている間に、きのう見付けたレシピ本をチェックする。
「青様が探してくれた英和辞典、ほんと役に立つなあ。これがなかったら何も出来なかったよね、きっと」
青様に感謝しつつ、食事の献立を考える。
『ねぇ、碧〜。今日は〜森を散策しようよ』
『そうそう。俺たち、アンズがいっぱいなっている木と、ブルーベリーの繁みを見付けたんだ。内緒で場所を教えてあげるよ』
『クッキーのお礼だよ〜』ふたりは顔を見合わせてクスクス笑う。
「えっ、ほんと?私、アンズもブルーベリーも大好きなの。ぜひ教えて!これでジャムや甘煮が作れるわ」
私は急いでバスケットと袋を準備して、ふたりをお供にさっそく森へ出掛けた。
「うふふっ、大漁だね。すごく熟れたアンズだから、ジャムにぴったり!すごく重いけど、我慢、我慢!」
私はアンズで一杯になったバスケットを、両手で持ち上げた。
『もう〜、碧ったら欲張りさんなんだから〜』
『ほんとだよ。そんなフラフラしてて家まで持って帰れるの?俺たちは小さいから運ぶの手伝えないんだよ』
『そうだよ〜ブルーベリーの繁みにも行けなかったし~』
「う〜ん。ごめん。ごめん。ブルーベリーはまた今度ね。鈴生りのアンズを見たら、テンションあがっちゃって」
『『仕方ないなぁ〜』』ふたりは私に合わせてゆっくり森を歩いてくれる。
「うっ、重い!」少し歩いただけで、いったんバスケットを足元に置いて、フーッと息をつく。
「お前たち、ここで何をしている?」
驚いて振り向くと、いつの間にか青様が近くの木のそばに立っていた。
リーヤとチムは嬉しそうに青様に駆け寄った。
「青様こそ、どうしたんですか?こんな時間に、こんな場所で」
青様はいつもお昼まで姿を見せなかったので、私は不思議に思って尋ねた。
「家に行ったら姿がなかったので探しに来たのだ」
青様はちょっと気まずそうに答えた。
『青様って〜、結構、過保護〜?』
『俺もそう思ってた!碧にだけ過保護だね』ふたりは意味深に目配せする。
「えっ?そうなの?」
私は青様に気にかけて貰ったみたいで、ちょっと嬉しくなった。
「お前たち・・・」青様は不満そうな顔で足元のふたりを見つめた。
「どうしてお前たちは、碧と一緒の時はそんなに強気なのだ?」
青様はふたりのことをちょっと睨みながら、碧が下に置いたバスケットを片手で持ち上げて歩き出した。
「あっ、青様。私、自分で持ちますから」慌てて後を追うと、青様が振り向いて笑った。
「お前、これをひとりで家まで運ぶつもりだったのか?」
可笑しそうに笑う青様に、私は口を尖らせる。
「休み休み行けば、大丈夫かなって思ったんです。でも、ほんとうは重くて大変でした。青様が来てくれて、すっごく助かりました。ありがとうございます」
『僕たちも〜欲張りさんって言ったんだよ〜』
『そう、そう』ふたりはクスクス笑った。
「だって、せっかくジャムを作るなら、1度にたくさん作りたいんだもん」
私は頬を膨らませた。
「これでジャムを作るつもりなのか?」
「はい。私、アンズジャムが1番好きなんです。たくさん出来たら、お世話になってるリンくんの家にもあげたいし。青様は何かお好きなものはありますか?」
青様は少し首を傾けた。
「特に思い当たらないな」
「そうですか・・・」
私が残念そうに言うと、「まあ、アンズジャムは食べたことがないから、作ったら味見させて欲しい」と言ってくれた。
「はい。パンに付けるだけでも美味しいですし、スコーンや蒸しパンを作って付けても美味しいですよ」
言っているそばから食べたくなってきた。早く食べた〜い!頑張るぞ!と心の中で叫ぶ。
『『頑張れ!碧!』』リーヤとチムも応援してくれてるようだ。
家に帰って来て、お昼ご飯の準備をしながら、ジャムを作る下準備も始める。
「青様。すぐにお昼にしますので、もうちょっと待っててくださいね」
「慌てなくていい。今日はいつもより早く来たから、まだ時間的には早いはずだ」
青様はテーブルで寛ぎながら、私が台所でバタバタしているのを愉しそうに眺めている。
「準備が悪くてごめんなさい。朝、リーヤたちに誘われるままに出掛けてしまって」
私は動きながら、頭の中で献立を組み立てる。
メインはきのうリンくんに貰った卵でオムレツにしよう。あとトマトのスープとパンケーキ、青菜とお豆のサラダ。あ、アンズがよく熟しているから、そのままデザートで食べよう。楽しみ〜!
手際よく作っていると、青様が「そう言えば」と問いかける。
「食材とか、何か足りないものがあるんじゃないか?あるなら遠慮しないで言ってくれ。私が調達して来よう」
「それがですね」私は青様の側に駆け寄ってニコニコと報告した。
「食材なんですけど、台所の奥に食糧庫があって、小麦粉などの粉類や、お塩やお砂糖、お酢と言った調味料、油やお酒なんかもたくさん揃っていたんです。あ、後じゃがいもとか根野菜やキノコも。すごく助かっちゃいました」
私がすごい勢いで話すので、青様は少し驚いたように苦笑した。
「それはよかったな」
「はい。当分は大丈夫です」
私は元気に宣言したあと小首を傾げた。
「でも、不思議なんですよね。ここはどんな人が住んでいたんですか?」
「そうだな。私はほとんど交流はなかったが、少し魔力を持ったものが住んでいたはずだ。森の精や動物たちの不調や怪我を、薬草や呪いで治していたようだ」
「やっぱり魔女さんの住み家だったんですね」
私はうんうんと納得して頷いた。
そっか〜。魔女さんはみんなの怪我とか病気を治してたんだなぁ。私もみんなの役に立てたらいいのに・・・そう考えて、ちょっと落ち込んでしまった。私はお世話になってばかりだもんね。
「どうした?碧?急にボンヤリして」
青様が私の顔を覗き込んだ。
「あ、何でもないです。ただ・・・」
「ただ?」
「ただ、私もみんなの役に立てたらいいなって思って」
私が小さな声で呟くと、青様は私の手をそっと握って言った。
「大丈夫だ。碧、私はお前が居てくれて嬉しいぞ。一緒に食事することも、会話することも楽しいと思う。こんなことは今までなかった。リーヤやチムも、リンたちもみんな楽しそうにしていたぞ。それだけでは不満なのか」
青様の優しい声音に泣きそうになって、慌てて首を振る。
「そう言っていただけて、すごく嬉しいです。私、もっともっと頑張りますね」
青様が笑いながら言う。
「頑張りすぎはよくないぞ」
私は嬉しくなってまた張り切って料理を始めた。
私、少しは役に立ってるんだ。嬉しい。思わず顔がにやけてしまう。
お昼ご飯を食べながら、アンズを大量のお砂糖で煮ていると、部屋いっぱいに甘酸っぱい匂いが漂う。
「アンズがすごく熟れていたので、今日のデザートはそのままお出ししますね」
「ああ、楽しみだ」
「ほんとは干しアンズも作りたいから、明日また採りに行こうかと思ってるんです」
私が「うふふっ」と嬉しそう笑うと、青様が可笑しそうに問いかける。
「明日も荷物持ちが必要かな?」
私は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です。明日はちゃんと自分で持てるだけにしますから。お気遣いなく」
う〜っ、顔が赤くなってしまう。恥ずかしくなって話題を変えた。
「今日のオムレツに使った卵は、リンくんの家で貰ったんです。リンくんの家では鶏を飼っているらしくて。それでもし乳製品があれば、もっと色々なお料理ができると思って。どうやったら手に入りますか?」
あっ、しまった!照れ隠しに話題を変えたら、結局、青様におねだりしてしまった。
「そうか。それなら私が高原の牧場で買って来よう。『泉の路』を抜ければすぐだ」
私は反省中にもかかわらず、びっくりして目を見開いた。
「あの、変なことをお聞きしますが、龍神様ってお金を持っていたりするんですか?えっと、人間の世界で使えるものですけど」
青様が少し人の悪そうな笑みを浮かべるので、私はドキドキしてしまった。
「碧、龍神は結構お金を持っているものだぞ。私はいくつも鉱山を持っているしな。普段は使うことはないが、必要な時はちゃんと使う。安心しろ」
「そうですか・・・」
ほんとうは青様にとって食事は必要なものではないのだから、いろいろな料理を振る舞いたいと思うのは、ただの私の我儘なのかも知れない。そんな思いが込み上げてくる。
「碧、何を考えている?」
青様の優しい眼差しを向けられて下を向く。今どんな情けない顔をしているんだろう。
「私は青様に『美味しい』って言って欲しいけど、青様にとっては、それはあまり意味のないことですよね。私の自己満足なだけで。その為にいろんな食材が欲しいなんて、何だか申し訳なくなっちゃいました。ごめんなさい」
言っているうちにどんどん悲しくなって、今にも涙が零れ落ちそうになる。自分でも情けない。
青様が両手で私の頬をはさむと、瞳の奥をじっと見つめる。
「どうしてそう思うんだ、碧?私はお前との食事が楽しいと言っているのに。確かにエネルギーを得ると言う意味では、私にとって食事は必要ではない。でもお前との時間はそうではないのだ。お前との食事は私にとって特別なことだ。『食べる』と言うことで美味しいと思ったのは初めてだ。それはお前が私の為に一生懸命作ってくれているからだ」
青様が零れ落ちた私の涙を指の腹で拭う。
「碧は私にとって特別だと言うことだ。わかったか」
「ほんとに?」溢れ出した涙は止まらない。
「何で疑問系なんだ?私の言葉を疑うなんて許さない。わかったな」
涙を溢しながら頷く私を、青様は優しく抱き締めた。
青様の長い髪がサラサラと私の横で揺れる。銀色に輝いてすごく綺麗だ。
青様がいったん帰ったので、私はアンズジャムの鍋から灰汁をすくったり、瓶を煮沸したりして過ごした。
味を見て、レモンを搾って出来上がり。
レモンは家の近くに生っていた。
森を探せばいろいろな物が見付かりそう。私はひとりほくそ笑む。
アンズジャムを冷ましながら、ぼんやりと鍋の中を見つめていると、ふっと青様に抱き締められた時の感触が蘇ってきた。
カーっと頭に血がのぼる。顔はたぶん真っ赤だ。
青様はスキンシップが多過ぎると思う。
きっと私のことを子供だと思っているんだわ。私は子供なんかじゃないのに・・・
私が赤い顔でぶつぶつ呟いていると、小さな手がどんどんと扉を叩く音がした。
『碧〜、大変だよ〜』
『早く開けて!』
リーヤとチムが外で叫んでる。らしくない慌てようだ。
「いったい何があったの?」
慌てて扉を開けてビックリして固まった。扉の前にはたくさんの動物たちが集まっていた。
足元ではリーヤとチムがピョンピョン跳び跳ね叫んでる。
『アンズジャムのいい匂いにつられて、みんな集まって来ちゃったんだ!』
『食べさせてくれないと〜、帰らない!って言ってるよ〜』
動物たちはウンウンと頷くと、目をキラキラさせて私を見る。
『もちろん、僕たちにもちょうだいね~』
『うん。ちょうだい、ちょうだい!』
ふたりの瞳もキラキラ、うるうるしている。か、可愛い。みんな可愛いよ。
「わかったわ!でもアンズジャムだけだと食べづらいから、今パンケーキを焼くわね。待ってて!」
私は慌てて台所に戻ると、お昼に作ったパンケーキを焼き始めた。
私がそう言うと、みんなは思い思いの場所で待っている。
いったい何枚焼けばいいのかしら?ちょっとワクワクしてきた。みんなの期待が嬉しかった。こう言うの嫌いじゃない。
私は大量のパンケーキを焼き上げ、表面にアンズジャムを塗ってくるくる巻いたものを順番に配っていく。リーヤとチムがみんなを並ばせてくれていて助かった。
『美味しい!』みんな瞳をキラキラ輝かせて満足そうだ。もう少し食べたそうにしている子もいるけど、アンズジャムはもう殆どない。
「ごめんね、みんな。今日はこれでお仕舞いなの。また今度ね」
『うん、わかった』
『ありがとう、碧。とっても美味しかったよ』口々にそう言うと、みんな満足そうな顔で帰っていく。
「一応はみんなに行き渡ったみたいでよかった。一時はどうなることかと思ったけど」
やれやれと部屋に戻ると、リーヤとチムが椅子の上で満足そうに寛いでいた。口の周りをペロペロと満足そうに舐めている。
うふふふっ、美味しかったのかな。私も早く食べたいなって思っていると「碧!」と青様が慌ただしく部屋に入ってきた。
「動物たちが家の前に集まっていたようだが、何かあったのか?」
焦って走ってきたのがわかる。心配してくれたんだ。
「大丈夫です。みんなアンズジャムの匂いが気になったみたいで」
エヘヘっと私が笑うと、青様は「はあ?」と呆れたように眉をしかめた。
「そんなことがあるのか?」リーヤとチムを若干睨む青様に、ふたりとも体をびくつかせる。
『だって〜、とてつもなくいい匂いだったんだよ。みんな夢中になっちゃって〜止められなかったんだよ』
『そうそう。でも碧がアンズジャムを塗ったパンケーキをご馳走してくれて、みんな大満足で帰って行ったよ。めちゃめちゃ美味しかった』
ね〜っとふたりが私の方を見る。
私は頷きなから「私はまだ食べてないけどね」と口を尖らせた。
「そう言う訳でもう鍋に少ししか残ってないんですけど、ご一緒にいかがですか?青様」にっこり笑ってテーブルに促す。
「ああ、いただこう」青様が笑いながらテーブルに着いた。
青様と一緒に食べて、さらに美味しく感じたのかも知れないけど、アンズジャムは最高に美味しく仕上がっていた。甘酸っぱさがとっても私好み。
「うん。美味いな」青様も喜んで食べてくれて、もう最高に幸せな気分。
「せっかくたくさん作ったジャムが、もうなくなってしまって残念だったな」
「みんなが喜んでくれたから、私はとっても満足です」私が微笑むと、「じゃあ、明日また採りに行こう」と青様が言ってくれた。
「はい!」私は明日が楽しみになった。
私はそれからしばらくアンズジャム作りに励んだ。作ってもすぐに動物たちにねだられて、なかなかストックするには至らない。せっかく瓶を煮沸しても出番がないのだ。
リンくんとミーナちゃんもアンズジャムを待っていてくれるのに、そんな訳でなかなかお届けできない。
リンくんのお家にもアンズジャムのお裾分けができてから、やっと干しアンズを作ることもできた。食糧庫にいろいろなストックが増えて嬉しくて仕方ない。
青様が牧場でバターとかチーズ、ヨーグルトまで買ってきてくれたし、動物たちが珍しい木の実や果物を届けてくれるようになって、私は森での生活に馴染んでいった。
青様が穏やかに私を見守ってくれている。
私はこの穏やかで幸せな日々がずっと続くと思い始めていた。
ある日の午後、青様とのんびりお茶を楽しんでいる時だった。
青様が突然立ち上がって、椅子を蹴倒しそうな勢いで外に飛び出した。
いつもの青様らしくない様子に私も慌てて後を追った。
「クロウ!」常にない大声で呼ばれて、バタバタと樹にぶつかりそうな勢いでクロウ様が飛んできた。
『青様、何事でございますか?』
「クロウ、落ち着け!北の結界が何者かに破られた!私はこれからすぐ北に向かう。後は頼んだぞ!」
「碧、心配するな!何かあったらクロウや森の精を頼れ。なるべく早く戻る」そう言いながら走る青様の姿はだんだん白く輝き、大きく膨らんで、白銀の龍の姿になって空を登っていった。
私は呆然と青様の姿が見えなくなるまで見送っていたが、急に力が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。
あまりにも突然のことだったし、初めて目にした龍神の本来の姿は衝撃的だった。
青様が龍神であることは、頭では理解していたけど、常に人の姿で接していた為、ほんとうはわかっていなかったのかも知れない。
「青様・・・」いつまでも座り込んでいる私を心配した動物たちが集まってきた。クロウ様もそばにいてくれる。
「クロウ様。こう言うことはよくあることなんでしょうか?青様は大丈夫かしら?」
『青様の結界が破られるなど滅多にないことですな。じゃが、青様ならすぐに問題を解決してお戻りになりますじゃろ』
『青様は〜、すご〜く強い龍神様だから大丈夫だよ』
『そうそう。心細かったら俺たちがそばに居てあげるよ』
いつの間にかリーヤとチムがそばに居て、座り込んだ私の膝をポンポンと優しく叩いた。
私はふたりのフワフワな体をぎゅっと抱き締めて、ゆっくりと立ち上がった。
「みんな、ありがとう。私、ちょっと驚いちゃって・・・でももう大丈夫!青様の帰りを美味しいものを作って待ってるわ」
私がぎこちない笑みを浮かべると、動物たちは『それは名案だ!』と歓びの表情を浮かべて森の奥に帰って行った。
クロウ様は家のある樹の枝に留まって『ここに居りますのでご安心を』と羽を休めて気配を消した。
「クロウ様、ありがとうございます。ふたりは中に入って。しばらく一緒に居てくれる?」
『『もちろん、いいよ』』
私は心が落ち着くまでずっと、ふたりのフワフワの頭を撫で上げ続けた。ふたりは呆れもせずに大人しく撫でさせてくれた。
それからの心細い日々を、私は動物たちやリンくんたちにお菓子を焼いたり、本を読んだり、リネンに刺繍したり、手作りポプリでサシェを作ったりして過ごしていた。
みんなの予想に反して、1週間が過ぎても青様からの連絡はなかった。
私は心配でだんだん食欲がなくなり、夜も眠れなくなってしまった。
何もやる気にならなくて、『泉の路』に通ってぼんやりと畔に佇む。動物たちも森の精たちも、周りを取り囲んで様子を伺っている。やっぱり青様が心配なのだ。
傍らのクロウ様に「青様に何かあったんじゃ・・・」と泣きそうになりながら尋ねると、難しい顔で首を振る。
『ここには青様のように北の結界まで行けるものが居りませんのじゃ。空からも、水路からも。じゃから、青様の方から連絡がないと、確認のしようがないんですじゃ』
「そんな・・・」私は堪えきれなくなって泣き出した。
そんな私を見つめながら、クロウ様がポツリと呟く。
『やはり人型の取り過ぎのせいじゃろうか・・・』
「人型の取り過ぎ?」聞き逃せない言葉に振り返ってクロウ様をじっと見つめる。
『そう言えば・・・』ガヤガヤと動物たちがざわつく。
『確かに最近は人型を・・・』森の精たちも顔を見合わせ声をひそめる。
「それ、どういうことですか?」
私が詰め寄ると、クロウ様が気まずそうに羽をバタつかせて、迷いながらも静かに語り始める。
『青様は龍神であられるから、龍の姿が本来の姿と言うことはおわかりじゃな。これまでの青様は龍の姿で、『泉の路』のご自分の住み処で結界を見守っておられたんじゃ。泉の中では龍神のお力が満ち溢れ、例え何処までも翔んで行かれようとも、結界を張り直そうとも、そのお力が不足することはなかったのじゃが、ここ最近は毎日のように人型をとって暮らしておられる。人型と言うのは本来の龍の姿と比べて、著しく力を消費してしまうと、青様はおっしゃっていた。それがわしは心配なのじゃ。北の結界まで飛び問題を解決した後、龍神としてのお力が著しく減ってしまわれて、本来のお力が発揮出来ないとしたら。そんな時に敵に襲われてしまったら』そこまで話して黙り込む。
「そんな・・・」私は驚きのあまり絶句した。
「それじゃあ、私のせいなの?私がここに来たから?一緒にいて欲しいって思ってしまったから?だから青様は無理して人型を取っていたの?」私は声にならない声で心の中で叫ぶ。
周りにいるみんなもヒソヒソと顔を見合わせて話し始める。
『碧が?』とか『人型のせい?』とか『敵って黒龍?』とか小さな囁きが、波のように私に押し寄せてくる。私は耳をふさいで目をぎゅっと閉じ小さく丸まって蹲る。
『碧のせいじゃないよ!みんな青様が最近よく笑うようになったの知ってるでしょう?すごく嬉しそうに』
『それは〜碧と一緒にいるからなんだよ』
『人型でいるのを選んだのは、青様なんだよ』
『僕たちも、碧のことが大〜好き!みんなもそうでしょ!』
目を開くと顔の近くにリーヤとチムがいて、小さな手でペタペタと私の頬に触れてくる。
『大丈夫だよ。碧のせいなんかじゃないよ』っと言うように。
うっと胸の奥から熱い思いが込み上げて、また涙が溢れそうになる。
「ふたりとも、ありがとう」頑張って何とか微笑んで見るけど、成功したとは言えないかも知れない。
ふたりの気持ちは嬉しいけど、「私のせいかも知れない」と言う思いは消えてくれない。
「私、家に戻りますね。少しひとりで考えたいんで」
付いて来ようとするリーヤたちを宥めて、私はひとりでフラフラと歩き出した。
みんなの視線が辛くて、ここに留まることはできなかった。
私が青様にそばに居て欲しいと思ったから。その為には青様は人の姿をとらざるおえなかった。
青様に知らない間に無理をさせていたんだ。
私がきちんと龍神である青様を理解していたら。後悔に胸がズキズキ痛む。
そのことばかりをグルグルと考えて無意識に歩みを進めていたようで、気がつくと見たことのない場所に立っていた。
「えっ、ここはどこかしら?」
いつもの見慣れた森がほんの少し先で途切れている。
その先は木も草も生えていない、大きな岩がゴロゴロしているだけの荒れ地になっていた。結界の境目なのかも知れない。
「こんな近くに結界の境があったなんて気がつかなかった。もしかして結構遠くまで来ちゃったのかな」
不安になって周りを見回すと、結界の境にある木の根元に小さな黒い塊が落ちているのに気がついた。
「何だろう?」と思って近付いてみると、木の根元に隠れるように子猫が震えながら丸まっている。その黒い毛は汚れてペッタリとしていた。怪我をしているのかも知れない。
その姿が行方不明の青様に重なって、私は慌てて駆け寄るとその小さな子猫を抱き上げた。子猫に触れた瞬間、ビリっと静電気のような衝撃が走ったけれど、その時は全然気にならなかった。
ぐったりしている子猫を早く家に連れて帰ろうと、急いで走り出した。放っておくことなどできなかった。
家は思っていたよりずっと近かった。迷わずに帰れたことにホッとした。
帰ってから体を拭いて何枚もの布地で繰るんで暖めると、子猫は目を開けて「ミャー」と弱々しく小さな声で鳴いた。
衰弱しているだけで、怪我はしていないようだ。
「とにかく温めよう」小さな体を両手で包んで温める。
お皿に入れた水を指に浸して飲ませると、ペロペロと少しずつ少しずつ飲んだ。可愛い。
優しく体を撫でていると、ブルブル震えていたのがだんだん落ち着いてきて、そのうちスースーと寝息をたて始めた。
「よかった」私はホッと息を吐いた。
「青様も誰かが助けてくれていたらいいのに」
私は青様の無事を祈りながら、朝まで子猫を抱き続けた。
「ミャーミャー」という子猫の鳴き声で目が覚めた。どうやら子猫を抱いたまま、ソファでウトウトしてしまったようだ。
「おはよう。目が覚めたんだね。もう大丈夫かなあ?」
頭を撫でると、私の指を舐めて「ミャーミャー」と必死に何かを訴えてくる。
「なあに。もしかしてお腹が空いたのかな。ミルクがあれば良かったんだけど」
私は台所を探し回って、やっと脱脂粉乳の入った缶を見付けた。
お湯で溶いて冷ましてからお皿に入れてあげると夢中で飲んでいる。
「よかった。栄養になるものがあって」
子猫は満腹になったのか、また私の膝の上で丸まって眠ってしまった。
「この子が居てくれてよかった。あのまま独りぼっちでいたら堪えられなかった」
青様のことを考えると、また泣きそうになってしまいそうだ。
その時、扉をノックする小さな音が聞こえた。
『ねぇ、碧!大丈夫?』
『まだ〜ベッドで泣いてるかもよ〜』
リーヤとチムだ。心配して来てくれたんだ。
でもきのうのことを思い出して、どんな態度で接していいのかわからない。
なかなか開ける決心がつかなくて、ソファから立ち上がれないでいると、「ミャウ」と子猫が小さな声で鳴いて体を擦り寄せてきた。
まるで行くなと言うように、私の手にフワフワの頭を何度も何度も擦り付ける。
「大丈夫、置いて行ったりしないよ」小声で返事をすると、満足そうに目を細めて膝の上で丸くなった。
「ごめんね」リーヤたちに心の中で詫びながら、膝で眠る子猫を撫で続けた。
それからの私は、子猫と家の中に籠り続けた。
子猫は私の姿が少しでも見えないと「ミャーミャー」と探し回り、私の後を付いて回った。
リーヤとチムが毎日訪ねてくれるけど、顔を合わせられないでいる。
ふたりが訪ねてくる度に、子猫が行くなと言うように鳴いて離れないのだ。
子猫を抱きながら、扉越しに少しだけ言葉を交わす。
『ねぇ〜、碧。少しは外に出た方がいいよ〜』
『そうだよ。このままだと碧が病気になっちゃうよ』
『みんなのことは、気にしなくていいんだよ~』
『そうそう、碧に余計なこと言っちゃったって、すごく反省してるよ』
私は扉の側に腰を下ろして、扉越しにふたりに返事をする。
「いいの。だって本当のことだもの。でも、やっぱりみんなと顔を合わせづらいの。だけど・・・」
私は都合のいいお願いを口にする。「だけど、もし青様のことが何かわかったら、すぐに教えてくれる?」
『『もちろん!』』ふたりは当然のように答えてくれる。
『碧は〜僕たちにも会いたくないの?』リーヤの悲しそうな声に私も切なくなる。
「そうじゃないけど・・・」
私が項垂れていると、子猫がエプロンの紐を引っ張って私を扉から遠ざけようとする。
私が他の誰かと話すことが気に入らないのだろうか。これって妬きもち?
「あのね。この前の帰り道で、衰弱した子猫を拾ったの。今、その子をお世話してて、私が側を離れると、淋しがってミャーミャー鳴くのよ。だから外に出れないの。私は大丈夫だから、心配しないで」
『『えっ、子猫?』』ふたりが焦ったように叫んだ時、子猫が扉に向かって「フーッ」と威嚇の声をあげた。小さな黒い体を倍くらいに膨らませ、金色の瞳を見開いて威嚇する子猫を見て、放っておけない気持ちになった。
「この子は淋しいんだ。私がリーヤたちに取られてしまうと思っているんだ。私も青様のようにこの子に居場所を作ってあげたい」そう思って子猫に手を伸ばすと、子猫は威嚇したまま「フーッ、フーッ」と階段を駆け登って逃げて行く。寝室に逃げ込んだようだ。
リーヤたちはまだ扉を叩いて何か叫んでいるようだが、私は子猫が心配で急いで後を追いかけた。
子猫はベットの下に潜り混んでブルブル震えていて、私は「大丈夫だよ」と何度も声を掛け続けた。
扉からリーヤたちの声がしなくなって、しばらくしてから子猫は恐る恐るといった感じでベットの下から出てきた。
ほんとうに恐る恐る近づいてきて、私を上目遣いに見上げてくる。悪いことをしてしまったのはわかっているようだ。
伸ばした私の手をペロペロ舐める。
「そんなに淋しかったんだね。大丈夫だよ」
子猫を抱き上げて頭を撫でる。
「ひとりにしないけど、私以外の人にも慣れてくれると嬉しいんだけど」
子猫は安心したように、私の腕の中でゴロゴロと寛いでいる。
「猫ってこんなに独占欲が強いものなのかな」
波立っている心を落ち着けるためにお茶を淹れる。ちょっと甘さも欲しくてアンズジャムをひと匙加えた。
「また青様にアンズジャムを使ったデザート食べて欲しいな」
子猫の頭を撫でながら呟く。
「青様が戻ったら、きっと・・・」
子猫は『ミャウ』と返事をしてくれた。
次の日もリーヤとチムは心配して訪ねてくれた。
子猫は扉がノックされただけで、すごい勢いで階段を駆け上がってしまった。
いくら声を掛けてもベットの下から出てこなかったので、諦めて扉を開けて外に出ることにした。中に入ってもらうよりいいだろう。
外に出るとリーヤとチムが嬉しそうに飛びついてきた。
「リーヤ、チム、心配してくれてたのに、ほんとごめんね」膝をついてフワフワの頭を撫でた。ふたりは嬉しそうに目を細めて、もっとと言うように頭を押し付けてきた。
『心配したんだよ〜碧』
『何だか痩せたね。顔色も悪いよ』
「眠れないし、食欲もないの。相変わらず、青様からの連絡はないの?」
ふたりはしょんぼりと項垂れた。
『うん、まだ。足の早い山羊のビートと隼のジンが北の結界に向かったんだけど、やっぱり戻って来ない』
『龍神の青様じゃないと〜辿り着けないくらい遠いんだよ〜』
「青様・・・」何もできない自分が情けない。
「私にできることは何もないのかな。ただ青様の無事を祈るだけなんて」
『碧だけじゃ~ないよ。みんな〜同じだよ!』
『そうだよ。青様を信じて待とう!』
ふたりが私の顔を覗き込んで、優しく手をとんとんと叩いてくれる。
「私ね。青様も何処かで困ってるかも知れないって思って、それでよけいに子猫を助けたかったの。私が子猫を助ければ、誰か他の人も青様を助けてくれるんじゃないかって。ここ何日か、そんなことを考えて引き籠っていたの。心配かけて、ほんとごめんね」
『そうだったんだ。でも碧、この世界に子猫は・・・』チムがそう言い掛けた言葉を、バサバサというすごい羽音が遮った。
『青様が戻られましたぞ!早く泉へ!』クロウ様はそれだけ言って、またすぐ飛び立っていった。伝えに来てくれたんだ。
私はすぐに駆け出した。リーヤもチムも夢中で走った。
「青様!青様!」と気ばかり焦ってなかなか前へ進めない。
やっと辿り着いた泉の周りは動物たちや森の精が取り囲んでいた。リンくんたちの姿もある。
「お願い、通して」動物たちの間を掻き分けて泉まで進み出てみると、龍の姿の青様がぐったりと横たわっていた。
「青様!」駆け寄ると僅かに目を開けて碧を見た。
「遅くなってしまったな」
その声は呟きのように小さくて、私は溢れそうになる涙をグッと堪えた。
「青様、お帰りなさい!」私は青様の体にそっと触れた。
青様の白銀の鱗は何ヵ所も血が滲んでいて、その体は全体的にくすんでしまっていた。限界まで力を使い果たしてしまったようだ。
『碧さま!泉の水をかけて青様の体を浄めてくださらんか』
先に着いたクロウ様が私を促すと、青様も静かに頷く。「頼む、碧・・・」
私は泉に足を入れると少しずつ水を掬い取り、青様の体を浄めていった。泉の水に触れる度に青様を覆う鱗が白銀に輝きだし、泉のように蒼い瞳にも力が戻ってきた。
そして私が差し出した水を口に含むと、確実に力が蘇っていくのを感じた。
『青様、大丈夫じゃろうか?何があったか、お話ししていただきたいんじゃが』クロウ様が心配そうにそう口にすると、「大丈夫だ」と青様が長い首をもたげた。
私はハラハラしながら青様を見守った。
私も何があったか知りたかった。
「先ずは皆にはほんとうに心配をかけてしまった。すまなかった。今回のことは全て、北の黒龍の仕業だった。北の結界に綻びを作り私を誘き寄せた。ここから1番遠い北の結界まで誘き寄せ、結界の綻びを最大限拡げることで私の力を消費させた。その上で数に頼って襲ってきたのだ。数の多い緑竜も仲間に引き入れたのだろう。私は泉から引き離され、力を補えないまま結界を修復し、『泉の路』を使えずに空から戻ってきた。その為、想像できないほどの時間を要してしまったし、このように情けない事態に陥ってしまった。本当に不甲斐ない。申し訳なかった」
みんな『し〜ん』として聞いていた。青様の『襲われた』という言葉に激しく動揺しているようだった。
『やはり黒龍様が・・・』クロウ様が首を振りながら呟いた。
「私の結界を奪って、気を引きたかったのだろう」
「もう大丈夫なんですか?その黒龍様は、また青様のことを狙ったりしませんか?」私はまだ安心できなくて思わず聞いてしまった。
「この泉で力を回復したし、私のいる結界の中では安心だよ。碧にも心配をかけてしまって、本当にすまなかった。そもそもこの龍の姿に碧は驚いただろう」青様がちょっと苦笑ぎみに言った。
龍の姿はますます表情に乏しいが、何となくそう感じらるた。
「はい・・・」私は力なく項垂れた。思い出してしまったのだ。
「私のせいで青様に人型を取らせてしまって、ほんとうに申し訳ありませんでした。私の為に人型を取ったせいで、青様は力が足りなくなってしまったんでしょう?今回のことは私にも原因があるかと・・・」
青様は「フーッ」と大きく息を吐き、周りをジロリと睨んだ。
みんなビクッと体を強張らせた。
「誰だ。碧の耳にそんな下らないことを入れたのは。確かにこの姿よりも人型でいる方がエネルギーを使う。だが、そんなものは微々たる違いだ。気にすることではない」
青様が私の方に鼻先を寄せたので、私は両手で包むようにして撫でた。
『ワシの落ち度ですじゃ。申し訳ない』
「何だ。クロウまでそんなことを考えていたのか」青様に困った奴だと言う顔をされて、クロウ様は羽をバタつかせた。
『面目ない』クロウ様がらしくなく、シュンと項垂れる。
森の精や動物たちも情けない顔になって、『ごめんね』と口々に謝った。
リーヤとチムが私の側までやって来て、『『みんな、わかってくれてよかったね』』と笑った。
『青様はまだ本調子ではないのじゃから、そろそろ泉に戻られてはいいがですかな』
「しかし・・・」と青様は私の方を見た。
「碧にはずいぶん心配かけたし、淋しい思いをさせたのではないか。少し家に行って話したいと思っていたのだが・・・」
「それはダメです。青様はもっとちゃんと体を休めないと。お話しならこれからいくらでもできるのですから、ねっ」
今にも人型に変化しそうな青様を私は慌てて止めた。これ以上、青様に負担をかけたくなかった。
「そうだな。では今日は泉の住み処で体を休めることにしよう」青様は少し淋しそうに私を見詰めて、やがてゆっくりと泉の中に白銀の姿を消した。
「クロウ様、これでいいんですよね」
『そうですな。青様は碧さまの前じゃと無理をしてしまうのでな。ご自分の住み処でお休みになれば、何処にいるよりお力を回復できるのじゃから、今日はゆっくりとお体を休めていただきましょう』
「そうなんですよね」私は何度も頷いた。もう後悔するようなことは絶対にしたくない。
『まあ、碧さまのそばにいたいと言う青様の気持ちもわかりますがな』そんなクロウ様の呟きは、私には届かなかった。
しばらく泉の畔に佇んでいたが、子猫のことを思い出して慌てて家に戻った。
「ネコちゃん、ネコちゃん。放っておいてごめんね。出て来て姿を見せて!」
私は家中を探し回ったけれど、子猫の姿は何処にもない。最初は拗ねて隠れているのかと思ったけど何処にもいないのだ。
「いったい何処に行っちゃったの?」
私は途方に暮れてしまった。青様が戻ってホッとしたばかりだと言うのに。
「あんなに外に出たがらなかったのは、外の世界を怖がってたんじゃないの?扉だって開けられないと思うのに、いったい何処から出て行ったの?まさか窓から?少しの間でもひとりにしちゃったから、嫌われちゃったのかな?嫌われたら悲しいな」
私はソファに座ってボンヤリしてしまった。さっきまでそばにあった小さな温もりが恋しかった。
「もしかしたら、私のこと探しに行ったのかも」
急に思い至って、家の周りを探し回った。
それから、いくら森に探しに行っても戸口にミルクを置いていても、子猫が姿を見せることはなかった。
次の日の午後、青様が人の姿で訪ねてきてくれた。お供にリーヤとチムを連れて来た。
「青様、体調はいかがですか?」私は思わず扉のところまで駆け寄った。
「もう人の姿になって大丈夫ですか?これからは私の方が泉に行ってもいいんですから、絶対に無理して人の姿にならないでくださいね」
青様は私の顔を心配そうに見つめて、「碧、痩せたな」と両手で私の頬を挟んだ。
私は恥ずかしくなって下を向いてしまった。
『そうだよ〜碧、すごく青様の心配してたんだよ〜』
『そうそう。食欲がなくなって、眠れなくなっちゃったんだよね』
そう言いながらふたりは青様を追い越して、先に部屋に入る。
「青様も、どうぞ」中に招き入れると、青様は「んっ?」と家に入ろうとして急に足を止めた。
「結界が弛んでいる」
「えっ?」
青様は眉をひそめると、慌てて外に出て結界を張り直す。
「私の力が弱まっていたせいかも知れないな。早めに気付いて良かった」
「そうなんですね。全然気が付きませんでした」
私が結界を張っている青様をうっとり見つめていると、リーヤとチムが微妙な顔で私を見上げる。
『それって子猫のせいじゃ・・・』
私はその場に膝をついて、ふたりと目を合わせる。
「子猫はね。きのういなくなっちゃったの。すごく探したのに見つからなくて。とっても可愛い子だったのよ。青様がいなくて淋しかったから、すごく慰められたの。最後、ちょっと暴れてたから結界に触れちゃったのかもね』
私が淋しそうに呟くと『『居なくなったんなら、まあいいか・・・』』ふたりは顔を見合わせる。
私はその時、ふたりが何を気にしているのか、全く気が付いてなかった。
「これで大丈夫だ」
青様は満足そうに頷きながら部屋に入ってきた。
「ずいぶん久し振りだな」
「はい。ほんとうに・・・」
私がお茶を淹れながら椅子を勧めると、青様は懐かしそうに周りを見つめる。
お茶請けは干しアンズとチーズにした。
『『あ、干しアンズだ〜!』』リーヤとチムが嬉しそうに叫んだ。
「このところ、全然お菓子を焼いてなくて」サボっていたのがちょっと恥ずかしくて、青様に言い訳してしまう。
青様はわかっていると言うように、テーブルの上の私の手を取って、「もう大丈夫だ」と言った。触れられた指が少しくすぐったい。
「だ・か・ら〜スキンシップ多過ぎです!」私は心の中で叫んだ。
戻ってからの青様は特に優しい。優し過ぎだと私は思う。因みにリーヤたちもそう思っているみたいだ。目のやり場に困ると言っていた。そうかなあ。
さあ、今日からまた、お菓子作りもお料理も頑張ろうと思う。
これから青様と一緒の食事は1日1回、昼か夜のどちらかにする。人型を取る時間をなるべく少なくして欲しいから。
それでももっと話したい時には、私が泉に会いに行けばいいのだから。
青様と一緒の時間は、私を穏やかな気持ちにさせてくれる。
ここに居ていいのかな。ここに居たいな。そう思う。
「そう言えば、黒龍様はどうなったんですか?もう青様に何か悪いことをしたりしませんか?」
私は気になっていたことを聞いてみる。
『碧、黒龍に様なんて付けなくていいよ!』
『そうだよ〜敵なんだから〜』とチムとリーヤが口々に言った。
「まあ、そう言うな。一応は私の血族なのだ」青様はふたりを宥めるように口を開く。
「黒龍はもともと私に対抗意識のようなものを持っていて、昔からいろいろ仕掛けてきてはいたんだが、さすがにこんな直接的な攻撃は初めてだな」
難しい顔をする青様に、思わず心配そうに表情を歪めてしまった。
「大丈夫だ。いくら黒龍でも、この森で直接私に危害を加えるとは思えない。私も充分エネルギーを回復しているし。そんな不安そうな顔をしないでくれ」
青様は安心させるように、にっこりと微笑んだ。ほんとうに青様は表情が豊かになった。
そんな青様に私はドキドキが止まらない。
青様の笑顔は心臓に悪い。
私は元の世界を懐かしく思い悩むこともなく、森のみんなと青様との穏やかな毎日を過ごしていた。
ちょっとギクシャクしていた動物たちや森の精たちとの関係も、青様を挟んで少しずつ修復していった。
動物たちは、またお菓子をねだりに来るようになった。嬉しいと思った。
時々、あの子猫のフワフワと可愛らしさを懐かしく思う。
何処かで元気にしているといいんだけど。ほんとうに何処に行っちゃったんだろう。
この前、子猫を見つけた結界の境に行ってみようと思ったのに、何故かその場所に辿り着けなかった。
そう言えば子猫のことを青様に言えてない。
何となく言うタイミングを逃してしまったと言うこともあるけれど、青様の身代わりのように思っていたこともあって何となく言いづらい。
今、子猫の代わりに私の癒しになってくれるのは、相変わらずリーヤとチムだ。ふたりにはすごく感謝している。
最近の青様は『泉の路』を通って結界の確認を行っていて、この森を留守にすることも多い。この森はもちろんのこと青様の結界はたくさんあるのだ。
青様に会えないのはすごく淋しいけど、北の結界の時を思えば我が儘は言えない。それはわかっている。
そんなある日、「碧はここに来て、後悔してないか?」青様が突然私に尋ねてきた。
「私が訪ねられないことが増えて、会えなくて淋しく感じていないか?」
青様の瞳はあくまで優しい。
「私は大丈夫ですよ。リーヤとチムも森のみんなもいるし。青様だってできる限り来てくれてるじゃないですか。それで淋しいとか言ったらバチが当たりますよ」
私は無理に笑ってみせる。青様に気を使わせちゃいけないんだ。
「そうか・・・」青様が少し淋しそうに笑う。
「それが少し淋しく感じるのは、私の我が儘なんだろうな」
『もう~青様って面倒くさい性格だったんだね~』
『ふたりとも素直じゃないよね。淋しいなら淋しい。会いたいなら会いたいって言えばいいのに』
『『ね~っ!』』リーヤとチムが顔を見合わせて笑う。
「大人はね、思ってること全部言ったりしないの」私が口を尖らせて言うと、チムが私の肩に乗って内緒話のように囁く。
『青様にははっきり言わないと通じないと思うよ』
うっ、確かに青様ってそう言うところあるかも。
「どうした?」青様が不思議そうに口を開く。やっぱりね。
「なんでもありません。とにかく青様は無理しないで下さいね。黒龍様のことも気になるし」
「確かにな。北の結界にはもう姿はない。他でも捜しているのだが、何処に行ったんだか」
「何か不気味ですね。いったい何がしたいんだか・・・」
私は不安な気持ちが隠しきれなくなって、眉間にシワを寄せてしまった。青様は私の眉間のシワを優しく撫でながら「心配するな」と、私の瞳を除き込む。
そうだ。せっかく青様が来てくれたのに、こんな風に暗くなっていてはダメだ。もっと楽しい話をしないと。
「青様、お土産でいただいたこのパン、すごく美味しいですね。ハンバーガーみたいです。私、お肉って久し振りです。やっぱり元気が出ますね」
私の楽しい話題と言うのは、やっぱり食べ物の話になってしまうようだ。
でも「そうか?」と青様が嬉しそうにしているからヨシとしよう。
『俺たちは断然このナッツがお気に入り!』
『最高だよ~青様、最高~!』
ふたりは私の手から青様のお土産のナッツを食べている。ピスタチオみたいなナッツだ。
「お前たちにも気に入ってもらえて何よりだ。碧のこと、いろいろ助けてくれているようだしな。私からの礼だ」青様が優しくふたりの小さな頭を撫でる。
『そんなの~、当たり前だよ。僕たち碧のこと大~好きだもん!』
『そうそう。でも、ありがとう。青様』
「ありがとう。私もふたりのこと大好きだよ」私も空いた手でふたりを撫でる。
ふたりのことなら素直に大好きって言えるのにな。
「ところで今回はどんな場所にある結界に行ったんですか?」
私が興味津々で尋ねると、青様は優しく語り出す。
「私の結界の中では珍しい大きな城壁都市にあるバザールだ。東西の要所に位置していて、手に入らないものはないと言われているくらいの規模が大きなバザールだ。あまりにも人が多いので、ここ何百年かは顔を出してはいなかったが、あの雑多な感じは今も変わっていなかったな」
そんな所があるんだと思うと同時に、何百年も訪れていないということにも驚いてしまった。青様はほんとうに恐ろしいほどの長寿の龍神様なのだ。
「そうだ。これを碧に・・・」
青様が懐から小さな包みを差し出した。
「えっ、何でしょう?」
受け取って包みを開くと、キラキラと輝く天然石を連ねたブローチだった。
「せっかくバザールに行ったのに、土産が食べ物だけというのも味気ないと思ってな。最も私はそのような装飾品など買ったことがないので、気に入ってもらえるか自信がないのだが・・・」
青様はほんとうに自信がなさそうにしているけど、私は嬉しくて泣きそうになってしまった。
「嬉しいです。すごく嬉しいです。一生大切にします」
「碧、気に入ってもらえたら嬉しいが、ちょっと大袈裟じゃないか?」
思わず苦笑いの青様に、私は首を振りながら青様の手を取る。
「ほんとうですよ」
少し潤んだ瞳で見つめたら、照れくさそうな笑顔を向けられた。この人、ほんとうにあの無表情だった龍神様なのかしら。驚きだわ。
ほんとうに嬉しかった。私はこの森の一員に過ぎないと、この場所に慣れていないから気を使われているだけだと思っていたから、少しだけ青様の特別になれた気がした。
ブローチは、花の形にカットされた、深く透き通った蒼色と鈍い銀色の石が房のように垂れ下がっていて、碧が動く度にきらりきらりと揺れ動いた。
青様からの贈り物ということを抜きにしても、ほんとうに素敵でうっとりしてしまう。
『すご~い!綺麗な石だね~』
『あれ?この石、青様の瞳の色と同じだね』
『あ~、ほんとだ~!』
今まで空気を読んだように大人しくしていたふたりが、何かに気づいたようにニヤリとした。
『これってやっぱりあれでしょう?』
『そうそう~自分の色に~染めちゃう的な?』
いや、いや、違うでしょう。この方そんなこと全然考えてないですよね。
私の気持ち的には贈り物でも、そもそもこれはお土産なんだし。
「お前たち何を騒いでいるんだ?」
リーヤとチムが確かめるように青様の顔を見つめる。じっと見つめて諦めたように首を振った。
『『やっぱり違うかあ~』』
ふたりはガックリと肩を落とした。
そりゃそうだもん。相手は青様なんだから。
いいの。別に深い意味なんかなくたって。私には充分なんだもん。
私は心の中でリーヤとチムに思いっきり突っ込んだ。
「さっそく着けてくれたのか?おお、すごく似合うな。石の色が私の色と同じだろう?」
私とリーヤとチムは驚いて青様を2度見してしまった。
「き、気がついていたんですか?」
あ、でも意味合いはわかってないかも知れないよね。
そんな風に考えた私の顔を見て、青様は少し不服そうにため息をついた。
「私がどのくらい生きていると思っているんだ?それが何を意味するかくらいわかっている」
「えーっ!」私は心の中で思いっきり叫んだ。
「まあ、実際に贈ったのは初めてだ。気に入ってもらって私も嬉しい」
青様がそっと私の頬に触れて嬉しそうに微笑んだ。
またまた場の空気を読んだリーヤとチムが、こっそり森に帰ったことに気がついたのはもう少し後のことだ。
今日は久し振りに青様が帰ってくる。
今日は蒸しパンを作って、アンズジャムを付けて食べてもらおう。青様は喜んでくれるかな。
私は朝から準備でバタバタしていた。そんな私を動物たちも興味深そうに見守っていた。
『おはよう~碧』
『今日は朝から何バタバタしているんだ?』
リーヤとチムが開け放っている扉から駆け込んできた。
「今日は青様のために蒸しパンを作るつもりなのよ。たくさん作るからみんなにも食べてもらうね。でも今日は青様が1番最初だから」
私が恥ずかしそうにふたりに告げると、『『了解~!』』と言ってみんなに知らせに走って行った。
そう、今日は青様に1番に食べて欲しい。そう思っていた。
蒸しパンも後は蒸すだけ、紅茶もアンズジャムも、その他お茶請けになるナッツやチーズなど準備が整った頃、青様が泉からの道をゆっくりと歩いてきた。
肩にクロウ様を乗せている。何か話しているみたいだが、深刻そうな雰囲気はない。
「青様!」手を振って迎えた。
すると青様が少し驚いたように走ってきた。クロウ様は慌てて肩から飛び上がった。
「碧、どうしたんだ?動物たちがこんなに集まってるし、扉が開けっ放しになっている」
「青様、お帰りなさい!」
「ああ、ただいま!」
青様はにっこりと音がしそうな素敵な笑顔で私を抱き寄せた。
「せ、青様?」
突然の抱擁に驚いた。何で?何で急に?
「碧、会いたかった。今回は帰りが遅くなってしまったな。淋しかったか?」
えーっ?あなたいったい誰ですか?ほんとに青様なの?
もう心臓に悪いので離してください。
青様は私を少し離して顔を覗き込む。
「で?どうしたんだ?」
「蒸しパンを作ったんです。みんなはそれを待ってるの。1番に青様に食べて欲しかったから、みんなはお預け状態なんです」
青様は可笑しそうに動物たちを見回した。
「それは気の毒だ。じゃあ早々にいただこうかな」
青様は家の中に入りながら尋ねた。
「扉はどうして?」
「家に閉じこもっているより、もっと森のみんなと仲良くなりたいと思って・・・」
急いでお茶の準備をして、蒸しパンの種を蒸し器に入れた。
青様はテーブルに付きながら「アンズジャムか、久し振りだ」と言った。
「蒸しパンというよりアンズジャムがメインなんです。みんなとわいわい食べたのが懐かしくて・・・」
「アンズジャムは、もう動物たちに食べられてしまったかと思っていた」
「最近はあまりお菓子を作ってなかったから・・・」
「そうか」青様は私のそばに来て、私の頭を優しく撫でる。
「そのブローチ、付けてくれているんだな。似合ってる」
青様は嬉しそうに私の胸元を指して言う。
「ええ、いつも付けています」
青様の色ですから。心の中で呟く。
「そうか。嬉しいものだな。また何か買ってこよう」
最近の青様の微笑みはとても甘い。甘過ぎますよ。
蒸しパンはふわふわに蒸しあがって、ほんのり甘い香りがひろがった。
「さあ、青様。召し上がってください」
大皿にたくさん盛りつけた蒸しパンをひとつ取って、アンズジャムをたっぷり付けて青様に渡した。
「ああ、ありがとう」
「熱いから気をつけてくださいね」
フーフーと吹き冷ましながら食べる青様の様子を微笑ましく見ていたら、突然、青様が『うっ』と喉を詰まったように口を押さえた。
「青様、大丈夫ですか?蒸しパンが喉に詰まっちゃいましたか?お茶飲んでください」
私が慌ててお茶の入ったカップを差し出すと、青様は苦しそうにさらに咳き込みながら私の手を振り払った。
「何故だ?碧、何故ここに!」
手を振り払われた私は訳がわからず、茫然として苦しむ青様を見つめた。
青様の声を聞いて、リーヤたちやクロウ様が慌てて家に飛び込んできた。
青様が耐えられなくなったように呻きながら血を吐いた。
何度も何度も苦しそうに血を吐いて床に倒れ込んでいるのに、私は恐怖で体が動かなかった。
「どうしてこんなことに・・・」頭の中はそればかりがグルグル回っていた。
『こ、これは・・・』クロウ様が青様の様子を見て呻いた。
青様の吐き出した血は、煙をあげて床の敷物を解かしていた。まるで強い薬品を撒いたようだった。
『碧、いったい何を青様に食べさせたのだ!』すごい勢いでクロウ様に詰め寄られて、私は泣きそうになりながら首を振る。
「アンズジャムを塗った蒸しパンを・・・」私は思い至って自分も青様と同じものを慌てて口にする。
「何ともないわ。味も普通だと思う。どうして?どうしてこんなことに?」
床に倒れた青様が叫んだ。「誰もそれを口にするな!」
ビックっと体を震わせて青様の方を見ると、青様は目を見開いて私を見上げていた。青様の目からも血が流れて出ている。
「血だ!ジャムに人間の血が・・・」青様はヨロヨロと起き上がりながら家から出ていく。
「えっ?人間の血って?私の血が原因ですか?」
私が青様の後を追って外に飛び出すと、青様はゆっくりとその姿を龍に変えながら泉の方に飛んでいった。
その姿はふらふらと頼りなく、時々、高い木の枝にぶつかって高度を下げている。
「クロウ様、私がジャムを作った時に血が混じって、それが青様にとって毒になったと言うことですか?でもどうして?」
慌てて飛び出して行きそうな勢いのクロウ様に必死で追い縋る。
『お前の血ではないじゃろう。青様に毒になるのは龍を恨んで死んだ人間の血じゃ!』そう言い放つとクロウ様は青様を追って飛んでいった。
『ねえ~、碧。これって~どういうことなの?』泣き崩れる私にリーヤとチムが駆け寄ってきた。
「私にもよくわからない。何でこんなことになってしまったの?」
『青様、あんなに血を吐いて、すごく苦しそうだった。俺たちはどうしたらいい?』
「どうしよう。リーヤ、チム。私のせいで青様にもしものことがあったら・・・」チムが私の肩に駆け上って頬をポンポンと叩く。
『しっかりして!碧がわざとした訳じゃないでしょ?』
『そうだよ~。ねえ、青様のところに行ってみようよ~』リーヤが私のエプロンの裾を引っ張る。
そうだ。ここでめそめそしている場合ではない。なのに足が1歩も動かない。
青様は『何故だ?』と言った。私は青様に害をなしたと疑われてしまったのだ。
「私、行けないよ。青様は私が何かしたって思っているもの」
『『そんなこと、ある訳ないじゃん』』ふたりが揃って叫ぶ。
『もう~!碧ったら~おバカさんなの?』
『そうだよ。あの青様が碧を疑うはずないよ』
ふたりの言葉は嬉しかったけど、私は力なく首を振る。
「だって青様は私に『何故だ?』って言ったんだよ。何故こんなことしたんだってことでしょう?」
『う~ん。そう言う意味なのかな~?』
『いや、俺は違うと思う。碧がやったってことじゃなくて、何故碧のところにそんなものがあったんだ?ってことだと思う。それは俺も疑問だもん』
『とにかく~青様が心配だから、泉に行ってみようよ~』
ふたりに促されて泉に向かって駆け出す。
他の動物たちも泉に向かったようで、泉の周りは動物たちで溢れていた。森の精たちも駆けつけていた。リンくんとミーナちゃんの姿もあった。みんな心配そうに俯いている。
泉の周りには血痕がてんてんと続いていて、青様はもう泉の中で体を癒しているのか姿はない。
周りの草地は巨体がのたうち回ったように踏み荒らされていて、草も吐き出された血で所々枯れてしまっている。青様の苦しみが感じられて胸が苦しくなった。
「クロウ様・・・」私が遠慮がちに声を掛けると、クロウ様は私の方に向き直ると厳しい口調で問いかけた。
『碧、何があったのか詳しく話すのじゃ!』
「あの時、青様に1番最初に食べてもらいたくて、私がアンズジャムを塗って蒸しパンを渡しました。青様は少し食べて急に苦しみだしました。私は喉に詰まらせてしまったのかと思ったんですけど、青様はすごく苦しそうに血を吐いて、ジャムに人間の血が混じっているって言いました。私もすぐ確認のため食べてみましたが、変な味はしませんでしたし、私は何ともありません。ほんとうにジャムのせいでしょうか?あれは青様と一緒に摘んだアンズを、私が煮てジャムにしたものですし、あの時、血が混じるような怪我もしませんでした。変なものも絶対に混ぜたりしてません」
言いながら溢れそうになる涙をグッと堪えた。
『碧が何かしたとは思っておらん。じゃが、青様がそう言うのなら、間違いなくジャムの中に入っていたのじゃろう。それが龍を恨んで死んだ人間の血であったなら、たとえそれが1滴の血だったとしても、青様にとっては猛毒も同様なのじゃ。恨みのこもった血というものはそう言うもの。それは龍以外の生き物には食べても影響は出ないじゃろう。まあ、気持ちのいいものではないがな』
『うっ!』自分が何を口にしてしまったのかを思い当たって、強い吐き気が込み上げてきた。私はたまらず森の奥に駆け込んだ。苦しくて、悔しくて泣きながら何度も何度も吐いた。
「青様、青様、ごめんなさい」
泉に戻るとみんなの視線が痛かった。故意ではないにしろ青様を害してしまったのだから当然だ。
リーヤとチムは変わらずに側にいてくれる。心配そうに私を見上げてくる。
「青様のご様子はいかがでしょうか?」
私が聞いてはいけないのかも知れないが、気になって仕方のないことを口にした。
クロウ様は答えてくれた。
『泉が癒してくれると思うが、青様の気配があまりにも弱いのじゃよ。通常ならわしにも感じられるほど強い気配がするのじゃがな』
「そんな・・・」私がガックリと膝をつくと、ふいに強い風が吹いて嘲笑うような声が響いた。
『フッ!さすがの白龍もアレを体内に入れてしまってはな。ここで待つだけ無駄じゃないのか』
声の方に顔を上げると泉の上に龍の姿があった。
青様とは違う黒い鱗を鈍く光らせ、風に長い髭を揺らめかせている。表情がないはずのその面に愉快そうに金色の瞳を輝かせている。
「黒龍・・・」思わずこぼれた私の呟きに、黒龍はさらに愉快そうに笑う。
『そう。俺が黒龍だが、呼び捨てとはな。ほんと面白い女だな』
『黒龍様、このような時に何用ですかな。卑怯にも隙をついて青様を害そうという訳ではないでしょうな』
クロウ様が不愉快そうに黒龍を睨む。
『フンッ!何を言う。白龍を害したのはその人間の女ではないか』
「ち、違う!」思わず叫んだ私に、『違わないだろう。お前が毒を盛ったのだ』と、黒龍が言いつのる。
「何でそんなことをあなたが言うんですか?何も知らないくせに・・・」
黒龍はますます面白くて仕方ないと言うように顔を歪め、私に少し顔を近づけて信じられないくらい可愛い声で『ミャー、ミャー』と鳴いたのだ。
「えっ?何してるの?」私は一瞬、理解できなかった。
『『あっ!猫だ!』』リーヤとチムが叫んだ。それでようやく思い至った。
「えっ?あなた、あの時のネコちゃんなの?そんなまさか・・・」
『お前、ほんとにおめでたいな。まあ、おかげで俺は助かったけどな。面倒を見てくれたことは一応感謝しておこう』
バカにしたように言う黒龍の言葉にクロウ様が私を振り返る。
『碧、どう言うことじゃ!』
クロウ様の強い口調に震え上がる。
騙されていたんだ。あの子猫が黒龍だったんだ。
「ご、ごめんなさい。私、青様が行方不明の時、衰弱している子猫を拾ったんです。弱っている姿が青様に重なって、とても放ってはおけなかった。青様が戻って安心して家に帰ったら、子猫は姿が見えなくなっていて。ずっと心配してたのに・・・」
辿々しく説明する私に、『フ~ン、お前、そんなこと考えていたんだ。まあ、俺にも龍の気はあるけど、白龍の代わりだなんて、お前ほんとバカだな』と、黒龍の言葉は容赦がない。
『じゃがな、寄りによって猫とは!』怒りに任せて羽をばたつかせるクロウ様に、リーヤとチムが慌てて駆け寄る。
『違う!違う!碧は悪くないんだ!』
『そうなんだよ~。悪いのは~僕たちなんだ!』
ふたりは必死に言いつのる。
『碧は知らなかったんだよ~』
『そう。この森に猫はいないし、喋れない動物はいないってこと』
『そんなの、仕方ないことだよね~』
『そうだよ。まだここに来て少ししかたってないんだし、そんなこと誰も教えてないじゃないか』
ふたりはピョンピョン跳ねながら一生懸命訴える。
『だからこそじゃ』クロウ様がますます語気を強める。
『だからこそ、お前たちが教えなくてどうするんじゃ!』
『『そ、それは・・・』』
リーヤとチムは揃ってしおしおと耳を垂れて言いよどむ。
『俺たちが悪いのはわかってる。で、でも言えなかったんだよ』
『そう。だって~碧はあの時すご~く不安そうだったし、青様が心配でご飯食べないし~寝てないし~、見ていられなかったんだよ』
『みんなだって、青様が人型取ってたのは碧のせいだって責めたじゃないか。そんな碧が可愛い子猫に癒しを求めたって仕方ないと思ったんだ』
『そうだよ~。碧のいた世界では~子猫を可愛がるのなんて当たり前のことなんでしょ?騙して碧に近づいた黒龍が悪いんだよ~絶対に!』
『碧は心が綺麗だから、嘘をつかれるなんて思わないだろうし、子猫に化けて騙すなんて、ほんと黒龍って最悪だよな。腹の中まで真っ黒だ』
黙って聞いていた黒龍が低い声で呟く。『お前たち、いい度胸だな』
周りの空気が一気に冷え込み、肌を刺すような龍の気が満ちる。
「待って!この子たちは私を庇ってるの。手出しをしないでちょうだい!」
ふたりの前に立ち塞がると、黒龍は体を揺すって笑い出す。
『俺がこんなチビッ子、相手にする訳がないだろう。まあ、これからはこの森も俺の支配になることだし、あまり逆らわない方が身のためだろうけど』
「何そのテレビドラマの下っ端悪役みたいな台詞は・・・」私は思いっきり嫌味を言ったつもりなのに、黒龍は「何言ってんだ」と言うような顔をする。
これは多分通じてない。ガックリと肩を落とした。
『やはりな。目的は青様の結界か?』
クロウ様が落ち着きを取り戻して黒龍に問いかける。
『ふん、こんな結界なんてほんとはどうでもいい。俺はあいつの龍族を蔑ろにして、こんなちっぽけな生き物に肩入れするところが大嫌いだったんだよ』
「そ、そんなくだらない理由で青様を?」私はあまりの理由に絶句してしまった。
『お前に何がわかる。龍族のことなど何も知らないくせに。俺たちは何百年もの共通の時間を生きてきたんだ。呆気なく死んでしまうお前たちとは違うんだよ。愚かゆえに敵を招き入れ、毒を仕込まれても気がつかない。あげく大切に思うものに自ら毒を飲ませたことにも気づかない。あいつを害したのは、間違いなくお前なんだ!』
グッと言葉に詰まった。悔しいけど何も言い返せない。私が愚かだと言うことは事実だから。
泣かないように目に力をいれて俯いた私を、黒龍はそれはそれは愉快そうにいたぶる。
『お前、もうここにいても仕方ないんじゃないのか。むしろみんなの迷惑だろう?なあ?あいつがここに戻るとしても、何十年も先のことになるだろう。体の内側から穢れた人間の血で蝕まれていくんだ。のたうち回るほどの苦しみを抱えて、泉の中でただひたすら回復を待つしかない呪われた日々。それだけお前のしたことは罪深いと言うことだ。あいつが毒のダメージから回復して戻る頃には、お前はもうこの世界にはいないだろう?』
『だったら・・・』そう言って黒龍は私との距離を詰めて、その鋭い爪を持つ手で私の体を掴んだ。
『だったらもう死んでしまえ!』私を目の前まで持ち上げ、その手に力を込める。
私はギリギリと体を絞め上がられ、体にくい込む爪の苦しさに呻いた。
爪が体にくい込み、じわじわと血が滲んできた。い、痛い。
『『碧!』』
『黒龍!止めるんじゃ!』
『『悪いのはお前じゃないか!』』
みんなの叫ぶ声がだんだん遠くになり、意識が朦朧としてきた時、今1番聞きたいと思っていた声が聞こえたような気がした。
「・・・碧」
「・・・」これは幻聴だろうか、それとも最後の時を迎えた私へのご褒美だろうか。私はそのまま幸せの余韻に浸りながら、意識を手放した。
『ふん。何て脆弱な。だったらこのまま死んでしまえ!』
黒龍は意識のなくなった私の体を思いきり叩きつけた。
森のみんなは声にならない悲鳴をあげて、その場に凍りついたように固まっていた。
黒龍に思いきり水面に叩きつけられた碧の体は、『バッシャーン』と大きな水音をたて、そしてゆっくりと泉の中に沈んでいった。
『何てことを・・・何てことをするんじゃ』
沈黙を破ってクロウが避難の声をあげた。傍らでリーヤとチムが静かに泣いている。
『結局、黒龍、お前は何がしたかったんじゃ』クロウが黒龍の近くまで飛び上がり、間近で睨み付ける。
黒龍は2先ほどまでの怒りが嘘のように消えて、ギラギラと光っていた金色の瞳は虚ろに見開かれていた。
何かとんでもないことをしてしまったと狼狽えているようだ。
『こんなつもりはなかった』そう言って黒龍は泉に飛び込もうとしたが、何とか思い留まった。
『ダメだ!この泉はもう使えない!』
『何故じゃ!』クロウが驚いて叫ぶ。
『この泉の水はあの女の血で穢れてしまった。龍である俺を恨んで死んだ人間の血だ。こんなつもりじゃなかったのに』黒龍が後悔で苦しそうに身もだえする。
『黒龍もほんとは碧にあんな酷いことをするつもりはなかった。そう言うことなのか?』
チムが泣きながら聞くと、黒龍は真底バカにしたように顔を歪めた。
『そんな訳あるか!あの女はそこの泉の周りの石に叩きつけて殺そうと思っていた。邪魔以外の何者でもないからな』
黒龍は泉の周りに敷き詰められた石の方に顎を指す。
『何と・・・』
『まあ、何て酷いことを!』
『恐ろし過ぎる!』
『悪魔だわ。きっと呪われた龍なのよ』動物たちも森の精も口々に恐怖を口にする。
『お前たちだってあの女を邪魔に思っていたじゃないか。あの気の弱い女を批難していた。気持ちは同じだ。だがあまりに憎しみが強くて手元が狂ってしまった。まさか泉に叩きつけてしまうなんて・・・』
黒龍は忌々しげに泉の水面を睨み付ける。
『お前なんかと一緒にするな~!』いつもはおっとりしているリーヤが堪えきれなくなって叫ぶ。
『お前たち、あの女のことばかり気にしているようだけど、白龍のことは気にならないのか。長い付き合いだろうに、冷たいやつらだ』
『うう~む。青様は・・・』クロウが唸りながら羽をバタバタさせた。
『『青様・・・』』リーヤとチムが慌てて水辺まで走り寄り、水面を覗き込んだ。
泉の水は変わらず深く蒼く澄んでいて、とても穢れているようには見えない。ふたりは恐る恐る舐めてみる。
ペロッとひと舐めして慎重な顔で様子を伺う。変わりはないようだ。
ホッとしたように顔を見合わせるふたりに、また黒龍がちゃちゃを入れる。
『影響があるのは龍だけだと言っているだろう。お前たちがこの水を飲んでも影響はない』
『そもそも何で青様を捲き込んだんだよ。碧のことだって、お前に騙されたんだから、悪いのはお前じゃないか!』チムが怯むことなく黒龍に刃向かっていく。
『元々の計画では、人間の血を口にしたとしても、あいつは、白龍は何十年か経てば、泉で体を癒してここに戻るはずだった。それくらいの時間の損失など、龍族にとっては何でもないことなのだ。だが、あいつの受けた毒のダメージを癒やすはずの泉が穢れてしまった。あの女のせいで。白龍はきっとあの女の毒に体中を蝕まれながら朽ち果てるだろう。俺が望んでいたのはこんなことではないのだ!俺は龍族同士のもっと深い繋がりを望んでいたのだ』
『いや、いや、こんなことって~?仲よくしようと思ってやることじゃないよね~。バカなの?黒龍~』
リーヤが呆れたように囁くと、チムが『全くだよ』と大きく頷いた。
青と碧のことはもちろん心配だが、あまりにも突然の喪失感に頭も心も、この状況に着いていけなくなっていた。
ふたりともきっと無事でいると言う、根拠のない自信が森のみんなの心から消えなかった。
今は動物たちにも森の精にもできることはないけれど、それでもこの場所から離れるなんてできなかった。
その様子を黒龍はイライラした目で見ていた。
『お前たちはいつまでここにいるつもりだ!いたって何もできないのだろう?待っても白龍は戻ってこないぞ!』
『黒龍様こそどうなさるつもりじゃ?もうこの森に用はないのじゃろう。正直、あなた様の顔はもう見ていたくはない!』
クロウが落ち着きを取り戻したように言い放った。
『なんだ。俺に出ていけと言うのか。ふん、面白い』
黒龍は脅かすようにクロウに顔を近づけて、顔を歪めて嗤った。
『確かにこの泉の路はもう使えない。こんな森に用などないが、まだ僅かに白龍の気が感じられるから、俺は今しばらくはこの泉に留まる』
黒龍が、お前たちこそここを去れと言うように、長くて太い尻尾を振り回した。動物たちも森の精もあたふたと逃げ惑う。
『お前たち、いったん引き上げるんじゃ』クロウが飛び上がりながら碧の家の方を指し示す。
みんなは名残惜しそうに泉の方を振り向きながら、とぼとぼと歩き出す。
泉の前には黒龍だけが残された。
『やれやれ、やっと去ったか』
黒龍は深いため息をつくと、泉のギリギリまで近寄って大きな体を横たえた。
『白龍、すまなかった!お前をここまで痛めつけるつもりは全くなかった。ただ一族よりも動物や人間を優先させるお前が許せなかった。あいつらから引き離したかっただけだった』
黒龍は祈るように金色の瞳を閉じた。
『帰ってきてくれ!何十年でも、何百年でも待っている。それだけ待てるのは、龍族だけなんだぞ・・・』
黒龍はそのままずっと動かなかった。
泉から離れたこの森のものたちは、碧の家だった樹の前に集まった。扉が開け放たれたままになっていて、あの時の慌ただしさを思い出す。
家の中はあのまま青の血痕が残っている。それを見たくなくて、そっと扉を閉じた。
『ねえ、クロウ様。これからどうするんですか?』
『今までは、青様も今ほどこの森に来なかったし~、碧が来たのもここ最近だけど、ふたりのいない生活なんて~もう僕たち考えられないよ~』リーヤが泣きべそをかきながらクロウに詰め寄る。
クロウは樹の枝にとまって動物たちを見回す。
『黒龍の言っていたように、泉からは僅かながら青様の気が感じられたんじゃよ。青様がご無事なら、たとえどんなに弱っておられても、碧を助けない筈はないとわしは思っておる。青様の守りがあれば、碧も泉の中でも無事でいられるはずじゃ』
『ほんと~?』
『やったあ!』とリーヤとチムがピョンピョン跳ねて喜び、他の動物たちもリンくんたちもいっせいに歓声をあげた。
『これ!みな静かに!黒龍を刺激するのではない』
クロウにじろりと睨みつけられ、みんなはしゅんとしたように黙った。
『じゃがな、これはあくまでわしの予想じゃ。青様のお力を信じておるが、多分に希望的な想いが含まれておる。それにおふたりが戻られるとしても長い年月が必要なはず、わしらはそれを信じて待つしかないのじゃ』
クロウの言葉にみんなただ静かに頷いた。
『さあ、みな家に帰って、今まで通りの暮らしを続けて待つのじゃ。よいな』
クロウはそう言うと、枝の上で静かに目を閉じた。ここを動くつもりはないと言うように。
動物たちも森の精も名残惜しそうにここを離れていく。
リーヤとチムもとぼとぼと家に向かって歩いた。
『待つしか~ないんだよね~』
『そうだね。俺たちに力なんてないし、青様と碧の無事を祈るしかないね』
『うん。青様なら~きっと碧を守ってくれるよね』
『青様は優しいけど、強いもんね』
ふたりは頷きあって家に駆けていく。
それから森のみんなは、森の至るところで青様と碧の姿を思い出す。碧の樹の家やアンズの木の周り、ブルーベリーの繁み、あの泉の周り、思い出がいっぱいだった。
気まぐれで移り気な森のみんなの記憶から、ふたりの思い出が消えることはなかった。
あれから泉の周りで動かなくなっていた黒龍の姿は、いつの間にか消えていた。
水の冷たさに意識が戻った。
息ができない。体が痛い。このまま深い場所まで落ちていって、私はきっと死んでしまうんだろう、そう思った。
口から漏れる息がキラキラと光る泡になって、上へ上へと昇っていく。水面が丸く蒼く輝いていて、すごく綺麗だ。
あの水面の向こうにみんながいる。きっと心配してるよね。
ごめんね、みんな。私、青様にとんでもないことを。
青様もほんとごめんなさい。私のせいでこんなことになって。
このまま深く流れていったら、この水路のどこかで青様に会えないかな。
もっともその時はもう私は生きていないけど。でももう1度青様に会いたい。会いたいよお。
「青様・・・」思わず涙が溢れてた。
「青様、大好き・・・」
もう限界。私はふたたび意識を手放した。
私の体はゆっくりと水の流れに乗って暗い深みに沈んでいく、はずだった。
「うっ、苦しい。苦しい。息ができない」ガバッと起き上がって肺いっぱいに息を吸い込む。
「ゴホッ、ゴホッ!」苦しくて涙を流しながら咳き込んだ。
思うように息ができなくて、何度も何度も深呼吸をして気がついた。
「あれ?私、生きてる?」
目を見開いて周りを見ると、そこは青白く輝く岩に囲まれた鍾乳洞のような場所だった。
壁際の平らな石の上に私は横たえられていた。
「うそ?私、助かったの?見た感じ、ここは天国って訳じゃないわね」
この鍾乳洞は泉に繋がっているようだった。遠くでチャプチャプと水音がする。
どのくらい時間がたったのか、もう体は乾いていた。
「助かったけど、これからどうしよう。こんな場所じゃどっちにしろ生きていけないなあ」
大きくため息をついて途方にくれていると、「すまないな。今はここに連れてくる力しかなくて」暗がりから低く心地のいい声が響いた。
「青様?」
私は信じられない思いで問いかけた。
「何で疑問形なんだ?」
青様の声は若干の笑いを含んでいた。こんな状況なのに。
「この姿のせいか?」
青様は自分の龍の姿を見下ろして言う。
その姿は思っていたよりも元気そうだった。血を吐いてのたうちまわるほど苦しんでいたのに。そう思うと少しホッとした。
「青様、私・・・」そう言って這うように近づくと、青様も首を伸ばして私の方に近寄ってくれる。
「ごめんなさい。私のせいで青様を・・・」
私は青様の首に思わず抱きついた。
青様は私を疑っているかも知れないって思っていたから、近くに居させてもらえることが嬉しかった。私は誤解を解いて欲しくて、今までのことを青様に打ち明けた。
「私が子猫になった黒龍様を家に入れてしまったんです。とても弱っていて、このままにしたら死んでしまうかも知れないと思って。どうしても放っておけなかったんです。何故か行方不明の青様の姿に重なってしまったんです。今思うとすごく不思議なんですけど、あの時はそう思い込んでしまって」
「それが黒龍の芝居だった訳だ。何とかしてあの家に入ろうと思ったんだろう。私も碧の前ではだいぶ油断してしまった」
「私はあの森に猫は住んでいないことも、喋れない動物がいないことも知らなくて。リーヤたちが何か教えようとしていたのは気がついていたんですけど、青様の不在が心細くて、子猫の可愛さが手放せなくなっていたんです。でも青様がお戻りになった時、急に姿が見えなくなっていて、まさかその間にこんなひどいことをしていたなんて」
「まあ、私が戻れば正体がバレてしまうからな。そう考えると、北の結界のことも計画のうちだったのだろう」
しょんぼりする私を青様が鼻先で優しく撫でる。
「青様は私のこと疑っていたのではないのですか?『碧、何故だ?』と仰っていたから・・・」
私の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「そんなことある訳がない。あれをジャムに混ぜたのは黒龍だとすぐに気づいたが、何故黒龍がジャムの瓶に近づけたのかがわからなかった。あの時はあまりにも苦しくて、言葉足らずで誤解させてしまったな。すまなかった」
そう言って青様は優しく涙を拭ってくれた
「それに、こうなったのは碧のせいではない。私と黒龍の問題だ。捲き込んでしまって、かえって申し訳なかった。つらい思いをさせてしまったな」
青様に毒を盛ったと思われなくてよかった。青様は始めから疑ってなどなかった。安心したし嬉しかった。
安心したら気が抜けてしまって、青様にすがりついたまま意識を失ってしまった。私にとって青様に疑われるということは、堪えられないことだった。私の心も体も限界だったようだ。
次に目が覚めると、青様に抱えられるように眠っていた。
青様は大きな体で私をつぶさないように、慎重に体を巻きつけていた。
私は青様の首に抱きついたままだった。
鍾乳洞の岩自体が淡い光を発しているのか、高い天井の隙間から光が射し込んでいるからなのか、辺りは明るく青様の白銀の鱗がキラキラと輝いていた。
「きれい・・・」
私が思わず呟くと「おはよう、碧」青様の声が耳許に響いた。
「あ、おはようございます」
私は照れてしまった。青様のそばで目覚めたのは初めてだ。
照れ隠しに真面目に質問をする。
「青様、お体はほんとうに大丈夫なんですか?」
「ああ。今は体の内部で毒と闘っている感じだな。あの時ほど苦しくはないが、そのせいで力の回復ができない。泉の我が住み処にいてこの状態だから、回復には相当の時間が必要になる」
「そうですか。ここが青様の秘密の隠れ家なんですね」そう言って周りを見回した。
「それほど苦しくないのは何よりですが、回復にはそんなに時間がかかるものなんですか?そう言えば、黒龍様は何十年もかかるって言っていました」
青様が僅かに笑った気配がした。
「黒龍は勘違いをしている。あの人間の血は確かに龍を恨んで死んだ者のものだったが、その直接の恨みは私が受けたものではない。だから 、黒龍が言うほど長くはかからない。もし直接私に向けられたものなら、確かに何十年もの間、ひどく苦しみ続けたかも知れないが」
「恐ろしいですね」
私はあまりの恐ろしさに身震いした。
「それにあのアンズジャムは碧が作ってくれたものだからな」
「えっ?それはどういう意味ですか?」
青様が愛しそうに私を見つめる。その瞳があまりにも優しく、甘い気配が含まれていてどきどきしてしまう。
この静かな空間に私の心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと、胸を押さえて深呼吸を繰り返した。
「もし、混ぜられたのが他のものだったら、私はもっともっと苦しんでいただろう。碧を助ける力は残っていなかったと思う。あのアンズジャムには、碧の私に対する想いが込められていた」
青様が『そうだろう?』と言うように私を見た。
「だから恨みの力を激減することができたんだ。碧の手作りのものを選んだことが、黒龍の敗因だ」
「それは、ほんとですか?」
「なんだ、愛情を込めてくれたんじゃないのか?」
青様が珍しく人の悪い笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
愛情、込めた?ええ、込めましたとも!でもそんな風に言われたら恥ずかしいじゃないですか。
私は顔を真っ赤に染めてあたふたした。
う~っ、どうしよう。何だか走り回りたくなってきた。
「碧、ありがとう」
青様が真剣に言ってくれたから、私も真剣に答える。
「青様、私、青様が大好きです!」
青様は嬉しそうに頷くと、自分の額と私の額を合わせた。
「碧、私の力を受け取ってくれ!私の力が戻るまでは、ここにいなければならない。その時まではここで静かに眠っていてくれ!私も一緒に眠ろう」
触れた額から温かい何かが体中に流れ込んできた。意識ははっきりと冴え渡っているのに、体からは力が抜けていく。
目蓋が重くてもう目を開けていられない。力が抜けてゆっくり崩れ落ちる私を青様がしっかしと抱き直す。
「おやすみ、碧」
青様の柔らかく温かい声が頭の中に響く。
「青様、おやすみなさい・・・あれ?でも会話はできるんですね?」
「そうだな。体だけ休ませている感じだ。意識はあるから話はできる。それともちゃんと眠りたいか?」
頭の中に響く青様の声が心地よくて、体は眠っているのにドキドキする。
「私、もっといっぱい青様とお話ししたいです」
「ああ、私もだ。なかなか一緒にいられなかったからな」
温かくて、体もフワフワして気持ちいい。これって幸せってことかな。
私が込み上げる幸せを噛みしめていると、驚いたような感情が伝わってきた。
「不思議だ。私が碧に力を注いでるはずなのに、碧から新しい力が生まれて私に戻ってくる。こんな風に自然以外からの力を受けるのは初めてだ」
「それっていいことですか?」
「ああ、思ったより早く力が回復するかも知れないな。よかった。お前の時間は私たちと違って限りがあるからな。ここで回復を待つためだけに無駄にはできない」
「無駄ってことはないと思いますよ。だって青様とずっと一緒にいられるんだし」
「今さらだが、私の龍の姿は怖くはないのか?」
「えっ?」確かに今さらな気がする。
「初めは人の姿でお会いしましたし、私と一緒の時はずっと人型でいてくださいましたから、初めて龍の姿に戻られた時は正直驚きました。でも、むしろ青様的には龍の姿がほんとうの姿なんですよね。それにどちらも青様なんですから、怖くなんかないですよ。青様の龍の姿はすごく綺麗だと思います」
青様のホッとしたような気持ちが伝わってきた。
「それならばよいのだ。私たち龍神は昔から畏怖の対象として見られてきたから、人間には恐ろしい姿に感じるかも知れないと思っていた。碧と一緒にいる時は、人型の方が楽だから必然的にそうしていた。今もできるなら人型でいたかった。人の姿ならば、碧をもっとしっかり抱き締められるからな。残念だ」
「な、な、何を言ってるんですか!からかうのは止めてください!」
これはほんとうに青様なの?最初は無表情で冷静で、こんなこと絶対に言いそうもなかったのに。もしかして、ムッツリ?青様はムッツリなの?
内心大慌ての私をよそに、青様はさらに追い討ちをかける。
「碧は私に抱き締められるのは嫌なのか?」
今、私は絶対に真っ赤になっている。体は眠っている筈なのに心臓もバクバクしている。
「い、嫌じゃないですけど、そんなこと言われたら落ち着いて寝ていられません」
「それは悪かった」
そう言いながら、青様がめちゃめちゃ嬉しそうなので、私の心臓はなかなか落ち着きそうもない。
私だって抱き締めて欲しいですよ。そんなの決まってますよ。
そう、決まってる。
抱き締めて欲しい。ギュッてして欲しい。
そう、私は小さい頃からそう思っていたんだ。求めても得られなかった私の望み。
急にぼんやりしてしまった私に、青様が心配そうに声をかける。
「碧、どうした?」
「青様。私、青様のことをもっと知りたいです。今のこの状況も」
「そうだな。碧には知る権利がある。お前をこの森に連れてきたのは、もっと心穏やかな時を過ごさせてやりたかったからなのに、こんなことに捲き込んでしまった。もとの世界にいた方が幸せだったかも知れないな」
「でも、それだと青様に会えませんでしたよ。リーヤやチムや森のみんなにも。そんなの私はイヤです」
思い切り首を振って否定したいのに、体が動かないのもつらいものだ。
「それなら、よかった」
「青様は私が小さな頃から気にかけてくれていたんですよね。それは、どうしてですか?」
青様は少し躊躇いながら答えた。
「お前はいつもひとりだった。もともとあの場所はあまり人が来るような所ではなかったが、そこに子供がひとりで来ることが気になった。何時間も小さくなって蹲っているお前の姿は、まるでこの世界から消えてしまいたいと思っているかのようで、私は目が離せなかった。常にあの場所の結界を気に留め、お前を見守っていた」
「私ってやっぱりそんな子供だったんですね」
今さらながら恥ずかしくて情けない。
確かにあの時、消えてしまいたいと思っていた。両親に愛されていない自分には居場所はなかった。
そんなことを子供なのに感じてしまう自分が嫌だった。
そんな私を周りも子供らしくないと責めた。
「もちろん、そういう子供は碧だけではないから、何故、お前のことが気になったのかはわからなかった。私の結界に関わっていたからかも知れない。だが、大人になった碧を見た時、今も苦しんでいるのを感じて、放っておけなかった。そばにおきたいと強く思った。お前には笑っていて欲しかった」
青様の声が優しくて切なくて、私の胸がキュッとした。
青様への想いが溢れそうになって声が震えた。
「青様、私・・・」
ああ、私はほんとうに青様のことが大好きなんだ。あらためてそう実感した。
「ん?」
「青様に会えてほんとうによかったです」
「そうか?」
「はい」
「お前を危険な目に遭わせて後悔もしていた。無事でよかった。もしあの時、間に合わなかったらと思うと肝が冷える」
青様が大きな手で私の背中を優しく撫でる。鋭い爪で私を傷つけないように、細心の注意を払っているのがわかる。
「青様は体が動かせるんですね」
ちょっとズルいなって思った。
「ああ、何かあった時、お前を守れないと困るからな。私はこの状況でも平気だが、人間は食べ物がなくては生きられないだろう?だからお前の体を眠らせた。私が力を取り戻すまで我慢してくれ」
「確かにそうですね」
そう、確かに私もここでは生きていけないと思った。今の状態って冬眠みたいな感じなのかな。
青様の力をエネルギーにして生きているんだ。
「碧が自分の世界に居場所を見つけられなかったように、私も龍族とは相容れないものを感じていた。私は人間や動物たちなど、一族以外のものたちの存在も愛しいと思ったが、一族のものたちにとっては龍だけが唯一の存在だった。その想いが1番強かったのが黒龍だ。私は水の龍神となり、崇められ、結界を持って一族を離れた。黒龍はそれが許せなかったのだろう。時々、私を傷つけるようなことを仕掛けてくるようになった。だが、今までは今回のようなことはさすがになかったのだが・・・」
「黒龍様は青様が気にかけている人間や動物たちのことが、羨ましかったのかも知れませんね。だから、青様から引き離そうとしたり、傷つけようとしたりしたんだと思います。青様と仲よくしたかったんですね、きっと。すごく分かりにくい愛情表現ですけど」
愛情表現と言うには激しすぎる。龍以外のものは殺しても構わないとおもうくらいに。もう私からしたら笑うしかない。
もう少し素直になって黒龍様。
「もし碧にそんな風に思われていると知ったら、あいつはどう思うんだろうな」
青様が可笑しそうに笑った。いや、笑い事じゃないですから、青様。
「もう大激怒ですよ!絶対知られてはダメなやつです」
ああ、恐い!絶対また殺そうとするに決まってる。あれ、本気だったよね。
思い出しただけで体が震えそうになる。
「青様、森のみんなは大丈夫でしょうか?黒龍様に何かされたりしてませんか?」
私は急にみんなのことが心配になってしまった。特に私のことを庇ってくれたリーヤやチムは無事だろうか。
「あの時の黒龍の憎しみの対象は碧だったから、他のものたちは大丈夫だろう。私がいなくなった森にも興味を持たないだろうし、そもそもあいつは龍族以外のことに関心がないからな」
何て言うか、ほんとうに困ったちゃんなんだなあ。
そう言えば子猫になっていた時も、独占欲丸出しだったし。あれは本性が出たんだな。
「子猫でいた時はすごく可愛かったし、私にもなついてくれてたのに。やっぱり本性を隠して猫をかぶっていたんですね」
私が残念そうに言うと、青様は「いや、そうでもない」と笑う。
「あいつは本来、甘えん坊の末っ子体質だ」
えーっ!マジですか?もうほんと面倒くさいですよ、黒龍様。
「ああ、でもみんな、心配はしてますよね。泉の中にいる私たちの状況はわからない訳ですし、私のことは、きっともう死んでしまったって思ってるんでしょうね。リーヤたち、悲しんでるかな」
「そうだな。もしそう考えているとしたら、相当参っているだろう。だが、クロウは私の気を感じることができるから、私が自分の住み処で力の回復を図っているのはわかっていると思う。そして私の力が僅かでも残っているなら、碧を助けない筈はないと考えているだろう。皆にはそう説明していることを祈ろう」
すごい信頼関係だなあ。クロウ様、お願いです。青様の想いを酌んでください。
みんな、諦めないで青様を待っていて!私のこともできれば忘れないでいてくれると嬉しいな。
「私もみんなの無事を祈ります・・・」
「そうだな。もう少し時間をおいてから私も気を強めてみよう。クロウには知らせたいが、黒龍に気づかれては困るからな」
青様から流れてくる力が僅かに強まる。
「青様、あまり無理しないでくださいね」
「ああ、碧も少し休みなさい。なるべく力を抜いて心を穏やかに。私に全てを任せてくれ」
「はい・・・」
体の力を抜いて、青様に触れている額を意識すると、意識がゆっくりゆっくり沈んでいく。
それから何度か意識を取り戻し、その度に傍らで微笑んでいるの青様を確認して、少し言葉を交わして、また意識を手放す。その繰り返し。
時間の感覚は全くなくて、過ぎた時間が1週間と言われても、1ヵ月と言われても、1年と言われても信じられた。
青様の力は目覚める度に強くなっていた。
「回復が早いのは、碧から貰っている力も大きい」青様はそう言っていた。
「私の力って?・・・」目覚めても頭の中に霧がかかったようで、ぼんやりしてしまう。
洞窟の中は薄明かるくて、今が昼なのか夜なのかもわからない。
「せ、青様、あれから、ど、どれくらい、時間が経った、んでしょう?」
辿々しく尋ねると、「まだ1年は経っていない」と青様の声が耳許に響く。
「体調は変わりないか?体はつらくないか?」
青様が心配そうに声をかけながら、私の体を確かめるように撫でる。
「は、はい。大丈夫だと思います。正直、感覚がなくてわからないです。もしかしたらリハビリしないと、起きたり歩いたりできないかも知れませんね」
私の不安が伝わったのか、青様の手が私の腕や足を優しく擦る。
通常なら恥ずかしく感じるところだが、あまり感覚がないので平気だった。その状況が怖かった。
「青様、まだまだここから出られないでしょうか?」
私はとにかく不安だった。また意識を手放したらそのまま戻らないかも知れない。
目が覚めたら違う自分になってるかも知れない。眠ったままおばあさんになっちゃうかも知れない。
でも、青様は今と変わらないままなんだ。
やっぱり人間の時間は短いんだな。
「ここから出ようと思えば、今すぐにでも出られる。だが、黒龍が泉の出口に結界を張って、まだ私が戻るのを待っているようだ。力が弱いまま戻っても、黒龍の暴走を抑えられない。それでは碧を守りきれないのだ。私はそんな危険をおかせない」
青様は苦しそうに頚を振る。
「青様。私、怖くなってしまったんです。人間の命は短くて、すぐに老いてしまう。龍神の青様とは違うんです。私はここで何もしないまま、おばあさんになってしまうのが怖い。怖いんです!」
必死に言い募る私に、青様が宥めるように頭を撫でる。
「碧、落ち着け!私の力を受け取って、こうして側にいるのだから、碧の時間は通常の人間よりゆっくり流れるはずだ」
「それなら、時止めの結界は人間には使えないんですか?」
「さすがに生き物に使ったことはない。確証のないものを碧には使えない!」
青様が怒ったように言い放った。こんな怒りを感じるのは初めてだった。
「ごめんなさい」
私が体をびくつかせると、青様は大きなため息をついて、「気持ちはわかるが、もう少し待ってくれ」と、つらそうに呟いた。
それがどくらい先のことか、わからないことが私にはつらかった。
「これなら少しは安心できるか?」そう言いながら青様はゆっくりと姿を変えていった。
「人の姿になると、余計な力を使ってしまうのではないんですか?」
私が心配そうに言うと青様が「大丈夫だ」と私を抱く力を強くする。
「やっと影響なく人型を取れるようになった。この姿なら、碧をしっかりと抱き締めることができる」
青様が嬉しそうに私の耳許で囁くから、私はドキドキが止まらない。
「ドキドキして体が目覚めてしまいそうです」
「それは、困ったな」青様が少し残念そうに力を弛める。
代わりに優しく頭を撫でてくれる。
「龍の姿では碧を傷つけてしまいそうで思うように触れられなかった。それがずっともどかしかった。こうして撫でたりするのはダメだろうか」
青様からそんな風に言われて、ダメって言える人っているだろうか?私は言えない。
「ダ、ダメじゃないですけど・・・」私の答えはだんだん小さくなっていった。
だって恥ずかしいし、ドキドキはするんです。
それでも青様は嬉しそうだった。
「碧、もう少し私に時間をくれ。私が碧を守るから・・・」
青様は優しい。でも守られてばかりでいいのかなって思ってしまう。
「この姿なら碧に力も分けやすいな」
そう言って青様は私の額に唇を落とす。
私は「ひゃあっ」と変な声をあげてしまう。そりゃあげちゃいますよね?
「せ、青様、いきなり何なんですか?ビックリするじゃないですか。それってキ、キスですよね!」
デコチュウですよ?デコチュウ!
「ああ、すまない。人間にとっては特別なことなのか?額と額を付けるのと、そう違いはないように思うが」青様は不思議そうな顔をする。
「今までは青様が龍の姿だったから大丈夫だったんだと思います。それでもやっぱり恥ずかしかったんですよ」
青様にとっては私は子供なのかも知れないけど、私にとってはそうじゃない。たとえ青様が千年近く生きていたとしても。
「でも額を付けるのは我慢してくれ。そうしないと碧に力をそそぎ込めない」
青様が額を付けて肩を抱くから、青様の整った顔が目の前にあって、もう目なんて開けていられない。
「そうだ。少し休むといい」
青様は優しく囁くけど、眠れる訳がない。もう心臓ドッキドキなのに。
こんなに密着してるのにわからないのかな?青様は全然ドキドキしないの?私だけドキドキして馬鹿みたい。
私は人間としてはもういい年だけど、今まで男性に対してこう言う経験がない。
義理の父親から暴力を振るわれていたから、男の人が怖かった。話したりとか日常的なことは平気だけれど、異性として触れ合うとか考えられなかった。
小説とか漫画で憧れてはいたけど、実際にお付き合いをするとか結婚とかは無理だと思っていた。
でも青様にされることは、ドキドキするけど嫌じゃない。嫌じゃないんだなあ。
私は額から流れ込む、青様の温かくて柔らかい力を感じながら、またゆっくりと意識を手放した。
何だかちょっと寒いかも。意識が戻った時、そう感じた。
そして焦って飛び起きた。目覚めるといつも近くに寄り添っていてくれた青様がいないのだ。
「青様~!青様~!」叫んでも洞窟の中に私の声が響くだけだ。
周りを見回しても青様はいない。いったい何処に行ってしまったの?
置いていかれたんだろうか?いや、青様はそんなことはしない。じゃあ、何があったの?
私はまだぼんやりとする頭で考えた。
結局、私には青様を待つことしかできないけど、このままではそう長くは生きられないんだろうな。
どうせ死んでしまうなら、青様のそばがよかった。
そんなことを考えていたら、さすがに怖くなってしまって、私はゆっくりと立ち上がった。
ずっと眠ったままだったから、筋肉が衰えて立ち上がれないかと思っていたけど、何とか大丈夫そうだった。ゆっくり伸びをしたり屈伸をしたりして、体の動きを確かめていく。
「ちょっとフラつくけど大丈夫みたい。よかった。あれからどのくらい眠ったのかな」
足元に気をつけながら少し歩いてみる。
「やっぱり水音がする。きっと泉に繋がってるんだわ」
私は水音がする方へゆっくりと歩いていく。元の場所から離れ過ぎないように、迷わないように気をつけながら歩く。
少し歩くと天井が高くなっていって、鍾乳洞のような円錐形の柱に囲まれた泉があった。
その蒼と銀色の世界に息を飲む。やはり岩自体が光っているようだ。
私は泉に近寄ってその水を口にする。
「水ってこんなに美味しかったかしら」
久し振りに口にする水は甘く生命力に満ちていた。
「私、生きてるんだ!」
急にそう実感できて涙が溢れてきた。
私は泉の畔に座り込んでしばらく泣いていた。悲しいと言うよりもただただ泣きたかった。
「碧、どうしたんだ!」
青様が泉から姿を現して、慌てて私のところに駆け寄ってきた。
「どこか痛いのか?」
私の前で膝をついて、両手で頬を挟むと私の瞳を確認するように除き込む。
「目が覚めたら、青様がいませんでした・・・」
青様が驚いたように目を見開いた。
「ああ、すまなかった。不安にさせてしまったな」
青様がギュッと私を抱き締めて、背中を優しく撫でる。そして驚いたように呟いた。
「碧の体に力が満ちている。私の力と碧自身の力だ」
青様は何かを確認するように、私を上から下まで熱心に見詰めた。
「私の力?」
「そうだ。私の中にも碧の力が宿っている。だから碧は自分で体の封印を解いて目覚めたのだろう。体は大丈夫か?」
青様が私の腕や足を優しく擦る。
「少し動いてみろ」と言って、私の手や足をいろんな風に動かさせた。
そして、大丈夫そうだなっと安心したように私の手をギュッと握った。
「青様は何処に行ってたんですか?」
私が少し拗ねて尋ねると、青様は困ったように表情を歪めた。
「森に行ってきた」
「みんなに会いに?」
「クロウには確認のために会ったが、確認をしてすぐに戻った。碧が心配だから」
「置いていかれたんじゃなくてよかった」
私がホッと息を吐くと、「そんな訳あるか!」と青様が怒った声を出す。
「ごめんなさい。でもほんとうに不安で怖かったの」
「いや。ひとりにさせた私が悪いのだ。ほんとうに、すまなかった」
青様の声が優しい。私は安心してまた少し泣いてしまった。
私が落ち着くと、青様が森に行った訳を話してくれた。
「森にあった黒龍の結界が消えたのだ」
「えっ~?何でですか?」
「私もそう思って急いで森に確認に行ったのだ。碧は安定していたし、私の力も充分に満たしていたから目が覚めることはないと思ったからな」
「それで何があったんですか?」
「あれから黒龍は、森に結界を張りつつ時々森に現れていたらしい。クロウによると私を諦めた様子は見えなかったが、何か一族の方で問題が起こったようだ。あいつは一族に弱いからな。普通なら結界は張ったままにするところだが、よほどのことがあったのではないかと思う」
青様は結界が消えたことに安心しながらも、一族のことを気にかけているようだった。
「青様はいいんですか?一族の方たちのことが心配なんでしょう?」
「いや、黒龍と違って私は昔から一束とは距離をおいている。確かに気にならないと言えば嘘になるが、私が何かすることではないい」
「そうですか・・・」
私は複雑な気持ちだった。青様が一族を思う気持ちを尊重したい。でもやっぱりそばにいて欲しい。
私は青様のそばにずっといたい。例え、私だけが年を取ってしまっても。
「それよりも碧、森に帰れるぞ!」
青様がいままでで1番の笑顔を向けてくる。眩しいくらいだ。
青様も私がすごく不安に思っていることを気にしていたんだ。
「青様、嬉しいです。やっと帰れるんですね。みんなとも早く会いたいです」
私には森はすでに帰る場所になっていた。
「ああ、帰ろう!」
青様はそう言うと私を抱き締めて、顔を近づけると私の額に軽く唇を落とした。
力を注ぐのとは違う唇の感触に、私は焦りまくった。
「にゃ、な、何をするんですか?」
「森に帰ったらこんなことできなくなる」
リーヤたちにからかわれたのを思い出したのか、青様は何故か渋い顔をする。
「それはそうかも知れませんけど・・・」
私は内心のドキドキを隠しながら口を尖らせる。
「さあ、行こう!」青様が私に向かって手を差し出す。
「はい!」私は青様の手を取り、しっかりと握り返す。
元の世界から森にやって来た時とは違う。私は自分の意思で青様の手を取るのだ。
そして私たちは森に帰るために『泉の路』に歩き出す。
ー完ー