epilogue
「う、うぅ……」
緋真は自分のベッドの中で眠りについていた。
とある日曜日のことだ。
とはいえ、もう日も昇っているし、普段の緋真なら起きているはずの時刻だ。
「眠い……あと1週間……」
そんなに寝たらむしろ死ぬんじゃないだろうか。
気だるそうな緋真は起き上がろうともせず、ただ寝返りを打つ。
ふにょんっ。
手が何か柔らかいものに当たった。
「きゃっ」
「ん?」
自分の声ではない、短い悲鳴が聞こえた。
「……緋真。……揉むのなら、私の胸の方が感度がいい」
流石にこの状況で寝ていられるほど、緋真のメンタルは強くなかった。
緋真は目を開け、周りの状況を確認する。
緋真はベッドの上で全裸の柚子と寝間着姿の翠華に挟まれていた。
ちなみに、緋真の手は翠華の胸に深く沈んでいる。
柔らかい。
「ブフォッッ!」
慌てて後ずさると、今度は背中に柔らかい温かさを感じる。
「……いらっしゃい」
「ど、どういう状況なんだこれはっ⁉︎」
「あ〜……これはですね……」
翠華が気まずそうに目をそらす。
「……咲夜のせい」
「神宮の?」
柚子と翠華は丁寧に説明してくれる。
「……咲夜は、私達の『欠片』の邪気を祓ってくれた」
「でも、それは私達の『欠片』の機能が失われたわけではないではないですか」
「あぁ、そうだな」
翠華から悪意を取り除いた後、咲夜は神宮の家を説得して、事件に決着はついた。
しかし、緋真の『欠片』が『災禍』の力を失ったわけではない。
緋真の『欠片』は破壊されなければならない。
しかし、それは緋真が家族を失うということに繋がる。
それを見かねた咲夜が神宮の家を説得し、緋真が神宮を手伝うことを条件として、緋真は観察処分ということになった。どうやら今回の事件と、詩埜の事件の解決に貢献したことが大きかったらしい。
「それで、結局、『災禍』の邪気は私達4人で分け合うことになったわけでございますが」
「……もう、発生している」
「えっと……ちょっと待て。それが今の状況とどう繋がるんだ?」
「『災禍』の影響は、人の負の感情を増幅させるわけでございますが」
「……要するに、人のダメな部分」
緋真にも理解できた気がした。
緋真が今起きることができなかったのは、緋真の“怠惰”な一面が増幅されたためだと言える。つまり、まだ、『災禍』の邪気が1から育つために影響は少ないが、緋真達は徐々に人として誘惑に負けやすくなっているのだ。
「ちょっと待て……」
緋真は頭が痛くなった。
「つまり、お前らがここにいる理由は」
「……ムラムラした」
「もうちょっと言葉選ぼうか⁉︎」
「わ、私も、我慢できないのでございます……」
翠華が上目遣いで緋真を見上げる。
「え、えっと、翠華さん?そういうのは倫理的によろしくないんじゃないかと思うんだけど」
「私も、そう思うのでございますが……どうしても、頭を撫でて欲しいのでございます」
「……頭?」
「は、はい。私も流石に、キスとか、肌を見せたりするのはまだ早いと思います。でございますので、できれば、頭を撫でていただいたり、手を繋いでいただいたりして、触れ合いとうございます」
「汚れててごめんなさい!」
「……それは、私も汚れてるという、侮辱?」
柚子が不機嫌になる。
「とりあえず、もう起きよう。このままはまずいし」
そうして、着替えを済ませ緋真がリビングに入ると。
「おー!遅かったな!みんな!」
冷蔵庫の食材を全て生で食べ尽くしている蜜柑がいた。
「何してんだ蜜柑ー!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それは常陸に説得され、緋真が翠華を助ける覚悟を決めた時に遡る。
「……1つ、言っておくことがある」
「柚子?」
柚子はそのことを伝えるべきか否か迷っていた。
「……本当なら、不確かな情報だから、……言わない方が、いいのだけれど」
それでも、緋真の覚悟を見て、柚子も決意を固めた。
「……蜜柑は、生きている」
「は⁉︎」
緋真は驚きを隠せない。
「それ、本当か⁉︎」
「……正確には、今まで殺された人全員が」
「え?どういうことだよ?」
柚子の説明はこうだった。
翠華の能力によって死んだ人間達は全員、どんな場所にあっても体温が低いままで、冷凍保存された状態だ。
しかしそれは正確に言えば違う。
彼らは全員、翠華の能力によって停止している。
活動が停止しているわけではなく、まるで時が止まったかの様に動くことがないのだ。
体のどこにも異常がなく、ただ止まっているだけ。
柚子の電気の様な、能力による熱ならともかく、普通の熱を与えてもその停止が戻ることはないらしい。
そして、停止状態さえ解ければ、その人達は全員普通の生活に戻ることができる。
「つまり、翠華に能力を解かせれば、みんな元に戻るってことか……?」
「……そう」
柚子はこくり、と頷く。
「……そもそも、蜜柑が死んだのなら、今の状況はおかしい」
「?何がだよ?」
「……言い方が悪くなるけれど、蜜柑は緋真の能力。……死んだのなら、新しい人格が生まれるか、……『欠片』が壊れるはず」
「ってことは……蜜柑はやっぱり、まだ、死んでない?」
「……翠華さえ、なんとかできれば」
蜜柑も帰ってくる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんなわけで。
凍死事件は、被害者が生き返ったということで無事解決した。もちろん、死んだはずの人間が生き返ったことによりひと騒ぎありはしたが、全ては元通りになった。
「むしゃむしゃ、もぐもぐ、ふいはほふふっはひょうりはふはいは」
「ちゃんと食ってから喋れ蜜柑。何言ってるか分かんないぞ」
「ふふっ。お粗末様でございます」
どうやら翠華には蜜柑の言葉が分かったらしい。
緋真達が起きると蜜柑が食料を全て食べ終えた後だったため、緋真達は仕方なく買い物に出た。
帰って来るとたまたま常陸が家を訪ねるところだったため、そのまま5人で朝食という流れになった。
「というか、まだ食べるのか?さっきあんなに食べたくせに」
生で。
「仕方ねーだろ。最近なんか食べたくて食べたくて仕方ないんだから」
これもおそらくは『欠片』の影響だろう。
朝、緋真は怠惰になった自分と、寝込みを襲おうとした柚子、翠華を見て、影響はそんなに大したものではないと感じたが、蜜柑のそれは食費に直接ダメージを与えてくるので、大したことなくはなかった。
「とにかく、そんな大量に食ってたら常陸姉の給料が底をつくだろ。もう少し我慢しろ」
「む〜。しゃーねーな」
「そもそも私に頼りきりな前提なのですね……」
常陸が微妙な顔をする。
ふと、緋真は肩にトントン、と軽く叩かれる感触を感じる。
見ると、翠華が物欲しそうな顔をしていた。
「あの……緋真様」
「どうした、翠華?悩みや願い事ならなんでも言ってくれ。俺にできることなら何でもするぞ」
「ありがとうございます。では、お願いがあるのでございますが……」
「おう、何でも言ってくれ」
翠華はもじもじとためらっている様だったが、やがて決心した様に表情を引き締める。
そして手に持つ箸で食べ物をつまみ、緋真の口元に運ぶ。
「あーん……」
「……」
「あーん、でございますよ、緋真様」
少し恥ずかしそうだが、翠華は満面の笑みで緋真にあーんを強要する。
「いや、あのな、翠華?」
「ダメでございますか?先程は何でもすると仰ってくださったじゃないですか。やはり私のお願いなど聞きたくないのでございますね」
そう言って翠華は泣き真似をする。
「……そういうのはずるいぞ」
「では、あーん♪」
「あーん……」
緋真は翠華の箸につままれたものを食べる。
恥ずかしくて味など分からない。
「えへへ……」
翠華はとても嬉しそうだった。
「……緋真、私も」
不意に柚子が緋真の袖を引っ張る。
「柚子もあーんしたいのか?」
「……ちゅー」
柚子は口を突き出す。
「ちょっと待て何するつもりだ」
「……口移し」
「待て待てそれはおかしいだろ!」
「さあ、緋真様。もう一口どうぞ♪」
「……んー」
「待てって落ち着け2人とも!」
そんなやり取りを常陸はジト目で見ていた。
「これは、家族の域を超えてるのです……」
「おかわり!」
「だから蜜柑お前はこの家の食料食い尽くすつもりか!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の夜。二階のベランダにて翠華は空を見上げていた。
「どうしたんだよ。こんなところで」
そう声をかけてきたのは緋真だ。
「……少し、考えていたのでございます」
「何を?」
「自分の……しでかしたことを」
「……」
緋真は軽々しく答えられない。
彼女の後悔を否定したい。
それはお前のせいじゃないから考えるな、と考え無しに言いたい。
でも、それは翠華のためにはならないとわかっていた。
「やめろ」
「え?」
「1人で抱え込むのは……やめろ」
緋真は翠華の頭を軽く撫でる。
「あれはお前のせいじゃないけど、それじゃあお前の後悔は晴れない。でもせめて、1人で悩むなよ。俺も、柚子も、蜜柑も、常陸姉も、みんなお前の家族だ。家族なんだから、お前の思いをぶつけてくれよ。そして、一緒に考えようぜ」
「緋真様……」
翠華は緋真の肩に頭を預ける。
「す、翠華?」
「ずっと……考えできたのでございます」
翠華はポツリと呟く。
「何の責任もなく、何の憂いもなく、ただ緋真様と、皆様と笑い合えたらどれだけ幸せか、と」
それは願いだ。
「ずっと叶わないと思ってございました」
『災禍』の狂気を1人で背負っていた翠華の願い。苦しんで、悲しんで、不幸な少女のささやかな望み。
「叶っても、私の過去は変わらない」
望みが叶った少女は、それでも、苦しんで、悲しんで、不幸な少女のままだった。
「でも、私は変われたと思うのでございます」
「翠華……」
「以前の私の上に今の私を積み重ねていけている、そう実感しているのでございます」
翠華は何を思ってか微笑む。
「これからは、苦しくなったらみんなに相談します。家族なのでございますから、ちゃんとぶつかっていくのでございます」
「任せろ。ちゃんと受け止めてやるから」
「緋真様」
翠華は緋真をしっかりと見据える。
「ありがとうございます」
その笑顔は家族という幸せを取り戻した証拠だった。