3話 消失・欠落・屈折
「今日も……ダメみたいね」
朝4時。
緋真、詩埜、咲夜は凍死事件を追っていた。
これ以上は日常生活に支障が出る。
「今日はここまでにしましょうか」
「そうだな……」
「サナ……きっとなんとかなるわよ」
詩埜の優しさが身に染みる。
「とりあえず、今日は次に備えるために帰るって考えましょう」
「そうだな」
こうして3人は解散し、緋真は家に着いた。
「あぁ……またか……」
ここ最近、緋真は家に着くなり眠気に襲われる。
理由はわからない。
深夜町中を走り回ったからだろうか。
とにかく、緋真は自分の部屋まで眠気を抑えながらも到着し、ベッドに倒れこんだ。
(意識が……遠のく……)
緋真は眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「なぁ翠華。こんなところで良かったのか?」
今、俺と翠華は2人で遠出をしている。
デートで色んなところに行ったのでそうしようと2人で相談したのだ。
「はい。実はとても楽しみにしてございます」
「そうなのか?」
俺達は今海に来ている。
とはいえ今はまだ夏前。
入れる様な水温でもないし、ただ眺めているだけというのも味気ない様な気がする。
「私は海を見たことがないのでございます」
「あ……」
翠華は俺から生まれた存在だ。
そして翠華が生まれてから俺は一度も海に連れて行ったことがない。
「ごめんな。気付いてやれなくて」
「いえ。こうして来れただけで幸せでございます……」
浜辺で海を眺める翠華の手を俺はしっかりと握る。
「たとえ……本物でなくても……」
その言葉がきっかけだった。
「……うッ……?」
本物でなくても?
そうだ。
これは夢だ。
最近俺は翠華の夢を見る。
ここに柚子も蜜柑もいないのはこれが夢だという証拠だ。
だけとおかしい。
何か違和感がある。
「翠華……」
「はい。なんでしょう?」
俺の知っている翠華とは性格が全然違う。
でも、それは確かに翠華だ。
俺にはわかる。
「なんで、俺の夢の中に本物の翠華がいるんだ?」
その言葉を聞いた翠華は表情を歪ませる。
そう、それは確かに翠華だ。
でもそれは俺の夢の中の登場人物として翠華がいるという意味じゃない。
俺の夢の中に現実の翠華の意識が乱入しているという意味だ。
どう見ても、目の前の翠華は夢の中で俺の無意識によって動かされている様なものではない。
「ど、どうして……」
「翠華?なんとか言ってくれ。どうしてこんなことになっているんだ?」
「も、申し訳ございません!」
次の瞬間、俺の意識が途切れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
緋真が目を覚ますと薄暗い天井が目に入った。
時計を見るとまだ午前4時30分だ。
すぐさま緋真は玄関へと向かった。
玄関には柚子がいた。
仮想体で。
しかし緋真は疲れを感じる。
柚子達が人間体か戦闘体になると緋真は体力を消耗する。
その場には蜜柑も翠華もいない。
彼女達は仮想体では緋真から10メートル以上離れることができない。つまり彼女達は仮想体以外の体になっているということだ。
「柚子。翠華はどこだ」
緋真はあえて翠華の名前だけを出した。
柚子は緋真の目を見ない。
「……彼女のことなら、心配ない。」
「どこにいるかって聞いているんだ!」
柚子は目を見開く。
町中に響いてもおかしくないほどの声量。
緋真がここまで大声を出すのは初めてだ。
緋真が一歩踏み出す。
柚子は緋真の前に立ちはだかる。
「どけ」
「……行かせない」
柚子は本気だ。
絶対に緋真を家から出さないと決意している。
そんな柚子に対して、緋真は頭を下げる。
「お願いだ。行かせてくれ」
柚子はキョトンとする。
「俺は翠華に会った。いや、ずっと会っていた」
その言い方はおかしい様に聞こえるが、事実だ。
緋真は夢の中でずっと翠華と会っていた。
「翠華は可愛い女の子だった。俺の為に尽くしてくれる、優しい女の子だった。でも……俺が今まで見てきた翠華は!ずっと接してきた翠華は……」
夢の中の女の子とは全くの別人だった。
他人を拒絶し、世界を敵だと認識している様な虚ろな目をしていた。
誰とも口をきかず、ただただ孤独に生きていた。
「なぁ、柚子。翠華は……どうしたんだ?一体何があったんだ⁉︎」
緋真は知らない。
緋真だけが知らない。
今の状況を見る限り、柚子と蜜柑は翠華についての何かを知っていたのだ。
「……知れば、緋真は悲しむ」
「俺達は家族だ!俺はたとえ悲しんだって、翠華の為にしてやれる何かをしたい!お願いだ柚子!翠華に合わせてくれ!」
「……後悔、するかもしれない」
「構わない」
柚子は緋真の目を見た。揺るがない意志があった。今の緋真を止めることはできない。柚子はそう確信した。
「……緋真の為に、なるのなら……」
こうして緋真は家を出て、町中を走り回った。
(意識を研ぎ澄ませ!)
柚子達は緋真から生まれた存在だ。
だから意識の底では全員が繋がっている。
(翠華との繋がりを感じるんだ!翠華を想うんだ!)
緋真はただひたすらに翠華を捜す。
ガムシャラに走り回って、意識を翠華に向けて、ただただ捜す。何かアテを辿るのではない。
ヒントを何かから得るのではない。
翠華に向けて、意識を集中して、あらゆる場所をくまなく捜す。
そして見付けた。
そこには翠華がいた。
黒いボンテージの様な衣装に後ろ半分程スカートがついた服を身に纏い、太ももまであるロングブーツと二の腕まである革地の手袋。
その手には身長と同じ程ある無色透明の薙刀を持っている。
そしてその隣には。
とても大きな氷の中に閉じ込められた死体があった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……まさか」
咲夜はある1つの事実に近付いていた。
「私は……見落としていた?」
見落としていた。
確かに咲夜は緋真に『欠片』の反応を感じ、緋真を見ていた。
しかし、緋真からは『欠片』持ちから感じるはずの邪気を一切感じなかった。
『欠片』があれば負の力がどうしても溢れる。
しかし緋真からは『災禍』の影響による邪気、性格破綻が一切見られなかった。
性格が変わっても別に周りの人は気付かないが、『災禍』の影響による性格異常は特有の反応が出る。まるでドス黒い何かに心を犯されたかの様に。
しかし緋真には一切それがなかった。
だからこそ咲夜は緋真を白と判断した。
『浄化の欠片』の持ち主だと思った。
しかし、咲夜はある事実に今気付いた。
緋真の力は存在を、“人格を生み出す能力”だ。
そして『災禍の欠片』の邪気は“人格を歪ませる”。
緋真は3つの『欠片』を持っている。
もし、その3つの『欠片』の邪気を、誰か1人の人格が全て自分で抱えているのなら。
緋真には一切『欠片』の影響は出ない。しかしその代わり、その抱えた人格は一体どうなるのだろうか。
「今まで気にしてなったけど……」
緋真の側にいた3人を思い出す。
柚子、蜜柑、翠華。よく覚えてはいない。
それでも1つだけ覚えていることがある。
翠華。
彼女だけは他の2人とは違う様に見えた。
彼女だけは緋真を、いや、周りを嫌っている様に見えた。
「つまり、翠華ちゃんが……3つ分の『欠片』の影響を受けている……?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「どうなさいました?緋真様」
それは夢の中の少女の声そのものだった。
恋人として共に過ごした幸せな日々。
その中心人物である翠華の声。
いや、1つだけ違う部分がある。
夢の中の翠華の声は優しさに満ち溢れていた。
緋真を想う気持ち、緋真のためにという気持ちでいっぱいだった。
しかし今の翠華は違う。
その声は冷たさを孕んでいた。
まるで他人の様に、いや、敵の様に、仇の様に。
天敵の様に、汚物の様に、障害の様に。
彼女の声は緋真を嫌う声だった。
緋真が嫌い。
緋真が憎い。
緋真が気持ち悪い。
それを明確に伝えるかの様に、言葉に出してはっきり言うかの様に。
その声が語っていた。
「なぁ、翠華。何やってんだよ」
悲痛な声が上がった。
緋真の声だ。
「お前は……俺の事が嫌いなんだろ?だったらなんで他の人を殺したりするんだよ⁉︎」
「緋真様の事が嫌い?」
翠華は沈黙する。
しかし次の瞬間。
「ふ……ふふふ、ウフフ、アハ、あははあははアハハハハハはははははははははハハハハハハハハハハハハハハ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
翠華は笑いだした。
笑った。
笑った。
笑い狂った。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
これ以上無いくらい笑った。
ツボに入った様に、可笑しなものを見たかの様に。
「私が?緋真様を?嫌い?そんなわけないでございましょう?アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
笑いが止まらない。
しかし、次の瞬間翠華の表情は冷めていた。
翠華の緋真を見る目は、まるで笑っていなかった。
絶望と憎悪をない交ぜにしたかの様な、怒りと悲しみにたけ狂うかの様な、『災禍』の権化と言ってもおかしくない、そんな表情。
「殺したい」
ぽつりと呟いた。
「私は緋真様の事が嫌いなんかじゃない。緋真様を殺したい。皮をはがして指を削って手足を捥いで!殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺したい‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎ありとあらゆる苦痛を‼︎ありとあらゆる絶望を‼︎殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
それは嫌悪という感情ではない。
敵意だ。
殺意だ。
憎悪だ。
絶望だ。
翠華は緋真が嫌いなのではない。
自分で手にかけないと、苦しむ姿を見ないと気が収まらないほど狂っているのだ。
嫌いなどという言葉では言い表せないほどの憎悪。
翠華にとって緋真はただの敵だった。
仇だった。生理的に受け付けない対象だった。
「翠、華……」
「……緋真!」
その言葉が、その声が、その表情が、その態度が、緋真の心を折りにくる。
「最後に、教えてくれ……どうして、そこまで……」
それは唯一の希望だった。
緋真は救いを求めた。
原因があれば、理由があれば、仕方ないと思える。
まだ大丈夫だと頑張れる。
しかしそれは悪手だった。
「理由?そんなものーーーーーーーー」
あるわけがない。
『災禍』の影響を受けているのだ。
あったところで、その言葉に何の意味もない。
翠華が言葉を紡ぐ、その瞬間。
「ぁぁぁぁああああらぁぁぁぁぁぁああああああああああああっしゃぁぁぁぁぁああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
救いの手が現れた。
翠華がその場から離れた瞬間、そこには1人の少女とクレーターが現れた。
小学生ほどの背丈で、茶髪の髪をお下げにした快活な少女。
「緋真!コイツの言うことに耳を貸すな‼︎」
「蜜柑⁉︎」
その少女は蜜柑だった。
蜜柑が翠華に向けて飛び蹴りを放ったのだ。
「蜜柑!どこに行ってたんだよ⁉︎」
緋真は思わず声を荒げる。
それに答えたのは蜜柑ではなかった。
「……私と蜜柑は、初めから知っていた」
緋真の側にいた柚子だ。
「知っていた?何をーーーー」
「そこのバカが1人で問題抱え込んでたのも、ついにおかしくなって近所の奴ら殺し始めたのも、全部だ!」
「なっ⁉︎」
蜜柑達は知っていた。
翠華の今までの態度の理由も。
凍死事件の真相も。
「だったらなんで教えてくれなかったんだ!知ってたら……こんなことには……」
「なってたよ!」
蜜柑が信じられないほど大きな声を上げる。
「アタシ達が必死になって死力を尽くしても今まで事件に間に合う事さえなかったんだ!いくら生みの親でも、ただの人間の緋真には何もできるわけないだろ!」
「……私達は、緋真に心配させたくなかった」
「で、でも!神宮に相談すれば!」
「翠華を消してくれたかもしれないな!」
その言い草は暴論だ。
咲夜という人間を冒涜している。
しかし、今まで緋真が見てきた神宮咲夜という人間について、蜜柑の言葉を完全に否定する事ができない。
万が一でも、億が一でも、その可能性を否定できない。
否定できない以上、咲夜に頼むのは緋真にはできないことだった。
「痴話喧嘩は終わりございましたか?」
キンッ……!と、氷を連想させる冷たく綺麗な音が響く。
慌てて蜜柑が緋真を掴んでその場から飛び退く。
次の瞬間。
ガキンッ‼︎と翠華の足元から先程まで緋真達がいたところまでにかけて、大きな氷柱が地面から生えてきていた。
「……ッ」
緋真は背筋が凍った。
翠華は本気で緋真達を殺しにきている。
その事実が、緋真に絶望を与える。
「緋真……。覚悟しろ。アタシはもうできてる」
「何をだよ……?」
次の瞬間、蜜柑の姿が変わった。
中は動きやすい様、タンクトップと短パン。
そしてその上に黒の長ランに似た黒衣を着ていた。
更に手には黒の指貫グローブ、頭には黒のハチマキ。
それは確かに、蜜柑の戦闘体だった。
「アイツを連れ戻すために、一発ぶん殴る!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「柚子!サポート頼む!」
「……任された」
瞬間、大きな音と衝撃を生じ蜜柑がその場から消える。
同時に、衝撃が形になったかの様に氷柱が出来上がる。
次の瞬間、蜜柑が翠華の目の前にいた。
蜜柑はそのまま腕を振り抜く。
だが、それを紙一重で避け、蜜柑の左脇腹目掛けて横薙ぎに一閃する翠華。
その薙刀に左手を置き蜜柑はその左手を軸としてジャンプする。
薙刀に蜜柑の体重が掛かり、翠華が体勢を崩す。好機とばかりに蜜柑は空中にあるままの足を翠華の顔目掛け振り回す。
翠華はそれを体勢を前傾させ避ける。
一旦距離を置こうと後ろに下がろうとする翠華だったが、バチバチッ!と後ろに雷が落ち翠華の動きが止まる。
柚子が『温度差を電圧に変える能力』によって、翠華の背後に電流を流したのだ。
「……くっ」
「ぁぁぁだぁぁぁぁらぁぁぁああああ‼︎‼︎」
蜜柑が一気に畳み掛ける。
一心不乱に拳を振るう。
翠華はそれを紙一重で全て避ける。
翠華の劣勢だ。
誰がどう見てもそう思うだろう。
だが、変化は徐々に現れた。
「……ぅうっ!」
呻き声を上げたのは蜜柑だ。
「……ハァ……ハァ……やっとでございますか」
翠華は息を荒げて疲れを表情に出している。だが、今の状況はわずかに翠華の優勢だ。
蜜柑の拳は凍りついて使い物にならなくなってしまっている。
「あ、あれは……!」
緋真は気付いた。
それは間違いなく翠華の能力によるものだ。
翠華が紙一重で蜜柑の拳を避けていたのはわざと。
罠だった。
紙一重で避けることで、蜜柑に拳を振るわせていたのだ。
翠華の持つ能力は『大きな振動を与えた物質の振動を止める』ことだ。
要するに、翠華は衝撃を凍らせる。
蜜柑の振った拳は空気に振動を伝えた。
翠華はその振動を凍らせたのだ。
さらに言えば、蜜柑は『電気エネルギーを運動エネルギーに変換する』能力を有している。
蜜柑は自分の生体電気から運動能力を得て、自分の身体能力を増幅させていたのだ。
だが、その増幅された分、蜜柑が周りに与える振動は大きくなる。
翠華は蜜柑の攻撃を全て蜜柑に返したと言える。
「本当は、最初の時点で捕らえたかったのでございますが」
戦闘の初め、蜜柑はその運動能力をフルに使い、一瞬で翠華との距離を詰めた。
その時の衝撃を翠華は凍らせたが、蜜柑の距離を詰める速さが勝った。
「では、さらばでございます」
翠華の薙刀が蜜柑の首目掛けて振り下ろされーーーーー
「やれっ!」
「……らじゃー」
バチィ!
翠華と蜜柑の間に電気の障壁が形成される。
翠華が凍らせた部分とそれ以外の場所には温度差が生じる。
それを利用して柚子は翠華と蜜柑の間に電気を流した。
「喰らいやがれ!」
蜜柑は電気エネルギーを運動エネルギーに変えることができる。
その場の空気にその運動エネルギーを全て与える。
次の瞬間、轟ッ!と、翠華と蜜柑の間の空気が爆発した。
「きゃっ!」
「うぐっ!」
2人は衝撃に耐え切れずそのまま吹き飛ばされてしまう。
「……ハァッ……ハァッ」
翠華と蜜柑の間に距離ができるが、翠華は今の攻防で疲弊しきっている。チャンスだ。
「このまま畳み掛ーーーーーーーー」
「セァッ!」
翠華が地面に薙刀を叩きつける。
薙刀が折れるくらいに。
しかしその衝撃は凄まじく、翠華と蜜柑の間にとても巨大な氷柱を作ってしまう。
氷の壁。
「……こんなもんで」
蜜柑は数瞬息を整える。そして氷に意識を集中させる。
「アタシを……止められるかぁぁぁぁぁぁあああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
使えなくなったはずの拳。
蜜柑はそれを目の前の氷壁に叩きつける。
「ぁぁぁぁぁあああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
ただ一点に。何度も何度も。
「だだだだだだだだだだだだだだだ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
早く。速く。鋭く。力強く。
ただひたすらに目の前の氷の一点を何千何万何億と叩き続ける。
そしてーーーーー。
バガァッッッッ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎
わずか10秒足らずで、巨大な氷柱が瓦解した。
崩れた氷塊に紛れて翠華が薙刀を構え突進を仕掛けてくる。
翠華の持つ薙刀は能力によって作られた氷の薙刀だ。
だからこそ、折れたとしても折れた部分を打ち付ければ凍らせて直すことができる。
突進に合わせて翠華が地面に向け薙刀を何度も振るう。地面に生じた衝撃が蜜柑の左右と後方に氷の壁を作り出す。ただでさえ狭かった住宅街の道路が、一歩も歩けないほど狭くなる。
もう逃げられない。
「これで…………終わりでございます‼︎」
翠華と蜜柑が交差した。
しばらくの間、沈黙が訪れた。
「……そんな」
沈黙を破ったのは翠華だった。
目の前の光景を受け入れられない。
蜜柑が薙刀を布の様なもので受け止めていた。
見ると、黒衣の裾が破れている。蜜柑はとっさに黒衣の端を千切り、何枚も重ねて薙刀の柄をとり抑えたのだ。
蜜柑の拳は凍らされたが、氷で覆われた訳ではない。
寒い日に手が動かなくなった状態を酷くしたものだと考えればいい。鋭い痛みを感じながらも、蜜柑は無理矢理手を動かし、薙刀を防いだ。
「衝撃を凍らせるんだろ。だったら、叩いたりせずに防げばいいだけだ」
ニッと蜜柑が笑う。
「これで……終わーーーーーぁがッ!」
「ぅぐッ!」
蜜柑と翠華、両方がその場に崩れ落ちる。
力が抜ける。体が重くなる。
目の前の景色から情報が徐々に抜け落ちていく。
「(一体……何が……)」
「……緋、真……!……しっかり、して……!」
柚子の悲痛な声に、ようやく蜜柑は気付く。
自分の犯した失敗に。
「かはァッッッ!……ぁハァッ!……ぅがァッ!……ッッッ!」
そこには、苦しそうに息を荒げ、まともに立つ事すら出来ない緋真の姿があった。
柚子、蜜柑、翠華。
彼女達は緋真の能力そのものだ。
その存在は緋真が維持をしている。
彼女達の行動や存在の状態によって、緋真の労力は変わってくる。
仮想体は最も出力を抑えた状態だ。
だからこそ、他の人には見えないし、ものを動かすほどの力も出せない。
だが、人間体の様に人に見える姿にすれば、ものを動かすほどの力を出せる様にすれば、その分緋真の労力も大きくなる。
そして、能力すら使える戦闘体なら尚更労力は増える。
しかも、現在は3人全員が戦闘体なのだ。
緋真にもたらされる負荷は想像を絶するものになる。
『柚子!サポート頼む!』
『……任された』
蜜柑は柚子に仮想体のままではなく、戦闘の後衛を任せた。
これは、翠華と蜜柑だけが戦闘体であれば緋真の負担はもっと軽く済んだだろう。
だが、蜜柑の失態はそこではない。
「(クソッ!……時間を掛けすぎた……!)」
そう、蜜柑は時間を掛けすぎた。
翠華に苦戦を強いられていたという点は確かにある。
だが、蜜柑は電気エネルギーによって身体能力を上乗せできる。
初めから柚子に電気を生み出してもらい、身体能力にものを言わせて短期決戦に持ち込めば良かったのだ。
しかし、翠華の能力は応用が利きやすく、どの間合いでも使い勝手が良く、更に蜜柑の能力には相性が悪すぎるため、初手から相打ち覚悟の捨て身を取ることはできなかった。
慎重になってしまったのだ。
翠華が無理矢理体を起こす。
「流石に……私もキツいでございますが……っ……これ、なら……逃げられ、ますわ……」
翠華は緋真の身を案じる必要はない。
自分の存在が消えてしまう可能性もあるが、それらの事に考慮するほどの正気は翠華にはもう残っていない。
「御機嫌よう……」
「ま、てよ……!」
蜜柑が必死に立ち上がる。
ここで逃すわけにはいかない。
緋真を危険にさらすわけにはいかないが、それ以上に、ここで翠華を見逃してしまえば、二度と会えない、そんな予感がする。
「お前……こんなことしててタダで済むと思ってんのかよ……!」
一歩ずつ、確かに踏みしめ前へと進む。
「人のこと何人も殺して……緋真を騙して……」
一歩ずつ、翠華の元にたどり着いていく。
「人を!生きるってことを!何だと思ってやがる!」
拳を握る。
まだ手は凍ったままだ。
無理矢理動かしたせいで損傷もある。
緋真が蜜柑達を維持できないほど弱っているせいで力も入らない。
「正気を失ってるのかもしれない。『災禍』の力に飲まれてるのかもしれない。でも……そんなことは関係ねぇ!」
無理矢理にでも力を込める。
身体中の力を振り絞って、翠華に向ける。
「目ェ覚ましやがれェッッッ!」
蜜柑は翠華の頬を全力で殴りつける。その衝撃で、翠華は吹き飛ぶ……はずだった。
「……やって、しまいましたね」
翠華の口が愉快に歪む。
頬を殴った。そう、殴ったのだ。拳を叩きつけたのだ。
全力を絞り出しただけあって、その衝撃は十分だった。
「……緋真」
蜜柑は目線だけを緋真に向ける。
パキパキパキッ。ピシッ。
もう、蜜柑の右腕は、肩までを氷に覆われてしまった。
「アタシはどうやら、ここまでみたいだ」
辛うじて意識だけは残っていた緋真は蜜柑を見る。
清々しい笑顔だった。
でも後悔を残した顔だった。
「ごめんな。アタシ、馬鹿だから。緋真に迷惑かけたみたいだ」
「蜜柑…………」
そんなことない!
蜜柑は頑張ってくれた!
俺が情けないだけだ!
そんな言葉は形にならない。
そんな体力はまだ回復していない。
パキパキッ。
パキパキッ。
ついに、蜜柑の首から下が氷に覆われる。
「じゃあな。がーーーーーーーー」
パキパキパキッ……。
蜜柑は凍死した。
事の顛末を見届けた翠華は、無言でその場を去ろうとした。
「待って……くれ!」
声をかけたのは緋真だ。
翠華は振り向かず、ただ立ち止まる。
「どうして……こんな事をするんだ!どうして、そんなに俺達を嫌うんだ!」
緋真は必死に絞り出した。
言ってはいけない言葉を。
聞いてはいけないことを。
「なぜ?そんな事決まっているでしょう?」
翠華が振り向く。
「貴方が幸せだからでございます」
緋真は幸せ者だ。
家族を失ったけれど、また新しく家族を手に入れた。
その家族と楽しい毎日を送れた。
でもそれは、何の犠牲もなかったわけではなかった。
「私は不幸でございました。『災禍』の悪意を、3つの欠片の分この身に受けました。苦しかったでございます。痛かったでございます。悲しかったでございます。辛かったでございます。痛くて苦しくて悲しくて酷くて不快で不幸で辛くて頭がおかしくなりそうでございました!耐えられない堪えられない絶えず続く痛みに苦しみに悪意に狂気に悲しみに怒りに恐怖に畏怖に闇に耐えられない‼︎私は世界を憎んだ世界を恨んだ世界に絶望した!」
緋真は知らなかった。翠華がどれだけ不幸であったかを。翠華がどれだけ苦しんできたのかを。
「貴方は知らないのでございます。私の痛みを!私の怒りを!私の不幸を!私の背負った全てを!そんな……」
翠華の目には虚ろさも、狂気も孕んでなかった。
「そんな貴方に……何ができると言うのでございますか……!」
翠華の目には、ただただ怒りと悲しみが満ち溢れていた。
緋真の心は、ポッキリと折られてしまった。