1話 取り戻した日常と変わった夢
「ひーちゃん?これはどういう事ですか?」
月長家の家中に可愛らしい声が響き渡る。
「いや、その……」
何と言えばいいのか、正座中の緋真は言いよどんでしまう。
「わたしはいつも汗水垂らしながらひーちゃんのために働いているんです。最近やっとひーちゃんのことも養えるくらい稼げる様になったんです」
「いつもありがとうございます」
「そーいうのは今はいいのです!」
いきなり叫ばれてびっくりしてしまう緋真。
「なんでひーちゃんはいつもいつも、わたしの稼いできたお金をすぐ使っちゃうんですか!またお母さん達に借りなきゃいけないじゃないですか!」
「面目次第もございません」
緋真はただ謝る事しかできない。
言い訳をしたところで金が返ってくる訳でもない。
「謝ったところでお金は返ってこないんですよ」
「そ、その通りです」
目の前の女性は成人女性としては身長は平均的だが、顔立ちと話し方、雰囲気のせいか年齢より子供っぽく見られる。会社でも中学生と見間違えられたくらいだ。緋真よりも6つほど年上だというのに。
生え際の薄茶色の髪に対して、ボブカットに切られた先端は色素が濃くなり焦げ茶色をしている。
本人曰く、自然とこうなるのだとか。
胸も腰つきも控えめで、以前詩埜と会わせた時はショックのあまり3日ほど寝込んでしまった。
彼女は村雨常陸。
月長緋真の従姉であり、保護者でもある。
普段は彼女の実家の方が仕事先に近いためそちらで暮らしているが、たまに緋真の様子を見に来る。
そんな彼女は今、金の無駄遣いを緋真に注意している。
しかしこればかりは直る訳がない。
何故ならこの家に住んでいるのは4人なのだから。
『災禍』。
この世に狂乱と異常を巻き起こす存在。
緋真はその『欠片』を所持しているが故に特殊な能力を持つ。
それが“人間と同等の存在である柚子、蜜柑、翠華を創り出し、維持する事”だ。
柚子達は普段は緋真と『欠片持ち』にしか見えない状態である仮想体で生活をしている。
その状態であればご飯を食べたり風呂に入ったり運動したりといった人間に必要な事をする必要はない。
しかし緋真にとって3人は家族だ。
出来るだけ自分達と同じ生活を送ってほしいと思うのは当然の事だ。
しかし、そのせいで出費はかさみ、いつも常陸に怒られてしまうのだ。
「まったく、これからは気を付けるんですよ⁉︎」
「……えっと」
「わ・か・り・ま・し・た・ね!」
「は、はい」
顔を近付けられて凄まれたらもう何も言えない。
そのまま常陸は自分の部屋へと戻って行った。
常陸には見えないがずっと緋真の側にいた柚子は緋真に話しかける。
「……私達のこと、話さないの?」
「あ〜……まぁ、話さなきゃとは、思うんだけどなぁ…………」
村雨常陸は緋真の恩人でもあり、家族でもある。
両親を失った直後はショックで常陸を拒絶していたが、その優しさに触れて、緋真は常陸を家族だと思える様になり、同時に罪悪感を抱いた。
柚子、蜜柑、翠華。
3人のことを話せていないのは、常陸を完全に家族と思いきれていないから。
そのせいで余計に緋真は常陸への罪悪感を強めていた。
言うのが怖い。
信じてもらえない可能性もあるが、信じてもらえたとして、緋真は家族であるはずの常陸に今まで言えずにいたのだ。
それは常陸を裏切ったと言えるのではないか。
常陸を裏切っていたことを、いや、常陸を裏切り続けていることを知られるのが怖い。
その瞬間の常陸がどんな顔をするのか、考えるだけで胸が苦しくなる。
「……ちょっと風呂入ってくる」
「……私も」
脱衣所で緋真は無心で服を脱ぐ。
無心であったせいで気付くのに遅れた。
浴槽に沈み込むと、想像以上に水がこぼれ落ちた。
ふと不思議に思って顔を上げると。
裸の柚子が目の前にいた。人間体で。
「…………」
「……ぶぃ」
ピースサインをする柚子。
「ほぎゃあッ!」
素っ頓狂な声を上げて勢いよく跳び上がる緋真。
『どッ!どうしたのですか⁉︎』
慌てて風呂場に駆けてくる常陸の声が聞こえる。
「なッなんでもないから!気にしないで!」
『でッ!でもでも!なんでもないとは思えない声だったのですよ⁉︎』
「えっと……そう!ゴキブリ!ゴキブリが風呂場に出ただけなんだ!」
『それはそれで大変な事態なのです!』
「……ゴキブリ扱いなんて、緋真ってばひどい」
「と、とにかく!こっちは自分でなんとかできるから!常陸姉は仕事の疲れを自室で癒してくれ」
この状況を見られるのは非常にまずい。
緋真の声には思わず力が入ってしまう。
『は、はぁ……わかったのです』
緋真の声に負けて常陸は自室へと引き返して行った。
ホッと一息吐いた後、緋真の視線は柚子に移る。
「何してるんだ、柚子」
「……緋真と、お風呂に入っている」
「そういう事を聞いてるんじゃない!お前何考えてるんだよ!」
「……緋真が、断らなかったから」
「え?嘘⁉︎」
許可を出した覚えはない。
思考する緋真に構わず柚子は緋真の首に手を回しグイッと引き寄せる。
「……このまま、既成事実を作る」
「や、やめろ!」
たまらず手を前に突き出すと、ふにょんっと柔らかな感触が手に返る。
柚子は幸せそうに頬を緩ませる。
「……やん、エッチ」
「こ、これは事故だ」
しばしの間沈黙が流れる。
「……落ち着いた?」
「は?この状況で落ち着けるわけないだろ」
「……そうじゃなくて、常陸のこと」
「あ……」
緋真は今のやり取りのせいで、すっかり常陸のことを考えてなかった。
「……こんな調子で、良いと思う」
「え?」
「……無理して、罪悪感に押し潰されて、……そんな告白は、辛いだけ。……大丈夫、常陸は、私達の家族でもあるから。……ちゃんと、覚悟ができてから、話せば良い」
「柚子…………いや、さっき言えって言ったのお前だよな」
「……そこまで、直接的じゃない」
何はともあれ、緋真は柚子の言葉に救われた。
もっとちゃんと考えよう。
常陸に話すかどうかを。
だって、それほど大事な話なのだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それは俺の家だ。
あえて言えば俺と、大切な家族の家だ。
学校からの帰り、俺はどこにも寄らずに帰ってきた。最愛の相手が待っているのだ。寄り道なんてできるはずがない。
俺は急いで、しかし、慎重に玄関のドアを開ける。
そこには、正座で三つ指を付いて待っている少女の姿があった。腰まである綺麗な黒髪はその一部分を頭の後ろで結んである。
少し前傾姿勢をとっているおかげで豊かな胸はより強調されている様に見える。
割烹着姿の少女の表情は満面の笑顔だった。
「おかえりなさいませ、旦那様」
その少女の名前は翠華。
俺の愛した女性だ。
「いつも言ってるけどさ、そんなかしこまった言い方しなくてもいいよ。俺達は他人同士じゃないんだからさ」
「この言い方が慣れているのでございます。お許しくださいませ」
苦笑する翠華を愛おしく思う。
「御夕飯のご用意が出来てございます。お風呂の準備も万端でございます。どうなさいますか?」
「んー……まだお腹も空いてないし、風呂もいいかな」
「そうでございますか……」
しょんぼりと翠華は肩を落とす。
「だからさ、ちょっとの間2人で遊ばないか?」
「遊ぶ、でございますか?」
「そう、何かしたいことあるか?」
「で、では……子供の頃の旦那様の姿を拝見しとうございます」
恥ずかしそうにそう呟く翠華の可愛さは反則的だった。
「わかった。じゃあそうしよう」
俺と翠華は部屋に上がり、小さい頃のアルバムを開いた。
「これは5歳の頃。父さんが一度だけ連れてってくれた海外で観光に行った時の写真。それで、こっちが7歳の時の運動会の写真だな」
「小さな頃の旦那様、可愛いでございますね〜」
幸せそうに翠華が呟く。
「え〜?今は可愛くないのか?」
「い、今は……凛々しゅうございます……」
「あ、ありがとう……」
俺達の間に沈黙が流れる。
こそばゆい雰囲気に、俺は手持ち無沙汰でとりあえず手を動かす。
すると、同じ様に動かしていたらしい翠華の手に当たる。
「きゃっ」
「あっ」
「「ご、ごめん(なさい)」」
俺達は見つめ合う。俺達の間に緊張感が走る。
「翠華……」
「旦那、様……」
2人の間に言葉はいらなかった。俺はそっと、翠華の唇に………………。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「きょぉぉおおおおおおおあああああぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
仕事で常陸が戻って行った次の日の朝、緋真は思わず叫ばずにはいられなかった。
(ぐぉぉぉおおおおおお!!!!なんて夢だ!!!!なんて夢見てんだ俺!!!!)
恥ずかしさのあまり緋真はベッドの上を転げ回る。
死ぬほど恥ずかしい。
そう、緋真は夢を見ていた。
翠華と愛し合うという荒唐無稽な夢を。
もちろん、緋真は翠華の事を愛している。
しかしそれは家族としてであって、夢の中の様に恋人としてではない。翠華は緋真の好みに合った部分が少なからずあるが、それとこれとは別の話だ。
それに、翠華は無口で、緋真に対して、いや、周りのすべてに対してあたりが厳しいのだ。
そもそも性格が夢の中と現実とで違いすぎる。
翠華と愛し合うなど、夢にしても現実感がない。
(……叶わないことだから、夢に見たのか……?)
夢というものは、どういうものを見るか分からないが、大抵は自分の望むものが反映されると話に聞いたことがある。
「……どう、したの?」
心配した柚子が緋真に声をかける。
もちろんベッドの上で。
「……いつも言ってるよな?柚子。人間体は疲れるし、そういう冗談はやめろって」
「……冗談じゃ、ない」
柚子は頬を膨らませる。
「……私は、本気で緋真を愛している。……だから、緋真の為なら何でもするし、……自分の為なら、何でもする。……緋真に」
「さらっと恐ろしいこと言うな」
一体何をされるのだろう。緋真は身の危険を感じるのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「はい、サナ♡私の愛情たっぷりの愛妻弁当よ♡」
「詩埜はまだ妻じゃないよね?」
「あ、ついでにブッキーの分も作って来てあるから」
「それじゃあもう愛妻弁当じゃないよね?複数あるもんね」
「大丈夫よ、ブッキーの分は手抜き弁当だから」
「それ何気に僕の扱い酷くない⁉︎」
そんなやり取りを緋真の前で繰り広げているのは緋真の幼馴染である倉石詩埜と音無伊吹だ。
緋真は2人のやり取りを見て幸せを感じる。
詩埜は小学4年生の時に事故に遭い、内臓を『災禍の欠片』と取り替えた。
『災禍の欠片』とは、厄災と悪意を撒き散らす悪の権化、『災禍』、それが倒されバラバラに分かれた一部分だ。
『欠片』の所有者は『災禍』の影響を受けて超常現象を起こす力と悪意をその身に宿す。
そのせいで詩埜はおかしくなり、緋真以外のものへの興味を失い、緋真、詩埜、伊吹の幼馴染としての関係は壊れてしまった。
しかし、今の2人は、まさに『欠片』のせいでおかしくなる前の2人の、いや、3人の関係に近付いていた。
詩埜は未だに緋真贔屓でものを見ている節はあるが、先程伊吹のことを「ブッキー」と呼んでいた。これは、詩埜が『欠片』の影響を受ける前の伊吹の呼び方だ。
前ならば詩埜は絶対にそう呼ばなかった。
それに、弁当も伊吹の分は作って来ず、昼食に同席していること自体に不満を抱いた事だろう。
だからこそ、緋真は今の幸せを噛み締める。
3人で居られる事は、緋真にとってとても特別な事だ。
「どうしたの?サナ。ご飯冷めちゃうわよ?」
「いや、もう冷めてるだろ。でもありがとうなありがたくいただきます」
緋真は詩埜の弁当を手に取る。
「……緋真、私が作った弁当……」
「えっ?」
不満そうに呟く柚子の言葉に詩埜は反応する。
柚子達は『欠片』から生まれた存在であるため、同じ『欠片』の所有者にはその姿が見えるのだ。
「(いいんだよ。今日は腹減ってるから、後で柚子の飯ももらうよ)」
「……ほぁ」
柚子が幸せそうに頬を染める。
「…………バカ」
詩埜が複雑そうに頬を染める。
その反応の意味が緋真にはよく分からなかった。
そして、伊吹がニヤニヤしている意味も分からなかった。
伊吹には柚子は見えていないのだから、今のやり取りを理解できたはずはないのだが。
ふと、教室の扉から何者かが顔を覗かせた。
「あれ?」
緋真はその姿に見覚えがあった。
黒に近いこげ茶色の髪は腰ほどまで伸びている。
胸は薄いが全身が引き締まっていて健康的な身体つきの女の子。
端正な顔立ちに勝気なつり目が周りの男子に魅力的だと言われている。
その人物は神宮咲夜。
『災禍』を倒した人間の末裔であり、『災禍の欠片』の被害を防ぐために『欠片』を消滅、または封印して回っている一族の人間だ。
「あ、いた。おーい!月長くーん!」
手を振って緋真に呼びかける緋真。
「え?俺?」
咲夜が用があるのは、どう考えても緋真だった。