Prologue 「胎動」 "Far from Over"
灯された火は既に消えかけ、火の粉は闇の中へと消えて行く。王座の輝きは既に失われ、今そこに鎮座しているのは人ではない。
一人の男と馬が、文字通り人馬一体となって街道を駆ける。男の顔には切迫さ、馬の顔には疲労がありありと見える。
だが、彼らは決して立ち止まろうとしない。男も馬の疲労を知ってはいるが、敢えてそれを無視し、鞭を入れる。
この男は何から逃げているのか。何を目指しているのか。その答えは彼の腰から下げている一つの書簡にあった。多大な犠牲の上に遺されたこの記録は、何があろうとも然るべき人の元へと届けねばならない。そう彼は誓っていたのだ。……これを彼に手渡した友人もまた、記録を残す為の犠牲となった者の一人。友人の姿を、彼は思い出す。
「ホント、馬鹿な野郎だったよ」
男は馬にぶら下げた皮袋から液体を喉に流し込む。焼け付くような喉の感覚が悲しみを紛らわせる。日が高いというのに、彼の顔は既に赤みを帯びている
……そうでもしないと、彼の悲しみは紛れなかった。
「どう、どう、どう、止まれ、ウーケシュトロン」
男は小さな村の外れまで来た所で馬の歩調を緩め、ギャロップからトロットへと変化させ、最後には止まらせた。
彼が身を翻してウーケシュトロンと呼んだ馬から降りると、そのまま村の方向へと走っていく。ウーケシュトロンは彼を見送りながら身体を震えさせ、嘶いた。
これまで数軒の家を通りすぎて行ったが、そのどれにも人の姿は見えない。それどころか、家畜の姿すらも疎らだった。その光景はこの村でも同じだ。開け放たれたままの納屋に、人通りを失った広場。
だが、男は教会の鐘の音を聞いた。それは人が居る証拠だ。だからこそ、目的地への最短コースから迂回したこの場所へとやって来た。
男は教会の扉を開ける。金具は既に錆付いていてその役目を果たすのに精一杯、そんな印象を彼は受けた。
「誰か、誰か居ないか!」
彼の予想とは裏腹に、教会の中には誰一人の姿も見えない。軋む床を歩きながら、説教壇の方へと足を向ける。その時、奥の扉から神父の姿が見える。
「こんな場所へ、よくいらっしゃいました」
顔を見せたのは白いものが多く混じった長い髭を垂らしている初老の神父だった。
「神父様、いきなりで申し訳ないが、他の村人はどうした?」
その言葉を聞くと、神父は口元に微笑みをたたえながらも、瞳はどこか悲しげな様子で男を映し出している。
男はこれ以上聞く必要が無い、そう考えた。今まで訪れた村では、どこも同じような反応だったからだ。
「一つ、聞きたい事がある」
男は、これまでの村で繰り返してきたのと同じ問いを行う。まともな返答が得られないのを覚悟しながら。
「……なんでしょう」
「ある男を探している。この村に旅人、それも一人で行動している旅人が立ち寄らなかったか?」
「旅人、ですか。それも一人と」
神父は顎の髭をいじりながら、少しの間考えこむような仕草をする。
「申し訳ありませんが、その様な人は……」
「だろうな。今この時勢で一人で旅をするような輩は、馬鹿か切羽詰った奴しか居ませんので」
そう言うと、男は引きつったような笑い方をする。その時、先ほど神父が出てきた扉から一人の少年がこちらをのぞき込んでいるのが見えた。
男はその少年に目配せし、手を振ったのだが、少年はすぐに姿を消してしまった。神父はそんな男の様子を見て破顔する。
男はある事を問いかける。それは本来の任務からは外れた興味本位の事が半分、この神父への敬意が半分であった。
「神父さん」
「は、なんでしょう」
「貴方以外に残ってる村人ってのは、どのくらいで?」
男の信仰心からだろうか。それとも、子供の姿を見かけたからだろうか。それは定かではないが、先程までの堅苦しい態度は崩れ去り、彼本来の訛りが無意識の間に出始めていた。
「私を含めて六人となります。皆、身寄りのない者で、尚且つ自身では生きて行けぬ者達です」
「神父さん、あんたは立派な人だ。……先ほど、多くの村人が村を捨てた、と言いましたね」
「はい。どれほどの人が捨てたのかは定かではありませんが」
「神父さんを責めるわけじゃない。気を悪くしないで欲しいんだが、彼らの行いは正しい。もうこの国には秩序なんてものはありゃしない」
バツの悪そうな顔をしつつ、男は言った。彼の言葉を神父は黙って聴き続けている。まるで懺悔を聞き届けるかのように。
ステンドグラスから、色の付いた光が教会の中を照らし出している。そのステンドグラスは、この国で良く信仰されている聖人を象った物だった。この規模の教会からすると、立派過ぎる程の代物であり、この神父の人柄故の物か、それとも何らかの肝いりで作られた物かは彼には知れない。だが、そのステンドグラスは輝かしい程に磨き上げられている。
よく見れば、この教会全体がそうだ。ところどころガタは来ているものの、隅から隅まで綺麗に整えられている。
この神父が一角の人物である事は間違いない。男はそう判断した。
「神父さん。……早くここを離れた方が良い。今でも十分ロクな情況じゃない。だけど、もうじき更にロクでもない事が起こる」
神父はその言葉を聞きながら、頭を横に振る。諦めの入り混じった表情が男には見えた。
「ご忠告ありがとうございます、ですが、生憎私を頼る人々を連れて行く方法が……」
「俺の馬を使ってくれ。あれはウーケシュトロンと言う名前で、グラードノブルクから走らせてきたんだが、もう足が限界でね。走らせるのは無理だろう。だが、捨てては行けねえ。付き合いが長いからな。元は軍馬だから力もある。馬車に繋げば残った連中を運べるだろう」
神父の顔色が変化する。その表情には喜びが見えた物の、すぐに戸惑いへと変わった。
「貴方は、どうするのですか?」
男は自身の足を二回ほど叩き、誇示する。
「こいつでなんとかしますさ」
「ありがとう、ございます。何と、何と言ったら良いのか……」
「もう一つ、お節介ですが忠告しときます。南へは行きなさんな。首都の方も駄目だ。一番良いのはポート・ロシェルだが、ちと遠い。……ともかく、南と西には行っちゃだめだ。それと、あんまり小さな道を行くよりは人の流れに乗って一緒に行った方がいい。デカイ街道だと所々にきちんとした兵士が残ってますからね」
「貴方はなにか知っているのですか……?」
神父の問いに対して、男は自身の指にはめている指輪の印を見せる事で答えた。そこには王家の紋章である盾と鷲の印があった。話はそれで終わった。
「ここまで来たなら、ポート・ロシェルまではあと少しですぜ。歩いてもそう時間はかからないでしょう」
「……私も、ポート・ロシェルへと向かうこととします。貴方の旅の安寧を祈って」
「へへへ、ありがとうございます、神父さん。あちらで会えたなら、色々と話を聞いて貰いたいもんだ」
男は一礼するとそのまま走り去っていく。その姿を見ながら、ウーケシュトロンは甲高い嘶きを村中に響き渡らせた。
その後、神父はその男の姿を見ることは無かった。