第十七話 運命のすれ違い
俺が阿比留公園に帰ってきた頃には、すでに日は暮れていた。
薄暗い空には、星が少しずつ顔を出してきている。
公園の前で、俺は立ちすくんでしまった。
まだ恐い。ママたちと会うことが。
会ってどんな顔をしたらいいのか、分からない。
ママからは、ハウスの中に居ろと言われていた。
その言いつけを破ってまで、出てきてしまったのだ。
いや、そのこともあるけど、ママに初めて怒られたことで気が滅入っているのかもしれない。
そんな思いを振り払うかのように、俺は首を横に往復させる。
それでも、みんなにはちゃんと話さないといけない。
サヤエンドウたちのことも、俺がどうしたいのかも。
そして、これからすることも。
みんなを信じているから。
俺は公園に足を踏み入れ、自分のハウスに近づく。
それから、ハウスのドアを開けた。
「……まだ誰も帰ってきてないか……」
誰もいない暗いハウスの中に入り、座り込む。
……静かだ。
本当にこの場所でいつも馬鹿騒ぎしていたのか不安になる。
ハカセと俺とサヤエンドウでウミサルを怒らせて、ママとイーグルさんが笑いながら見守る。
みんな酔いつぶれて、最終的に俺が片づけをする。
そんな俺にとって当たり前の日常が、ここにはあった。
それなのに今は、これまでのことが嘘だったかのように静かで、寒い。
ふと、床においてあるサヤエンドウの麦わら帽子に目が行く。
俺は麦わら帽子を手に取っていた。
よく見ると、この麦わら帽子とても古い。
それに、麦の間に土の粒がところどころ挟まっている。
帽子を裏返す。
帽子の内側には、自分で繕ったであろう箇所に糸が付いていた。
多分、中から補正したのだろう。
ゴムも緩々だ。
……本当に大事にしていたんだな。
それだけは、麦わら帽子に詳しくなくても分かる。
気が付けば、麦わら帽子の土を手で払っていた。
「……ん?」
すると、土を払う振動で帽子の内側にある汗止めの帯の部分から、なにやら紙のようなものがはみ出てきた。
俺はその紙を手に取る。
四つ折にされていて、随分と土で汚れていた。
その四つ折にされたものを、手でゆっくりと広げる。
「……これは」
両手で広げられたそれは、ひび割れた地面のようにしわが入った紙だった。
しみで滲み、薄くなって見えにくい、家族の写真。
首に赤いタオルを巻いた体格のいい男と、右目の下に泣きボクロのある少年が笑いかける写真。
ウロボロスに見せてもらった写真だ。
家族の欠片。家族の記憶。
それらが、この写真一枚に集まっている。
本当にいい写真だ。
寂寞の思いが溢れ出す。
それと同時に一筋の希望が差した。
良かった。まだ、二人は繋がっている。
これで、揃った。
俺は写真をそっと元の場所に戻した。
……それにしても、みんな遅いな。
俺は麦わら帽子を持ったまま、外に出る。
「……あっ」
アヒルの遊具の隣に、四人の姿があった。
そのでこぼこのシルエットが、全員俺の方を向く。
俺は目を丸くする。
四人も俺を見て目を丸くした。
って、どうしてみんなが丸くするんだ?
「みんなどこに―――」
「デウスっ!」
大きな図体が俺にどすどすと近寄る。
そして、俺の右頬に痛みが奔った。
自分がぶたれたことに気付かなかった。
心配そうに俺を見るママの顔と、振るえる大きな左手を見るまでは。
「バカっ! どこ行ってたのよっ! みんながどれだけ心配したと思ってるのっ!」
ママの真剣な顔と瞳の揺らぎが、灯りだした公園の電灯で分かる。
俺は右頬に手をやる。
それから後ろのハカセ、ウミサル、イーグルさんの顔を見た。
三人ともママと同じで心配そうに俺を見ている。
そうか。みんな俺を探し回っていたのか。
だからこんなに遅かったんだ。
「……うん。ごめん……」
そう言うと、ママは優しい声に戻った。
「中に居てって言ったでしょう? どこに行ってたの?」
「……サヤエンドウの居場所を探しに行ってたんだ」
「だから、サヤエンドウのことはアタシたちに―――」
「サヤエンドウの居場所が、分かったよ」
ママは一瞬驚いたような表情を浮かべると、また真剣な顔に戻る。
俺は意を決して、口を開けた。
「俺は今から、サヤエンドウを助けに行く」
左の頬の皮膚が振るえて痛んだ。
今度は左頬を叩かれたのだ。
じんと熱が滲み出す。
俺はそれでも真っ直ぐ、ママの目を見た。
「ダメよ。場所を教えなさい。そうすれば、アタシたちが助けに行くわ」
「それじゃあ、ダメなんだ」
「……どうして」
「俺がサヤエンドウの、家族だからだ」
ママの表情は何も変わらなかった。
この言葉じゃまだ足りない。
俺にとっての家族ってなんだ?
日常の一部で、今じゃ欠かせないもの。
俺がこの人たちにもらったものはなんだ?
温かさ。いや、それだけじゃない。
俺はこの人たちに会って、勇気をもらったんだ。
「俺はみんなに家族っていうものを教えてもらったんだ。同じの家の中で同じ鍋つついて、くだらない話で同じように笑って。……みんなが心配してくれることも怒ってくれることも全部、家族だからなんだろ?」
俺はママの顔とみんなの顔を交互に見ながら、吐き続ける。
「……みんな同じなんだよ。みんな心配で、誰も失いたくない。失うのは恐くて辛いことだから。それは俺も一緒だ。大事な人をこれ以上失いたくなんてない。だから、行くんだ」
拳に力が入る。
喉の奥が熱くなっていく。
「あの日繋いだ俺たちの鎖は、そんなに緩いものじゃないだろ。こんなことで千切れるようなやわな物じゃないだろ。アンタたちにたくさん教えてもらったんだっ。思いやることをっ。温かさをっ。勇気をっ。家族が家族を助けるのに理由なんていらねえっ。これもあんた等から教えてもらったことだっ」
ここから先は言うべきことなのか、迷った。
言ってしまっていいのか、と。
その疑問は、腹の底から喉に上っていくまでに繰り返され続けた。
……言うことにする。
いや、言うしかないのだ。
本当に信じているからこそ。
俺は顔を伏せ、目を強くつむる。
「……それでも行くなって言うんだったら。自分の大事な家族一人すら助けに行くなって言うんだったら。そんなんが俺の信じた家族だって言うんだったら。……そんな家族、俺は、いらない」
全部を吐き捨てて、少し後悔した。
少なくとも最後の一言は、俺の本心じゃないと思うから。
もうここは俺の居場所で、みんな大事な家族だ。
ここを離れたくなんてない。
だが、これが俺が選んでしまった道だ。
正しいか正しくないのかなんて分からない。
それでも進むと決めた道だ。
怒られても殴られても、全部受け入れよう。
俺は伏せた顔を挙げ、みんなの顔を見た。
みんなは、俺に向けて優しく笑いかけていた。
「えっと……そんなに変だった?」
「……違うわよ。デウスが言っていることが真っ直ぐすぎて、呆れているだけ」
ママはそう言って、俺の頭を撫でた。優しい表情で。
なんか、ウロボロスにもそんなことを言われた。
ただいじけて、八つ当たりみたいに言葉をぶつけただけなんだけど。
「もう、分かったわよ。どうせ行くなって言っても行くんでしょう? だったら、行きなさい。……ただし」
ママは俺の両頬を引っ張り挙げた。
痛いんだけど。
ママの顔が、鼻と鼻がくっつきそうなほど近くに迫る。
「アタシたちも連れて行きなさい。自分の家族を一人で危ないところに行かせるほど、アタシは肝っ玉が大きくないのよ。いいわね?」
俺は首をぶんぶん縦に振る。
伸ばされた両頬から手が放され、熱くなっていく。
痛い。けど、不快な痛みじゃない。
ママたちの決意の痛みだ。
……自分の臆病さに呆れてしまう。
何が全て受け入れるだ。
受け入れられているのは俺の方じゃないか。
「……もちろんだ。ママたちにも協力してもらう」
「協力?」
「ああ。でもその前に、話さなきゃいけないことがあるんだ」
俺は時間がなかったのでアヒルの隣で、全てを話した。
サヤエンドウのこと。アイツのこと。
全てを話して、真っ先にウミサルとハカセが口を開く。
「そうだったのか。……だからアイツ元気がなかったんだな」
「こうなる前に、ワシにも何かできんかったのかの?」
二人はそう言うと、顔を伏せた。
俺もそうだ。
こうなる前に何とかしてやりたかった。
でも、気づくことができなかった。
「それで、デウスはどうしたいんだい?」
「俺は―――」
イーグルさんの問いに答えるようにして、俺はそれから先を話した。
俺がどうしたいのか。
それから、どうするのか。
「……そうなんだ。デウス。つらいね」
「でも、俺がやらないと」
「うん、そうだね。皮肉だけど、これはデウスじゃないと意味ないもんね」
俺が頷くと、イーグルさんは黙って俺の髪の毛をくしゃくしゃにした。
「じゃあ、蜂谷のところも協力してくれるのね?」
「ああ。だから、ママとイーグルさんはみんなが集まったら待機。騒ぎが聞こえたら蜂谷の人たちに協力してくれ。ハカセとウミサルは混乱に応じて、近づいてきてくれればいい」
と言うと、みんなは力強く頷いてくれた。
俺も応えるように頷き返す。
こんなにもみんなと真剣に話すのは、萌香の件以来か。
まあでも、あれは最終的に俺が一人で突っ走って、みんなに助けてもらったんだっけ。
俺は時間を確かめた。
もうそろそろ行った方がいいか。
「それじゃあ、俺は先に行くよ」
「気をつけるのよ」
「気をつけてね」
「気をつけるんじゃぞ」
「気をつけろよ」
みんな同じ言葉を返してくれた。
ホント、どうしてみんなこんなにも通じ合えるのだろう。
俺もいつかはこういう風になれるのかな。
すると、ウミサルが拳を突き出す。
それから「お前らもやれ」と言わんばかりに、顎で指示をした。
俺は呆れて鼻で笑う。
どうしてコイツはいつも、こういう恥ずかしいことを平気でやろうと思えるのだろう。
そういえば、あの盃もコイツの提案だったよな。
ママ、ハカセ、イーグルさんが順に拳を合わせていく。
そして、俺も拳を突き出す。
一箇所、サヤエンドウの場所を空けて、五つの拳がぶつかり合う。
「取り戻そうぜ。アイツを」
「……ああ。みんなでまた、野菜たっぷりの鍋をつつこう」
俺たちの拳は天高く持ち上げられ、流れ星が弾けるように散っていく。
俺はそのままみんなに背を向け、公園の入り口に向けて、歩き出す。
これでもう思い残すことはない。
さあ……行こう。
* * *
倉庫街の奥。一つの廃倉庫の中。
倉庫の真ん中には、ロープの張ってある大きなリング。
多くの若者がそのリングを囲んでいる。
『レッド・クリフ』のたまり場に、俺は来ていた。
人の声がノイズのように耳に纏わり付く。
さっきまで試合があっていて、歓声がしていたが今は落ち着いている。
人の渦の中で、俺は赤いマフラーで口元を覆う。
それにしても、この前よりも多いな。
ウロボロスの情報を思い出す。
多分、今日は特別だからだろう。
倉庫の中は、人口密度と熱気で暑い。
とても二月とは思えない。
時間を確認する。
……もうそろそろだな。
次の瞬間、どういう訳か耳が機能しなくなった。
リングの上を見て、これがどういうことなのかを知る。
歓声だ。一度に多くの人の、大きな歓声を近くで聞いたせいで、耳が聞こえなくなったのだ。
額に正義のエンブレムを宿し、スカーフが存在を知らしめる。
リングの中央に聳え立つのは赤き覆面の男。
上半身は服を着用していなく、柔軟性のありそうな筋肉がついている。
そして、覆面の正面に立つのは、やせ細った男。
昨日見たときよりもやせて見えるのは、気のせいではないのかもしれない。
―――サヤエンドウだ。
二人ともグローブをつけている。
耳も機能を取り戻し、多くの歓声と血走った声が聞こえる。
周りの反応とは逆に、俺は妙に冷静だった。
コイツらは多分、あの覆面が演出だとでも思っているのだろう。
それよりも今から人が殴りあうのが、そんなに楽しみなのか?
なんだろう。この前来たときも味わった、このモヤモヤした気持ちは。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
試合開始を告げるゴングが、倉庫中に鳴り響く。
中央にいた覆面は、サヤエンドウにゆっくり近づくと、右拳を引き、サヤエンドウの左頬を貫く。
観客の「いーちっ!」という掛け声が聞こえた。
多分、殴られる回数でも数えているのだろう。
俺は全てぶち壊したくなる衝動に駆られたが、拳を握りつぶすことで耐える。
サヤエンドウの体はロープに跳ね返り、覆面の男に襟を掴まれた。
サヤエンドウの口の横からは、血がにじみ出ているのが分かる。
どうして、サヤエンドウは反撃しない。
そんなことは、決まっている。
でも、まだ早い。
俺は手に持っている、麦わら帽子を潰しそうになる。
覆面に襟をつかまれ、脱力しているサヤエンドウの右頬を、今度は左拳が襲う。
二回目を数える観客。
サヤエンドウは、再びロープの反動で襟を掴まれた。
これじゃあ、サンドバックだ。
だが、二発殴った。これでもう動くことができる。
俺はポケットの相棒を伸ばすことなく、手に取った。
それから、リングに向けて人を掻き分け進みだす。
覆面の右拳がゆっくりと引いていき、顔の横で止まる。
力ないサヤエンドウの目は、天井を向いたまま、動かない。
俺は右手に取った相棒を振りかぶる。
観客が、三回目を数えるために息を吸う。
覆面の拳がサヤエンドウの鼻をえぐろうとした。
―――その刹那、覆面は拳を止め、バックステップする。
それと同時にサヤエンドウと覆面の間に小さな棒状のものが通り過ぎ、向こう側の観客の中に消えていく。
サヤエンドウは崩れ落ち、ロープにもたれかかる。
倉庫の中が一瞬凍り、周りがざわめき出す。
リングの下から、俺の右手は覆面を指差す。
覆面は俺を見た。
周りの観客は俺の存在に気づき、罵倒を飛ばしだす。
背中の方で殴打音が聞こえ、振り返ると、赤スーツの男が立っていた。
その足元には、カラーギャングの男が一人倒れている。
「邪魔しちゃダメだよ」
イーグルさんが、俺にウインクを飛ばす。
後ろから襲われそうになっていたのを、助けてくれたのだろう。
俺は目で応えた。
この際、イーグルさんが待機していないのはどうでもいい。
そして、人ごみの中から次々と、顔の恐い男たちが出てくる。
その男たちは、赤い服や帽子、ネクタイなどの赤いものを装着していた。
それらは皆すぐに観客の方へ振り向き、その付けていた赤いものを勢いよく脱ぎ捨てる。
リングの周り。観客の最前列に並ぶ、恐い顔の男たち。
その男たちの一人が俺に一礼して、観客の方へ振り向いた。
『文句ある奴ぁ、俺たちが相手になるぜ。ガキども』
鉄さん率いる蜂谷組の人たちだ。
その鉄さんの一言を引き金に、観客たちが血相を変える。
それからすぐに乱闘が開始され、次々と血眼になった若者たちが、暴れだす。
無理もない。レート二倍なのだ。
俺は背中を託して、リングに上がる。
ロープを掴む。手が湿った。
俺は気にせず、リングに上がり、覆面の男の前に立つ。
ロープにもたれかかる、サヤエンドウの目が見開く。
俺は覆面の男に向き直る。
「いつまでそれ付けてるつもりだ。……キリヤ」
覆面は、微動だにしなかった。
それから黙って、手を顎にやり、覆面をリングの外に投げ捨てた。
鋭く光る白髪、右目の下に置かれた泣きボクロ。
首に巻かれた、赤いスカーフ。
「やっぱり来たな。デウス」
「……」
キリヤのとがった目が、俺の目を見た。
分かっていても、どうしても背けたくなる。
「まさか、デウスにこんなに恐いお友達がいるなんてな」
キリヤはリングの下を眺めながら言う。
俺は蜂谷組の人たちをこのカラーギャングに見せかけて、忍び込ませていたのだ。
前ここに来たとき、キリヤは言っていた。
カラーギャングの最低条件は、そのギャングの色のものを身につけていればいいと。
だから、蜂谷組の人たちに赤いものを身につけさせて、ここに忍び込むように指示していた。
「でもこれだけの数じゃ、コイツらは止めきれないだろうな」
「……心配するな。まだ援軍はいる」
俺は背後にある、倉庫の入り口を親指で指す。
倉庫の入り口の扉が、勢いよく開く音が聞こえた。
振り向くと、赤いドレスに身を包んだ体格のいい乙女が、仁王立ち。
その乙女が先導し、扉からぞろぞろと小汚い格好の男たちが入って来る。
ママ率いる、ホームレスの集団。
レッド・クリフの連中は丁度、蜂谷組とホームレス集団に挟まれる形になった。
これで、形成逆転。
これらは全部、俺がみんなに頼んだことだ。
キリヤとサシで話をするために。
「これで邪魔は入らないぞ。……キリヤ」
キリヤの眉間にしわがより、鋭い眼光は俺の目を刺す。
俺はサヤエンドウを見た。
「悪いな。サヤエンドウ。待たせて」
「……ど、どう、して……」
「家族だからだ」
サヤエンドウは見開いた目を、逸らした。
俺は再び、キリヤに視線を戻す。
「……もうやめるんだ。こんなこと、意味がない」
「意味がない? ……ふざけんなっ!」
そうキリヤは叫び、体を揺らす。
その瞳に迷いは一つもなかった。
「お前はもう全部知ってるんだよな?」
「……ああ」
「だったら、分かるだろ? 自分を捨てた親父が目の前にいたら、殴るだろ?」
「……」
俺は答えられなかった。
確かに俺がキリヤの立場だったら、どういう行動をしていたか分からない。
同じことをやっていたかもしれない。
それでも―――
「こんなことやっても、意味ねえだろっ」
「意味ねえわけねえだろっ! オレがコイツに会いに行ったとき、なんて言ったと思うっ? 『あなたなんて知らない』だぜ? ふざけんなっ!」
怒りのせいでキリヤの目は赤い。
だが、まだ怒りの言葉は止まらなかった。
「オレも母ちゃんも見捨てた奴が、オレたちのことを忘れて生きてるんだぜっ? んなもん、許せるわけねえだろっ!」
キリヤの体は激しく揺れ、怒りの大きさを表していた。
コイツの言っていることも、分かる。
俺だって、許すことなんてできないだろう。
でも、それで誘拐して殴ったところで、何も変わらない。
「……だったら、証明してやるよ」
そう言うと、キリヤは戸惑ったような表情を浮かべる。
俺は、ウロボロスの言っていたことを思い出す。
銃弾を詰めた銃口からは、銃弾しかでない。
それはすなわち、言葉を選べと言うこと。
俺は慎重に言葉を噛み締める。
「この人が、お前のことを覚えているっていうことを、証明してやるって言ってんだ」
「なっ……んなことできるわけねえだろっ」
明らかにキリヤは、今戸惑った。。
俺は、サヤエンドウの顔を見る。
彼の顔は、悲願に満ちていた。
俺は麦わら帽子をキリヤに見せ付ける。
「お前、この帽子見たことあるだろ」
「それがどうしたんだよ。そんなもん、持ってるだけじゃ、覚えてるって言うことにはなんねえぞ」
俺は黙って頷き、麦わら帽子を裏返す。
「デウス君っ!」
サヤエンドウの叫びに俺は手を止め、サヤエンドウの目を見た。
それから、首を横に振る。
……ごめん、サヤエンドウ。
俺は帽子の内側に手を伸ばし、一枚の紙を取り出す。
四つ折されたその紙を広げ、祈るようにキリヤに見せ付けた。
キリヤは口を開け、大きく目を見開く。
「この写真。お前も知っているよな」
キリヤは目を見開いたまま、動かない。
戸惑っているのか、信じられないのか、その全ての感情が何重にも交差しているのだろう。
自分のことを忘れて生きていると決め付けていた人間の、本当の事実。
切れかけた、一つの家族の繋がり。
残酷な運命のすれ違い。
その全てをすぐに受け入れることなんてできない。
キリヤは目を伏せた。
目が、茂みのような白髪に隠れる。
「……じねえ……オレは、オレは信じねえっ!」
怒りに歪みきったキリヤの表情に、俺は締め付けられそうになる。
「じゃあ、なんでだっ! なんでコイツはオレに嘘を吐いたっ! なんで昔みたいに殴り返してくれねえっ!」
そんなこと決まってるだろ。
まだ分かんねえのか。
俺は腹の底から湧き上がる、マグマのような憤りを口から吹き出していた。
「んなもん決まってんだろっ! お前を護りたかったからだろっ! お前に幸せになって欲しいからだろうがっ!」
「ま、もる? 幸せ? オレに? 意味分かんねえよっ!」
ここから先を言ってしまえば、黙って殴られていたサヤエンドウの気持ちを裏切ってしまうことにな る。
嘘を吐き続けると決めたサヤエンドウの覚悟を、切り裂くことになる。
それでも、俺は言わなくちゃいけない。
この二人の時間を動かすために。
「自分のことに捕われたお前を、早く解放したかったんだよっ。早く自分のことなんて忘れて、お前に幸せになって欲しかったんだよっ。だから、殴り返さずに、お前の怒りも悲しみも憎しみも全部全部全部、受け入れようとしてたんだよっ!」
キリヤの全身のから力が抜け、前のめりに塞ぎこみ、頭を抱えた。
サヤエンドウは俯いている。
サヤエンドウを二回殴らせたのも、キリヤとキリヤの母親のためだ。
これで二人の時間は―――
「……嘘だ。嘘だっ。嘘だっ!」
キリヤは頭を地面に叩きつけて、立ち上がる。
俺はキリヤの起こした異常な行動に、戸惑う。
どうして、認めないんだ。
それに錯乱しているようにも思える。
「オレは認めねえっ!」
「なんでだっ! お前だって分かってるんだろっ? こんなことしても何も変わらないてことぐらいっ!
だから、お前は一日置いてサヤエンドウを誘拐しに行ったんじゃねのかっ!」
「うるせえっ!」
キリヤの目はまだ怒りに満ちていた。
言葉じゃ、もう無理なのか?
俺の言葉は、もう届かないのか?
俺は拳を握り締めた。
すると、俺の肩が重くなる。
肩を見ると、サヤエンドウの真剣な顔があった。
「デウス君。僕を心配してくれて、ありがとう。でも、これ以上、僕たち家族ことでみんなに迷惑をかけれません。僕が殴られれば、済む話ですから……」
そう言って、サヤエンドウはキリヤの前に立とうとする。
だが、体勢を崩し、倒れそうになる。
俺はサヤエンドウを抱きかかえた。
「おいっ! だいじょっ―――」
俺はサヤエンドウの顔を見て、言葉を詰まらせる。
サヤエンドウの両目からは、雫が流れ落ちていた。
「……めん。……ごめん。僕が、悪いんだ。自分の息子の過ち一つ、正せない。僕が、父親なんて名乗れるわけがない……」
零れる涙が、思いが、胸の奥の熱い思いをさらに熱くさせた。
黒い塊が業火のように燃え上がる。
俺は麦わら帽子をそっと、サヤエンドウの頭に置く。
やけに軽いサヤエンドウの体を持ち上げ、ロープの近くに歩み寄る。
リングの下にいる、二人の影に俺はサヤエンドウを預けた。
「ハカセ、ウミサル、サヤエンドウを頼んだ」
二人は頷き、サヤエンドウを抱える。
俺は一言サヤエンドウの名を呼ぶ。
彼の赤く腫れた目蓋が少し上がる。
「お前の息子の過ちは俺が正してやる。過ちを正せるのは、なにも、家族だけとは限らねえぜ」
そう言い残し、キリヤの方へ歩み寄る。
……熱い。
俺は上着とマフラーを脱ぎ捨てた。
それから、サヤエンドウから預かったグローブをつけ、真正面に立ち、キリヤの目を睨み付ける。
「デウス。そういや、お前とは、引き分けたままだったな」
「……ああ」
月夜の戦闘を思い出す。
イーグルさんが割り込んでくれたヤツか。
「丁度いいぜ。折角だから決めようじゃねえか」
「……決める?」
「ああ。……紅と白。どっちの狼が強ぇのか。なあ、紅狼」
俺は内心で少し驚いた。
「……知ってたのか」
「あの戦いのときにな。あの棒なくていいのか?」
「……お前には、拳じゃねえと意味がねえんだよ」
キリヤは鼻で笑うと、ファイティングポーズを取る。
キリヤの顔が手の届く位置にある。
俺も戦闘態勢を整え、拳をありったけの力で握る。
……俺の拳で、曲がった釘を叩きなおす。
思いの篭った、重い拳で。
俺の、勇気で。
「来いよ。ヒーローの意味を、教えてやるっ!」
感想やアドバイス、誤字・脱字などの指摘お願いします。




