第十四話 ウロボロス
早朝。
俺のダンボールハウスの中。
俺たちは、すでに全員集まっていた。
いや、全員ではない。
俺、ママ、ハカセ、イーグルさん、ウミサルの五人だけ。
いつも六人でギリギリのこのハウスの中の、ほんの一角。
麦わら帽子を被った優しい笑顔があったはずの場所には、一つの麦わら帽子だけがぽつんと置いてあるだけだ。
サヤエンドウの姿がそこにはない。
俺たち五人の間には、ただ重たい空気が彷徨っている。
……なんでだ。なんでこんなことになった?
誰だ? 誰がこんなことをした?
俺たちが何をした?
この場所でただ毎日楽しく過ごしていただけなのに……
「俺のせいだ……」
ぽつりとそんなことをウミサルは口に出した。
「こんな状況だってのに、飲みに行ってアイツのそばに居てやれなかった。俺がそばに居るべきだったんだ。そうしてりゃあ、こんなことには……」
「……お前のせいなんかじゃねえよ。それにまだ、サヤエンドウが誘拐されたって決まったわけじゃ―――」
「この帽子がここにあることが、誘拐されたってことだろうがよっ! アイツが自分でこの帽子をはずしたとこ見たことあんのかっ!」
「……」
そう。分かっている。
サヤエンドウはこの麦わら帽子をとても大事そうにしていた。
それはもう、自分の命と同じくらいに。
川に落としそうになった時だって、自分の体を省みず、帽子が濡れるのを避けていた。
この麦わら帽子がここにあることそのものが、サヤエンドウに何かがあったということで間違いないのだろう。
「わりぃ。怒鳴っちまって」
「いや、いいんだ。でも、誘拐されたとは限らないんじゃないのか?」
「……河川敷にタイヤの後が残ってたんだ」
ホームレス村に来てたアイツらか。
頭の隅っこに、月明かりに照らされた赤い覆面が思い浮かぶ。
もしかしたら、俺が戦っているときには、すでにあのバンの中にサヤエンドウはいたかもしれない。
「俺があのホームレス狩り共を蹴散らして縛り上げてれば、こんなことにはならなかった。俺のせいだ……」
「待て、ウミサルからサヤエンドウの様子がおかしいと聞いた時点で気を配るべきだったんじゃ。ワシのせいじゃよ……」
「いや―――」
「もういい。誰のせいでもないわよ。誰かのせいにしたところでなにも変わらないわ」
ママの正論が自暴自棄になりかけていたこの場を切り捨てた。
そのとおりだ。サヤエンドウが誘拐された事実は、サヤエンドウがここに居ない事実は、変わらない。
俺は俯いた。
分かっていたはずなんだ、何かが起こるということは。
サヤエンドウは常にサインを送っていたんじゃねえのか?
それを受け取れなかったのは、俺だ。
胸の中を這いずり回るものが鬱陶しい。
「……ここに居ても仕方がないわ」
そう言って、ママは立ち上がった。
真後ろのドアから外に出ようとする。
「どこに行くんだ?」
「アタシはアタシにできることをやるの。もしかしたら、サヤエンドウの居場所が分かるかもしれないから」
「情報集めか? じゃあ、俺も行く」
「ダメよ」
ママはただ冷たくその言葉を言い放った。
「な、なんで?」
「デウス。アンタはここに居なさい。それと、これ以上この件に関わっちゃダメ」
「だから、なんでだよっ」
「アンタは一人で突っ走って勝手に傷ついて帰ってくるからよ。この前の萌香ちゃんの件だってそうよ。アタシたちを心配させないで」
「でもっ―――」
「ダメって言ってるでしょっ!」
俺はママから聞いた、始めての怒りの言葉に息が止まった。
耳にこだました怒りの声が、ゆっくりと沈んでいく。
「……アタシはこれ以上、誰も家族を失いたくないのよ。大丈夫。サヤエンドウはアタシたちが何とかする。お願いだから、ここに居て……」
背中越しにそう言って、ママの大きな図体がダンボールの外に消えていく。
俺はただ茶色い床を見つめたまま、拳を握りつぶしていた。
何だよそれ。その言い方じゃあ、もうサヤエンドウは……。
「んじゃ、俺ぁホームレスや飲み仲間に聞き込んでくる」
「俺もいろいろとあたってみるよ。デウス。ママもデウスのことを思って言ったんだよ? だから、悪く思わないでやってよ」
「……」
俺は床を俯いたまま、二人の影が外に消えていくのを見つめていた。
……分かっている。
ママが俺のことを何より考えて怒ったことも。
それでも、このままここで待っているだけでいいのか?
「デウス」
ハカセの呼び声に俺は顔を上げる。
ハカセは俺の肩に手を置いて、そっと口を開く。
「イーグルの奴も言っておったが、ママは本当にお前さんのことを大事に思ってるから、言ったんじゃよ?」
「……ああ、分かってる……」
「残された者の気持ちを、お前さんは誰よりも知っておるはずじゃろ?」
俺の目が少し見開かれるのが、ハカセの瞳に映って分かった。
また、床を見つめていた。
「デウス。覚えておくといい。前に進むために、置いて行かなければならないものがあるんじゃ」
そう言い残し、ハカセはハウスから出て行ってしまった。
一人になった。孤独感。
この感覚、すごく久しぶりな気がする。
ここに来る前に毎日のように味わってきた感覚。
床に背中を着いて、天井を仰ぎ見る。
……残された者の気持ち。
その気持ちを俺は確かに知っている。
忘れたくても忘れられない、記憶に刻まれたもの。
心電図のこだます病室で結んだ小指。ぼろいアパートの円卓の上においてあった一通の手紙。
その鋭い破片は、時を越えてこんなにも俺の胸に突き刺さる。
前に進むために、置いて行かなければいけないもの……か。
俺もいつか、置いて行かなければいけないのだろうか。
握りつぶしていた拳にさらに力がこもり、皮膚を爪がえぐる。
俺はこのまま、なにもできないのか?
なにもできないまま、全てが消えていくのを、指をくわえて眺めることしかできないのか?
左手をかざして、天井を掴もうとする。
「痛っ」
左手の風穴がうずき始める。
……そう、だった。
俺はまだなにも貫いてねえじゃねえか。
俺が今やらなきゃいけないことは、ここで腐ることじゃない。
だって、ヒーローの第一条件は―――
「最後まで貫く勇気」
俺は起き上がり、ハウスを出る。
それから、心とは裏腹に青い空を見上げて、太陽に左手を伸ばして、掴む。
そのまま、ポケットに手を突っ込むと、右足から前に出した。
俺にできることは、なにもないのかもしれない。
それでも、この場所に留まっていたら、このまま動けなくなるんじゃないかと思った。
そして、後悔したまま、死んでいくのではないかと。
俺はなにも知らない餓鬼なのだろう。
それでも、なにもしないで動かなくなるのはいやだ。
俺は俺にできることをやってやる。
* * *
……とは思ったものの、何にも収穫なしか。
俺は劇場前の時計台の下でうなだれていた。
ホームレス村やそこら辺に居るホームレスに聞いてみたが、これと言って情報は集まらなかった。
ただ一つ、ザビエルとサヤエンドウで誘拐された犠牲者が、八人目だということくらいだ。
こんなことが分かっても、肝心の居場所が分からないんじゃ、何の意味もない。
蜂谷組にでも顔を出してみようか。
いや、ヤクザが一々ホームレスの事情なんか知らないだろう。
もしくは、CIかリバーシにでも行ってみるか。
……今はママやイーグルさんに顔合わせずらい。
やっぱり、俺にできることなんてなにもなかったのかな。
まったくどうしようもない。
無力感にさいなまれて、肩がどんどん重くなる。
海に沈んでいく碇みたいだ。
そんなとき、目の前に白い何かが揺れた。
「よお、デウス。こんなところで何してんだ?」
「……キリヤ、か」
そこにはいつもの少年のような笑顔のキリヤがいた。
ただいつもと違うのは、少し頬かやつれていることと、額に擦り傷のようなものがついているというくらい。
「なんだ? お前少しやせたか? それにデコも怪我したのか?」
「ん? こりゃあ、あれだ。ケンカだ。最近特に絡まれやすくてな。お前だって、デコにこぶできてんじゃねえのか?」
「いや、これは、その、ちょっと転んでだな」
「へっ、ドジ臭えっ」
「ほっとけっ」
ふっと笑うと俺たちの間にぎこちない笑いが生まれた。
そしてすぐに笑いは、枯れていく。
「どうした? デウス。なんか悩み事か? これでも舐めて、オレに話してみな」
と言い、キリヤはポケットから白い飴玉を俺に渡した。
またハッカ味か。
口に放り込むと、ミントのさわやかなさが鼻を通り抜ける。
「いや、悩み事って言ってもな……」
お前に話してもどうにもならないだろ。
ホームレスのことを話しても。
「まあまあ、いいから話してみろよ。こういうときに、友達っているもんだろ?」
「……」
友達か。まあ、いいや。
話の整理代わりにもなるし、話したらなんかスッキリするかもしれない。
「実は人を捜しててな」
「人?」
「ああ。そいつは河川敷に住んでるホームレスなんだ」
「……ホームレス?」
キリヤの声のトーンが少し落ち、表情が硬くなる。
まあ、普通そういう反応だな。
ホームレスを捜してるなんて言ったら。
「ああ。そのホームレスはいつも麦わら帽子を被っていてな。そいつにはいつも世話になってたんだよ。でも最近になってそのホームレスが行方をくらましてさ。もしかしたら、とんでもないことに巻き込まれているかもしれないんだ」
「……そのホームレスを探し出してどうするんだ?」
「助け出す」
俺がそう言うと、キリヤは眉間にしわを寄せて、口を摘むんだ。
なんでこんなこと話してんだろ。
キリヤも反応に困るだろうな。
「なんで、ホームレスなんかを助けようなんて思うんだ?」
「え?」
「ホームレスなんてろくでもない奴らだらけじゃねえか」
「おい、なに言って―――」
「もしかしたら、お前が助け出したいホームレスは、子供を捨てているのかもしれねえんだぞ?」
キリヤは真面目な目で俺の目をジッと見たまま、最後に「それでも助け出したいのか?」と言った。
俺は喉につっかえた唾を飲み下す。
何を言ってるんだ? キリヤ?
なんでそこまでにホームレスを憎んでいるようなことが言えるんだ?
それにサヤエンドウが子供を捨てているのかもしれないって……
いや、ありえないことではない。
なぜなら、ホームレスは過去から逃げて生きているからだ。
昔、ママはそう言っていた。
サヤエンドウが俺の親父のように、過去に子供を捨てているのかもしれない。
……それでも、そうだとしても。
「俺は、助けたいよ」
「……それで大事なもんを失うとしてもか?」
「……ああ、俺の命賭けてでも。助けてやりたい」
「なんでだ?」
「俺の……家族だからだ」
そこで会話は遮断された。
キリヤは大きく目を見開くと、鋭い眼光に変わる。
まるで、さっきの少年のような笑顔が嘘だったかのように。
「……そうか。そこまでの覚悟があんならもういいや」
キリヤは踵を返した。
何がもういいのだろう。
「おい、デウス。この街に情報屋がいること知ってるか?」
「は? あ、ああ。都市伝説だろ?」
「いや、実話だよ。本当にこの街には情報屋が存在する」
前に、イーグルさんが少し言っていた。
この街、いや、この世界の全てを知っていると言われている『情報屋 ウロボロス』
そんな奴が本当に存在している?
待てよ。そいつに聞けば、サヤエンドウの居場所が。
「どこにいるんだ?」
「……着いて来い」
そう言って、キリヤはそのまま雑踏の中に消えてしまいそうになる。
俺は、はぐれないように、置いていかれないように、その背中を追いかけた。
* * *
キリヤの足が止まるころには、すでに太陽は頭の上まで昇っていた。
人の出入りが激しい交差点を掻き分け、駅前の高層ビル群を抜け、サラ金だか漫画喫茶だか良く分からない看板を窓に掲げた雑居ビル郡。
この街にならどこにでもありそうな、古く小さい五階建ての雑居ビル。その前でキリヤは立ち止まった。
「ここだ」
「ここって……」
俺はもう一度その雑居ビルを見上げる。
普通にどこにでもありそうなビルだ。
こんな場所に情報屋がいる? 都市伝説とまで言われている情報屋が?
「このビルの中にあるエレベーターに乗って、階数ボタンを、五階から一階に向けて一つずつ押せばいい」
「……五階から一階に向けて? ということは、五、四、三、二、一の順番で押せということか?」
キリヤは首を縦に静かに振った。
なに言ってるんだコイツは?
そんなことしたら、五階に行ってそのまま一階ごとに止まって元に戻るだけじゃねえか。
「オレが紹介したって言えば良いと思うから。……デウス」
「え、なんだ?」
キリヤはそっと手を前に差し出した。
どういうことだ?
「握手だ、握手」
「え? なんで?」
「いいから」
俺の手を強引に掴むと、キリヤは俺の手を固く握り締めた。
キリヤの手の大きさが、暖かさが皮膚を伝って流れ込む。
目と目が合い。なんだか、恥ずかしくなって俺は頬を掻いた。
それからそっと手を離し、キリヤは俺に背を向ける。
キリヤは手をポケットに突っ込み、背を向けたまま囁く。
「……じゃあな、デウス」
「お、おい、どこ行くんだよ」
「……そうだな。ちょっと、リバーシに行ってくる。やり残したことがあるんだ」
このときなぜか、キリヤの背中が寂しそうに見えた。
少し突いたら割れてしまいそうなシャボン玉のように。
それでも、何かが喉につっかえてなにも言えなくなる。
キリヤが一歩前に踏み出す。
そのとき、キリヤは激しく咳き込んで、アスファルトに膝を突く。
「おいっ! キリヤっ!」
キリヤに近寄り、肩に手を乗せる。
しかし触るなと言わんばかりに、肩に乗せた俺の手を振りほどいて、キリヤは立ち上がった。
また歩き始める。しばらくして、その白い髪と後姿が人ごみの中に消えいく。
ビー玉が雑草の中に埋もれていくのを見ているような、そんな空しい思いが胸を締め付ける。
ふと、地面に透明な袋が転がっているのを発見した。
中にはキリヤが飲んでいた、赤い錠剤が顔を覗かせている。
これって、キリヤの薬じゃないか。
追いかけようとしたが、人波がキリヤを飲み込んでしまっていた。
……今度会ったときにでも、渡しておくとするか。今日のお礼もかねて。
その袋をポケットに入れると、俺は雑居ビルの中に入った。
このとき、キリヤの握手の意味が少しでも分かっていれば、あんな結末にはならなかったのかもしれない。
雑居ビルに入り、狭いエレベーターに乗る。
キリヤが言っていたとおりに、階数パネルを五階から順に押していく。
こんなんで本当に大丈夫だろうか?
不安を胸に、五、四、三、二、一という順に押していく。
一まで押して、指をボタンから離し、待つ。
すると、エレベーター内の電気が一瞬消えた。
すぐに電気が点き、エレベーター内ががたんと大きく揺れる。
それから、空気が俺の顔の皮膚を上に押し上げた。
背筋をぞくっと反らされる。体全体に襲う、浮遊感。
な、なんだこれ? 上じゃなく、下に降りてる?
階数表示は、一で止まったまま動かない。
加速していたエレベーターが徐々に減速していき、止まる。
甲高い音を立てて、ドアが勢いよく開く。
目の前には狭い通路があった。暗くて先があまり見えない。
通路の両サイドには、黄緑色に光る電飾が導くようにして並んでいる。
俺は息を呑むと、一歩踏み出してエレベーターから出た。
エレベータの扉が閉まると、エレベーターは上の方へ上がっていってしまった。
なんだろう、すごい恐い。これって、逃げられねえぞっっていう脅しとかじゃないよね?
『俺の想像じゃ、この世界の裏の裏の裏を牛耳る大男だと思うよ』
イーグルさんの言葉が脳内に反響する。
もうあんな話聞かなきゃ良かった。
首を振って、大男を脳内からかき消すし、通路を進む。
言うまでも無く、足を出すたびに不安は増幅していくわけだが、幸いなことに通路はあまり長くなかった。
すぐに一つの扉に行きづまったのだ。
扉には、蛇が自分の尻尾を飲み込んでいるエンブレムが彫られている。
扉の横には、インターフォンのようなものが取り付けられていた。
これ押すタイプだよね? え~、やだこれ。恐いよ。
だけど、サヤエンドウのためだ。
俺は意を決して、インターフォンを押す。
音が壁に跳ね返り、息を呑むような不気味な沈黙がおとずれる。
それから、インターフォンからざざっとノイズのような音がした。
『合言葉は?』
「……」
インターフォンから聞こえた声は、ボイスチェンジャーを使っていて、こもるような男の声だ。
それよりもだ。……合言葉?
おいおい、キリヤ聞いてねえぞ。合言葉があるなんて。
『合言葉は?』
もう一度、聞かれる。
ど、どうしよう。合言葉?
くそ、こうなったら一か八かっ。
俺はなんだかよく分からないが、耳に残っている合言葉を口にしていた。
「あ、あ、アフロと軍曹……」
この沈黙がすごい効果絶大で、俺は今にも帰りたい気分にさせられるのだ。
そしていきなり、静かな空気を震わせ、扉の鍵が開いたような音がした。
俺は背筋をびくっと振るわせる。心臓に悪い。
入れということだろうか?
俺はドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと回すと、やけに重たい扉を開けた。
扉を開いた瞬間、顔の皮膚を引きちぎるような凍える風が俺を襲う。
口の中に入り、一気に喉を乾燥させた。
部屋の奥。青白い大きな長方形の光が三つ浮いて見える。
テレビ? いや、パソコンか?
その青白い光を背に誰かが、こちらに笑いかけているように見えた。
「やあ、便利屋。よく来たね」
か細くやわらかい粉雪のような声。
俺にはそれが、世界を牛耳る大男の声には聞こえなかった。
感想やアドバイス、誤字・脱字などの指摘お願いします。




