誰と知りてか
俗に一番暗いといわれる時分をすこしばかり越え、まだ昇らぬ日の気配で辺りは夜の底から浮かび上がりはじめている。
去っていった男の背中が靄に呑まれてから随分たったというのに、遊女は朱塗りの格子に身を寄せて見送りの姿勢のまま、ぼんやりと路の先を眺めていた。
「今日は随分と早いんだねえ」
急に胸下から声がして、遊女はついと身体を引いた。神出鬼没としか思えない、いつともなしに顔馴染みとなってしまった相手が、両袖から手を抜いただらしのない格好でにやにやと見上げている。常日頃の視点の高さを逆転させた、格子の内と外の段差に安堵して遊女は応えを返した。
「ぬしさんこそ」
「いやいやおれはね、いつでもね、準備万端ですからね」
意味もなく語尾を強調するちゃらんぽらんな喋り方とはうらはらに、遊女は自分がしげしげと観察されているのを感じた。寝乱れた髪や、肌蹴た首筋に残る鬱血の痕などは、知り合ってからついぞこの方、相手に見せたことのないものだ。
別に構うほどのことでもない。遊女はまたしても路の先を眺めた。
町並みは薄闇に包まれて静かだ。その中を背中を心持ち丸めながら離れていった客のことを、ぼんやりと胸中で咀嚼する。
ぐい、と手を引かれて我に返ると、格子の穴から手を差し入れた相手がまた一歩近づいて訊いた。
「ねぇ、そういえばさ、名前はなんつうの?」
「ご存知でありンしょう」
「あー、そーゆー通り名じゃなくってさ、ほんとのさ、生みの親、おかあさん?に呼ばれてたようなやつは?」
遊女は只かぶりを振ると、掴まれた手首を引いた。あっさりと未練なく手が離れていく。
「ずっりぃの、さっきの男はいいのに、おれはだめなんだ」
愛しい女の名を呼んで死ぬとかいうの、憧れなんだけどな、と子供のように口を尖らせる。駄々を捏ねてみせる相手を、遊女は長い睫毛を重たげに伏せて、格子越しに見やった。
「……血の、匂いが」
「うんああこれはね、だから今日はいいよ」
途端に、上機嫌でにこりと頷く。笑みで口元が歪んだついでに、端からちらりと牙が覗いた。
あの表情もこの表情も造り物だ、擬態でしかない。ひとであるふりをすることに長けているのは、ひとに紛れて、ひとを獲物とするからだ。表情を崩すことを許されない遊女よりも、人間らしく見えるほどに。
「もうお帰りなんし」
言い捨てて遊女は踵を返した。またね、と軽く掛けられた声には気付かないふりをする。
「みちゆくひとをたれとしりてか」
曙光の差し込む階段を上りつつ、古い短歌の下の句だけを唇を動かさずに呟いて、しかしあれはひとではない、と遊女は思った。
呼んだら一体どんな顔をすることか。
紫から赤へと色を変えていく空の下、唇を舐めながら、先ほどの獲物が今際の吐息と共に零した一言を水無瀬は思った。
「たらちねの母が召す名を申さめど路行く人を誰と知りてか」(万葉集)