エピローグ クリスマス・アゲイン・モスクワ
十二月二四日は、世界的にはクリスマスだが、ロシアのクリスマスは一月七日が正式なクリスマスだ。
電力やガス、電車やバスなどを除き、たいていの人々はこのクリスマス前後から休暇が始まり、年を明けてもなお、クリスマスのムードは続く。
だが、ゾン重工は多忙を極め、アレクサンドラは自らのオフィスに今日も出勤していた。
本来ならば欧米の顧客も多いため、クリスマスパーティーに引っ張りだこにされるはずだが、今年に限ってはそうも言っていられない。
最高級の黒檀の机と、人間工学に基づいて作られたという椅子。
そして広々とした社長室も、彼女にとっては今や、まるで拷問の道具にさえ見える。
「えーっと、ロスのアルマート・インダストリーズとの契約期日が来月末で、予算が確か三億ルーブル。商売としては小商いだし、断れば良かったかしら」
一人ぼっちで仕事をしていると、自然に独り言も増える。
そして、そんな書類の山に囲まれているアレクサンドラに、誰かがドアをノックする音が聞こえた。
「開いてるわ。ネルスキー? それともイワノフ?」
「まいど! 間宮倫音、クリスマスケーキと七面鳥、それにシャンパンを持ってただ今参上!」
久しぶりの友人の来訪。思わぬサプライズに、アレクサンドラは椅子を蹴って立ち上がり、彼女を抱きしめる。
「久しぶりね、ありがとう! メリークリスマス、リン!」
「はっはっは、寂しいクリスマスをお過ごしのレディに、日本人のリンは弱いんやな!」
「あなた、サンタクロースのダーリンは一緒じゃないの?」
その言葉に、少し寂しげに倫音は俯く。
「あいつの席の隣は、もう予約が入ってんねん。
うちは商人、所詮はゼニの亡者やから」
「商人が恋しちゃいけないなんて、誰が言ったかしら」
「アカンことはないねんけど、やっぱり、あいつにはお似合いの人がおるんや」
「ふうん、野暮はお互い言いっこ無しね」
「そういうこっちゃ、ほな、ボトル開けて乾杯しよや。
とっておきのクリュッグとローストターキー、それにブッシュ・ド・ノエルを用意したんやで」
ポンと景気のいい音をたてて、コルクの栓が天井に当たる。
転がったそれを拾うと、なぜかお互い笑いが込み上げて、気が付けば笑っていた。
「あれからもう半年経つけど、サンタクロース吹雪爺さんは元気かしら」
「さあな、うちの口座に倍の六億円が振り込まれてから、まるっきり音沙汰が無いんよ。
多分忙しいんやな、あいつも」
グラスを傾けながら、モスクワの夜景を見下ろす。
この夜景の中にはたくさんの子供達が居て、彼ら、彼女らに笑顔を配って歩く。
サンタクロースというのは、とても素敵な商売だ。
カップラーメンからミサイルまでを扱う、強欲な商人の自分とは違う。
はあっと息を吐き掛け、ガラス張りの壁を曇らせると、そこに文字を書く。
相合い傘の片方にはニコラ、もう片方には――
「メリークリスマス!
良い子にしてたかなリンネ、アレクサンドラ?」
「ぶほっ! げふげほっ! に、ニコラ!」
突如窓の外に現れたのは、ナナがソリを引き、隣にはベルとドラコを乗せている、サンタの正装に身を包んだニコラだ。
だが、ベルはどこか恥ずかしそうに頬を染め、顔を横に向けている。
「メリークリスマス。そちらも忙しそうね」
「一年で一番多忙な夜だからね。
けれど、子供達の為にも弱音は吐いてられないさ」
「お隣の紳士と、可愛いお嬢さんはどなた?」
グラスを掲げ、ちらりと目線を動かすアレクサンドラ。
それに答えるように、ニコラは二人を手で指し示す。
「新しい助手のベル君とドラコちゃんです!」
「ドラコです! よろしくです!」
「ベルだ……よろしく……」
「羨ましいわねドラコちゃん。格好いいお兄さん二人に挟まれて」
「はい! ドラコははっぴーです!」
両手を広げて、幸せを体で表現する。
おっこちそうで、少しだけ危なっかしいけれど、とても微笑ましい。
「元気そうやなニコラ。安心したで」
「ありがとうリンネ。あれから連絡も取れずにごめん、また一緒にお茶でも飲もうよ」
「悪いけど、あんたの隣にはもう予約が入ってるやん。なあ、ナナちゃん?」
「え? あ? 私?」
どぎまぎとして、ナナは顔を真っ赤にする。
やっぱり、この子が彼にはお似合いだ。
倫音は思わず苦笑する。
「予約なんて入ってないよ。何を言ってるんだ」
「入っとんのや! そんなことより、ここで油売っててええのんか?」
「おっと、そうだった。二人にプレゼントがあるんだ。受け取ってよ」
「ガラスを突き抜けて受け取れってか? 冗談きついで」
「もう、アレクサンドラさんの机の引き出しに入ってるよ。それじゃ、メリークリスマス!」
嵐のように現れて、嵐のように去っていく。
まるでテレビの特撮ヒーロー、あいつの名前は花巻ニコラ。
世界で一番のサンタクロース。
世界中にメリークリスマスを叫ぶ。
聖夜に幸せを配り歩く、花巻ニコラの未来に乾杯。
グラスを掲げ、倫音は笑う。
「ちょっとリン、見てよこれ!」
「なんやー、何が入っとった?」
「見てよほら、私とあなたが初めて会った、あのカフェに置いてあったオルゴール。
最初に会話を切り出したのはリンで、ここのオルゴールを聴くと嫌なことも忘れられるって言っていたでしょう?」
「ああ……ホンマや……アンティークのリュージュのオルゴール……」
優しい音色、透き通るような旋律、それは心に染み込んでくる。
思い出が詰まった、あの場所。
「あれから私達三年になるのね。
あなたも私も駆け出しの社長で、お互いに二世経営者として、役員達から嫌われていた」
「そうやなあ、うちらはめっちゃ頑張った。
ロシアに来ると、うちはあのカフェに足を運んで、必ずこのメロディーに耳を傾けながら、バラのジャムが入った紅茶を飲むんや」
ぽろんぽろんと羽が鳴る。
降り積もる雪のように、それは心に広がっていく。
「クリスマスのBGMとしては不釣り合いだけど、とても素敵」
「ミスマッチがええねんで。アレクサンドラ」
そう言って、口付けを交わす恋人をあしらった磁器の頭を、指先で小突く。
優しい音を奏でる度に、それはゆっくりと回っていく。
それはまるで回転木馬だと、倫音は思った。