第16章 誰が釈迦の饅頭を食べるのか
「こうして共に馬を並べるなんて、思ってもみませんでしたねえ仏陀」
けらけらと気楽な笑い声を上げているのは、茨の冠をまとったイエスだ。
突如召集された森羅万象安全保障理事会は、四百万の軍隊を天界、魔界の双方から送る事を、異例のスピードで可決したのだった。
天界側の総指揮官はイエス・キリスト。
副官は釈迦だ。
二人は天界より二百万の聖霊兵を集め、あの世とこの世の境である、黄泉比良坂に陣を敷いていた。
数キロ離れた向かい側では、ベルゼブブを総指揮官、アスタロトを副官とした、同数の軍勢が陣を為している。
どちらかが原因で、小競り合いでも起こそうものなら、一瞬にしてハルマゲドンは始まってしまうだろう。
それ故、特に天界側はぴりぴりとした空気が漂っている。
一方の悪魔達は、酒宴を開いて天使達を挑発する。
自分達は勝てる、強い、お前達とは違う。
明らかに、天界を挑発しているのだ。
だが、天使達も表面上は見て見ぬ振りをしている。
平和になった世の中でも、所詮は砂上の楼閣。
天界と魔界の間には、深くて大きい溝がある。
それを越える事など、誰にも出来はしないのだ。
「私は本当は反対したいんですけどね、こうなっては何も言えないでしょう」
「分かります。私も気持ちは同じ。ですが、いつか悪魔とは争う日も来る事でしょう。その時に向けて備え、相手の実力を見る良い機会でもあります」
「イエス……あなた、本当は戦いたいと思っていませんか……?」
「我が信仰は常に血と戦いにまみれて来ました。仏陀、あなたと私は違います」
「イエス?!」
「はははっ、冗談ですよ仏陀。戦いを好むなんて、ギリシャや日本の一部の神々だけですから」
「あなたが言うと、冗談に聞こえませんよ……」
「イエス様、仏陀様、全ての準備、整いました」
戦いの正装に身を包んだスブーティがやって来て、恭しく頭を下げる。
「ご苦労様です。優秀な部下をお持ちで、羨ましいですね、仏陀」
「あなたの所にも、ヨハネやペテロがいるでしょう」
「人の持ち物がよく見えてしまう事って、ありませんか?」
口元に手を当て、くすくすと笑う。
時折彼が分からない。
イエス・キリストという人間は、主に次ぐ地位を持っているが、同時に疑問に思うのは、その「主」と呼ばれる存在に接することができるのは、イエスのみとなっている。
イエスに次ぐ地位を持つ釈迦だが、彼でさえも主との謁見は叶わない。
だが、以前聞いた噂によると、魔界でもサタンと謁見が許されているのは、ベルゼブブ一人と言われている。
主とサタン、どちらも天界と魔界を象徴する者であり、実質的には運営に一切関わらない、純粋な象徴として君臨している。
ひょっとして、主とサタンというのは――
「師匠、お顔色が優れませんね」
「え? ああ、ラーフラの事が心配でね」
「そうですね。早まった事をしていなければ良いのですが」
「これはこれは、指揮官に副官、ちょうどお揃いのようですな」
その声に、思わず背筋がぞくりとなる。
振り返ると、そこに立っていたのは黒服に身を包んだベルゼブブとアスタロトだ。
これから戦場に向かうというのに、まるで喪服のようにさえ見えるその姿に、周囲の兵達はざわめきを隠さない。
「ようこそベルゼブブさん、アスタロトさん」
両手を広げ、歓迎の意を示すイエス。
彼は恐れる事もなく、ベルゼブブと抱擁を交わす。
だが、仏陀としては一度殺されかけた事もあり、おいそれとは彼に近付く気にはなれない。
愛想の良いベルゼブブとは対照的に、副官のアスタロトは、つまらなそうにあらぬ方向を見ている。
天界の事など、まるで興味が無いといった面持ちだ。
「さすがは聖霊兵の皆さんですな。どなたも立派な装備をしていらっしゃる。特に天使兵の装備などは、ギリシャのヘパイストスが用意したと聞き及んでいますよ」
「いえいえ、身体能力や呪術に優れた悪魔の皆さんと違って、道具であがなう事しかできないものですから」
「これはこれは、ご謙遜をなさる」
「本当の事ですよ。日々鍛錬をされている、あなたの軍勢と比べれば、我々は見劣りをしてしまいます」
お互いが上品に笑い合い、親交を深めようとしているかに見える。
だが、誰が見ても流れる空気が最悪なのは、火を見るよりも明らかだ。
釈迦もまた、仏スマイルを崩そうとはしないが、内心は不安で仕方がない。
横では直前にベルゼブブの泥人形を切り捨てた、スブーティが居るのだ。
彼は柄に手を添え、小さく刀身を見せている。
何かあれば即座に斬り捨てる。
無言のうちにそう言っているのだ。
そして、そのあからさまな挑発を隠すつもりなど毛頭無い。
最初は一方向を見ていたアスタロトだが、それに気付いてからは、たまにちらちらとそれを見ている。
もし彼らがこのことを何か言えば、すぐに均衡は崩れてしまうだろう。
だが、イエスもベルゼブブも、まるでそんなことを気にする様子は無い。
むしろ、楽しんでいるかのようにさえ見える。
「ベルゼブブ様、アスタロト様、急使が参っております!」
「ん? 分かった、ここに通しなさい」
「こことは? ベルゼブブさん、こちらは天界の陣営ですが、宜しいのですか」
「構わん。我々は今、共に同じ戦いに身を投じるはらから同胞なのじゃから」
伝言を伝えに来たガーゴイルの後ろから、首をきちんと着けたデュラハンが現れる。
「偉大なる副帝、ベルゼブブ様。急なお目通り、恐悦至極に存じます」
「デュラよ、ワシとお前の間にかような挨拶は不要と言ったはずじゃが」
「はい。しかし今はイエス様やお釈迦様の手前、私も礼を失するわけに参りません」
「あい分かった。しかして、用件は何じゃ」
「ベル様とラーフラ様が、サンタクロースの築いた要塞に侵入されました」
「何ですとぉーっ?!」
頓狂な声を上げたのは釈迦だ。
この慌てようには、さすがのイエスも苦笑する。
一方のベルゼブブはひげを指先で触りながら、続けろと小さく言った。
「闇雲に攻め込めば、ベル様やラーフラ様にも害が及びかねません。ご注進申し上げます」
「なるほど、ではどうすればよいと思う」
「このデュラハンに十万の兵をお預け下さい。要塞の周囲を包囲しつつ、ベル様とラーフラ様を連れて戻ります」
「女性一人では心許ない。私がお供致しましょう」
そう言って、一歩前に進み出る者がいる。
刀を戻し、いつも通りの聡明な表情を浮かべたスブーティだ。
涼しげな目で悪魔達をね睨め回し、釈迦とイエスの方を見る。
「いかがでしょう。魔界と天界、双方から使者を一人ずつ出すというのは、必要な事だと存じます」
「天界の剣聖と名高いスブーティ殿が行くなら、デュラハンも百人力、いや、千人力じゃのう」
「そうですねえ。私は問題ないですよ。仏陀はいかがですか?」
「え、ああ、まあ、イエスとベルゼブブ様、それにアスタロト様が良いとおっしゃるなら」
「私は構いません」
ぽつりとアスタロトは呟く。
誰にも見えないように、デュラハンはその返事を聞いて、一際拳を強く握りしめ、スブーティは口の端で笑みを浮かべる。
させないよ。
彼は無言で言っている。
「ではスブーティ、お前にも十万の兵を与えよう。二十万の兵があれば十分過ぎるでしょう、デュラハンさん?」
「はい。天界と魔界が手を取れば、恐れるものなどありましょうか」
「このスブーティ、身を粉にして主の為、剣を振るいましょう」
「武運長久を祈ります」
イエスが言い終わると、二人は再度深く礼をし、戦の準備にとりかかる。
その際に、スブーティはちらりと後ろを振り返った。
釈迦にだけ目配せで、大丈夫ですよと伝える。
だが、彼としてはそんなものは信用ならない。
何かやらかすんではないだろうか。
ただでさえややこしい事態の中に、さらに不安が積もっていく。
どうして自分の周囲には、これほど頭痛の種が多いのだろう。
平和を希求し、その為に尽力しているはず。
天界と魔界は手を取り合ったはずなのに、それも見せかけだけの姿に過ぎない。
彼は身をもってそれを体験した。
いつかきっと、本当のハルマゲドンは起こる。
これはその前哨戦であり、代理戦争だ。
互いの力がどの程度のものなのか、探ると同時に見せ付けあう。
いわば戦力の誇示をする為のステージとなっている。
自分は一人置いてきぼりだ。
この巨大な三千世界で、ほぼ頂点に近い立ち位置に居るはずなのに、なぜか真理との距離は遠ざかっている。
中核となる部分から、恐ろしい勢いで遠ざけられている。
ぎりりと歯ぎしりをすると、釈迦はスブーティを呼び止める。
「お待ちなさいスブーティ!」
「はい?」
「私のお饅頭、良ければ食べてもいいですよ」
その言葉に、一瞬彼は考えるように上を向き、そして頷く。
「かしこまりました」
釈迦の饅頭を食べる。
それは、釈迦が全権を委任したという事を表している。
これは仏界の隠語として、幹部達なら誰もが知っている。
そして、今それが発令されたのだ。
釈迦は自分が戦に向かない事を知っている。
時に、鉄火場に於いては暗愚でさえあるだろう。
そんな彼だからこそ、そばに仕える忠臣の事は、絶対の信頼を置いている。
特に、釈迦の直属の十六羅漢は、表向きこそ単なる事務方を演じているが、スブーティが筆頭となって、秘密裏の内に武装を行っていた。
お釈迦様お供え思いやり予算の大半は、彼らの育成へと使われており、逆にそれをカムフラージュするために、彼は私費としてそれをラーフラのヘアケア代や、自分の乳粥代、さらに家屋敷の家賃として架空計上をしていた。
もしイエスが自分を裏切ったならば。
もし魔界と戦争になったならば。
自分は仏教派閥の頭目として、彼らを守らねばならない。
絶対などという言葉は、天界に於いてさえ存在しない。
だが、彼はそれでも愛と平和を信じたい。
暗愚と思われ、誹られても、それが釈迦の義務だと彼は思っている。
その一方で、こうした準備を怠らないのは、彼の弟子達が有能であり、徹底した現実主義を取っているからだ。
「そんなに美味しいお饅頭なのですか?」
イエスの問いかけに、疲れたように笑い掛ける。
「ええ、とっておきのお饅頭なんです」
「それはそれは、宜しければ一度、私も食べてみたいものですね」
「滅多に食べられない貴重なものなのです。機会があれば、いずれご馳走しますよ」
だが、そんな機会が訪れなければいい。
彼は思う。
そのお饅頭をご馳走するということは、イエスとも一戦を交えるという事だ。
にこにこと罪の無い笑みを浮かべるイエス。
だが、仏陀の中には一抹の不安が残る。
天界は、魔界は、いったいどうなってしまうのだろう。
既に神となって昇ってしまった自分は、誰に赦しと救いを祈れば良いのだろう。
その問いに、釈迦は再び同じ疑問が、先ほど考えていたことと同じだと気付く。
やはり主というのは――