第14章 ベルゼブブの覚醒
想定していたより、遥かに厄介な事になってしまった。
元はと言えば自分も悪いとは言え、子供のしつけというものは、普段からもう少ししっかりしておくべきだっただろう。
果たしてどうするべきか。
思い悩んだ末に、とりあえずベルゼブブに相談しようと思い立ち、釈迦は魔界を訪れていた。
最初にイエスとも話はしたが、そんなことよりホネホネトリオの漫才のどこが面白いのか教えろなどと、たわけた事を言っている。
平和ボケも、ここまで来ると軽い殺意が湧く。
「まったく、イエスさえしっかりしてくれれば私がこんな事しなくてもいいのに」
薄暗い闇の世界に於いては、輝く背中の後光が、ちょうどいい外灯代わりになる。
だが、魔界独特の不穏な空気は、いつ来てもあまり好きになれない。
遠くから何度か悲鳴や叫び声が聞こえる事もあるが、魔界では一種の挨拶代わりだと言う。
その変な文化も含めて、彼はいまいち魔界が好きになれずにいる。
薄紫色の空の下、道端に転がる角の生えたしゃれこうべ。
大地を包むは血の匂いがする苔。
どこまでも赤く、深紅色の世界が地平線の果てまで続く。
どう見ても趣味がいいとは思えない。
地獄の方がまだマシだ。
「おや、そこにおわすはお釈迦様じゃありませんかな?」
「ベルゼブブさん、どうもこんにちは。ちょうどあなたの所に行こうとしていたのです」
「おやおや、うちに来られるなら一言おっしゃっていただければ、遣いのファフニーを寄越しましたのに」
「いや……あんなデカイ龍をいちいちうちの前に呼ばれたら、迷惑駐龍だって、菩薩の皆さんに怒られますから……」
「確かにごもっとも。それで、我が家に用とは珍しいですな。おそらく、遊びに来たという訳ではないでしょう」
「ええ、うちのバカ息子が、ひょっとしたらこっちにいらしてないかと思いまして」
精一杯の笑みで繕いながら、ベルゼブブの様子をうかがう。
すると、彼は懐から魔界携帯モニターを取り出して、彼に見るように促した。
そこに映っているのは、魔界の侯爵の一人、バラムが鉄の要塞に向かって突き進んでいく姿。
そして、彼の率いる四十の悪魔軍団が要塞を取り囲み、盛大に爆死をする姿だった。
釈迦はその光景に青ざめる。ベルやラーフラのような若者ではなく、一定の地位を持ったソロモン七二柱の一人が、既に戦いに挑み、死んでいたのだ。
それも、ベルゼブブの側近の一人と言われている、老悪魔のバラムが。
「えーっと、お悔やみ申し上げます……」
「お悔やみ? ふぁっふぁっふぁ、何をおっしゃいますやら。バラムは誇りを胸に、歓喜の内に死んでいったのです。むしろ、その喜びを分かち合って下さい」
「喜び……ですか……?」
よく分からない。そう言いたそうな釈迦に対し、ベルゼブブはにやりと笑う。
「ここのところずっと、平和が続き過ぎて、私達は、本当に大切なものを忘れていたとは思いませんかな」
「平和で何が悪いんです! 秩序こそ天界、魔界の双方が求めるもののはず!」
「確かに、私もその意見には賛成です。しかし、争うべき理由があるなら、話は別だ」
「理由など無い! 戦争に正義など存在しない!」
「戦争になれば、お釈迦様お供え思いやり予算なんてものは、全部軍事費に回されますからね。そうでしょう、お釈迦様?」
「それが悪い事ですか? 平和上等、秩序こそ至上。今も昔も変わりません!」
そこまで言った時、ベルゼブブは仕込み杖の刃を抜き去り、釈迦の喉元にぺたりと当てる。
「いい加減にしようやパンチ野郎。
ワシらぁ悪魔だ。
ただ、ほんの少し平和ごっこを楽しませてもらってただけで、お互いに握手を交わすが、空いている手には銃や刀を背中に隠して笑いあっていたはずだ。
ベルゼブブと呼ばれるワシも、要は糞にたかる蠅の王。
だが、人や神にへつらうくらいなら、喉笛かっ切って死ぬ方がマシじゃよ。
バラムはワシに、そんな当たり前を思い出させてくれた」
「ベルゼブブさん……あなた本気で……」
「心配めさるな、今ここであんたを殺せば、本当にハルマゲドンになるじゃろう。
まだ今は、その時期じゃあない。
大切なのは、ワシらの顔に泥を塗り腐った上に、大切な子飼いの部下を挽肉にして魚の餌にしてくれた、あのいけ好かないサンタ野郎を、どうやって血祭りに上げるかが肝心じゃからな」
「いったい、何をする気です?」
「緊急に、森羅万象安全保障理事会の召集を、魔界の副帝ベルゼブブの名の下に発令する。
議題は天界と魔界、双方による共同軍の編成によるサンタクロース討伐。
総兵力は四百万だ」
その言葉に、釈迦は顔から血の気が引く。
兵力四百万と言えば、天界と魔界のおよそ五割に及ぶ戦力の投入だ。
それこそ、一歩間違えれば全面戦争のハルマゲドンともなりかねない。
「たかがサンタクロース一人の為に、やり過ぎではないですか?!」
「お釈迦様、あんた甘すぎるんじゃないかのう。やっぱりこの場で殺―」
そこまで言った時、ベルゼブブの頭が地面に転がる。
「危ない所でしたね、師匠」
「スブーティ! お前、なんて事を!」
血を吹き出しながら倒れる、ベルゼブブの胴体。
その向こうから姿を現したのは、釈迦の弟子であり、警護役を務めるスブーティだ。
普段は賢者もかくやという聡明な顔立ちをしたその顔も、今は返り血で赤く染まっている。
「大丈夫です。魔界の副帝がこの程度で死にはしませんよ。そうでしょう、ベルゼブブ様?」
スブーティがベルゼブブの頭の上に足を載せ、こちらを振り向かせると、耳まで裂けるような口で高らかに笑う。
「クケケケケケケッ、魔界の副帝の頭を落として、ただで済むと思っておるのか?」
「あなた、ベルゼブブの形をした、ただの泥人形でしょう。私はここで泥遊びをしていただけ。 畏れ多くも魔界の副帝、ベルゼブブ様を手に掛けるなど出来はしませんよ」
「なるほど。では釈迦も、ここで泥遊びをしていただけ。そうだなスブーティ?」
「おっしゃるとおりです。これでお互い、罪は不問とさせていただきたい。いかがでしょう」
「良かろう! 不問に処す! 次はKUMONOUEの安保理の席上にて会おうぞ!
だが、その際は背中に気を付けろよスブーティ?」
「ご忠告、痛み入ります」
そう言って、ベルゼブブの形をした頭を、彼はぐしゃりとすりつぶす。
腐った卵のような匂いが立ち上り、それは緑がかった灰色の液体となって溶けてゆく。
「ああ……なんて事だ……このままでは本当に、天界と魔界の秩序は崩れてしまう……」
「落ち着いて下さい師匠。あなたは天界と人間界を、導くお方のはず」
「黙れスブーティ! お前はなんて事をしてくれたんだ! このままでは、天界と魔界の友好関係も全て崩れ去ってしまうだろうが!」
「所詮相容れぬものですよ。未開の蛮族共に対し、説法をするなど愚の骨頂」
「スブーティ! お前は私から何を学んで来たのですか! そもそも神霊と悪魔達は――」
ああ、こんな時だけ一人前の正義面をする。
しかし、仕方が無いのだ。
釈迦は天界に於ける、仏教勢力という有力な大派閥を取り仕切る頭目だ。
彼の言うことは、終始一貫していなくてはならない。
例え疑問や矛盾があっても、揺るぎない信念を釈迦は持っていなければならないのだ。
とは言え、世話がやけるというか、うるさいというか。
やれやれと、スブーティは肩を落とす。
さっき浴びたベルゼブブの返り血で、服がべっとりと肌に貼り付いて気持ちが悪い。
早く帰って風呂にでも入り、着替えたい気持ちで頭の中は一杯だ。
「―というわけです。分かりましたかスブーティ?」
「はい。その教えを心に刻み付け、新たに衆生の救世を考えてまいります」
「分かったならば宜しい。では、一刻も早く帰りましょう」
「そうですね。遠くから人狼の吠える声が聞こえます。何かを嗅ぎつけられたかも知れません」
「急ぎましょう。森羅万象安全保障理事会の召集もすぐにあると思います」
「面白くなってきましたね、師匠」
「スブーティ!」
「はいはい、今のは単なる独り言ですよ」
軽く苦笑いを浮かべると、彼は天馬へと姿を変える。
「お乗り下さい師匠」
「ちょっと待って、馬に乗るのなんて久々ですから……」
「早く! ヒドラの群がこちらを見つけたようです!」
「そんなこと言われても……よっと、あれ? 上手く乗れない……」
「ええい、くわえますから酔わないで下さいね!」
「え? ちょっ、うわ! 何をする!」
後数秒遅れていれば、触手のようにいくつもうごめく、ヒドラの頭に骨まで貪られていた事だろう。
魔界の生物には知能が低いものも多く、彼らは悪魔も神霊も関係なく襲い掛かる。
じゅるじゅると嫌な音を立て、ヒドラ達はベルゼブブだったものが残した液体を舐め取り、雄叫びを上げる。
最後まで嫌な置き土産をしてくれるものだ。
「スブーティーッ! 落ちる落ちる落ちる!」
「あまり暴れないで下さい……くわえたまま飛んだり喋ったり、大変なんですから……」
「高いよ! うわ、マグマだ!
落ちたら溶ける! 溶けちゃいますよ?!」
人の話を聞いて下さい師匠。
思っても言わない自分は偉いと、スブーティは自分で自分を褒めながら、魔界の薄闇の中を飛んでいった。




