第12章 其は死なり、其は破壊なり、汝の名は人間なり
北極海の上空、身を切るような零下の空を、ベルとラーフラは飛んでいた。
飛べない魔物を連れた、森羅万象国際会議のような大移動の際は龍の世話になるが、個々人の移動に於いては、基本的にそれぞれが飛ぶ能力を備えている。
特に龍などは、人間界には存在せず、使おうものなら人間界は大騒ぎとなるため、その使用は禁止されている。
殊に、今回は隠密行動が全ての大原則だ。
戦争というよりは、暗殺に近い。
まだ天界や魔界では、ベルとラーフラの独断専行については誰も知らないだろう。
逆に、それらの世界が騒ぎ出す前に、全てを終わらせなくてはならないのだ。
「サンタクロースってあれだろ? 神霊でさえ無いんだろう? ちょっと痛めつけてやれば、すぐに地べたに這いつくばって侘び入れてくるだろう」
ベルは頭から生えた触覚をぴくぴくさせながら、隣を飛ぶラーフラに話し掛ける。
「あまり舐めない方がいいんじゃないかな?
あんなに正々堂々と俺達にケンカを売るんだ。
何か勝算があってやってるのかも知れない。
そうじゃなくても、窮鼠、猫を噛むって言うし」
「お前は臆病だなあ。
いや、仏教だからかも知れないけれど、小賢しい策とか罠とかなんて、力でねじ伏せちまえばいいんだよ。
最終的に必要なのは力だ。
相手を越える圧倒的な力」
「圧倒的な力、ねえ」
ふと立ち止まったラーフラは、少し考えるような表情をする。
「どうした?」
「あれ、見てみろよ」
くいと顎で指し示したのは、眼下に広がる巨大な円形の人工島だ。
こんな物はここには無い。それは突如として現れたのだ。
真新しい巨大な砲門は整然と並び、鋼鉄の弾丸を撃ち放つ瞬間を今か今かと待っている。
それはまさに蜂の巣のように、鋼鉄に包まれた浮遊人工島を埋め尽くす。
映画のセットと言うにも馬鹿馬鹿し過ぎる程の重装備。
威嚇などという、なま優しいものは存在せず、近付く物は全てを蜂の巣にするだろう。
かつて人類が、これほど巨大な鉄の死神を、あまりにも荒唐無稽な幻想の墓標を、築く事は出来ただろうか。
トールハンマー、ミョルニル、千人長槍、天叢雲剣、どんな伝説上の武器よりも、最高に派手で最高にクール。
殺し殺され殺し尽くす。純粋なる殺意。
いや、殺戮という名の反自然。
そしてその中心には、巨大な旗がたなびいている。
『FUCK GOD! FUCK DEVIL! KISS MY ASS!』
その文章の下には、ご丁寧にベロを出したサンタの似顔絵入りだ。
ベルは思わず笑いが込み上げてきた。
ラーフラも、これには苦笑せざるを得ない。
悪趣味にもほどがある。あまりにも幼稚で、あまりにも常軌を逸しているのだ。
史上最大にして最強。
空前絶後にして、小学生レベルの無敵パワー。
SF小説家と映画監督が酒の席で、冗談交じりに考えたような超弩級の空想科学兵器。
それは巨大な死神の横顔のように、二人に笑い掛けている。
心臓を冷たい手に掴まれたように、思わずぞくりとして震える。
感情を伴わない死のシステム。
ひ弱で小さかったはずの人間達は、いつしか神や悪魔の領域にまで進出する。
賢者、魔女、科学者、狂信者、あらゆる種類の人間達が、時に自分達の場所を侵そうとしてきた。
その全てがことごとく失敗に終わったのは、彼らが結束をしていなかったからだ。
人間風情が十人や百人も集まった所で、天界や魔界を相手に事を構えるなどできはしないのだ。しかし、十万、百万、千万、一億十億、全ての人間が結束し、その知恵を絞り、全ての力を持って無敵の矛と盾を作ったなら、それは矛盾を越えて、空をも殺すことだろう。
天を貫き、三千世界を串刺しにするに違いない。
ああ、殺戮の芸術。破壊の創造。
悪魔から見てさえ、化け物という言葉以外に出ない。
サンタクロースという男は、これほどの短期間において、神や悪魔をも越えようとしている。愚直すぎる程真っ直ぐに、その切っ先は自分達の心臓部を狙っている。
そして、それは本当に刺さるかも知れない。そう思わせるに相応しい狂気にして凶器だ。
「やる気満点だな。サンタクロース」
ラーフラは困ったように頭を掻く。
だが、ベルの体はこの上なく血が騒いでいる。
本気なのだ。本気で自分は今、死ぬかも知れない戦いに身を置くことになろうとしている。
笑いが込み上げる。
それは止めどなく溢れ返り、耐える事などできはしない。
「どうしたベル? 気でも狂ったか?」
「馬鹿野郎!
笑えるだろう?
笑わずにいられるか?
俺達に、神や悪魔の中でも最高位に近い俺達に!
本気でクビを穫ろうと考える愚か者が居るんだぞ?
おかしくて仕方ねえ!
ブッ殺してやろう!
望み通りに殺してやろう!
喉笛を掻き切り、心の臓をえぐり出し、鼻を削いで目玉をくり抜き、残った骨肉は餓鬼共の餌にしてやろう!
お似合いの末路を用意してやろう!
最低で最悪の死に様を!」
「やれやれ。悪魔ってのは好戦的だとは思っていたけど、本当だねえ」
「なんだラーフラ、お前は面白くないのか?」
その問いかけに、彼は軽く歯ぎしりをして笑い掛ける。
「聖戦って言っちゃえば、たいていの事は許されるんだ。
ちょっとくらい殺し過ぎちゃっても、俺達が神様だから裁く者も無いよね」
背中に背負ったサーベルを抜くと、腰に付けていたひょうたんを外し、中に入っていた酒を刀身に振りかける。
「お前もやる気満々じゃねえか。安心したよ、ラーフラ」
「刀ってのは、何かを斬るためにあるんだ。使ってやらなきゃ可哀想だろう?」
酒の付いた刀をぬらりと舐めて、ラーフラは目を細める。
もうすぐ目に付く世界の全ては、鉄と血煙が支配するのだ。
絵物語でしか知り得なかった、本当の戦いが幕を開ける。
「で、どうする? 多分セオリー通りに考えれば、海中から行けば安全に攻略できるだろうけれど」
「そりゃあお前――」
「お待ち下されえええええええ!
ベル様! 早まらないで下されい!」
続きを言おうとしたところを、しわがれた男の声に遮られる。
やれやれ、一番厄介なのが追い掛けてきた。
狂った熊にまたがり、手に鷹を乗せて大空を飛ぶ悪魔公爵、バラムだ。
「ベル様ァッ!
他の悪魔共の目はごまかせても、このバラムは!
バラムの目は誤魔化せませんぞおおおお!」
「老兵は死なず、ただ消え去るのみって言うだろう?
バラム、お前の出る幕じゃない」
「何をおっしゃいますやら!
人間の言葉などを借りて、この私を翻弄しようとは片腹痛い!」
「そうだな。そりゃあ俺が悪かった。
だからもう帰れ。
年寄りの出る幕じゃない」
「それではこのバラムを!
バラムを倒してからにしてもらいましょう!」
「へえ、この俺と殺り合おうってのかい……」
その言葉を聞いたバラムは、黙って持っていた大槍を構え、切っ先をベルの方に向ける。
だが、戦うまでもなく、実力の差は圧倒的だ。
ベルは本来の半分以下の力で勝てると、ラーフラは察知する。
老人のささやかな誇りを、彼はどうやって交わすだろうか。
ここはお手並み拝見といこう。
そう思った時、ぞくりと背中が寒くなる。
気が付くと、空は夜のように暗くなっていた。
「闇が……飛んでいる……?」
空を埋め尽くしているのは、無数の悪魔達だ。
それぞれが殺気を放ち、遥か下に見える要塞に向かって、今にも突撃をせんとしている。
バラムが号令一下をすれば、たちどころに死の空は雨となって降り注ぎ、要塞を埋め尽くす事だろう。
「我はソロモン七二柱が一人、悪魔公爵バラム!
魔界に四十の悪魔軍団を持つ魔王なり!
相手がベル様と言えど、かような戦に、一番乗りを譲る訳には参りませぬ!」
その勇姿に、ベルはヒューと口笛を吹く。
ただのくたばり損ないだと思って、彼はバラムを馬鹿にしていた。
常にベルゼブブの傍にいて、小賢しい知恵を吹き込むだけの老醜。
彼は過去や未来に通じていると言うが、その予言も外れる事は往々にしてある。
そもそも天界や魔界に於いて、確実な未来を予見できるという者は、実はどこにもいないのだ。
それでもなお、神や悪魔でさえ、超自然的な知に頼ろうとする。
ベルはそんな神や悪魔達の事を、誰よりも軽蔑していた。
そして、バラムはそんな小賢しい力に頼る事しかできず、地位にしがみつく、最低の悪魔だと思っていた。
ベルゼブブのお気に入りでなければ、何度も殺そうと思った程、ベルは彼を嫌っている。
「バラム、戦いたいのか?」
「もちろんですとも!」
その目は少年のように輝いている。
老人の目は、一点の曇りも無い。
老いてなお誇りは捨てず、死に場所があれば、喜んで馳せ参じる。
悪魔って奴はつくづく、救いようが無い血煙フェチの大馬鹿野郎共ばかりだ。
だが、ベルはそんな悪魔が大好きだ。
「あい分かった。
魔界の副帝、ベルゼブブの息子、ベルとして汝に命じる。
バラムよ、行け。
そして死ね!」
「ははぁーっ!
ありがたき幸せ!
この上なき光栄!
皆の者、準備は良いか?
死ぬぞ! 死にゆくぞ!
我らの名を魔界全書に残すのだ!」
バラムの眷属達は、口々に唸り声を上げる。
ほとんど知能の無い者さえも、その体に流れる血の忠誠によって、主人が為に死ぬのだろう。
これが悪魔。
戦を好み、血を好み、争いを好み、闇雲に散っていく。
考えるより先に体が動く。
目的も無く忠誠に死ぬ。
犬死にさえも快楽として、体の芯を駆け抜けていくのだ。
天界の神や天使、神霊や聖霊達は、誰も彼もが命を大切にと声高に叫ぶ。それは自分も正しいと思うし、相手を慈しみ、思いやる心は素晴らしい。
だが、いざ鉄火場に立たされた時、彼らに覚悟はあるのか。
絶対的なる主の為に、その身を投げうつ事ができるのか。
訓練された犬のように、自己を犠牲にする蟻のように、死ぬことはできるだろうか。
腰抜けの天界。不抜けた神々。
ああ見よ、死んだぞ。一人目が死んだ。
人間が作った科学の前に、呆気なく蜂の巣にされ、ぼろ雑巾のようになって海に落ちていく。
二人、三人、数え切れないほどの悪魔達が、鉄と鉛と火薬の雨に突き進む。
白い雨。
青い雨。
赤い雨。
それはまるで、高速で飛ぶ巨大な蛍の群れ。
そして海には、悪魔達の肉片が飛び散ってゆく。
「サタン様ばんざああああああああああい!」
一際大きな声を上げて、バラムの体が塵芥となる。
わずか一秒足らずの事だ。
しかし、主を失ってなお、死の空は次々と要塞へ降り注いでいく。
きっと最後の一匹が死に至るまで、露払いは続くのだろう。
無限に続く掃射音は、屋根に跳ね返る雨音のよう。
ベルは黙って腕を組み、彼らの死に様を眺めている。
人間が知恵の数で勝負をするならば、こちらは力の数で勝負を挑んでいる。
四十の軍団はやがて、一つの砲台を取り囲み、その全てを破壊し尽くす。
もちろん砲台はまだ無数に残っている。
しかし、一つが崩壊すれば、それは巨大なダムに空いた穴となる。
二つ、三つ、砲台は徐々に姿を消し、やがて半分以上の砲台は破壊された。
「ラーフラ、このままなら俺達の勝ちじゃねえか?
戦えなくて残念だが、バラムの死は無駄にはならなかった」
「これで終わりだって?
あのクソサンタクロースがこれで終わらせる?
俺にはそう思えないね」
「まだ何かあるって言うのか」
「あるだろう、絶対に」
ベルはいらだちを隠そうともせず、蟻がたかったようになっている要塞を睨み付ける。
七割方の砲台は陥落し、今頃内部は阿鼻叫喚の地獄となっているだろう。
もはやサンタクロースの骨のかけらさえ、残っていないかも知れない。
だが、そうであれば問題は無い。
ハルマゲドンは終了し、人間界も天界も魔界も、退屈な日々が戻ってくるだけの話だ。
ただ、サンタクロースというものは、本当の伝説となるだろう。
「ラーフラ、そろそろ帰る準備でもしたらどうだ? 残念だけど、俺達の出番は無さそうだ」
「まだだな、最後まで見届けろ。油断はするなベル」
「心配性だなあ、ラーフラは」
ベルは苦笑しながら、もう一度要塞に目を移す。勝利をこの目で確かめる為に。
だが、ラーフラの不安は現実のものとなった。
挑発をする文章の書かれた旗の、文面が変わっている。
そこに躍っている文字は大きく三つ。
『はずれ』
次の瞬間、要塞はまばゆい光に包まれる。
それは悪魔の放つものではない。
紛れも無く神霊の使う光の術によるものだ。
「退けえ! 退くんだァ――――――ッ!」
「遅いよ、ベル」
轟音と共に、要塞は大爆発を起こした。
血しぶきも骨も、灰さえ残さず焼き尽くす。
海はすり鉢のようにへこみ、やがて何事も無かったかのように静けさを取り戻す。
永遠に続くような数秒間。しかし、時は流れる。
呆然とするベルと、苦笑いをするラーフラ。
やがて、抜いていたサーベルを戻すと、ラーフラは深い溜息を吐く。
ようやく、誰と戦わねばならないのか、彼はやっと分かったのだ。
「これは多分、彼女の仕業だ」
「誰だ? 心当たりがあるのか、ラーフラ」
「閻魔大王の娘、六道炎夜の獄炎術だよ」