第9章 モスクワ・コネクション
エネルギーによる巨万の富をかき集め、今や世界屈指の富豪が集う都市となったモスクワ。クレムリンからほど近い、最高級の商業地区、トベリ通りにゾン重工本社はある。
各種兵器の生産からロシアの国産自動車まで、あらゆる工業製品を製造し、エネルギー産業を除くロシア企業としては五指に入る巨大企業だ。
そして、そんなゾン重工本社ビル二五階の応接間に、ニコラと倫音は訪れていた。
目の前にはサモワールと呼ばれる、ロシア特有のお茶を湧かす銀の器が置かれており、ティーポットからは温かな湯気が昇っている。
だが、部屋にずらりと並んでいる絵画は、どれも浮世絵だ。
ゾン重工の女社長、アレクサンドラ・スターリナは知日派として知られており、現在日本市場を開拓している事もあり、最近はちょっとしたニュースの顔となっていた。
「待たせてごめんねリン。ようこそ私のオフィスへ」
「やあ、まいどどうも! お世話になってますサーシャ!」
ドアが開くと、大柄ではあるものの、スタイルの良い金髪の女性が姿を現す。
倫音はソファから立ち上がると、彼女と抱擁を交わす。
二人はリンとサーシャと呼び合う程、お互いに仲が良いのだと言う。
「話は聞かせてもらったわ。
まさかサンタクロースが居るなんて、ロシア正教のゾーロトフ総主教もびっくりの出来事ね」
「はっはっは、まあ玩具業界だけで知られている公然の秘密なんですわ」
ティーカップにジャムを入れ、紅茶を注ぎながら、アレクサンドラの目線は倫音からニコラに移る。
「ところでそちらの色男さんはどなたかしら?」
「はい、こちらがサンタクロースでうちの幼なじみ。花巻ニコラですわ」
「どうも、お初にお目に掛かります」
立ち上がると、握手の為に手を差し出す。
アレクサンドラもまた、こぼれんばかりの笑みを浮かべながら、その手を握った。
「初めまして。本当にあなたがサンタクロースなんですね」
「本来はゾーロトフ総教主のように、ひげを蓄えた老人であるべきなのですが、僕が十歳の時に引き継いで以降、まだそれほど時間が経っていませんので。がっかりされましたでしょうか」
「いいえ、かつてのロシアでは、ひげ税なんてものが掛けられた事もあるくらいよ。別にそれでいいんじゃないかしら」
ソファに腰を下ろすと、彼女はティーカップに口を付ける。
「ところでニコラさん、あなたがサンタであるという証拠はあるんですか?」
「はい、こちらのプレゼント袋をご覧下さい」
そう言って、彼は相棒である袋をぽんぽんと叩く。
「膨らんでるわね。その中に玩具がたくさん入ってる、と」
「玩具だけじゃありません。あなたが本当に望むものが入っています」
「じゃあ、今私が一番欲しいものをプレゼントして下さるかしら」
「はい、喜んで」
そう言って、プレゼント袋の中に手を入れる。
そして彼が取り出したのは、薄汚れた茶色い紐だった。
「あなたが本当に欲しいものは、この紐ではありませんか。ミス・アレクサンドラ」
「…………」
黙ったまま、ゆっくりとそれを受け取る。
彼女の手は震えていた。
「十年前、チェチェン紛争に関わるテロに巻き込まれ、ビルの爆破事件でお亡くなりになったミハイル・バイロヴィッチ・スターリン氏の愛用していたスイス製の懐中時計。
その時計にいつも付けている、古びてぼろぼろになった紐。
あなたのお父様は、この紐も含めて、アンティークの時計には刻んだ時間と歴史があると言っていた。
しかしあなたは、そんな紐ではなく、金の鎖などにすればいいのにと、そのセンスに不満を持っておられましたね。
けれどもその後、テロリストによって殺害されたお父様は行方不明となり、唯一残された時計の紐は失われていた。
あなたの手元に残ったのは、少し焼けて動かなくなってしまった時計のみ。
そしてこれは、その時無くなったお父様の時計の紐です。
時空を越えた、良い子のあなたに起こる、聖なる夜の奇跡。
どうぞお受け取り下さい」
ニコラの言葉に、彼女は胸元に紐を抱きしめ、彼女はただ静かに涙を流す。
その目は、一人の父を愛する娘のそれとなっていた。
「メリー・クリスマス。ミス・アレクサンドラ」
泣きむせぶアレクサンドラの頭を撫でて、優しく笑い掛けるニコラ。
サンタクロースは子供に必要だが、本当は大人にこそ必要なのかも知れない。
私達は大人になる度に、大切なものを失っていく。
それは二度と、手に入らないものがほとんどだ。
まるで魔法使い、或いは世界で一番の手品師。
こんな気分にされるなんて、こんな気持ちになるなんて、もはや無いと思っていた。
溢れ出した涙は、過去の傷を洗い流していく。
「ありがとう……今日あなたに会えた事を、神のお導きと思います……」
その言葉に、ニコラは苦笑する。
その神と今から一戦交える為に、金策として自分は訪れているのだから。
「なんやなんや、美味しいとこばっか持っていって、ニコラのくせに」
「美味しいからこそ、根こそぎゲットが僕のやり方だ」
肘で小突きながらも、倫音はまんざらでもない表情をする。
商売相手ではあるけれど、それ以上に大切な友人であるサーシャ。
そんな彼女に、無くしたはずの思い出を与えてくれたニコラ。
彼はやっぱりいい男だ、すごい奴だ。
心からそう思う。
「これを頂いても宜しいのですよね、ミスター・ニコラ」
「もちろんです。これはあなたにこそ相応しい」
「ありがとう。
でも、私はもう大人だわ。
残念ながら良い子でもない。
あなたからこれを、無料でもらうわけにはいかない」
「では、僕に協力を願えませんか?」
「分かりました。お聞きしましょう」
そこでニコラは、森羅万象国際会議によってサンタクロース予算が削減され、廃止になること。
その異議申し立ては受け付けられず、ほぼ意味が無い事。
そして、既に宣戦布告をした事を、事細かにアレクサンドラに伝えた。
彼女は真剣にそれを聞き、時にメモを取る。
「事情は把握しました。
このままでは、サンタクロースがこの世界から居なくなってしまう、ということですね」
「そうです。僕は世界中の子供達の笑顔の為に、戦います」
「勝算はゼロ、予算も武器も無い。それでも戦う、そうおっしゃるのね」
「その通りです」
アレクサンドラは、ちらりと倫音を見る。
「ねえ倫音、あなたは彼を愛しているの?」
「ぶほっ!」
突然の質問に、倫音は豪快に茶を噴く。
「げほっ、げふっ、ちょっ、いきなり何やのサーシャ!」
「あなたが私に、商談以外で男性を紹介するなんて、初めての事だから」
「そりゃまあそうやけど、ニコラはただの幼なじみや。
ただ、何て言うか……」
「何かしら」
「サーシャと同じで、うちもプレゼントもろたんですわ。それこそ、無料でもらうわけにいかんから、協力してるんやわ」
顔を真っ赤にして弁解する倫音。
そんな彼女を見て、アレクサンドラはくすくすと小さく笑った。
忘れていたもの、失っていたもの、そんなものはたくさんある。
金を追い掛ければ追い掛けるほど、それは手の隙間からこぼれ落ちていく。
けれど、止まる事はできない。戻る事もできない。自分も彼女も、そういう道を歩いてきてしまったのだ。
けれど、不意にそれは手元に戻ってくる事がある。
運命とは時に粋で、時に残酷なものだ。
「ニコラさん、あなたが望むものは何?」
「ずばり、カネです」
「あらあら、やけに俗な事をおっしゃるのね」
「このプレゼント袋は、無限にプレゼントを出す袋じゃありません。
中に各種通貨や貴金属を入れると、世界のどこかで自動的に換金され、契約をした玩具会社や各種企業、或いは望む物を作るメーカーなどに渡り、具象化されて取り出す事ができます。
僕はこれから戦争をするために、この中にお金を入れねばなりません。
それも半端じゃない金額を。
その為に、今世界中を飛び回っています」
「なるほど。
ところでその戦争に使う武器は、我が社からもご購入は頂けるのかしら?」
「もちろんです。
ゾン製の武器は、世界的にも評価が高い事は、同じロシアに住む人間として、良く存じ上げております。
むしろ、ゾン社の技術と武器は、この戦争に必要不可欠なものでしょう」
「あらあら、女を口説くのも会社を口説くのも上手いのね」
「そんなことはありませんよ。ミス・アレクサンドラ」
言葉ではそう言いつつも、二人は苦笑いを交わし合う。
その場に流れている空気は、さっきまでとは違う、欲にまみれた匂いがする。
「ここに小切手があるわ。これでも大丈夫かしら?」
「はい、もちろんです」
「それじゃあ、このくらいでどうでしょう」
さらさらと書いたその金額に、倫音とニコラは凍り付く。
「二千億ルーブル(約六千億円)やて?! ちょっと待ってサーシャ、桁間違えてる!」
「金は稼げばまた手に入る。
けど、父の時計の紐は、二千億ルーブルはおろか、一兆ルーブルを積んだって手に入らないわ」
「そうやけど、ええのん?
今やったら、笑って済ませられるんやで?」
「そうねえ、この二千億ルーブルは全て、我が社の製品を買う事。
という契約でいかがかしら?」
「かしこまりました。その契約、喜んでお受け致します」
ニコラが立ち上がり、右手を差し出すと、アレクサンドラもその手を握る。
商談は成立だ。
その横で、あまりの事にあっけに取られている倫音がいる。
今までに百億単位のプロジェクトは何度も動かす事があった。
だが、千億円を越えるようなビッグプロジェクトが、いとも簡単に、ぽっと出のニコラによって動かされたのだ。
悔しさと嫉妬心、尊敬と憧れが、ない交ぜになって彼女の中を突き抜けていく。
「私は今夜、石油王のカルノフ・レオニドヴィッチ・モレンスキー氏とディナーをご一緒するのだけど、宜しければあなたもいかが?」
「それはもう、是非お願いします!」
「積極的な男の子っていいわね。そう思うでしょう、リン?」
「え、ああ、そやなあ……」
ゾン重工のアレクサンドラを紹介したのは自分。
自分が居なければ、彼はアレクサンドラとの謁見は叶わなかったはず。
だからこそ、自分は立て役者であり、一番の功労者だ。
そのはずなのに、なぜか腑に落ちないものが、どんよりと腹の底に残っている。
自分がニコラに出資したのは三億円。それでも、日本であれば年末と夏の宝くじで、一等賞と前後賞を当てたに等しい、サラリーマンの生涯年収を遥かに越える金額のはず。
その二千倍の金額を、いとも簡単に出させてしまうニコラの力。
それはまさに人知を超越している。
うち、何してるんやろうなあ――
ぼんやりとそんなことを考えながら、二人の会話に適当に相づちを打つ。
初めての感情に戸惑いつつも、理性はしっかり保たれている。
この戦争が全て終わったとき、果たして自分はどうなっているだろう。
何を手に入れ、何を失っているだろう。
ぼんやりと、そんなことを考える。
まだ始まってもいない戦争に、倫音は一抹の不安を抱いた。




