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騎士団長の賞味期限 〜捨てた恋心は、もう発酵して毒になりました。元親友と一緒に、どうぞ腐り果てて?〜

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/03/08

 王宮魔導具保管棟の最奥には、沈黙にも明確な「等級」が存在していた 。

 朝一番の静寂は、職人が精緻に研ぎ上げた刃のように薄く、肌に触れれば切れてしまいそうなほど張り詰めている 。陽が天に昇る頃の静寂は、重厚な羊皮紙を蝋で塗り固めた封印のように、逃げ場のない圧迫感を伴って部屋を満たす 。そして夜更けの静寂は、深い井戸の底に沈んだ銀貨のように、触れれば一瞬だけ波紋が広がるものの、すぐに何事もなかったかのような無表情に戻ってしまうのだ 。


 アイリスは、そのどの静寂も、等しく好んでいた 。


 彼女は今年で四十歳になる 。王宮魔導具師にして、国内随一の眼を持つと言われる鑑定士だ 。彼女の職務は、悠久の時を越えてきた遺物の真贋を見抜き、そこに宿る魔力の残滓を読み解くことにある 。だが同時に、その器にこびりついた所有者の虚栄心や、剥き出しの執着までもを容赦なく暴き出してしまうのが、彼女の鑑定だった 。


「嘘は、匂いがするものよ」


 それは独り言であり、確信でもあった。 人間が抱く恐れも、尽きることのない欲も、あるいは愛と呼ばれた熱病も 。長く人の手垢にまみれたものほど、それは器の中で複雑に発酵し、特有の香気を放ち始める 。


 その日、アイリスの作業机の上には、王家の収蔵庫から運び込まれたばかりの銀の杯が鎮座していた 。外見は非の打ち所がない古器だが、彼女がその冷たい縁に指先を触れた瞬間、ぴり、と舌の裏を噛んだような特有の苦みが神経を走った 。


「……偽物ね」


 誰に聞かせるでもなく落とされた言葉を、記録係の見習い青年が、畏怖の混じった表情で拾い上げた 。


「先生、どうしてそう断言できるのですか? 刻印の彫りも、銀の純度も、歴史的な摩耗具合も、資料にある本物と寸分違わないように見えますが……」


「本物はね、もっと孤独な匂いがするものよ」


 アイリスは羽根ペンを置き、視線を杯の奥に沈めた 。


「偽物は、誰かに見つけられ、愛されたいと焦っている。その必死さが、魔力の波形を濁らせるの。本物はただそこに在るだけで、誰の理解も求めていないわ」


 青年は理解しきれないという顔をしたが、アイリスはそれ以上の言葉を足さなかった 。 すべてを言語化し、他者に分け与える必要はない 。そんな仕事の仕方を、彼女は二十年前に覚えた 。


 人に期待しないこと 。 期待という名の熱を与えれば、言葉はやがて腐敗し、自分を蝕む毒になる 。 だから、この保管棟に満ちる無機質な静寂だけが、今の彼女には何よりも心地よかった 。

 しかし、その聖域とも呼べる静寂が、夜半の来訪者によって無惨に引き裂かれた 。


 保管棟の重厚な扉を叩く音は、礼節を忘れた乱暴な拳の音だった 。夜間にここを訪れる者は稀であり、ましてや正式な手続きもなしに立ち入るなど、正気の沙汰ではない 。

 アイリスは警戒を解かぬまま、幾重にもかけられた封印鍵を外した 。 開かれた扉の向こう、冬の夜の重い湿気を全身にまとった男が立っていた 。


 その顔を一目見た瞬間、彼女の脳裏に「かつての輝き」という皮肉な言葉が浮かんだ。 銀を失い、赤茶けた錆が浮き出た鉄のような顔色 。目元には酒に溺れた者の特有の赤みと、消えることのない寝不足の影が深く刻まれている 。それでも、その逞しい骨格だけは、往年の英雄としての名残を辛うじて留めていた 。


「……ゼノン団長」


 かつては、その名を心の中で反芻するだけで、胸の奥が灼けるような熱を帯びたものだ 。 だが今、彼女の指先が感じているのは、湿気で波打った古い紙に触れた時のような、ひどく不快で無機質な感触しかなかった 。


 王国騎士団長、ゼノン・ヴァルト 。 若き日には「王国の盾」と謳われ、凄惨な戦場から幾度も部下を無事に連れ帰った生ける伝説 。 そして二十年前、アイリスのすべてだった初恋の男 。


「急で悪い、アイリス」


 彼は、かつて女性たちの溜息を誘った甘い声を装って言った 。だが、その装いはあまりにも稚拙だった 。喉の奥からは隠しきれない酒精の臭いが立ち上り、その鼻先には、安価な香油と、自分のものではない寝台の澱んだ残り香が漂っていた 。


「取次もなく夜分に王宮棟へ押しかけるなど、今の立場を考えれば、いささか不用意ではありませんか」


「……そういう堅苦しい言い方はやめてくれ。昔のように、呼んでくれないか」


 自分を甘やかすようなその言葉に、アイリスは一抹の嫌悪さえ抱いた。


「昔の私なら、もうここにはおりません。二十年という歳月は、鑑定士の目を養うには十分すぎる時間でしたから」


 ぴしゃりと突き放しても、ゼノンは怯むどころか、むしろ「救い」を見つけたような顔をした 。 その表情に、アイリスの胃の奥がうっすらと冷えていくのを感じた 。


(ああ、この男は、まだ自分を主人公だと思っているのだわ)


「やはり君だ。君なら、俺の苦しみを分かってくれると思っていた」


 傲慢なまでの自意識。他者は自分の苦しみを癒やすために存在していると信じて疑わない、その幼稚な精神構造 。アイリスは、自分がかつてこれほどまでに空疎な男を愛していたという事実に、目眩を覚えた。


「何のご用件ですか。私の時間は、公務のためにあります」


 ゼノンは一歩、暗がりの廊下から鑑定室の中へと踏み込んだ 。 差し込んだ月光が彼の横顔を舐め、かつての精悍さを嘲笑うかのように、頬の弛みを残酷に強調した 。


「ミラが……あいつが、おかしくなっているんだ」


 その忌まわしい名前が落ちた瞬間、アイリスの胸の奥で、もはや痛みですらない乾いた音が響いた 。

 

―—ミラ 。 かつて、アイリスの唯一無二の親友だった女 。

  華やかで、美しく、まるで光を一身に集めるために生まれてきたかのような、残酷なまでに無垢な略奪者 。

 そして二十年前、アイリスが大切に育んできた初恋を、無邪気な笑みとともに根こそぎ奪っていった女だ 。


『彼、どうしても私じゃなきゃダメなんですって』


 あの時の、勝利を確信しながらも同情を装った瞳を、アイリスは一度たりとも忘れたことはない 。春の陽気のような柔らかな微笑みの裏側に仕込まれた、薄氷のように鋭利な刃の光を 。


「……それで? 騎士団長夫人のご乱心が、魔導具保管棟に何の関係があるのですか」

 

 アイリスの問いに、ゼノンは縋るような視線を向けた。


「禁忌の薬に手を出しているらしい。若さを保つ、あるいは美貌を取り戻すための、いかがわしい類のものだ。最近は幻覚もひどく、俺を毒殺しようとしているだの、女を囲っているだのと、夜通し喚き散らして……」


「実際に、女を囲っているのでしょう?」


 アイリスの冷徹な指摘に、ゼノンは一瞬、言葉を詰まらせた 。


「……多少の遊びは、男にはあるものだ。だが、今のあいつは異常だ。家の中は地獄だよ」


 彼は、自分が被害者であるという脚本を忠実に演じようとしている 。 鏡の中にしか存在しない美貌を求めて壊れていく女と、その壊れた女から逃げるために酒と女に溺れる男。 アイリスがかつて羨望した二人の現在地は、あまりにも醜悪な泥沼だった。


 絞り出すようなゼノンの弁明に、アイリスは心底からの失望を覚えた。 かつて愛した男の口から漏れる言葉が、これほどまでに安っぽく、腐臭を放っている。 彼は自らの不貞を「遊び」と称しながら、妻の狂態を一方的に責め立てているのだ。


「結構。では、私に夫婦喧嘩の仲裁でも頼もうというのですか?」


「違う!」


 ゼノンは激した声を上げ、自らの乱れた呼吸に狼狽した。 そして、周囲を窺うように声を潜めると、痛ましい被害者の仮面をかぶり直した。


「もう限界なんだ、アイリス。あの家は地獄だ。ミラは俺のすべてを見張り、執拗に責め立て、果ては二十年前のことまで蒸し返してくる。俺が帰れば泣き叫び、帰らなければ発狂する。あんな女ではなかったはずだ……。君なら分かるだろう? 君はいつも穏やかで、献身的で、俺を理解してくれていた……」


 その時、アイリスの唇に、薄く冷たい笑みが浮かんだ。


「続けてください。久しぶりに、非常に興味深い鑑定対象です」


「……何?」


「いま目の前にあるのが、往年の英雄の成れの果てだというのなら、随分と保存状態が悪い。湿気と酒、そして底なしの自己憐憫で、芯まで腐っています」


 ゼノンの顔色が、屈辱で土色に変わる。 だが、彼はすぐに捨てられた仔犬のような目をして、縋るように眉を下げた。


「君だって辛かっただろう。あの頃……君が俺に寄せていた気持ちに、俺は気づいていたんだ」


「知っていましたよ。知っていて、あなたは私を選ばなかった」


「違う、あれは……若すぎたんだ。ミラがあまりに強引で、派手で、一時は目を奪われてしまった。だが、君の真心だけは一度も忘れたことはなかった!」


 空々しいその告白に、アイリスは天を仰ぎたくなった。 賞味期限をとうに過ぎ、どろどろに腐敗した言い訳を、よくもまあこれほど平然と口にできるものだ。 二十年の歳月をかけて彼女が築き上げた静寂の庭に、この男は土足で踏み込み、自らの不始末というゴミをぶちまけようとしている。


「それで、本題は何ですか?」


「助けてくれ、アイリス」


 ついに、本音が剥き出しになった。


「君の鑑定の力で、ミラの部屋から薬を見つけ出してほしい。証拠さえ掴めば、彼女を療養院へ送ることができる。そうすれば俺は解放されるし、財産分与も有利になる。君だって……あの女には思うところがあるだろう? 仕返しをする絶好の機会じゃないか」


 アイリスの中で、何かが完全に冷え切る音がした。 この男は、過去の不義理を詫びにきたわけではない。 彼女への想いが再燃したわけでもない。 ただ、かつての「便利な恋心」という名の道具を回収し、邪魔になった妻を排除するために利用しにきただけなのだ。


「お帰りください、団長」


「アイリス、待ってくれ」


「二度は言いません。私の静寂をこれ以上汚さないで」


「君は、そんな冷たい女じゃなかったはずだ……!」


 ゼノンの叫びに、彼女は机上の銀杯を手に取った。 精巧な装飾を施されながら、中身は空疎な偽物の模造品。


「私は二十年前、冷たくなる努力をしました。血の滲むような思いで。そうしなければ、あの日、私は死んでしまっていたから」


 ゼノンが息を呑む。 目の前にいる女性が、かつての自分の記憶の中にいる「都合のいい娘」ではないことに、ようやく気づいたようだった。


「あなたたちが結婚したあの日、私は一晩中泣き明かし、翌朝には何食わぬ顔で工房に戻りました。泣きながら魔導具を研磨し、震える手で回路を組み、吐き気に耐えながら鑑定書を書いた。誰も私を慰めなかった。だから私も、誰にも助けを求めなかった。そうして二十年かけて積み上げてきたこの静けさを、あなたの惨めな生活のゴミ捨て場にするつもりはありません」


 杯を置く硬質な音が、保管棟の空気を震わせる。


「……お前も変わったな」


 ゼノンは傷ついた男の仮面をかなぐり捨て、苛立ちを露わにした。


「昔はもっと可愛げがあった。だから俺も、少しは選んでやってもいいと……」


「少しは、何ですか?」


 アイリスが射抜くような視線を向けると、彼は言葉を飲み込んだ。 「少しは惜しかった」「少しは愛してやれた」。そんな施しのような愛情の残飯を、女ならありがたがって受け取ると思っている。 その傲慢さが、何より滑稽だった。


「警備を呼びます」


 ゼノンは憎々しげにアイリスを睨みつけ、踵を返した。 だが、扉の前で立ち止まり、背中越しに毒を吐く。


「ミラはもう終わりだ。お前が手を貸さなくても、あいつは自滅する」


「そうでしょうね」


「その時になって、泣いて縋ってきても遅いからな!」


 扉が乱暴に閉められ、ようやく保管棟に静寂が戻った。 だが、それは古傷を爪で抉られたような、微かな熱を帯びた不快な静けさだった。


―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—


 翌朝、王宮内は異様な熱気に包まれていた。 騎士団長夫人ミラが、私室で侍女を刺そうとしたという醜聞が駆け巡っていたのだ。 原因は、鏡の中の自分が自分を侮辱したという妄想。 長年隠されてきた夫婦の不和が、ついに決壊した。


 そして昼過ぎ、アイリスのもとに一通の封書が届く。


「騎士団長家の私蔵品および薬品類の、緊急鑑定を命ずる」


 宰相の署名が入ったその勅命は、もはや私情で断れるものではなかった。 アイリスは淡々と外套を羽織る。

 仕事は、仕事だ。感情とは切り離して遂行する。 それが、二十年という歳月が彼女に与えた、唯一無二の防衛術だった。


 騎士団長邸は、王都の一等地にありながら、門をくぐった瞬間に異様な気配を放っていた 。かつては栄華の象徴だったはずのその屋敷には、いまや甘ったるい香油と、饐えた酒、そして枯れ果てた古い花の匂いが混じり合い、鼻の奥を突き刺すような不快な停滞感が漂っている 。


「……魔力の腐臭ね」


 アイリスは小さく呟いた。愛ではなく、執着だけが長く密閉された空間は、独特の濁った匂いを発する 。屋敷の使用人たちは皆、幽霊のように顔色が悪く、主人の怒号を恐れて音を立てないように歩いていた 。

 応接間で待っていたゼノンは、昨夜の狼狽ぶりを隠すように整った服装をしていたが、目の下に張り付いた隈までは消せていない 。


「来てくれて助かる」


「勅命ですので」


 アイリスの事務的な返答に、ゼノンは不快そうに口元を歪めたが、王宮の使者の前で醜態をさらすほど愚かではなかった 。その時、二階から何かが粉々に砕ける音と、耳を裂くような女の叫び声が響き渡った 。


「見てる! あの女が鏡の向こうから、私を笑ってるのよ!」


 かつて鈴を転がすようだと称えられたミラの声は、いまや錆びついた蝶番のように、聞くに堪えない音に成り果てていた 。アイリスは感情を押し殺し、「案内を」とだけ告げた 。


 二階の寝室は、まさに「腐った宝石箱」そのものだった 。床には高価なドレスが無造作に散らばり、割れた香水瓶からは強烈な残り香が立ち上っている 。鏡台には白粉と赤い染料が、まるで泥のように塗りたくられ、その惨状の真ん中に彼女――ミラがいた 。


 かつて王都一の美貌を誇ったその面影は、いまや薄い氷の上に描かれた砂絵のように危うい 。頬はこけ、瞳孔は開き、若さを取り戻そうとした執着の代償として、実年齢よりも深い影がその顔に張り付いている 。


「……アイリス?」


 ミラは呆然と彼女を見つめ、それから二十年前と同じ、他者を蔑むような笑みを作ろうとした 。


「あら……みじめな再会ね。私が落ちぶれた姿を見物しに来たの?」


「いいえ。勅命により、鑑定に参りました」


「相変わらず、つまらない女」


 ミラは吐き捨てるように言った。彼女は昔から、自分の手に入らないものを「つまらない」と切り捨ててきたのだ 。


 アイリスは部屋を冷徹に見渡した。窓辺に置かれた乾燥薬草、卓上の蒸留器具、そして化粧箱の底に隠されていた黒ずんだ琥珀色の結晶 。


「やはり……禁忌薬《春喰い》ですね」


 若さと美貌への渇望に付け入る闇の代物。一時的に肌に艶を与えるが、使い続ければ魔力回路を蝕み、深刻な幻覚と猜疑心を引き起こす劇薬だ 。アイリスが手袋越しに結晶を回収しようとすると、ミラが獣のような声を上げて飛びかかろうとした 。


「返しなさいよ! それは私のものよ!」


 使用人たちに押さえつけられ、無様に暴れるミラ 。その醜態を見て、ゼノンは憐れみの一片も見せず、ただ「やっと処分できる厄介物」を眺めるような冷ややかな視線を向けた 。


「……最低ね」


 アイリスの呟きに、ゼノンが眉を跳ね上げる 。


「お二人とも、ですよ」


 アイリスは割れた鏡の破片の前に立った。そこに映る無数のミラは、泣き、怒り、怯え、老いを恐れて震えている 。それはかつての親友の面影を残しながら、もはや別人の成れの果てだった 。


「ミラ。あなた、本当は怖かったのね」


 一瞬、部屋の空気が凍りついた 。ミラは目を見開き、烈火のごとく叫んだ。


「哀れむな! あんたにだけは! あんたは昔からそうよ。何も持っていないくせに、何も失うものがないような顔をして私を見る。私は……私はずっと戦ってきたのよ! 若い娘たちと、残酷な時間と、男の気まぐれと!」


 叫んだ拍子に、彼女は激しく咳き込み、床へ血の混じった痰を吐いた 。その赤色を見て、彼女は初めて、自分の体が内側から崩壊している事実を突きつけられた子供のように、青ざめて震えだした 。


「いやよ……。私、まだ綺麗でいられるはずだった。あの頃みたいに、誰よりも愛されるはずだったのに……」


 その言葉を聞きながら、アイリスの胸中には、怒りも勝利感も湧かなかった 。ただ、すべてが終わったのだという静かな確信だけがあった 。


 二十年前、自分が奪われたと思っていたものは、結局こんな泥沼の中にしかなかったのだ 。ならば、自分は何も失ってなどいなかった 。最初から、手に入れていなかっただけなのだから 。


 鑑定は数時間に及んだ。違法薬物の証拠だけでなく、ゼノンの帳簿からは不自然な愛人への贈与や多額の借金も見つかった 。夫婦そろって、互いの欲望を相手のせいにしながら、共倒れになるまで腐り続けていたのだ 。


 夕暮れ時、報告書を整えるアイリスの前に、精根尽き果てたミラが現れた 。


「アイリス……。あんたが今も不幸でいてくれたら、私は楽だったのに。なのに、あんたは全然、腐っていない顔をしてる」


「腐りきったものは、自分が腐っていることに気づきません」


 アイリスは静かに告げた 。


「あなたはまだ、自分の臭いに気づいている。それだけは、鑑定士として認めてあげます」


 ミラは自嘲気味に笑い、それ以上何も言わなかった 。かつて二人の間にあった熱狂も憎悪も、いまや冬の終わりの乾いた風にかき消されようとしていた 。


―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—


 騎士団長邸での凄惨な鑑定から数日が経過した。王宮の石畳を踏む足音さえも、どこか冬の終わりを告げる乾いた響きを帯びている。


 ミラ・ヴァルトは正式に王立療養院へと移送された 。診断名は禁忌薬の常用による精神錯乱、および魔力回路の深刻な損壊 。かつて王都の夜を鮮やかに彩った美貌の面影は、いまや白い病室の沈黙の中に埋もれようとしている。


 同時に、離縁調停の席で暴かれたのは、ゼノン自身の無節操な私生活だった 。不貞の証拠、愛人への度重なる贈与、そして騎士団の公金を私物化したかのような不自然な帳簿 。

 英雄という名の偶像は、一度ひびが入ればこれほどまでにもろい 。その隙間からは、長年隠し持ってきた酒精の臭いと、身勝手な嘘がとめどなく溢れ出していた 。王宮の廊下ですれ違う人々は、もはや彼を畏怖の目で見ることなく、ただ失脚を待つ哀れな老兵として、好奇の視線を投げかけるに留まっていた 。

 そんなある日の昼下がり、アイリスのもとに、正式な面会願いが届けられた。差出人はゼノン・ヴァルト 。

 かつての夜半の乱入とは違い、規律に従って整えられた身なりは、かえって彼の凋落を際立たせていた 。


「正式な申し出をいただきましたので、五分だけ。お話を伺います」


 アイリスは事務的に告げ、応接卓を挟んで彼と対峙した。ゼノンは椅子に深く腰掛けることさえできず、所在なげに指を組み替えている 。わずか数日の間に、彼の頬はさらにこけ、その瞳からはかつての「英雄」としての光が完全に失われていた 。


「ミラのことだが……あいつ、療養院へ入る直前に、お前のことを口にしていたよ」


「そうですか」


「……お前が羨ましかった、と」


 アイリスは無表情のまま、冷めかけた茶を口に含んだ 。その沈黙をどう解釈したのか、ゼノンはふらつくような手つきで卓の端をなぞり、絞り出すように言葉を繋いだ。


「俺も……ようやく分かった気がするんだ。お前の価値というものが」


 その言葉が落ちた瞬間、アイリスの眉が露骨に寄せられた 。この期に及んで、まだこの男は「評価を下す側」に立とうとしている。その底知れぬ傲慢さに、彼女は初めて、明確な嫌悪を覚えた 。


「俺は見誤っていた。若い頃は、ただ外見の華やかさや、手に入れやすい刺激に目を奪われていたが……結局、最後に隣に残るべきなのは、芯のある女だったんだ。お前のような、自立した……」


「結構です」


 氷のような冷徹な声が、彼の言葉を断ち切った。ゼノンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で絶句した 。


「あなたは何ひとつ、分かっていらっしゃらない」


「アイリス……?」


「私の価値を、今さらあなたに認定していただく必要などありません。そんなものは、二十年前にとうに捨てました」


 アイリスの声は静かだった。だがそれは、激昂するよりもずっと深く、決定的に相手を拒絶する温度を伴っていた 。


「若い頃に私を選ばなかったことなど、今の私には塵ほどの重みもありません。そんなことは、もうどうでもいいのです 。問題は、その後の二十年という歳月を経てなお、あなたが自分という鏡を通してしか世界を見られないことにあります 。ミラを救えなかったのも、家庭という名の器を腐らせたのも、すべてはあなたのその『目の悪さ』が原因でしょう」


 ゼノンの喉が、屈辱に震えて上下した 。


「お前に、俺の何が分かるというんだ……!」


「分かりますよ。私は、鑑定士ですから」


 アイリスは、逃げようとする彼の視線を逃さず、まっすぐに見据えた 。


「あなたは、とっくに賞味期限の切れた栄光にしがみついているだけです 。かつての武勲、若かりし頃の美貌、女たちにもてはやされた記憶 。それらはすべて、過去という名の墓場に埋まっているべきものです。それを認められないから、あなたは今の、惨めで無力な自分から目を逸らし続けている」


「……」


「腐り果てたものは、蓋を開けて捨てるしかないのです。それを抱えたまま、新しい季節を迎えようなど、傲慢にもほどがあります」


 長い沈黙が流れた。ゼノンの顔には、怒りとも屈辱ともつかぬ赤みが差していたが、彼にはもはや、アイリスの言葉を押し返すだけの言葉も、気力も残っていなかった 。


「……ずいぶん、手厳しいな」


「仕事柄、真贋を混ぜることはいたしませんので」


 彼は力なく立ち上がり、乾いた笑いを一つ残して、去っていった 。その背中は、もはや王国の盾と称えられた英雄のものではない 。己の賞味期限を受け入れられず、過去の残骸に押し潰された、ただの老いた男の背中だった 。

 扉が閉まると、保管棟には再び深い静寂が戻った 。 だが、それはいつもの仕事の沈黙とは少し違っていた。


(ああ……ようやく、終わったのだわ)


 二十年前から胸の奥におりのように溜まっていた、名もない感情。怒りでもなく、ましてや未練でもない、ただの薄暗い塊。それがようやく、鑑定という名の光を浴びて分解され、霧散していくのを感じた 。


 その夜、アイリスは久しぶりに自宅の窓を大きく開け放った 。 二月の夜気はまだ鋭く冷たいが、風の匂いには、確かに冬の底を越えたことを知らせる微かな湿り気が含まれている 。


 彼女は工房の棚に向かった。そこには長年の鑑定作業の中で集めてきた、歪ではあるが美しい遺物たちが並んでいる 。虹色の亀裂を抱いた水晶、動かなくなった古い時計の歯車、役目を終えた封印鍵 。それらは誰かの執着や愛憎に晒されながらも、なお、その形を保とうとする誇り高い破片たちだ 。


 アイリスはその中から、隅に置かれた真鍮の小箱を取り出した 。中に入っているのは、二十年前、ゼノンから借りたままになっていた方位磁針だ 。当時の彼女にとっては、英雄が戦場で使っていたというだけで、世界の指針を示す宝物のように見えたものだ 。


 だが、いま掌に載せてみても、そこには何の魔力も、感慨も宿っていない 。針は鈍く震え、正しく北を指すことさえ忘れている。それはもはや、壊れた玩具と変わりなかった 。


「……そうね。もう、必要ないわ」


 彼女は小箱の蓋を閉じ、その上に記録札を置いた 。

 

 “処分可”


 その三文字を書き記し、彼女は箱を棚の最下段、二度と開けることのない記録用の奥へと押しやった 。


 翌朝、アイリスはいつも通り、背筋を伸ばして王宮保管棟へと向かった 。石畳を踏む靴音は軽やかで、重い鍵を回す手並みにも迷いはない 。


 見習いの青年が興奮した様子で駆け寄ってくる。


「先生! 新しい依頼が山ほど届いています。宰相家からも、北方伯爵家からも……! 騎士団長家の件で、先生の鑑定の正確さが改めて評判になって……」


「慌てないで。まずは依頼書を到着順に整理してちょうだい」


「はい!」


 青年の背中を見送りながら、アイリスはふと、窓の外を見た 。


 人生とは、意外なほど普通に続いていくものだ 。誰かを失っても、誰かが腐り果てても、過去の恋が完全に息絶えても 。世界は回り続け、新しい朝は必ずやってくる。


 窓から差し込む朝日が、棚のガラス瓶を金色に染め上げている 。その光の中で、彼女は愛用の白手袋をゆっくりとはめ直した 。


 恋はとうに捨てた 。未練など、塵芥にも等しい 。だが、捨てたはずのものが胸の奥で密かに発酵し、長い間、自分でも気づかない臭いを放っていたのは事実なのだ 。それを今日、彼女は自らの手で、ようやく「処分」した 。


 腐った恋心は、二度と清らかな愛には戻らない 。裏切られた友情の残骸も、元の形を成すことはない 。 けれど、腐臭の消えた場所には、新しく、透明な空気が流れ込む 。


 アイリスは机に向かい、次なる鑑定書を広げた 。真っ白な羊皮紙が、朝の光に反射して眩しい 。

 誰かに選ばれなくても、誰かに羨まれなくても、彼女には自分の手で積み上げ、守り抜いてきたこの静寂がある 。それは誰にも奪うことのできない、彼女自身の「正解」だ。


 保管棟の奥で、古い時計が正時を打った 。その音は、過去への葬送ではなく、今日という一日の始業を告げる合図だった 。


 アイリスは羽根ペンを手に取り、凛とした筆致で鑑定報告書の最初の定型文を書きつける 。


 ――私は王国公認第一級鑑定士として、王立魔導法典に基づき、本件対象物の本質を以下の通り定義する…


 窓の外では、冬の終わりの風が吹き抜けていた 。腐り果てた記憶を遠くへ運び去り、まだ冷たい空の下に、確かな春の予感だけを残して 。


(了)

あなたの人生のお時間の一部をいただき、最後までお読みくださり、感謝申し上げます。

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― 新着の感想 ―
夫婦揃ってアイリスがまだ引き摺ってると思ってる辺り、結婚してから何一つ成長出来てなかったんだろうなぁ。 それでもまだ一応社会的に肩書きがあるゼノンよりも犯罪者になったミラのがまだ更正出来そうに見える…
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