第10話 ただいま、水床島
水床島行きの連絡船の最終便は予定通り夕方六時ちょうどにS町の船着き場を出港した。この便は五時に出た水床島側の最終便の折り返し運航だった。あと半時間で水床島に戻る。
船の客室ではゾッピやタルケたちが、あ~あ、お小遣い、皆使っちゃった、と
言っている。
「おい、ヤス、お前もすっかんぴんか?」
ゾッピが聞いてきた。
「いや、まだ、だいぶん残っている。二千円近く……」
「嘘だろ!」
ゾッピとタルケが顔を見合わす。
「なんでそんなに残ってるんだよ」
「あまり使わなかったからさ」
これは本当の話だった。ふだんからこづかいを使う習慣のなかったヤスノリが、三千円のこづかいの内で使ったのは、京都タワーで買った、いかにも京都みやげの定番といった感じの大文字焼や八坂の塔の写った絵はがきに四百円。お昼にカレーを食べたサービスエリアで、今回は寄ることができずにいて、まだ見ぬそれに思いを馳せて買った金メッキの法隆寺の五重塔の模型に七百円。しめて千百円也、
だった。
「じゃあ、残ったお金はどうするんだ? 『るびすや』でジュースでも買うのか? かなり買えるよな」
顔をのぞき込むようにして聞いたゾッピにヤスノリは言った。
「いや、全部母さんに返す」
「なんだよ、それじゃあ楽しみなんかないだろ?」
「お前、ほんとにケチだよな」
まったく、あきれた、というみたいにゾッピとタルケが言う。
ヤスノリは、いや、別にいいんだ、と苦笑いを浮かべ、外に出ようぜ、とミツアキを誘った。
ヤスノリとミツアキは航海甲板に出た。
空を見上げてヤスノリは、ふと夕べ見た京都の空に星が見えなかったことを思い出した。
出港してまもなく西の空を濃いミカン色にして太陽が水平線に沈んでゆく。
黒っぽい海の上に、太陽から伸びていた光の帯もやがて姿を消してゆく。太陽が沈んでからしばらくの間、空はまだ少しだけ明るかった。
「やっぱり島はいいよなあ」
ヤスノリは、ああ、帰ってきた、という実感を込めて言った。
「見ろよ。今夜もきれいに星が見えるぜ」
雲一つない夕空をヤスノリは指差した。
「ハナは都会の方がいいのかもしれないな」
返って来たミツアキの言葉に思わず聞き返す。
「どういうこと?」
「あいつさ、来年から神戸の中学へ行くみたいだぜ……」
ヤスノリは一瞬、言葉を失った。
本当かな? でもどうしてミツアキが知ってるんだ? ハナの仲よしの女の子連中だってそんなこと言ってなかったのに……。そうか、こいつ、僕をかつごうとしてるな。修学旅行の最後がしめっぽくなるのが嫌で、それで……。こっちが本気にしたら、「引っかかりやがったな、ばーか」、とか言うつもりなんだろう。
ヤスノリは改まったような表情になると不愛想に答えた。
「そう」
さっきから残照の広がる水平線に黒々と水床島の輪郭が見えている。もうその島影はずいぶんと大きくなっている。
船は速度を落として床見とこみ湾に入って行った。岸壁には迎えに来た家族の姿が小さく見える。ヤスノリの母親はそばに犬のシロを従えて、夕餉の支度の途中だったのかエプロン姿で、ミツアキの父親はいつも通り警官の制服姿で立っているのが見えた。
船が接岸すると、皆、船から降りて家族と再会し、河上先生が短く言葉を述べて解散、となった。皆それぞれの家路に就くはずだったが、村は小さいので全員、帰りの道は同じ方向だ。結局は解散と言っても、警官の制服姿のミツアキの父を先頭に一まとまりとなって薄暗くなり始めた道を歩いて行った。
「どうだった? 修学旅行は?」
帰りの道を歩きながらヤスノリの母が子供たち皆に尋ねた。そばにいたシロは少しだけ頭を持ち上げる。
「楽しかったわ」
そばにいたハナが実感を込めて答える。
「それから、バスガイドが男の人だった」
ミツアキが付け加えるようにして言う。
「まあ、今の時代は女性のトラックドライバーだっている、って話に聞くがな」
ミツアキの父が答える。
そうかもね、そんな声が上がる。
「ああ、それから『終わりのない歌』ってのを教えてもらったわ」
今度はカーチーが言った。
「ええっ? 何それ?」
ヤスノリの母が驚いたように聞き返す。
「じゃあ、皆で歌いましょう」
ハナとカーチーが勢いよく歌い始めた。ヤスノリとミツアキもしぶしぶ合わせる。
正直じいさん ポチ連れ……
「ちょっと、声が大きいわ。夜だからもっと小さな声で……。大丈夫よ、ちゃんと聞こえてるから」
カーチーの母が立ち止まってたしなめる。
皆、一瞬立ち止まったが、今度はトーンを落として歌いながら歩き出す。
正直じいさん ポチ連れ
敵はいく万あれとて
桃から生まれた
もしもしカアカア
からすが鳩ポッポ
ポポッポで飛んで遊
べらぼうでこんちくしょうでやっつけろ
さつきは恋の吹き流し
なんて間がいいんで
正直じいさん……
「って、こんなふうに歌詞がまた最初の出だしに戻るの。終わりがないのよ、この歌。面白いでしょ?」
ハナが言う。
「もう、何なのよ、これ」
あきれたようにヤスノリの母は立ち止まると、ハナやカーチーの母親と顔を見合わせたが、それはこんな時に大人が見せる、子供ってつまらないことに夢中になるものよね、と言いたげな顔だった。
「でもいい思い出になったのなら、それでいいんじゃないのかしら?」
ハナの母が穏やかに言うと、カーチーとヤスノリの母が答えた。
「まあ、それもそうね……」
歩き進んで行くうちに、六年生の親子十一組のペアの半数以上が自分の家へ
戻って行った。やがてゑびすやの前に来ると、ヤスノリたちは河上先生を見送ろうとした。
「僕も最後まで残りの皆さんを家まで送り届けますよ」
と先生が言うと、
「いいよ、だいじょうぶだよ、先生。こっちにはプロがいるからさ」
ミツアキは警官の制服姿の父親を少し誇らしげに見て答えるのだった。
「そうですか」
申しわけなさそうな顔をすると、先生は下宿先のゑびすやの店先の古い木のガラスの引き戸を音を立てて開け、中に入っていった。
ゑびすやの古いガラス戸を開ける時はいつもきしむ音がしたが、それは来客があることを知らせるチャイム代わりとなっていた。
「あら、先生、お疲れ様」
ヤスノリたちは、「チャイム」に気づいた、ゑびすやのおばさんのよく通る声を背中で聞きながらさらに歩いてゆく。話好きなゑびすやさんには悪いが、今は雑談につき合っている場合ではない。先を急がなければいけないのは皆それぞれ
わかっていた。
次は駐在所だ。残っているのはミツアキとヤスノリとカーチーとハナの親子ペアだけになっていた。
家でもある駐在所にミツアキが帰っていった頃には、辺りはもうすっかり暗く
なっていた。警官であるミツアキの父は最後の一人まで送り届けるつもりのよう
だった。この島で街灯があるのは、役場と船着き場とここ駐在所の辺りだけで、島の住民は灯りのない夜道には慣れていたが、ミツアキの父は持ってきた懐中電灯を点けた。昔ながらの武骨な懐中電灯の、温もりのある灯が行く先を照らしている。
歩きながらヤスノリの母が言った。
「昨日の夕方ね、ラジオで、『水床島小学校の修学旅行中の皆さんは全員無事、京都の宿泊先に着きました』って放送を聞いた時、私も父さんもほっとしたわ。父さんたらね、『ヤスノリがいないとなんだか家の中がいつもとちがう。ぽっかりと穴があいてしまったみたいだ』、なんて言うのよ」
その言葉にヤスノリは、今まで父からそんな風に思われてたんだ、と意外な気持ちになった。
それ、うちも同じよ、とハナとカーチーの母親が口をそろえる。
しばらく歩いた後、ハナが言った。
「ああ、言い忘れてたんだけど、私たちが乗ったバスって、びっくりするくらい豪華だったわ。あんなの初めて……」
今、僕もそれを言おうとしてた……。
ヤスノリが思っていると、母の声がした。
「ああ、それはね。毎年、水床島小学校の修学旅行をお願いしているバス会社の偉いさんのご好意なの。その方、この水床島の自然をとても気に入っててね、好意で特別豪華なバスをいつも回してくれるのよ。その人、昔、灌頂かんじょうヶ浜に海水浴に来たらしいんだけど、水の透明感に驚いたんですって。それから後で島の小学校の生徒数がだんだん減っていってることを知って、修学旅行くらいは楽しい思い出を、ってことで豪華バスを手配してくれるようになったみたいよ……」
そうなんだ、と話を聞いた皆が感心していると、一行はヤスノリの家の門の前に来ていた。
「じゃあ、私たちはここで失礼しますね。後はよろしくお願いします」
母はミツアキの父にそう言うと、ハナやカーチー親子にさよなら、と言い、ヤスノリとシロを連れて門の中へ入っていった。
お願いをされたこの島の警官は、船着き場から一番遠いところに住んでいるハナとカーチーを送り届けるためにまた先頭を歩きだした。ちらりと見ると、闇の中に手にした懐中電灯の光の束が踊っている。
ヤスノリは闇の中に消えてゆくハナの後ろ姿を目で追った。懐中電灯の明かりで、ハナがカーチーやミツアキの父と楽しそうに話をしている姿が、まるで影絵のように浮かび上がっている。
何気なく空を見上げると。小さな小さな水晶の欠けらをちりばめたような星空
だった。
ああ、水床島の空だ……。
「何してるの。もう中に入るわよ」
母の声がした。
「今夜は、さいら(サンマ)焼いてあげる」
玄関の戸を開けると母は言ったが、ヤスノリは昼間、帰りのバスの中でハナからもらったすだち味のガムを口にした時、ちょうど今頃の季節は焼いたサンマにすだちを絞って、と思い浮かべていた記憶がよみがえってきた。
ゾッピの言う「お告げの神様」はあいつじゃなくて僕の所へやって来たのかもしれないな……。
「ちょっと、何、にやにやしてるのよ……」
ヤスノリの様子に気づいた母が眉をひそめるようにして言う。
「いや、修学旅行楽しかったな、って思っただけ」
きりっとした表情になるとヤスノリは言葉を返した。




