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月の菖蒲(あやめ)

作者: 星賀勇一郎





江戸の町は秋の風に包まれ、夕暮れともなると、川の水面を渡る風に萩がそよぎ、路地裏の灯に鈴虫の声が混じる。

その街外れの長屋に、その男は住んでいた。

普段は算術の塾をやっており、近所の子供たちを集めては、算盤や暗算を教えていた。


男は名前を辰之進と言ったが、誰もその名前で呼ぶ事は無い。

男の家の戸には菖蒲が描かれていて、人は彼を「菖蒲先生」と呼んでいた。


男が侍であったのは遠い昔の事で、藩を追われ、主家を失い、刀一本で流浪の身となる。

今は、金で人を斬る。

そんな商売をしていた。


江戸の町では、「殺め屋に頼めば、敵は討てる」と噂され、人はそれを恐れ、また人は救いを求める。


町外れの不動明王の裏に、斬って欲しい人の名前と金を置いておけば、その願いは叶うという話だった。

しかし、そのすべてを斬る訳では無く、毎夜、不動明王の裏に金を置いて行く者は絶えなかったが、男がその依頼を受けるかどうかは、ただ本人の気まぐれに過ぎなかった。


その夜も、不動明王の裏に粗末な和紙に震える筆で書いた手紙と、それに包まれた金が置いてあった。


男はそれを手に取ると、手紙を開いた。

中から小判が二枚足元に音を立てて落ちる。


「夫を殺された恨みを晴らして欲しい。わずかばかりながら、お金を用意しました。命を懸けて願います」


その文は涙で滲み、和紙の端は指で幾度も握られた跡があった。

男は手紙に包まれていた二枚の小判をじっと見つめる。

その小判の軽さが、女の身の削りを物語っていた。


依頼主の名は「お節」と書いてあった。






お節は商家で奉公をしていた夫と小さな家で暮らしていた。

貧しいながらも笑顔の絶えぬ日々であった。


夫は祭りの夜、夜店で売られていた御手洗団子を手に笑って帰って来た。

あの笑みが今も瞼の裏に焼き付いている。


全ては柏木道場の若旦那、柏木圭吾によって踏みにじられた。

奎吾は道場主の長男でありながら、稽古よりも酒と女に明け暮れる放蕩者だった。

ある日、お節の美貌に目を付け、しつこく言い寄った。

そしてお節の夫がとある商家の奉公人だという事を知ると、待ち伏せをして道場へと無理矢理連れて帰った。


「臆病者に女が守れるのか」


とお節の夫を罵り、殴る蹴るを繰り返した。


その場に居合わせた門弟たちは皆、目を逸らした。

激高した奎吾は、何度も何度もお節の夫を木刀で殴り続ける。

肉は裂け、骨が折れる音がした。

そして、脂の敷かれた床を血が汚していった。


「なかなかしぶといな……」


奎吾は更に木刀で殴り付ける。


「これ以上は死んでしまいますぜ……」


奎吾はいつも一緒にいる二人の門弟に羽交い絞めにされる。

奎吾はそれを振り切り、


「離せ」


と言って木刀を投げ出した。

そして腰に差した真剣をゆっくりと抜いた。


「こんな奴、生きてても仕方ない貧乏人だ……。俺がこの手で斬ってやる」


そう言うと真剣を振り上げた。

既にお節の夫は意識がなく、ぼやける視界の中に光る奎吾の刀を感じていた。


奎吾はお節の夫を難癖の下に切り伏せたのだった。


翌朝、奉行所からの呼び出しでお節が駆け付けるとそこには薦に包まれた夫の亡骸があった。

殴られた顔は血で汚れ、斬られた身体から全ての血が流れ出した様に、着物は黒く染まっていた。


奉行所は「立ち会いの果て」と言い、処罰せず、柏木道場は金で口を塞ぎ、お節の夫の死は闇に葬られた。






夫を失ったお節に銭は無く、ひと月もせぬ内に食うにも困り、ついには夜鷹の如く身を売る道を選んだ。

最初の夜、見知らぬ男に抱かれながら、心は千々に裂けてしまった。


「いつか夫の仇を討つ。必ず仇を……」


その思いだけがお節を生かした。

そうやって銭を積み重ね、涙に濡れた文を書き、男に託したのである。






男、辰之進は数日間、町を歩き、噂を拾った。

酒場で道場帰り若侍に酒を注ぎ、芝居小屋の裏で三味線弾きの話を聞いて。

賭場で博徒の口を開かせた。


町で耳に入って来るのは奎吾の悪行ばかりだった。

女を弄び、博打に負ければ門弟に尻拭いをさせ、気に入らぬ者は腰に差した刀で脅す。

そして、お節の夫を殺めた事も誰もが噂していた。


「糞みてえな奴だな……」


辰之進は酒場で安い酒を飲みながら呟く。


「おや、誰かと思ったら菖蒲先生じゃねぇか」


辰之進は顔を上げる。

辰之進が算術を教えている子供の父親だった。

その男は辰之進の向かいに座ると、店の女将に大声で酒を注文した。

相当酔っていて、前後にゆらゆらと揺れながら時折目を閉じる。


「先生、どうですか、うちの倅は……」


酔っていても自分の子供の事は気になるらしい。

辰之進は微笑んで、


「しっかりと勉強してますよ。将来は勘定奉行ですね……」


「うちの子が勘定奉行だなんて、先生も冗談が過ぎますな」


男は大声で笑いながら、届いたばかりの徳利から辰之進のお猪口に酒を注ぐ。


「女将、何か肴をくれ。ちょっと腹が減ってるんだ」


辰之進は、注がれた酒を一口で飲む。

それに男はまた酒を注ぐ。


「そう言えば、先生はこっちの方は好きですかい」


と男はニヤニヤと笑いながら小指を立てて見せた。


女……。


辰之進も男にニヤリと笑った。

男は立ち上がって、辰之進の横に座り直す。


「いやね……。そこの河を少し北に上ったところに、やけに器量の良い夜鷹が居ましてね……」


「夜鷹……」


辰之進はお猪口を持って男の顔を覗き込んだ。


「ああ、吉原に居てもおかしくない程の女ですからね。それを俺たちみたいな貧乏人が相手してもらえるなんざ、夢の様でしょ……」


小声で男は辰之進に言う。


「何か、訳ありなんですか……」


辰之進は酒をまた一気に飲んだ。


「いや、詳しくは知りませんがね……。どうやら、今、噂の「殺め屋」に頼みたい事があるんで金が要るんだとか……。そう言えば、ここ何日か見てないな……」


男はまた辰之進の器に酒を注ぐ。


「もう殺め屋に頼んじまったのかな……」


するとそこに肴が運ばれて来た。


「おっ、今日は鯵か、いいねぇ」


と男は箸を持って煮付けに手を付けた。






辰之進は夜鷹が立っていた場所に行き、他の女たちの話を訊いた。


「ああ、お節さんかい……。そう言えばここの所来てないね……。まあ、元々こんな商売に向いてる子じゃなかったからね……」


お節か……。

間違いない……。


辰之進はその夜鷹に金を握らせて、お節の家を訊いた。


「知らないねぇ……。元々、あたいたちはそんな野暮な話はしないのさ」


辰之進は小さく頷く。

それはそうだ。

普通の商売じゃない。

お互いの家なんで知らなくても問題はない。


「あ、でも、少し下流に行ったところの納屋で客を取っているお龍なら知ってるかもしれないよ」


と女は指を差した。


辰之進は女に礼を言って、下流へと歩き出した。


女が言った下流にある漁師の納屋で客を取るというお龍を探したが、その日は其処に居らず、仕方なく帰る事にした。


家に帰り、行灯に火をつける。

薄暗い部屋で、辰之進は大の字になって低い天井を見上げた。


「どうすれば救われる……」


辰之進はそう呟いた。






翌朝、辰之進は目を覚まし、部屋の中を見渡す。

そしてゆっくりと身体を起こすと頭を掻いた。

そして立ち上がると、土間にある水瓶の柄杓を取ると水を飲む。

袖で口を拭き、戸を開けた。

外は雨で家の前に出来た水溜まりに無数の波紋が出来ている。

辰之進の傍に野良猫が寄って来る、何度か餌をやった事のある猫だった。

辰之進はその猫を抱かかえると、家の中に掛けてあった手拭で濡れた猫の身体を拭いた。


「お前も一人か……」


猫にそう訊くと、荒々しくその小さな身体を拭いた。


「寂しいか……」


辰之進はそう呟いた。







「そうだ、そこは百の位を一つ上げるんだ。そうだ」


辰之進は数人の子供に算盤を教えていた。

他にも算盤を教えている大きな寺子屋はあったが、辰之進は子供の駄賃程度の金で教えていた。

それもあり、近所の長屋の子供たちも辰之進の塾に集まっていた。


「菖蒲先生、さようなら」


と子供たちは口々に言って出て行った。

最後の子供を送り出し、辰之進は家から顔を出して周囲を見る。

雨は昼前に止み、水捌けの悪い場所だけに水溜まりが残っていた。


そして戸締りをして家を出て行った。


辰之進はいつもの屋台の蕎麦屋の暖簾を掻き分ける。


「親父、掛蕎麦一つ」


「おう、先生。今日は良い海老が入ったんだ。海老天おまけしとくよ……」


蕎麦屋の親父は直ぐに蕎麦を湯掻き、器に落とす。

そして汁を注ぐと海老の天麩羅を上に載せて辰之進の前に置く。


「天麩羅蕎麦なんて何時ぶりかな……。腹壊しゃしねぇかな……」


そう言うと箸を取って蕎麦を啜った。


「腹なんて壊すモンか。先生は俺の天麩羅にケチつけんのか」


親父は声を上げて笑った。


「そう言えば親父、河の上流に居るお龍って夜鷹知ってるか……」


辰之進は蕎麦を啜りながら訊く。


「ああ、知ってるよ……。もう十年くらいやってる女だからな……。そう言えば、少し前に大層器量の良い女を連れて蕎麦食いに来たよ。その女が仕事を上がるから、お祝いだって言ってな。天麩羅と卵落とした蕎麦食って帰ったよ」


辰之進は箸を止めて親父の話を黙って聞いた。


多分、お節だ……。


辰之進は蕎麦を食べ終えて、器に残った出汁を飲み干した。


「ありがとう、美味かったよ……」


辰之進は海老の尻尾を器の中に吐いた。

そして屋台を出て行った。






辰之進は夜鷹のお龍が居る筈の納屋の傍にやって来た。

しかし周囲は静まり返っていて人の気配は無かった。

随分と日が落ちるのが早くなった。

辰之進は曇った空を見上げて、息を吐く。


「何処に行ったんだよ……」


辰之進は河縁にあるお龍が使うという納屋の傍に来た。

やはりそこには誰も居なかった。


そのまま、河原まで出る。

今朝の雨で少し濁った河は、その早い流れと共に秋の香りを充満させていた。

夏の河とは違う、その熱を徐々に失くして行く空気だった。


辰之進は傍にあった大きな石に腰を下ろし、秋の風を感じていた。


さっきよりも高さを増した月に薄い雲がかかっている。


「誰……」


ふと、後ろからそんな声がして辰之進は振り返る。

そこには一人の女が立っていた。

辰之進は立ち上がって女をじっと見つめた。


「何、奉行所の役人……」


女は辰之進を睨んだ。


「あ、いや……」


「じゃあ、何……」


女は、身構えながら辰之進を更に睨む。


「お龍さんかい」


女、お龍は構えるのを止めて、腕を組んだ。


「何だい、客かい……」


辰之進は慌てて両手を前に出した。


「あ、いや、違うんだ……。ちょっと訊きたい事があって……」


「訊きたい事……」


お龍は警戒を解いたのか、辰之進の方へと歩き出す。


「あんた、悪い人じゃないね……。これでもこの商売十年以上やってんだい。人を見る目だけはあるよ」


お龍はそう言うと笑い、さっきまで辰之進が座っていた石に腰掛けた。


「で、何が訊きたいんだい」


お龍は自分の隣に座れと石の上をポンポンと叩いた。

辰之進は小さく頭を下げてお龍の横に座った。


「お節……」


と辰之進は呟く様に口にした。


お龍は煙管を出して咥え、火をつけた。


「ははん……。あんたもお節の器量にやられた口だね……。こんな所で客取る子じゃなかったからね……」


辰之進はお龍の横顔に微笑む。

するとお龍の顔から笑顔が消えた。


「違うね……」


お龍は煙を吐くと、辰之進の方を見る。


「あんた、殺め屋だろう……」


辰之進は歯を見せて笑い俯く。


「受けるのかい……。お節ちゃんの依頼……」


辰之進は顔を上げて、膝に肘を突いて河の流れを見る。


「受けてやんなよ……。あの子は殺された夫のために身体まで売ってあんたに依頼したんだい……」


お龍は煙管の火種を石の上に落とし、それをしまった。


「世の中にはさ、物語よりも悲惨な人生を送っている子も居るんだい……。そんな子のために居るんだろう、殺め屋ってのは……」


辰之進は小さく何度か頷いた。

そして顔を上げると、


「お節の家……。知ってるか……」


とお龍に訊いた。


お龍は辰之進をじっと見つめて優しく微笑んだ。






辰之進は家に戻り、行灯に火を灯すと、机の上の紙を取り、筆先を舐める。

そして和紙の上に筆を走らせた。


「明日の夜五つ。ススキの河原で待つ」


それだけ書くと、その手紙を細く折り家を出た。

そしてお龍に訊いたお節の家の戸にその手紙を縛り付けた。


お龍によると、お節は夜鷹を止めて、近くの酒場で働いているらしい。

そっちへ行っても良かったが、留守とわかっている家の方へと行く事にした。


辰之進は家に帰るとまた畳の上に大の字になり、天井を眺める。

そして目を閉じた。


どれ程に無念だったのだろうか……。


お節の心情を考えると胸が痛む。

同じ様にお節の夫の事を考えると、柏木道場の放蕩息子など生かしておく価値もない。


辰之進は薄汚れた天井をじっと睨む様に見る。


「引き受け申そう……」


辰之進は声に出してそう言った。






翌日夜五つ刻。

辰之進はススキの生い茂る河原に立っていた。

その場所はお節が客を取っていた場所よりも少し上流にあたる場所だった。


その夜は中秋の名月と呼ばれる月が空に浮いていた。

明るく大きな月は周囲の雲を蹴散らす様にその光を放っていた。


満月は川面を照らし、その流れを映し出す。


河原の石を踏む音がして辰之進は視線を足元に落とした。


「来たか……」


「はい……」


お節はそれだけ答えると辰之進の横に立った。

しかし敢えてお互いの顔は見なかった。

二人は並んだまましばらく河のせせらぎを聞いていた。


辰之進は袂から竹の皮に包まれた御手洗団子を取り出し、お節に勧める。


「食え……。甘いモンは考えを変える事もある……」


お節は驚いて震える手でその団子を一本取る。


久しく口にしていない甘味。

そして夫が縁日で買って来た御手洗団子を二人で食べた日を思い出した。

一口頬張ると、ほろりと崩れ、涙が溢れた。


「どうした」


「すみませぬ。ただ、懐かしくて……」


夫が笑って団子の串を差し出してくれた夜。

あの温もりはもう戻らない……。

だからこそ、自分で、この手で仇を討たなければ……。


「どうしたら、殺め屋様に動いてもらえるのでしょうか……」


お節は涙を流しながらそう囁く様に言う。


辰之進はそれをちらと見て空を仰ぎ流れる雲を見た。


「お前が本当に仇を討ちたいと願うのならば、その思いは届くであろう……」


「本当です。命を懸けて……。思いを叶えて下さるのなら……、私は何だって致します」


そう言うとお節は立ち上がり、数歩だけ河に近付いた。


辰之進はお節の背中を見て、


「人を殺めてもらおうなど、正気の沙汰じゃない……」


お節はコクリと頷く。


「それはわかっております。しかし、もし、あなた様の大切な人が殺された……。それをお考え下さい……。きっと私と同じ様に考える人も居るのです……」


お節はそう言うと振り返り、辰之進の膝に手を突いた。


「本当に、叶えて下さるのであれば何でも致します。どうか……」


お節の涙が辰之進の膝に落ちた。


「ならば、俺に此処で抱かれる事も出来るか……」


お節は言葉を失った。

金銭のやり取りは仇討ちの為と割り切っていた。

しかし、ただ抱かれるなど、夫以外の男に身を許すなど考えた事も無かった。

仇を討つため……。

お節は何度も胸の中でそう唱える様に繰り返す。


「はい……。わかりました。どうせ、夫の仇を討ってもらうためにこの身を売ってしまった女ですから……」


お節は帯に手を掛けると着物を肩から滑らせた。

月光がお節の白い肌を照らす。

しかしその瞬間、流れる大きな雲がその月を覆い、闇がお節の裸身を隠した。


多分、亡き夫の仕業だろう。


辰之進は歯を見せて笑うと、河原に落ちた着物を拾い、お節の肩に掛けた。


「明日、また同じ時刻に此処に来い……」


辰之進はお節にそう言うとススキの中を進み、帰って行った。


お節はその場に座り込み、震えていた。






翌日。

辰之進は算術の塾が終わると、押し入れの天井の板を外す。

其処には刀と脇差がかくしてあり、辰之進はそれを取ると畳の上に並べて置いた。

そしてその刀身を抜くと鈍く光り、重厚さを感じ取る事が出来た。


日が暮れた後、辰之進は家を出た。


その頃、川辺に柏木奎吾とその門下の男が二人立っていた。

昼間の間に柏木道場に届けられた辰之進からの手紙に誘われ、苛立ちと不安を隠せない様子だった。

辰之進はススキの穂を掻き分ける様にしてその河原に現れた。


「無礼にもこんな所に呼び出しおって……。貴様何奴じゃ……」


奎吾は腕を組んだままそう言う。


「貴様などに名乗る名は無い……」


その返事を合図に、奎吾は門下の二人に命令する。

二人は刀を抜いて辰之進に斬りかかった。

柏木流なのだろうか、大きな声を上げながら辰之進に刀を振り上げる。

しかし、そんな二人など辰之進の敵では無かった。

瞬時に閃光が走り、辰之進の刀が線を描く。

それと同時に血飛沫が夜風に舞い、二人の男は石の河原に崩れ落ちた。


河原に一人立つ、柏木奎吾は顔を引き攣らせながらも刀を抜く。


「く、来るな……」


ジリジリと退きながら、刀を構えると柏木流の型を見せる。

すると大声を上げて辰之進に斬りかかる。

しかし、辰之進は一歩も退かず軽く躱して一閃。

辰之進の太刀筋は低く、奎吾の両足の腱を斬り、奎吾は膝から崩れ落ちた。


「ま、待て、もう動けぬ……、命、命だけは助けてくれ」


奎吾はそう叫びながら、懐から金を出し、周囲にばら撒いた。


その時、ススキの中からお節が現れた。


辰之進は刀を鞘に戻しながら、石の上に落ちた奎吾の刀を踏み折った。


お節は蒼白な表情で、膝を震わせながら辰之進の傍にやって来た。


「こやつがお前の夫の仇か……」


辰之進はお節に訊いた。

お節はコクリと頷くとじっと奎吾を睨み付けた。

その瞳は強い意志で輝いて見える。


辰之進は脇差を抜くと、お節に差し出した。


「最後はお前自身で決めろ……」


お節は辰之進の脇差を受け取り、鞘から抜くと、倒れて動けない奎吾に馬乗りになった。


「止めろ、止めてくれ……、命だけは」


叫ぶ奎吾の上に、お節は脇差を振り上げた。


お節の脳裏に薦に包まれた夫の亡骸が蘇る。

その朝、いつもの様に家を出て、そのまま帰らなかった夫。

お節の瞳からは大粒の涙が溢れ出す。


「あなたが私の夫の命を奪ったのです。死んで詫びて」


お節は震える腕で脇差を奎吾の胸に突き立てた。

その刃は奎吾の胸を貫き、呻き声を上げて身体を痙攣させ絶命した。

しかしお節は何度も何度もその脇差を死んだ奎吾の身体に突き立てる。

その手を辰之進は掴み、


「もう死んでいる……」


とお節に微笑む。


お節は我に返り、自分が馬乗りになっている奎吾を見て、吐き気を覚え、河の流れに顔を出して嗚咽の声と共に吐いた。

しかし、それと同時に胸の奥から、凄まじい安堵感が込み上げて来た。

お節は河原に座り込み、


「やっと終わった……」


と吐き出す様に言った。


辰之進はそのお節を横目に、自分か斬り殺した二人の亡骸を河の中に放り込んだ。

そして、お節が刺し殺した奎吾の身体を抱えて同じ様に河の中に放り込む。

奎吾の周囲にばら撒かれた金を拾い、懐に入れた。


河原に座り込むお節の横にしゃがみ込むと懐から、お節の書いた手紙に包まれた二枚の小判をお節に渡した。


「これは返す。今日までの事は忘れろ。そして生まれ変わって生きて行け……」


辰之進はお節の肩を力強く叩いた。

お節はその小判を握ったまま、


「ありがとうございます……」


と辰之進に礼を何度も繰り返した。


辰之進は脇差の血を拭うと、落ちていた鞘に戻し、お節に背を向けた。


「あの……」


お節は立ち上がり、辰之進の背中に声を掛けた。

辰之進の背中が、お節には夫のそれと重なって見えたのだった。


辰之進はそのままススキの中に消えて行った。


「また……。お会いしたい……」


お節は辰之進の背中にそう呟いたが、唇を噛みその言葉を飲み込んだ。


そして綺麗に輝く月を見上げた。

秋の空には昨日と同じ様に月を流れる雲が開くしていた。

お節はススキを掻き分けて土手に駆け上る。

闇に溶けて行く様に歩く辰之進の姿を、お節はいつまでもじっと見つめていた。


雲に時折隠される月がいつまでもその二人を照らしていた。








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