8話 魔力溜まり
山中4日目。
一行は、遅れを取り戻すべく早朝から行動を開始していた。
元々、登山道などという親切なものが存在する山ではない。
そんな中での最短ルートともなれば、それは獣道とも言い難いような、微かな跡とでも言うべきか。
そこを見出し、先頭で踏み固めているのはジェイクとイネスだった。
おそらくは、いや、まず間違いなく光を気遣って、可能な限り足元の良いルート取りをしてくれている。
それがありがたく、同時に、それでも息が上がっている自分が情けなく、少年は歯を食いしばって山歩きに集中する。
「ふふ、優しいのね?」
そんな光の様子を遠目に見ながら、ナインは涼しげに隣のロンドへ水を向けた。
「考え込むより、体を動かしたほうが良い時もあるのさ。……割り切って、目の前のことに集中しろなんて、すぐにできることじゃない」
「そうね」
くすくすと笑い声が漏れる。
ふと、ロンドがナインの方を向いた。
「意外だったよ」
「あら、何がかしら」
「君は、少年のことをもっと手助けすると思っていた」
「それはまた……ふふ」
ローブの奥で、もう一度くすくすと笑い声が響く。
「私の役目ではないわ。少なくとも、今はね」
「……やれやれ、少年も大変だな」
呆れたようにロンドが腰に手を当てるのと、一行の先頭が稜線を超え、尾根の向こう側へと抜けたのはほぼ同時だった。
「あれが……ウプアット」
小休止で息を整えながら、光はようやくその視界に目的地を捉えていた。
遠目ながらも、無骨な尖塔がしっかりと見える。
「水ですよ」
「あ、ありがとうございます」
そこへ、ユーフィが水を持ってくる。
魔法使い、という言葉の印象とは裏腹に、一切疲れた様子はなかった。
「昨日、兄さん……モーフィアスから聞いた限りでは、これで難所は越えたはずです」
「そうなんですか?」
「ええ。ここからは、一旦下って、あの沢辺りから向こうの峠を登れば、後は尾根伝いを進むだけだと」
「では、明日には着けますネ!」
シュタっ、と珍しく音を立ててフィオが現れた。
「ええ、団長もその見立てです」
穏やかに笑うと、ユーフィはその場を辞す。
目的地を望み、そこまでの道も見えたことで、光はようやく肩の荷が一つ降りたように思えた。
受け取った水を飲み干し、細く長い息を吐く。
「……よし」
決意を新たに、少年は気合を入れる。
その後ろで、ティスは進路上の沢へと視線を向け……その目を細めた。
◇
「……まずい」
先頭を行くジェイクが呻いた瞬間、イネスが後続に止まれと示す。
そのまま二人は、ロンドの元へと走った。
「どうした」
「魔力溜まりです。しかもデカい」
「沢全体がモヤってる感じで……結構広い範囲に、結晶も散らばってます」
ジェイクの報告に、イネスも補足する。
「よりによって、このタイミングか……」
ロンドの声に、焦燥が混じった。
既に、小休止の場所からはそれなりに下ってしまった。
ここから迂回するとなれば、沢の上流方向へ向かうしかない。
だが、魔力溜まりの範囲が広すぎるのだ。
「推測で良い。見立ては?」
「結晶が出来かけって考えると、本格化はこれからのはずです。半日で散れば御の字って感じかと」
「何かあったんですか?」
不穏な空気に、光が駆け寄ってくる。
ロンドは腕を組み、硬いトーンで答えた。
「進路上を、かなりの範囲で魔力溜まりが遮っているんだ。迂回はできる。問題は、迂回先が沢の上流で……急流なんだ。渡れる場所は更に奥になる」
「……時間は?」
「夜になるだろう」
その答えに、少年はハッとしたようにロンドを見つめる。
僅かに沈黙した後、騎士は続ける。
「……魔力溜まりは、いずれ消える。それがいつかは、わからないが」
「――俺が」
言いかけて、光はぐっと口を閉じた。
「酔い」を受けない自分が先行します。後から追いついてください。
そう啖呵を切れれば、どれだけ良かっただろうか。
そして、そんな間にも、周囲では仲間たちが動いていた。
ジェイクとイネスは、再び沢の方向を確認に向かっている。
アレクは、何事か指示をユーフィとニナに出している。
モーフィアスはバルカとともに、腕組みをしたジルと協議している。
「俺は……」
余りの情けなさに、涙が出そうだった。それすらも嫌気が差す。
「聞きたいのだけど」
不意に、涼やかな声が滑り込んだ。
いつの間にか、ナインがロンドと向き合っている。
「その魔力溜まり、どの程度覆っていて?」
「目測だが、200~300メートル」
「ふぅん……なら行けそうね」
「何だって?」
ロンドの怪訝な声を気にする様子も見せず、ナインは悠然と歩き出した。
「縄索くらい持っているでしょう? あるだけ繋いで、私に」
「……アレク!」
訝しみながらも、騎士は指示を飛ばす。
二つ返事で動き出したアレクの様子を目の端で捉え、光は慌ててナインを追った。
「おい、何をするつもりなんだ?」
「時間は惜しいでしょう?」
くすくすとナインは笑う。
それが妙に癪に障り、少年は声を荒げた。
「まさか、あれを抜けるってのか!? 『酔い』が!」
「慣れたわ、そんなの」
「は?」
振り向きもせず、王女は返す。
「昨日、折角だから体験してみたの。うふふ、知っていて? あの中だと、このローブも不要なのよ」
「昨日……って……」
確かに、昨日はナインも単独行動を取ってはいた。
その時に確かめたというのか。
まさか、この事態さえも想定していたのだろうか。
目深なフード、その奥からの笑い声が、酷く遠く聞こえる。
「こちらを」
アレクがぐるりと巻かれた縄の束をナインへと手渡す。
軽く頷きながら受け取り、彼女は僅かに首を傾げた。
「あら、少し足りないかしら。……まぁ、仕方ないわね」
言いながら、ナインはその一端を軽く放り投げる。
風切り音を上げて飛んだそれが、ジェイクとイネスの間を通り抜け、沢の近くの木立へと巻き付く。
驚いたように振り向く二人の先では、今や光が見てもわかるほどに景色が揺らぎ、白い靄がかかっているかのようだった。
ナインが朗々と謳う。
「ヒカル以外、離れなさい。危ないわよ」
ジェイクが何事かを言おうとして、イネスに遮られる。
その指し示した先で、ロンドが従えと合図をしていた。
不満げな表情を隠さず、それでも二人は引き返し、通り過ぎる際にそれぞれが光の肩や背中をぽんと叩いた。
他の面々が十分に離れたことを確認すると、ナインはおもむろに分厚いローブを脱ぎ去り、くるりとその細やかな指を回す。
見る間に星空の如きベルベットが長い紐状となり、手元の縄に巻き付き伸ばしていく。
まるで新体操のリボンのようにそれを弄び、白金の髪を揺らしながら王女はころころと笑った。
「やっぱり良いわね、外の空気を直に味わうのは」
「……脱いで平気なのか?」
「元々、私だけなら必要すらないのよ」
光も、太陽の下でナインを見るのは初めてだった。
陽を受けて、その琥珀色の肌は吸い込まれそうな程透明に輝いている。
それを見る光の目には、困惑と心配の色。
その様子と、少年の背後に見えるハモニカのざわつきとを視界に収め、ナインはもう一度笑った。
「ふふ、嫌ね。勘違いしてしまいそう。……さぁ、行きましょうか」
そう言って踵を返した王女を、少年も追う。
「行くっても、俺は……」
「渡りきったら、対岸の木にこれを結びつけるわ。そこからが、貴方の仕事よ」
「俺の、仕事……?」
意図を読めずに、光は問う。
「そう、『酔い』とは無縁の貴方がやるべき仕事。ふふ……命綱だけで抜けられるほど、容易ではないのよ」
「……みんなを先導しろって?」
「しっかり、手を引いてあげなさい」
振り向き、微笑んだその表情に、常のからかいは無い。
光は戸惑いながらも、頷いた。
ナインはそれで良いとばかりに目を閉じ、沢の方角へと向き直ると、揺らぎの中へ沈んでいく。
あるいは、本当に幻の中へと消えていくかのように、その背が、ゆっくりと遠ざかっていく。
……道なき道であることを差し引いても、その歩みは遅い。
慣れた、などとは強がりだったのだ、と少年はようやく気づいた。
思わず声をかけようとして、それを飲み込む。
張り詰めたような静寂。
少年がじっと見つめる中、やがてナインの動きが止まり、命綱がピンと張った。
ほぼ同時に、来い、という彼女の身振り。
ここからが、自分の仕事だ。
光は深呼吸するとハモニカへ振り向き、手を挙げた。
――容易ではないのよ。
そのセリフの意味を、光は往復の中で何度となく実感していた。
手を引いていても、ジェイクはあらぬ方向へ進もうとし、イネスはへたり込んだ。
ニナはけらけらと笑いが止まらず……ロンドでさえも、明らかな千鳥足だったのだ。
たった200~300mを全員が渡り切るまで、優に1時間以上を要した。
光の指示で、ティスがハモニカの面々とフィオを介抱している。
対岸に最後まで残っていた彼女は、自らの番に至り、少年が差し出した手を恭しく取っていたが……恐らく、その必要は無かったのだろう。
それでも、渡れた。
その事実を噛み締めながら、少年はナインの元へと向かう。
「お疲れ様、ヒカル」
「……ああ、ナインも」
機先を制され、光は少しだけ言葉に詰まった。
既にローブを再着用した彼女は、素肌はおろか表情さえ伺えない。
慣れたと言い張り、魔力溜まりを単独で渡りきった消耗の有無は、少なくとも少年にはわからなかった。
故に。
「ありがとう」
その言葉に、ナインはくすくすと笑った。
「それは、何に対して?」
試すような言い草に、光は口元に手を当てる。
言葉を選ぶ必要があった。
「……あの時、俺は、自分だけで何とかしなきゃ、と思ったんだ。でも……違うんだよな」
「そうね。ヒカル、貴方だけでは道を啓けない」
けれど。
そこで、ナインは珍しく逡巡した。
「けれど……私だけでは、手を引けなかった」
声音に混じる色を、どう表現するべきだったろうか。
光は黙ったまま、ローブの奥を見つめる。
「意外だったかしら?」
「そう、だな」
「ふふ……これでも私は王族なの。考えることは、多いのよ。貴方と同じく、ね」
冗談めかせたセリフだったが、それはナインの本音の一端かもしれなかった。
あるいは、その矜持が、彼女にあの行動を取らせたのだろうか。
しばし、お互いに何も言わない時間が流れた。
「――あら、休憩は終わりのようね」
ナインの声に光が振り返ると、ハモニカの面々がそれぞれに再準備を整えていた。
その中で一通りの指示を出し終えたロンドが、二人の元へと歩いてくる。
先程の千鳥足など、微塵も残っていない。
「待たせてしまったね」
「いえ、体調は大丈夫ですか?」
「ああ、思ったより症状は早く抜けてくれた。君たち二人のおかげだ」
騎士はそこで姿勢を正すと、片膝をついて頭を垂れた。
「ハモニカを代表し、ロンド・バルクマンの名において、深く感謝を申し上げる」
「え……と」
突然のことに目を白黒させた光。
それをくすくすと笑いながら、ナインが雅やかにロンドの前へ立つ。
「騎士ロンド。お気持ちは受け取りました。引き続き、活躍を期待します」
「お任せあれ。……ふふ、少年。これからは、君も多少は儀礼に慣れないといけないよ?」
「……難しいです」
少年の素直な感想に、王女と騎士はお互いにもう一度笑った。




