1話 本日もカイセイなり
「今日で何日目だっけなぁ」
天都光は、日誌を書く手を少しだけ止め、誰にともなく呟く。
傍らに立つ美貌の侍女、ティ・シフォン――光はティスと呼んでいる――が、僅かに目を伏せた。
「……あー、いや、やっぱ良いか。……うん、良いや」
やれやれと頭を振りながら、少年は筆先をインク壺につけ直す。
この動作にも慣れたものだ。
記録をつけ始めてから、もうそれなりに経っている。そのページの厚みが、数えずともその日数の積み重ねを主張していた。
「はー……早く帰りたい……」
思わずこぼれた声は、光の本音だった。
それも日誌へ書き連ねそうになり、慌てて「本日もカイセイなり」と定型句となった締めの一文を書き添えると、日誌を閉じた。
カイセイ。
この世界を、光は彼なりの皮肉を込めてこう呼ぶ。
異世界のアナグラムとして、だ。
日本のごく普通の一般家庭で育ち、ごく普通に高校まで進んでいた光の人生は、極めて普通ではない事態に巻き込まれている。
小説やゲームやらで見かける、異世界への召喚。
その当事者になるというのは、せいぜい暇を持て余した授業中の妄想程度にしか考えたことはなかった。
正にそこはファンタジーであり、人と魔物がはるか過去から争い続ける、剣と魔法が支配する世界。
おあつらえ向きに文化も地球に準じているのは、お約束と言えばそうだが、いざ我が身に降りかかると困惑の種でもあった。
生活に支障があるわけではないから、そんなものだ、と割り切るしかないのだが……。
夢であれば、と少年は毎夜のように願って眠りに就く。
残念ながら、今のところ夢から覚める気配はなく、天都光は変わらずカイセイにいる。
翌朝。
肩を揺すられ目覚めた光の視界に、透き通るような侍女の瞳が映った。近い。
ちり、と主の顔にピントを合わせるように、紅玉の瞳孔が狭まる。
「おはようございます、マスター」
鼻孔をくすぐる侍女の吐息に、少年の眠気は急速に霧散する。
ふわりと花のような香りがするのは、香水だろうか。
「……おはよう、ティス」
このやり取りは既に恒例ではあったが、未だに慣れない。
一発で覚めた眠気を、少しだけ名残惜しく感じながら、光は体を起こす。
音もなくベッドから離れた侍女は、何事もなかったかのように続ける。
「朝食の用意が整っております。お食事後は、司令部でリヴォフ将軍との軍議が予定されております」
「……おう」
なんとなく釈然としないまま身支度を終えて寝室を出ると、扉の脇にはティスの他にもう1人が控えていた。
「おはよう、フィオ」
「おはようございます! 我が主!」
フィオと呼ばれたのは、長身だが、まだ表情にあどけなさの残る少女、フィオ・シジョウ。
少年の挨拶に明るく一礼を返すと、そのままかき消すようにその姿が見えなくなる。
彼女はわかりやすく言えばニンジャであり、その主な任務は情報収集及び光の護衛だ。
自己主張の強いところがあり、朝一の挨拶を欠かさないなど、忍んでいない部分も多いが、それを差し引いても飛び切り優秀といえる仲間。
もちろん、彼女と光がこうした関係となるまでには、非常な紆余曲折があったのだが……一旦それは置く。
この世界での標準よりは少しだけ豪華な朝食を終え、光は街へ出る。
ご丁寧なことに、食べ物も地球とほぼ変わらない。
強いて言えば、米をほとんど見かけないことか。
おそらくは小麦が主食で、食卓にはパンやパスタのようなものが並ぶ。
この「ようなもの」というのは光の主観で、実際にはパンやパスタそのものだが、少年にとっては認めがたい一線なのだろう。
味もマトモだし、体調を崩す様子も今までに見られないのだから、カイセイの食べ物は地球との互換性があるのか、それとも、光の身体が既に地球のものではなくなっているのか。
その辺りは、考えないようにしている。
さておき、現在の少年の住まいから司令部までは、概ね歩いて30分ほどだ。
まだ朝といえる時間だったが、大通りはそれなりの賑わいを見せており、そんな中でも何人かは光とティスに声をかけ、あるいは会釈であいさつをする。
それらに軽く応えながら、二人は城壁を目指した。
徐々に、集う人の性質が物々しいものに変わっていく。
目的地の扉に差し掛かると、衛兵が姿勢を正して礼をした。
「お待ちしておりました。将軍は既に」
「どうも」
司令部といっても、そこは城壁の一角をそれっぽくあつらえた、簡素な造りの部屋だ。
そこには既に先客がいた。
1人を除いて若く、およそ半数は女性だ。
「ヒカル」
その中で上座に座っていた女性が――少女と言っていい容貌だが――立ち上がる。
だが、この城壁都市、ヨウゲツをこれまで幾度も守り抜いたその実績を知るものであれば、彼女、レラ・リヴォフを外見で侮りはしないだろう。
「お待たせしたかな」
「いえ、定刻前だけど、始めましょう。城壁の補修状況から――」
会議に光が口を挟むことは少ない。
そしてそれは、レラの求めるところでもなかった。
◇
そう長くはかからず、軍議は終わった。
集まった軍人も、三々五々去っていく中、好々爺然とした老兵が、去り際に光の肩を軽く叩く。
「ヘンシェルさん?」
「この後、ちぃと時間をくれんか」
少年が返事をする前に、レラが呼び止めた。
「ヒカル、少し残って」
「……ああ、わかった。ヘンシェルさん、後で伺います」
笑って手を振る老人を見送ると、部屋にはレラと光、ティスの3人が残った。
若き将軍は少しだけ息を吐くと、姿勢を崩し、頬杖をつく。
「悪いわね、話を遮って。……で、どう思うの?」
「長すぎる」
「そうよね」
トントンと指で机を鳴らしながら、レラは思案する。
光の役目は、もっぱら彼女の思考の相手で、長い、というのは、敵の動きがない期間のことだ。
散発的な攻撃は続いているが、最後に本格的な侵攻を迎撃したのは、既にかなり前になる。
その戦いには光も参加していたが、あれは――。
「圧勝、といえば聞こえはいいけどね」
「あの一戦だけならな。こっちと向こうじゃ数が違う」
「そのとおり」
こちらの被害以上の損害を敵に与え、敵が引いたのであれば、それは勝利だろう。
だが、実際には戦闘はその後も続く。
単純な算数の話で、兵力に劣る側は長引けば長引くほど不利だ。
「こっちはどうなんだ」
「再編成は終わった。補充も何とかね。3000といったところ」
城壁に3000の兵が詰めれば、数倍の敵には対抗できるだろう。
レラの指揮もある。やれば10倍程度は相手にできるし、実際に、前回は跳ね返した。
「で、向こうは?」
光の声に応じ、影のように降り立ったフィオが報告する。
「はい、旧マカリア要塞には1万ほど。ですが、後方のド本命、ウプアットには、まだ集結中でしたケド……10万といったところですか」
「やっぱりね」
はぁ、とレラは息を吐く。
フィオの登場には、もはや驚かない。
「いえ、むしろ長引いた方なのかしら」
「前の戦いで、本当は勝ちたかったんじゃないか。だから、今回は万全を期す……って感じかな」
少年の言葉に頷き、レラが立ち上がった。
「ということなら、まだ猶予はある。ウプアット、10万の再編成には魔物とて数日はかかる」
「そこからマカリア要塞までは、およそ2日の行程ですネ。要塞からヨウゲツまでは1日」
引き継ぎながら、私ならウプアットまで半日で往復できますが、とフィオが妙な主張を付け加える。
静かに控えたままのティスとは対照的だ。
「1週間……か?」
そんな様子を気にすることなく、光が呟く。
タイムリミットとしては、あまり余裕はない。
「悔しいけど、私は動けないわ」
レラが渋面を作った。
ヨウゲツの守りの要、マーディン王国屈指の将軍、レラ・リヴォフとしては、今この都市を空ける訳にはいかない。
将軍としての実力もそうだが、彼女自身、一流の騎士である。
その辺りの魔物なら、それこそ10体20体は片手間であしらえる。
戦力としても貴重だ。
「実はね、シュージとイイコが向かってきてる。今回の防衛に限っては、そこまで気にしてない」
「そりゃいい。でも、じり貧だ」
「そう。他の戦線も決して楽なわけじゃないから……防衛の間はともかく、その後まであの2人を拘束できない。マカリアを攻めるには、手が足りない」
マカリア。
以前は人間側の要塞で、ヨウゲツから魔物の領域へ攻め込むための橋頭保、だった。
「奪われてみて、改めてあの要塞の優秀さがわかったわ。まともに落とそうと思ったら、万単位で兵力が必要ね」
嘆くレラを見ながら、光はぼんやりと考える。
実際のところ、この世界では防衛側が有利だ。
魔法。
これは便利で、それなりの使い手が使う攻撃魔法は、要するに個人が携帯する大砲だ。
城壁から弓の代わりに大砲が降り注ぐとなれば、その脅威は伝わるだろうか。
攻める側からすれば、鬱陶しいことこの上ない。
一方で、この世界の城壁は、いわゆる魔法防御が施されている。
守る側からすると、攻め手の魔法はそこまで脅威ではない。
対城塞魔法、というのもあるにはあるのだが、戦場で実用できる人材が少なすぎる。
その点で、「城攻め」では数に任せた力押しが代替策となってくるのだが、それが可能なのは魔物側であって、人間側はおいそれと数に頼れない。
この戦力比を考えれば、むしろ良く今の戦線を保持しているとも言えた。
「ここまで準備したなら、敵の侵攻は確実。集結した総勢11万の魔物が、ヨウゲツに雪崩を打ってくる」
視線を宙に流しながら、レラは呟く。
「……つまり、その間は」
「ウプアットが空になる」
「そう……なるわね」
答えた光に、レラが頷いた。
全力で攻めてくるということは、その分守りはおろそかになる。それは道理だ。
「……ヒカル、実はね、あなたの、いえ、あなたたちの戦力は……ここの守備には数えていないわ」
「守備には、ね」
「そう。だから、自由にしていい。ここを守るだけなら、今回は平気よ」
レラが当てにしているのは、先ほど名が挙がったシュージとイイコ、この世界の人間側の最高戦力。
光の同郷。汀修志。湊依衣子。
圧倒的な戦力を保持する魔物に対して、曲がりなりにも人間が対抗できてきた理由の一つ。
カイセイの時代時代に現れ、不利を尽く覆してきた「勇者」。
今代の勇者、と言われているこの2人組は、それだけに各地の戦線へ引っ張りだこだ。
結局、火消し役しかできていないのは、皮肉と言えばそうだろう。
今回はどうやら間に合うらしいが、次に間に合うかは、運次第。
「無茶を言っているのは承知よ。でも、多分、これは千載一遇の好機だから……お願い、『勇者』ヒカル」
その呼び名に、光は肩をすくめた。
「人には言わないでくれよ、その肩書は」
「もう知ってる人は知ってるわ。でも、そうね、貴方がそう言うなら」
「勇者なんて大層なものは、修志に任せるさ」
「……ねぇ」
踵を返した少年の背に、レラが呼びかけた。
「ありがとう。……このセリフ、次に会った時も言うつもりよ。忘れないで」
「……そうだな。覚えておくよ」