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第6話 炎の夜と共済保険――燃える前に、燃え残す

 ある夜、空が赤く染まった。

 遠く木こり小屋の屋根、火の舌が風を舐めている。


「延焼率、前日比+∞%……」


「数字で遊んでる場合じゃないです!」


 とリート。尻尾で必死に火をあおぐ。


 リスたちのバケツリレー、俺も桶の列に入った。熱が顔を刺す。

 火は市場と同じで、放っておくとバブルになる。だからまずは――冷やす。


 どれだけ走ったか分からない。火がしぶしぶ沈黙し、炭になった梁が夜に砕けた。

 木こりの親父が膝をつく。肩が揺れて、雫が落ちる。


「……すまねえ。みんなの丸太も燃やしちまった」


 誰も責めない。責められない。

 でも、燃えた分は戻らない。数字も腹も、明日を待ってくれない。


「――共済を作る」


 自分の息が白いのに気づきながら言った。


「火に焼かれる前に、焼け残す仕組みだ。保険。森版」


「保険ってなに? 火が好きなの?」


 と子リス。


「嫌いだ。だからこそ燃えたあと役に立つ。明日は自分の足で立てるように」


 尻尾が何本か、そっと上がった。


 ***


 翌朝、広場。炭の匂いがまだ残っている。 

「骨組みは三つ。免責――最初のひとかけらは自分で。等級――用心した家ほど安く。嘘をつく――二年出禁」


 板に刻む。言葉は短く、木目は深く。


「細かいのは焼け跡で見せる」


「掛け金は、どのくらいだ」


 コルクが手を挙げた。昨夜は、人一倍走り回っていた。


「資産×危険度×季節係数。いまは雨続きで乾きが悪いから少し高め。――薄く、でも確実に集める」


「薄いのか高いのか、どっちだ」


「薄いのを皆で払うか高いのを燃えた家が一人で払うか――どっちがいい?」


 コルクは口をつぐみ、うなずいた。


 リートが「分散は正義です!」と言いかけ、少し照れて飲み込む。


 海風がひゅうと通る。

 碇の刻印がきらりと光る。

 濃紺の外套の海鳥。海ガラスの女が帽子を上げる。


「……海商共和国の船主マリナ。通りすがりのご挨拶――だけのつもりが、火の匂いね。 紹介するわ、引受人のカストロ。偶々だけど商談がしたいって」


 隣のカモメの男――カストロがうなずく。目は笑ってないが、口は柔らかい。


「私はーー保険屋です。大きな火は、森では抱えきれない。再保険で上の層だけ海に逃がしませんか?」


「上の層?」


 カストロは樽の蜂蜜を指差した。


「樽の一番上は甘さが濃い。ひっくり返ると一番にこぼれる。そこだけ海に預ける。滅多に来ないが、来たら致命傷――それを上澄みごと受け持つのが、再保険」


「海は甘いのが好きなのか?」

 コルクの声。


「甘い契約は大好物です」

 とマリナが笑う。

「ただし境界線は硬い。『ここから上は海の担当』という線を、結索印ノットで結ぶの」


 最大損失の上だけ外に出す。森の腹は、臓物は、ここに残す。


「いいぞ。上澄みを海へ。境界は結索印で刻む。掛け金は『燃えたら破滅』の割合に応じて」


「話が早いわ」


 薄青の防水羊皮紙が差し出される。墨の匂いが潮に混じる。


「海は容赦ないから、濡れても読める紙。そちらは?」


「森は容赦ない火。――年輪ハッシュで改竄を嫌う」


 互いに一度だけ笑い、印を結んだ。縄が鳴り、ノットがきゅっと締まる。


 契約が、触れるものになった。


 ***


 最初の公開査定は、昨夜の木こり小屋。

 広場の真ん中に焼けた板。灰の色、炭のささくれ、釘の曲がり。

 倉番、木こり、子育て班、みんなで見る。隠すものはない。


 シーフォーが手帳を抱え、読み上げる。


「――置き火の始末は良好。火種は風で戻り、樋に溜まった枯葉に着火。放火の痕跡なし。免責リーフ2/支払リーフ12」


「待て、うちは水桶がある。等級はもっと高くなるはずだ!」

 木こりの家の若リスが前に出る。


 俺は樋の部分を指差した。枯葉の層、そして木肌の刻み。


「ここ、掃除の刻印が空白だ。今月は点が下がる。来月、再査定だな」


 若リスは口を結び、うなずいた。納得というより、腹に残る苦味。それでいい。甘い保険は腐る。


「あと一件――」とシーフォー。


 彼は、木こりの親父の申告書から一行を静かに外した。


「火事で焼け落ちた新しい鋸の申告、刻印が未登録。今回は対象外。次から登録を」


 親父は一瞬むっとしたが、すぐ視線を落とした。

 嘘を叫ぶ者は少ない。ただ、盛る者はいる。だから、木に刻む。


「――保険はスピードだ。火は昨日、腹は今日、立ち上がるのは明日。だから、今日払う」


 リートが尻尾で合図。預金箱ギルドから手元の蜜が滑るように出て、清算陣を経由し、支払葉が親父の手に落ちた。


 広場の空気が、少し暖かくなる。

 保険は火が好きじゃない。燃え残る生活が好きなんだ。


 ***


 夕方、マリナとカストロと境界線の最終確認。


「上澄みラインは、満月十回分の蓄えを超えた先から」


「海は硬いですが、誠実です」とカストロ。


「その代わり、嘘は嫌い。嘘を嗅ぎ分ける犬より、風を読む海鳥のほうが鋭い」


「森は木目で嗅ぐ。――年輪ハッシュに誓って」


 結索印が二度鳴り、光が薄く走った。


「掛け金は甘くないわよ?」とマリナ。


「甘味帝国の商人に比べたら、塩味だろ」


「それ、ちょっと嬉しい褒め言葉ね」


 海は潮を持ち、森は年輪を持つ。違う匂い同士の約束は、案外強い。


 ***


 夜。広場に紙が三枚、貼られた。文は短く、数字は見える。


〈森の共済(火)〉免責あり/等級あり/虚偽申告は二年出禁


〈公開査定〉誰がいくらでなくなぜを木目に刻む


〈再保険〉満月十回超は海へ

 木鈴が鳴る。数字が灯る。


〈本日の掛け金〉リーフ21

〈本日の支払〉リーフ12(免責2)

〈共済残高〉リーフ9+海の約束


 列の後ろで、誰かがぼそり。


「掛け金、重くないか」


 振り向かずに答える。


「火の用心の分だけ、軽くなる。

 桶を近くに、焚き場を離す、煙突を掃除する。点が上がれば来月は薄い」


「でもよ……今、腹が減ってて」


「分かる。だから今すぐ要る箱は別だ。薬と子どもと年寄りは、共済とは関係なく先に出す。――保険は生活、箱は命。順番は間違えない」


 沈黙。やがて、短い尻尾が二本、静かに揺れた。


 その時だ。焦げた樽板の裏から、琥珀色の蝋の欠片が見つかった。六角の痕。


 リートの耳がぴん、と立つ。


「……蜂蜜帝国の封蝋」


 火は偶然。蝋は、たぶん、偶然じゃない。


「マリナ、境界線は今日から有効だな」


「ええ。海は今夜から見張ってる」


「森もだ。火の匂いと、嘘の匂い。どっちも嗅ぎ分ける」


 リートが小さく笑った。


「分散は正義、保険は倫理。――甘さには、塩で対抗です」


「ラーメンが恋しいな」


「……それは塩ですか味噌ですか?」


「今は、とんこつ味だ」


「オークならいますが?」


「……仲間は食えねえよ」


 広場の数字はゆっくり落ち着き、夜風に樹脂が光った。

 燃えたものは戻らない。けれど――燃え残す仕組みは、今、立ち上がった。

本日の金融ワンポイント:火に焼かれる前に、制度で残す


 保険の基本は「不運をみんなで分け合う仕組み」です。ひとりの家が火事になれば損害は甚大ですが、十人が少しずつ掛け金を出し合えば「燃えた家を支える力」に変わります。これを共済と呼びます。大事なのは「免責」「等級」「虚偽排除」という三つの骨組みです。


 免責:最初のひとかけらは自分で背負う。小さな火の管理責任を促します。


 等級:用心した家ほど掛け金が安い。予防の努力が制度に反映される。


 虚偽排除:嘘や水増しを許さない。制度の信頼を守る。


 しかし、ときに「百年に一度の大火」のような損害が襲うと、森全体でも抱えきれません。ここで登場するのが再保険。小さな共済組織が「滅多に来ないが来たら致命傷」という部分を、より大きな海(市場)に預けるのです。これにより森は日常的な火事に対応でき、海は広いリスク分散で稀な大火を吸収できます。


 つまり保険とは、昨日の炎を今日の数字に変え、明日の生活を燃え残す仕組み。リスクを消すことはできませんが、ルールで切り分け、負担を軽くすることはできる。制度は火を好まない。燃え残る日常を守ることを好むのです。

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