筆を止めて
帝国歴2000年3月10日。神聖旭日連邦帝国首都地球。桜の花が咲き誇る静かな午後。都市気象制御局の調整により、風は穏やかで、空には人工雲一つない澄み渡った青が広がっていた。作家・広瀬クレアは、自宅の書斎で一息ついていた。彼女は今、壮大な歴史戦記小説『新世紀宇宙戦争』の第57話までを書き上げたところで、ふと筆を止めた。細身の万年筆の軸が、指先で軽く回転する。
「……さて。ここで一度、立ち止まってもいい頃合いね」
銀色の髪をゆるく後ろで束ねたクレアは、小さく息を吐いてから椅子を回転させ、壁一面に張り巡らされたホログラフィックスクリーンへと視線を送った。次々と展開されるテキストの海。それは、自らが執筆してきた物語の蓄積。すなわち『神聖旭日連邦帝国』という超大国と、それを取り巻く銀河の激動の歴史であった。
「まるで、千年の記録を綴っているような気分になるわね……でも、これは“史実”なのだから」
クレアの目は、書き上げたばかりの57話の最後の一文に注がれていた。『残された2つのグラスを、アリス総理は寂しげに見つめていた。』その一文が、どこか胸に残る。
「アリス……貴女も、よく耐えたわね」
クレアは立ち上がり、窓辺のティーテーブルへと歩み寄った。ホログラフィックサーヴァントに命じて、アールグレイと焼き菓子を用意させる。彼女にとってこのひとときは、物語と現実を繋ぐ『儀式』のようなものだった。淡い金色の紅茶を口に含みながら、クレアは今までの展開を心の中でゆっくりと再生していった。
帝国歴1500年。
神聖旭日連邦帝国とガフラヤサタ連邦による、銀河規模の冷戦構造。ゼンメホ帝国という鍵となる国家を巡る外交戦。その中で、美貌と知性を兼ね備えたアリス総理と、冷徹ながらも情に厚いエイン外務大臣が動く。
「……そうだった。ノクティア・オルドの作戦成功で、ゼンメホ帝国は直接帝政へと移行したのよね」
ヴァレリア上級指揮官。名前だけでは済まない存在感。彼女が率いる女性だけの精鋭部隊『ノクティア・オルド』は、歴史の裏側で神聖旭日連邦帝国の名誉を守り、幾つもの命運を分ける任務を遂行してきた。彼女たちの存在は今や、帝国諜報機関史の中でも『影の英雄』として語られている。
「でも……本当にそれだけだったのかしら」
クレアは静かに立ち上がり、書棚の中から一冊の古文書を取り出した。それはナタアワタ共和国の外交暗号文書が記された写本。彼女が取材の末に入手した一次資料であった。次に書くのは、陰に潜む国家の、陰にまみれた戦い。ナタアワタ共和国。銀河連邦の心臓部でありながら、ガフラヤサタ連邦との裏の繋がりを持つという暗黒の疑惑。
「次の章の導入にふさわしいわね……ナタアワタ共和国の二重性をどう描くかが、次の焦点になる」
ティーカップを置き、クレアは再び執筆端末の前に腰を下ろした。淡く輝くホログラム・キーボードの前で、彼女はしばし指を止めたまま、目を閉じた。かつてこの銀河で起きた出来事。それは、ただの記録ではなく、今もなお神聖旭日連邦帝国国民たちの魂に刻まれた『生きた歴史』だった。
「アナスタシア女帝、アリス総理、エイン外務大臣……貴方たちの物語は、まだ終わっていないわ。まだ、ほんの序章が終わったに過ぎない」
再び静かにキーボードに手をかけるクレア。視線は、ゼンメホ帝国の戦後処理を経て、ナタアワタ共和国の『仮面の裏側』へと向いていた。
「さあ……続きを書きましょう。今度は、真実の闇を」
静寂の書斎に、響く音。それは未来に向けて語られる、『かつてあった戦争』の記憶を刻む音でもあった。
そして《新世紀宇宙戦争》の物語は、再び深淵へと歩み始める。