女帝、沈黙の檻にて
帝国歴1500年3月6日。ゼンメホ帝国本星の空は、蒼銀の雲がたなびく冷たい朝を迎えていた。煌びやかに磨き上げられた帝都の青白い大理石の宮殿の奥、女帝アナスタシアは静かに窓辺に立っていた。纏うは金糸を織り込んだ深紫の正装。その背に浮かぶ勲章の数々よりも、その瞳の奥に宿る疲弊が、女帝としての日々の重圧を物語っていた。
神聖旭日連邦帝国と結んだ正式同盟を揺るがせる、ゼンメホ帝国議会内の動き。カレヴォス国政院筆頭代理の進める親ガフラヤサタ連邦派の台頭は、もはや無視できない段階に達していた。女帝は何度も議会に出席し、正義と誇りを訴えてきたが、発言は遮られ、忠義を誓ったはずの者たちも、次々と沈黙の壁に吸い込まれていった。
「正義は、こんなにも脆いのか……」
アナスタシアは静かに呟いた。その言葉に答えるように、重厚な扉の向こうから参謀官が報告を持って現れた。
「議員アストリエル閣下が、カレヴォス殿の政策支持に転じたとのことです……」
アストリエル。かつて女帝に忠誠を誓い、親旭日連邦帝国派の要として知られた人物だった。その変節は、アナスタシアの心を深く刺した。
「また一人……」
カレヴォスが放った賄賂と脅迫は、的確かつ非情だった。女帝が築いたはずの信頼の網は、次々と断たれ、ついには、最も信頼を寄せていた重臣さえが、沈黙という名の裏切りに転じた。そして、運命の夜が訪れる。アナスタシアのもとに、カレヴォスが一通の記録映像を持ち込んだ。それは、かつて女帝の家族亡き兄のスキャンダルを映したものだった。
ゼンメホ帝国の軍産企業とガフラヤサタ連邦の間で、闇取引を仲介していた疑惑が浮上した際、アナスタシアは皇族の名にかけて調査を封印していた。
「女帝陛下、これはあなたが『国家のために黙した』記録です。しかし、それが正義と呼べますか?」
カレヴォスは、優雅な所作で端末を操作し、兄が密会していたガフラヤサタ連邦関係者の記録と財務データを提示した。
「これを議会に出せば、あなたは正義を語る資格を永久に失う。だが私の邪魔をしなければ、これは誰の目にも触れない」
アナスタシアは黙ってその映像を見つめた。兄をかばったことは、国家にとって不正義だったのか。彼女の心は葛藤で震えた。
「……これは、脅迫ですか?」
「いえ。選択肢の提示です」
その場を去るカレヴォスの背を、アナスタシアは見送った。そして翌日、彼女は議会に現れなかった。ゼンメホ帝国中枢は、その沈黙をもって『敗北』と受け取った。だが、沈黙の中に、火種は残っていた。彼女の名のもと、数人の若手議員たちが密かに結集し始めた。彼らは信じていた。沈黙は、屈服ではなく、反撃のための溜息なのだと。そしてその夜、神聖旭日連邦帝国首相官邸には、一通の暗号化書簡が届く。宛先は、アリス総理個人。それは、女帝アナスタシアからの切実な訴えだった。
「我が誇りは、沈黙の檻には消えません。正義とは、声を上げずとも灯を失わぬものだと、私は信じています。あなたにだけは、この想いを伝えておきたい」