進退両難
帝国歴1500年2月10日。それは銀河連邦調査団にとっては、ガフラヤサタ連邦駐在最終日であった。鉛のような雲が首都上空を覆い、赤褐色の空をさらに陰鬱に染め上げていた。天候制御装置をもってしても晴天はもはや演出できず、銀河連邦調査団の最終報告は、冷たい空気の中で静かに準備が進められていた。
ナタアワタ共和国、ブレクティア同盟、エリュシオン連合、銀河連邦調査団の代表は、それぞれの視点から現地の視察を終えていたが、いずれも確たる証拠を掴めてはいなかった。ガフラヤサタ連邦によるケタサカ王国の民間人虐殺、強制移住、そして人工飢餓の疑惑。目撃情報はあっても、物証は全て煙のように消されていた。あらゆる足取りはプロの手によって封じられ、言葉にできない『気配』だけが、空間に残滓のように漂っていた。銀河連邦調査団内でただ一人、神聖旭日連邦帝国外務省特任筆頭外交官エインは、その『気配』を鋭く感じ取っていた。
彼女は神聖旭日連邦帝国の希望でもあった。清廉にして才気に満ち、同時に外交という舞台においては冷徹さすら漂わせる人物。漆黒の髪は背中までまっすぐに流れ、瞳は蒼玉のように澄んでいた。細身ながらも凛とした立ち姿からは、内に秘めた強い意志が垣間見える。若き日に軍事外交学院で主席を修めた才媛であり、銀河連邦との交渉でもその名を轟かせた。だが、そんな彼女にも焦りがあった。
「時間が足りない……」
銀河連邦調査団がガフラヤサタ連邦に滞在できるのは、あと数時間。神聖旭日連邦帝国が密かに潜り込ませた諜報員たちも、確たる証拠を掴めなかった。そして9日の夜、一人の諜報員が、連絡を絶ったまま帰らぬ人となった。その報告が、今朝早く宇宙軍遠征隊隠密局(ECAD)からエインの手元に届いた。内容は暗号化されていたが、解読された文面には震える手で書かれたような言葉が並んでいた。
「内部の何かを見た。だが、監視は二重三重に張り巡らされている。証拠の記録も消される。おそらく……これが最後になる。」
そして、文末にはECADの暗号署名とともに『対象、消失』との一行が添えられていたのである。
諜報員は発見された。だが、発見したのは神聖旭日連邦帝国ではなく、敵ガフラヤサタ連邦だった。ガフラヤサタ連邦統合政府議長ゲルマヴァルドは即座にその『証拠』を握り、自らの政権の正統性を主張し始めた。
「神聖旭日連邦帝国は銀河連邦調査団を利用して我が国を監視し、主権を侵害した。諜報活動は明白な侵略行為である」と、銀河連邦への強い抗議文が送られたことが、エインのもとにも伝えられた。エインは静かに息を吐き出した。薄暗い銀河連邦調査団宿舎の自室、スクリーンには敵の報道官が神聖旭日連邦帝国を糾弾する声明を読み上げている。特任筆頭外交官エインは口元に手を当て、黙した。
「次の一手が必要……けれど、どう動く……?」
これまでの自分ならば、交渉と威圧、法理と大義で打ち破ってきた。だが今回は違った。証拠はない。味方の戦士は命を落とした。そして、敵の策はあまりにも周到だった。ふと、彼女の心にある考えが浮かんだ。自らが『駒』になる。敵の親玉ゲルマヴァルドに接近し、懐に入り込み、意識の隙間を突く。情報を奪う為に、自らを犠牲にする。
その瞬間、彼女は唇を噛んだ。
「……違う」
それは、神聖旭日連邦帝帝国の理想に背くことだった。神聖旭日連邦帝国がこの戦いを『正義』と信じるならば、どこまでも清廉でなければならない。一線を越えれば、己の信じる理想までが瓦解する。そして何より、死んだ仲間の犠牲を『穢す』ことになる。
「……私たちは『嘘』では勝たない」
立ち上がったエインは、外套を羽織り、鏡に自分の姿を映した。美貌ではなく、その目に宿る『決意』こそが、神聖旭日連邦帝国の矜持だった。夜の帳が降りる。彼女は宿舎を出て、銀河連邦調査団最後の作戦会議へと向かった。静かな歩みの先に、希望の光があると信じて。