第一話:天変地異、梁山漂流
第一話:天変地異、梁山漂流
緑深き梁山の頂きに、今日も百八の星が揃い踏みする。天罡星三十六、地煞星七十二、彼らが集いし梁山泊は、かつてないほど隆盛を極めていた。武を極める者、智を磨く者、技を競う者、財を築く者。それぞれの持ち場で、多様な輝きを持つ百八の個性が、梁山泊という巨きな山塞を、強固な組織として支えていた。宋江は、この平和な日常と、この集団を率いて朝廷への帰順を叶えたいという自らの理想を思い、安堵の息をついた。彼にとって、それは「義」を示す唯一の道であった。
その時だった。
突如、晴れ渡っていたはずの空が、不気味な色に変色した。それは、見たこともない色彩が混ざり合う、異様な光景だった。血のような赤、不浄を思わせる紫、凍えるような青、そして邪悪な金。それは、絵の具をぶちまけたように空全体を覆い尽くしていく。異常な轟音が腹の底に響き、大地が激しく揺れる。建物が軋み、湖面が煮えくり返る。
「な、なんだ!」「空が!」「揺れだ!」
騒然となる梁山泊。人々は立ちすくみ、武将たちは本能的に得物を構える。宋江は胸騒ぎを覚え、慌てて天を見上げた。
「これは…一体…!」
異変は天だけではなかった。強烈な光が地上を覆い尽くし、全ての輪郭を曖昧にする。肌を焼くような熱、耳をつんざく高音、平衡感覚が失われる浮遊感と落下の繰り返し。空間そのものが捻じ曲がるような不快感。それは、世界の終わりを思わせる、形容しがたい感覚であった。
公孫勝は、天を見つめていた。彼の目には、ただならぬ天の気の乱れが映る。星の動きが狂奔し、天脈が歪む。それは、この世の理が捻じ曲げられるような、おぞましい感覚。何か、人知を超えた力が…我々を…まるで、抗えない運命の奔流が、梁山泊という存在を掴んで離さないかのようだ。
どのくらいの時間が経ったのか。光と音が引き、意識が浮上する。重たい瞼を開けると、そこは全く見知らぬ場所だった。
目に映るのは、ひび割れた乾燥した赤茶けた大地。遠くに見える、鋸の歯のような険しい山並み。頭上には、先ほどまでの不気味な空ではなく、やけに強い日差しが容赦なく照りつけている。空気は異常に乾燥し、鼻の奥がツンとする。嗅いだことのない、乾いた土と埃、そして奇妙なサボテンのような草木の匂い。吹きつける風は、肌を刺すように冷たい。豊かな水辺はどこにもなく、緑もまばらだ。荒廃し、資源も乏しい土地であることを予感させる。いつもの梁山泊の建物も、湖も、そこにはなかった。
「…ここは…?」誰かが掠れた声で呟く。
周囲に散らばる仲間たちが、呆然とした表情で立ち尽くしている。何が起こったのか、誰にも分からない。
「なんだ…?ここはどこだ…?」李逵が、双斧を持ったまま辺りを見回した。困惑と、状況が理解できない狼狽。いつもなら騒ぎ出す彼だが、この時ばかりはただ戸惑っている。しかし、どこかその異常な光景に、微かな好奇心と面白さを見出しているようにも見えた。
宋江は、立ち尽くしたまま、その光景に言葉を失っていた。リーダーとして、この混乱を収めねばならない。だが、目の前の非現実的な状況に、思考が追いつかない。自分が「義」を示すべき対象として心に描いていた、遥か彼方にあったはずの朝廷。そして、慣れ親しんだ仲間たちの「家」、梁山泊。その全てが、この場所にはない。理想が崩壊し、拠り所を失ったかのような喪失感。茫然とした瞳で、ただ目の前の異質な世界を見つめる。
呉用は、冷静さを保とうと努めていたが、その内面に焦りが募る。周囲の地形、植生、空気…あらゆる情報を読み取ろうとするが、全てが未知だ。彼は既に、尋常でないことが起こったことを悟っていた。そして、それは彼自身の知略をも超えた、理解不能な出来事であることも。
魯智深は重い錫杖を地面に突き立て、周囲を鋭く警戒している。その厳めしい表情の奥には、困惑と、この異常な事態をどう受け止めるかという思案の色が見える。武松は冷静に構えを取り、遠くの景色に目を凝らした。彼の研ぎ澄まされた五感が、この地の異常さを肌で感じ取る。彼らなりの「義」の基準が、この世界でどうなるか、彼らが求める「義」がどこにあるのか、無意識に探しているかのようだ。彼らは多くを語らないが、その存在が周囲に静かな緊張感をもたらしていた。
他の梁山泊メンバーも、それぞれの反応を見せていた。情報収集の者たちは、この異常な状況下でも、本能的に周囲の状況を把握しようと努める。技術者たちは、何が起こったのか理解できず、施設の安全を確認せねば、と慌てる。医療班は、怪我人はいないかと確認を始める。水軍衆は、水場がないことに戸惑いを隠せない。多様な梁山泊の面々が、それぞれの形で、この異変に直面していた。彼らは皆、自分たちの知る世界から切り離されたことを悟りながらも、梁山泊という集団として、この状況に対応しようとする、本能的な生命力と対応力を見せていた。
遠くの地平線に、人影が見えた。肌の色は異なる者、獣の毛皮や奇妙な金属の飾りを纏った者、あるいは粗末な布を纏った漢人らしき者たち。彼らもまた、梁山泊の突如の出現に驚愕しているようだった。彼らの発する言葉(のような音)は、梁山泊の誰にも理解できない。それは、異文化との最初の明確な接触であり、コミュニケーションの壁であった。そして、彼らの表情が、驚きから警戒、そして獲物を見つけたかのような欲望と敵意へと変わっていくのが分かった。彼らの手には、弓や槍が握られている。
ここは一体どこだ?何が起こった?そして、言葉も通じぬこの異郷で、我々は何と戦うことになるのだろうか?
異郷の大地に、梁山泊の百八の星が、新たな風雲の予感の中で、立ち尽くしていた。最初の敵意を向けられながら。その強大な力と、計り知れない未来を胸に。