7 物質の姿
7 物質の姿
(ちらし) 量子力学では大事な実験事実が無視されていると思われる
エナァジ・物質・観念・存在の概要
(ちらし) 量子力学では大事な実験結果が見逃されている
(ちらし) 二重スリトゥ実験で示唆される波動
(ちらし) 二重スリトゥ実験により実証されしこと
(ちらし) 二重スリトゥ実験の変形の提案
(ちらし) 物質の存在様相
電子の波動は、抽象的なものでなく、物理的である
二重スリトゥ実験の変形の提案
(余談) 観測問題はもう二重スリトゥ実験により解決している
観測という物理事象
《 (ちらし) 量子力学では大事な実験事実が無視されていると思われる 》
1) 量子力学では大事な実験事実が無視されている
2) 粒子が固形物であることはまだ実証されてはいない
3) 私たち人間は物を直接知覚しているわけでない
................
1) 量子力学では大事な実験事実が無視されている
量子力学では、二重スリトゥ実験による大事な実験事実が、無視されている、または、見逃されている、と思われます。その事実とは、簡単に言えば、次のようなことです。
i) 物質(素粒子・量子)の波動は、ほかの物質と物理的相互作用を果たしうる物理的実体である。
ii) 電子などの物質(素粒子・量子)は、ほかの物質とのあいだに物理的相互作用が生じるときは粒子様の様相になり、単独で存在するときは波動の様相になる。(どちらの様相も、物質の構成要素であるエナァジにより直接体現される、と予想される)。
これらの実験事実は、エナァジと物質から物理学と量子力学への贈り物のようなものです。
(ちなみに、二重スリトゥ実験に関しては、ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの実験も実施されましたが、その実験結果からは、上記の事実がモーアァ適切に判断されます。なぜなら、存在様相がまさに飛翔中に切り替わるからです。干渉縞がぼやけるのは、そのためです)。
そして、こういう実験事実が量子力学で無視されているのは、次のような理由による、と思われます。
- もしかして、実験で検証されるまえに理論だけが先行しすぎていつのかも知れぬ。
- 恐らく、固形物・固体・粒子が存在するという私たち人間の思いこみが根深すぎる。
しかし、二重スリトゥ実験での重要な実験事実が無視されているということは、人に、物質の本当の姿や様相を誤解させることになるゆえに、とても深刻なことと思います。
2) 粒子が固形物であることはまだ実証されてはいない
ビグ バン理論によれば、ビグ バンではこの宇宙と物質を形成する無限量のエナァジだけが噴出しました。固形物は一切噴出してはおりません。
そして、同様、ビグ バン理論によれば、エナァジは、体積なくて、無形でありて、質量がなく、物質ではないと判断されます。エナァジはこの宇宙と物質の活動の唯一の原動力ですが、エナァジ自身はそういう不思議なものなのです。
そして、ビグ バン直後、素粒子は、無数のエナァジの融合により形成されましたが、どれだけ沢山の体積ないエナァジが凝集しようとも、それは、内部が例えは固形物の量子のようなもので満たされる固形物には決してなりえないです。
たとえば、物理的な実験により観測されるのは、粒子様の痕跡ばかりです。粒子が固形物であることが実証されしことはまだないのです。
この宇宙に固形物は一切存在しないです。物質は無数のエナァジの統合的集合体と予測されます。
(二重スリトゥ実験での波動は、物質を形成する無数のエナァジにより直接形成される、と予測されます。波動の干渉は、それらのエナァジにより直接起こされるです)。
このゆえ、この宇宙や物質は、厳密な意味で、完全に真空です。しかし、その真空は、体積なくて物質ではないエナァジで満たされているのです。
3) 私たち人間は物を直接知覚しているわけでない
私たち人間はサイズの大きな世界に住んでおりますが、私たちに知覚される固体性は、物質に創発しし機能の働きの写像と思われます。
たとえば、明かりを消すと物は見えなくなりますが、これは、まさに、私たちが光を通しての写像を見ていることを意味します。
また、物を押すと押しかえされますが、ここで、私たちは、物質そのものではなくて、物質が押しかえす力を感じているのです。それは、物質に創発する押しもどし作用の働きそのものです。(もっとも、これは写像でさえないですね。これは物質にそなわる作用の働きそのものですね)。
いずれにしても、私たち人間は、固体を直接知覚しているわけではないのです。(粒子が直接観測できないのと同様、固体も直接知覚することは不可能です。なぜなら、物質の構成要素であるエナァジは、体積なくて、無形でありて、質量がなく、物質ではないからです。これは、また、物質、たとえば電子の波動が、直接には観測できないことの理由でもあります)。
《 エナァジ・物質・観念・存在の概要 》
1) エナァジ・物質・物理的作用
2) 観念と存在
................
1) エナァジ・物質・物理的作用
ビグ バン理論によれば、エナァジは体積なくて非物質的と評価されます。つまりエナァジは物質ではないのです。エナァジは、それ自身が物理的であり、かつ、この宇宙の物理性の源であるにせよ、そういう不思議なものです。
そして、そういう不思議なエナァジの本性は一人称の主体の物理的作用です。なにしろ、エナァジは、この宇宙における全ての物理現象の根本的原動力であり、かつ、体積なくて、無形でありて、質量がなく、物質ではないゆえに。エナァジは物理的作用そのものでなくてはならないのです。(「エナァジ」は物理的作用の簡便な別名とも言えます)。
(ちなみに、エナァジは、普通、外的な機能を果たしますが--それが私たちが普通に考えるエナァジの働きです--、それはエナァジに具わる内的な機能の動作の外的な現われと思われます。そして、エナァジの内的機能を果たすものが、エナァジの本性である物理的作用です。
ちなみに、さらに、エナァジに具わる物理的作用は一人称の主体です。そして、物理世界であるこの宇宙において、一人称の主体であるものは、エナァジの物理的作用・エナァジから物質に継承される物質の(内的)物理的作用・意識の正体である観念的作用(= 自己状態測定作用(身体感覚作用)+ 自己次期状態操作演算作用(思考作用・設計作用))だけと思われます)。
さらに、同じくビグ バン理論によれば、物質(素粒子)は、無数のエナァジの統合的集合体と評価されます。
さらにビグ バンで固形物(の量子)は丸きり噴出しはしませんでした。
物質(素粒子)は、ビグ バンのインフレイション膨張のさいに、無数のエナァジの融合--固化の相転位--により形成されました。
(このことから、エナァジには、自己創発作用(または、自己融合作用)が具わりている、と評価されます。なぜなら、インフレイション膨張での超高温と超高密度の劇的な低下のさいに、バラバラのエナァジは、融合することなしに、そのまま別べつに拡散すれば良かりしはずだからです。それが自然です。
まず、物質におき、無数のエナァジは固く糊づけされているわけでない、と思われます。存在するのはエナァジだけであり、糊は存在しないです。そもそも、体積なくて非物質的なものを糊づけすることは不可能です。
さらに、物質の形態的様相はここではまだ分かりません。
しかし、物質は、無数のエナァジの統合的集合体と思われます。そして統合的集合体は1個の秩序です。
しかし、エントゥロピーは増大するという熱力学第二法則により、なんらかの根拠ないし原因もなく、秩序が自発的に形成されることは有りえないです。物質という秩序が形成されるためには、熱力学第二法則をものともしない原因が不可欠です。
そして存在するのはエナァジだけです。無数のエナァジを1個の秩序にまとめあげられるようなものは、エナァジ以外、存在しないです。
このゆえ、無数のエナァジは、自分らに具わる何らかの働きにより自分らで融合していると、推測されます。その働きが自己創発作用(または、自己融合作用)と思われます。
(ちなみに、自己創発作用は、言わば、より高度な物理的秩序を形成しようとする作用、と言えます。そして、物理的秩序には、物質的秩序と観念的秩序があります。たとえば、思考は、高度な観念的秩序です)。
(ちなみに、さらに、エナァジの自己創発作用は、(インフレイション膨張での)系のエントゥロピー生成速度の減少により活性化される、と予想されます。
ただ、エナァジの自己創発作用の活性化にては、まず、無数のエナァジにわたる大きな無生物の知性--言わば、無生物の物質意識--が形成される可能性が考ええます。その知性によりて、現在の自己状態の観測と次の瞬間の自己状態と操作の設計が実施されるかも知れません。そして、その設計にもとづき、無数のエナァジの自己創発(融合)が果たされるかも、知れません))。
そして、エナァジに体積ないですが、物質には体積があります。
(このことから、エナァジには、体積構成作用と押しもどし作用が具わりている、と評価されます。エナァジが融合するさい、互いのあいだに少し距離を空けるなら、それで体積は構成できるです。さらに、構成しし体積表面に押しもどし作用も具われば、それで、見掛けじょう、物質は構成できます。ちなみに、押しもどし作用は作用反作用の法則の源と思われます)。
加えて、物質は、ひろい意味で、無数のエナァジからなる振動子と推測されます。
こういうことゆえ、厳密な意味で、物質やこの宇宙は完全に真空です。
物質は決して固形物ではないのです。固形物や固体という代物は、本質的に存在しえないです。それらは、エナァジの物理的作用により醸しだされる見掛けじょうのものにすぎません。大きなサイズの世界にすむ私たち人間や生物にとり、固体や粒子は、エナァジの物理的作用の働きをとおして得られる写像・痕跡・または影のようなものです。あるのはエナァジの物理的作用です。物質や固体性は、言わば、エナァジの物理的作用という根拠ある、巨視的な印象ないし幻想のようなものです。
ちなみに、物理的作用という不思議な働きは、体積ある物質(固形物・固体・写像)には決して果たしえぬ、と予想されます。物理的作用という不思議な働きは、やはり、同様、不思議なものであるエナァジでないことには決して果たしえぬ、と思われます。
ちなみに、さらに、物質を直接検出(観測)することは不可能です。そういう手段はありません。(もしも物質が直接検出できるとするならば、それは超能力です)。物質は、かならず、物理的相互作用を経由して、写像として、間接的に観測する他はないのです。(例えば、私たちは、普通、光をとおして物を見ています。そして、明かりを消すと、物は見えなくなります--観測できなくなります--)。
まず、エナァジは体積なくて非物質的なので、エナァジを直接観測することは根本的に不可能です。エナァジの存在は、様ざまな物理現象をとおし間接的に推測する他はありません。
また、物質も、厳密な意味で真空なので、それを直接観測することも不可能です。私たちは普通には物質を直接観測しているよう思われるにしても、物質も、実際には、物理的相互作用とその働きにより得られる(残される)痕跡をとおし、写像として、間接的に観測できるばかりです。
2) 観念と存在
そして、さらに、ビグ バン理論から、物質やこの宇宙が被造物であり派生物であることは明らかです。そしてそれらの存在の源であるエナァジは体積なくて非物質的です。存在とは、元来、そういうもの--体積なくて非物質的--かも知れません。
たとえば、真理は、無条件に存在する、と評価できます。そして真理は合理的で論理的です。そして、合理性や論理性は、それらの源が一体どこにあるかという点で、ある意味、不思議なものですが、そもそもそれらが存在の核かも知れません。
そして真理という観念は体積なくて非物質的です。さらに、真理という観念は、場所や時間に拘束されることもありません。こういう真理のように、物質性や場所に拘束されずかつ無条件に存在しうるものであることが、存在の本来的な様相かも知れません。それがどういうものであるか詳しいことはここではまだ分からないにせよ、真理が存在の原点かも知れません。
(そして、エナァジは、体積なくて非物質的という点で、むしろ、観念の一種のようなもの、と位置づけられるかも、知れません。
観念には複数種類があると予想されます。その原点が真理かも知れません。たとえば、仏国の哲学者のベルクソンによる「無は存在しない」という命題は真ですが、それは「なにかが存在しなくてはならない」ということを含意します。そして、この含意には、存在にかんし、妙な強制力が具わりている、と思われます。この命題は、存在についての基礎命題と評価できるかも、知れません。なぜならこの命題はまさに存在につき述べているからです。
そしてエナァジはそれ独自の観念かも知れません。エナァジの本性である物理的作用の機能の仕様を表現するような観念が、エナァジの大元の観念かも知れません。それが何故か振動しはじめしことで、それが物理的なものであるエナァジになりつかも知れません。
このエナァジ独自の観念は、私たちが普通に想起する観念と区別するため、たとえば、物理的観念・動的観念・または自己動作観念などと呼べるかも知れません)。
他方、物質性や場所、言わば物理性は、真理などの観念からの派生物、と評価できるかも知れません。言わば物理性は観念に立脚するのです。
私は意識を基本的なものと見なしています。私は物質を意識から派生したものと考えます。私たちは意識を後追いすることはできません。私たちが話すものすべて、私たちが存在すると見なすものすべてが、意識を前提としています。(マクス プランク)
《 量子力学では大事な実験結果が見逃されている 》
二重スリトゥ実験におき、波動が2つに分割されるのは、どうしてでしょう?
波動が2つに分割されるということは、その波動が二重スリトゥと物理的相互作用を果たすということを意味すると、思われます。そして、波動が二重スリトゥと物理的相互作用を果たすということは、その波動が、たとえばガイドゥ波のような抽象的で不思議なものでなく、物理的なもの、つまりエナァジで直接体現される物理的な実体であることを意味すると、思われます。
量子力学はこの意義ぶかい実験事実を見逃している、と思われます。
物質の波動と粒子は同時には存在しないです。物質は、相互作用の発生にしたがい、波動の形態か粒子様の形態のどちらかで存在する、と思われます。そして、これは、根拠ない想定でなく、実験事実です。(なぜ粒子様の形態なのかは、ビグ バン理論によれば、厳密な意味で、この宇宙に固形物(固体)は存在しないからです)。
そして、二重スリトゥ実験では、物質の構成要素であるエナァジが自分らで直接に波動の干渉を起こす、と思われます。
さらに、「波動と粒子の二重性」より「波動と粒子の切り替わり」がより事実に近いと思われます。
《 (ちらし) 二重スリトゥ実験で示唆される波動 》
電子の二重スリトゥ実験では、背後の感光板に無数の点の痕跡からなる縞模様--波動の干渉縞--が形成されます。
しかし、干渉縞が形成されるためには、電子についての何らかの波動は事前に2つに分割される必要があります。
波動が2つに分割されるのは、どうしてでしょうか?
波動が2つに分割されるためには、それは、ほかの物質と物理的相互作用を果たす必要があります。
つまり、干渉縞が形成されつということは、まず、飛翔している電子についての何らかの波動が、直接には観測できないにしても、負に帯電している二重スリトゥと相互作用を果たし、それにより、2つに分割されしことを、意味します。そして、その波動が二重スリトゥによりて2つに分割されつということは、その波動が物質--二重スリトゥが帯びている負電荷--と非接触型の物理的相互作用をしつ、ということを意味します。
そして、その波動が物質と相互作用を果たしつということは、それが、抽象的なものでなく、物理的なものであることを、意味します。
つまり、二重スリトゥ実験におき間接的にその存在が示唆される電子についての何らかの波動は、ほかの物質と物理的相互作用のできる物理的実体です。
そして、このことからは、電子は、単独で真空中を飛翔しているあいだ、(それを直接観測することは不可能であるにせよ)、波動の状態にある、と推測されます。二重スリトゥ実験におき間接的にその存在が示唆される波動は、波動の状態にある電子そのものと、思われます。
信じがたいかも知れませんが、物質は、ほかの物質と相互作用をしなく、(1個の量子として)単独で存在するあいだ、幅のある空間にひろがる波動の様相をとる、と推測されます。これは、根拠ない想定でなく、実験事実です。二重スリトゥ実験は、こういうことを間接的に実証していると、評価できます。
そして、二重スリトゥ実験におき間接的に示唆される波動が物理的なものであることは、物質の基本的な成りたち--物質が、基本的に、無数の、体積なくて非物質的なエナァジの統合的集合体であること--と矛盾はしない、と思われます。
波動の様相は、無数のエナァジからなる振動子としての物質が取りうる様相の1つです。ほかの物質とのあいだでの物理的相互作用の有無による違いは、物質が、波動の様相にある振動子であるか、または、粒子様の様相にある振動子であるか、です。
(粒子が、実際には、無数のエナァジの、粒子様の、統合的集合体であることは、ビグ バンでは固形物(の量子)は丸きり噴出しなく、この宇宙には、厳密な意味で、固形物(固体)としての粒子が存在しないことと、整合します)。
《 (ちらし) 二重スリトゥ実験により実証されしこと 》
二重スリトゥ実験は以下のことを実証・発見・または示唆しつと、評価されます。
A) 二重スリトゥ実験におき、1個の量子としての物質は、波動の形態で真空中を飛翔する。
B) 二重スリトゥ実験におき、1個の量子としての物質が波動の形態で真空中を飛翔するあいだ、構成要素の無数のエナァジが自分らで波動の干渉を起こす。(この宇宙には、厳密な意味で、体積なくて非物質的なエナァジだけが存在し、固形物(の量子)は一切存在しない。物質はそのエナァジにより直接に構成される)。
C) 1個の量子としての物質の波動は、(エナァジで体現され、かつ、ほかの物質と相互作用のできる)物理的実体である。
D) ある1個の物質の全体が1個の量子であるときに、その物質は、状況におうじ、粒子様の様相と波動の様相のどちらかを取る。1個の量子としての物質は、ほかの物質と相互作用をしているあいだ、粒子様の様相を取る。他方、それは、ほかの物質と相互作用をしなく、単独で存在するときは、波動の様相を取る。1個の量子としての物質が両方の様相を同時に取ることはない。
これらは驚くべきことですが、固定観念なしに、実験結果を自然科学の平易な観点から評価するなら、こういうことが見てとれるです。
(ここで、固定観念とは、物質が粒子であるということです。しかもその粒子は固形物です。しかし、そもそも、ビグ バンで固形物は噴出しておらず、この宇宙に固形物は存在しないです)。
そして、これらのことは、物質の基本的な成りたち--物質が、基本的に、無数の、体積なくて非物質的なエナァジの統合的集合体であること--と矛盾はしない、と思われます。
さらに、二重スリトゥ実験は、物質が無数のエナァジの統合的集合体であることも間接的に実証しつ、とも言えるかも知れません。
(なぜなら、物質は、1個の量子として単独で存在するあいだ、波動の形態を取るからです。もしも物質が固形物なら、こういうことは不可能です。物質は、それが無数のエナァジの統合的集合体であるからこそ、即座に波動の形態に切り替われる、と思われます)。
また、これらのことに理由は必要ないと思われます。物質はそういうものです。それが現実です。
《 (ちらし) 二重スリトゥ実験の変形の提案 》
物質の構成的な様相などを明らかにするための試みの一つとして、次のような、二重スリトゥ実験の変形が考えられます。(この実験は、干渉縞を観測することは目的とはしないです)。
二重スリトゥ実験におき、スリトゥの向こうの左の空間と右の空間を完全に遮断して、二つに別れし波動がもはや一つに合流できないようにする。
結果は予測がつきませんが、物質の構成的な様相などにつき、なんらかの新しい知見が得られるかも知れません。
(ちらし) 物質の存在様相
1) 物質についての何らかの波動は物理的
2) 物質の存在様相
3) 物質は無数のエナァジの統合的集合体
4) エナァジの存在様相
5) 観測できないものも物理的でありうる
6) ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの二重スリトゥ実験
7) この宇宙に固形物・固体・粒子は存在しない
8) 真理という観念だけが無条件に存在できると思われる
9) ビグ バンで噴出ししもの
10) 物質の固体性はエナァジの働きの写像
11) 粒子様の様相か波動の様相のいずれか
12) 二重スリトゥ実験の変形の提案
13) 量子力学では物質についての重要な実験事実が無視されていると思われる
................
1) 物質についての何らかの波動は物理的
二重スリトゥ実験におき、電子についての何らかの波動が2つに分割されるのは、どうしてでしょう? それは、その波動が物理的なものだからです。
2) 物質の存在様相
(意識とは丸きり関わりなしに)、電子などの物質(素粒子・量子)は、ほかの物質とのあいだに物理的相互作用が生じるときは粒子様の様相になり、単独で存在するときは波動の様相になる、と判断されます。これは、電子での二重スリトゥ実験で実証されている実験事実です。
なぜなら、電子についての何らかの波動は、二重スリトゥの物質と物理的相互作用を果たすゆえ2つに分割されるからです。そして、ほかの物質とのあいだに物理的相互作用が生じるということは、その波動が物理的なものであることを紛れもなく実証しています。(これはごくシンプルな実験事実です)。
3) 物質は無数のエナァジの統合的集合体
電子などの物質は、まず、無数のエナァジで構成される統合的な集合体と評価されます。なぜなら、この宇宙には、ビッグバン理論によるならば、厳密な意味で、エナァジだけが存在するからです。
4) エナァジの存在様相
しかも、エナァジは、体積がなく、無形でありて、物質ではないと評価されます。
5) 観測できないものも物理的でありうる
このゆえエナァジやエナァジで構成される波動を直接観測することは不可能です。しかし、たとえ何かが物理的に観測できないにしても、それが、物理的なものではないとは限らないです。それが、量子力学で想定されているように、抽象的なものであるとは限らないです。
その意味で、単独で飛翔している電子が観測されしこともありません。粒子と想定される電子さえ、直接観測されてはいないです。(実際のところ、これも観測できないと予測されます)。観測されるのは、粒子様の痕跡だけです。つまり、観測に基づくならば、どのようなものが飛翔しているかは分からないです。粒子が飛翔していると即断することはできないのです。(そして、なにかが観測できないにしても、それが物理的ではないとは必ずしも評価できないのです)。
6) ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの二重スリトゥ実験
ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの二重スリトゥ実験も実施されました。そして、その実験では、残されし干渉縞がおぼろになりしそうです。
しかし、その結果からは、飛翔するものが物理的な波動であることが即座に判断できるくらいです。
なぜなら、干渉縞がおぼろになりしことからは、飛翔するものが波動でありて、それが飛翔の途中で粒子様の様相に切り替わりつと判断できるからです。途中でもう波動でなくなれば、干渉が起きず、干渉縞が薄れることは、自然でありて合理的です。
つまり二重スリトゥ実験で真空中を飛翔する電子(物質)は波動の様相にあるのです。
7) この宇宙に固形物・固体・粒子は存在しない
こういう次第で、この宇宙には、厳密な意味で、固形物・固体・粒子は存在しないです。
体積ないエナァジをどれだけ多く凝集させようと、固形物ないし固体が形成されることは有りないです。そもそも固形物が存在することは不条理です。理由がないのです。固形物が存在することは合理的ではありません。体積なくて物質ではないものだけが存在できる、と推測されます。
8) 真理という観念だけが無条件に存在できると思われる
真理という観念だけが無条件に存在できると思われます。なぜなら真理の存在には妙な強制が感じられるからです。真理が存在の源の候補の1つかも知れません。ちなみに、真理は、時間や空間に拘束されることがありません。
9) ビグ バンで噴出ししもの
仮に固形物が存在するとして、その構成要素はなんでしょう? そもそも、ビグ バンにおき、固形物の量子は少しも噴出しなかりきです。ビグ バンにおき、無限小の点から、無限量の固形物が、一瞬のうちに噴出する、ということは、有りえないです。もしも、ビグ バンにおき、無限小の点から何かが噴出できるにしても、それは必ず体積ないものでなくてはなりません。それが体積なくて物質ではないエナァジです)。
10) 物質の固体性はエナァジの働きの写像
私たち人間が感知する物質の固体性は、エナァジにそなわる機能の働きの投影ないし写像です。
11) 粒子様の様相か波動の様相のいずれか
物質は、ほかの物質とのあいだの物理的相互作用の発生の有無におうじ、粒子様の様相か、波動の様相の、いずれかを取るのだろう、と評価されます。(これもシンプルな実験事実です)。物質とはそういうものなのでしょう。
12) 二重スリトゥ実験の変形の提案
ちなみに、2つに分割させし電子の波動を、二度と1つに合流させないようにする、という、二重スリトゥ実験の変形が考ええます。結果の予測は難しいですが、どのような結果が生じるかは興味ぶかいです。電子についての何らかの波動が物理的なものであることが明快になるかも知れません。または、物質の存在様相についての何らかの新しい知見が得られるかも知れません。
13) 量子力学では物質についての重要な実験事実が無視されていると思われる
量子力学では物質の存在様相についての極めて重要な実験事実が、無視されている、または、見逃されている、と思います。もしかして、実験で検証されるまえに、理論だけが先行しすぎていつのかも知れません。そして、恐らく、固形物・固体・粒子が存在するという私たち人間の思いこみが根深すぎるかも知れません。(もっとも、物質の波動を直接に観測することは不可能ですが。なぜなら、それは、体積なくて物質ではないエナァジで構成されるからです)。
《 電子の波動は、抽象的なものでなく、物理的である 》
1) 1個の電子の波動は物理的なものと評価される
2) 二重スリトゥ実験により実証されしこと
3) 二重スリトゥ実験の結果についてのもう一つの評価
4) そのほかの二重スリトゥ実験
5) 二重スリトゥ実験の変形の提案
6) (余談) 観測問題はもう二重スリトゥ実験により解決している
................
1) 1個の電子の波動は物理的なものと評価される
電子での二重スリトゥ実験では、背後の感光板に点の痕跡(写像)からなる干渉縞が形成されます。そして、この干渉縞により、発射されし電子(物質)が真空中を飛翔しているあいだ、その電子についての何らかの波動がその電子に伴いている、または、その電子が波動の様相になりていることが、示唆されます。
しかし、この時点では、その波動がどういうものであるかは、まだ知ることができません。そして、これまで量子力学で考えられてきしように、その波動が、量子状態という情報(観念)で形成される観念的で抽象的な波動である可能性は、否定はできません。
しかし、その波動は、残される干渉縞という痕跡から判断されるように、波動の干渉を起こしています。
しかし、この時点でも、その波動がどういうものであるのかは、必ずしも判断できません。なぜなら、これはとても考えづらいことですが、観念的で抽象的な波動も物理的に干渉しうるかも知れないからです。
しかし、干渉を起こすには、波動は、少なくとも、その前に、2つの部分に分割される必要があります。
波動が2つに分割されるのは、どうしてでしょうか?
波動が2つに分割されるためには、その波動は、物質で形成される実験装置の二重スリトゥの部分と物理的相互作用を果たす必要があります。それは不可欠です。
そして、波動が物質と物理的相互作用を果たすということは、その波動が物理的であることを、紛れもなく意味します。
つまり、波動が2つに分割されるのは、その波動が、物理的であり、ほかの物質と相互作用を果たすことができるからです。
さらに、背後の感光板に干渉縞としての痕跡を残せるならば、飛翔しているものは、二つに分割されて干渉を起こしうる波動でなくてはなりません。さらに、それは、痕跡を残すため、少なくとも、感光板と物理的相互作用を果たしうる物理的実体でなくてはなりません。このことからも、飛翔しているものが物理的実体としての波動である、と評価されます。そして、その波動は、波動の様相にある電子(物質)そのものと、推測されます。
(エナァジは体積なくて非物質的ゆえに、もしもその波動がエナァジにより直接形成されるなら、その波動を直接観測することは不可能です。このため、上記の評価は間接的な解釈ということになりますが、そういう解釈が、いちばん簡単であり、オカムの剃刀の指針にも適合する、と思われます。
オカムの剃刀の指針は、思考節約の法則などとも呼ばれます。次のようなことを表明しています。「説明するため必要以上に多くの仮定を用いるべきでない」。または、「説明する理論・法則は比較的に単純なほうがよい」。
真理はつねに単純さのなかに見いだされ、物事の多様性や混乱のなかに見いだされるものでない。(アイザク ニュートン卿))
残される痕跡が粒子のものであることはまた別のことです。なぜなら、感光板に残される粒子の痕跡は、衝突まえに真空中を飛翔していしものもそういう形状でありしことは、必ずしも意味しはしないからです。衝突時、電子の様相に瞬時の切り替わりが起こりし可能性は十分考ええます。その可能性を否定するものは何もありません。
(電子の波動の様相が、ほかの物質との相互作用のさいに粒子様の様相に切り替わることは、ディコウヒヤレンスを起こすタイプの二重スリトゥ実験におき、間接的ながら、端的に実証されている、と評価できます。なぜならその実験では干渉縞がおぼろになるからです。このことは、波動が、真空中を飛翔しているあいだ、ディコウヒヤレンスを起こすための物質と相互作用を起こすことを、紛れもなく意味します。(このことについても、こういう解釈がいちばん簡単であり、オカムの剃刀の指針にも適合します))。
物質は、無数のエナァジの統合的な集合体ですが、堅く糊づけされているわけでなく、みずからに具わる何らかの機能によりて統合的に集合しているのです。このゆえ、物質は、場合によりては--たとえば、ほかの物質と相互作用をしなく、単独で存在しているときなどに--、構成要素のエナァジが幅のある空間に分散する波動の形態になりうるかも知れません。(なぜなら、物質は、単独で存在するあいだ、その物理量を確定させる必要はない、と思われるからです。物質の物理量は、ほかの物質と相互作用をするさいに確定すれば、それでいいのです)。
二重スリトゥ実験は、物質--量子、フラリーン分子も含む--は、単独で存在するあいだ、幅ある空間にひろがる波動の形態になることも示しつ、とも評価されるかも知れません。
つまり、電子(物質)の波動は物理的実体です。
ここまで来ると、波動が直接には観測できないことは問題ではありません。
物質の波動は、量子状態という情報(観念)で形成されて、波動関数で定式化される観念的で抽象的なものでなく、物理的です。
光電効果やコムプトン効果をもたらしうる光子・物質波動(ドゥ ブロイ波)・二重スリトゥ実験で示唆される波動にかんし、それらが直接観測できぬにしても、そこに存在するものの候補として、エナァジで直接体現されて他の物質と相互作用をしうる物理的実体としての波動を最初から除外する理由は、ありません。なぜなら、そこに、実際には、どのようなものが存在するかは、まだ見極められてはいなく、かつ、内部が固形物で満たされる永続的な粒子は無意識的な先入観に基づくものにすぎないと、思われるからです。そこに存在するものの候補として、エナァジで直接形成される物理的実体としての波動にも、十分、権利はあるのです。
(ちなみに、粒子(物質)の構成要素と想定される固形物がどういうものであるかは、まだ見極められてはいない、と思われます。それはニュートゥリノウかも知れません。しかし、すると、今度は、ニュートゥリノウの構成要素が問題になります。詰まるところ、それはエナァジと予想されますが、しかしエナァジは体積なくて非物質的です。結局、物質は、厳密な意味で完全に真空と評価される他はない、と思われます。物質は粒子でも固体でもないのです)。
ちなみに、すると、二重スリトゥ実験では、物質の構成要素である無数のエナァジが、自分らで、直接、波動の干渉を起こすことに、なります。エナァジは物理性と物理的実体の源なので、それは、十分、可能と思われます。
そして、以上のことは、物質が基本的に無数のエナァジの統合的集合体であることと、矛盾はしない、と思われます。この集合体は、状況におうじ、波動の状態になるか粒子様の状態になるかするのです。
さらに、粒子(物質)が、実際には、無数のエナァジの、粒子様の、統合的集合体であることは、ビグ バンで固形物(の量子)が丸きり噴出しなく、この宇宙には、厳密な意味で、固形物(固体)としての粒子が存在しないことと、整合します。
2) 二重スリトゥ実験により実証されしこと
二重スリトゥ実験は以下のことを実証・発見・または示唆しつと、評価されます。
A) 二重スリトゥ実験におき、1個の量子としての物質は、波動の形態で真空中を飛翔する。
B) 二重スリトゥ実験におき、1個の量子としての物質が波動の形態で真空中を飛翔するあいだ、構成要素の無数のエナァジが自分らで波動の干渉を起こす。(この宇宙には、厳密な意味で、体積なくて非物質的なエナァジだけが存在し、固形物(の量子)は一切存在しない。物質はそのエナァジにより直接に構成される)。
C) 1個の量子としての物質の波動は、(エナァジで体現され、かつ、ほかの物質と相互作用のできる)物理的実体である。
D) ある1個の物質の全体が1個の量子であるときに、その物質は、状況におうじ、粒子様の様相と波動の様相のどちらかを取る。1個の量子としての物質は、ほかの物質と相互作用をしているあいだ、粒子様の様相を取る。他方、それは、ほかの物質と相互作用をしなく、単独で存在するときは、波動の様相を取る。1個の量子としての物質が両方の様相を同時に取ることはない。
これらは驚くべきことですが、固定観念なしに、実験結果を自然科学の平易な観点から評価するなら、こういうことが見てとれるです。
(ちなみに、ここで、固定観念とは、物質が、その内部が固形物で満たされる粒子であるということです。しかし、そもそも、ビグ バンで固形物は噴出しておらず、この宇宙に固形物は存在しないです)。
そして、これらのことは、物質の基本的な成りたち--物質が、基本的に、無数の、体積なくて非物質的なエナァジの統合的集合体であること--と矛盾はしない、と思われます。
さらに、二重スリトゥ実験は、物質が無数のエナァジの統合的集合体であることも間接的に実証しつ、とも言えるかも知れません。
(なぜなら、物質は、1個の量子として単独で存在するあいだ、波動の形態を取るからです。もしも物質が固形物なら、こういうことは不可能です。物質は、それが無数のエナァジの統合的集合体であるからこそ、即座に波動の形態に切り替われる、と思われます)。
また、これらのことに理由は必要ないと思われます。物質はそういうものです。それが現実です。
3) 二重スリトゥ実験の結果についてのもう一つの評価
二重スリトゥ実験におき、背後の感光板には、粒子様の衝突痕跡からなる干渉縞が形成されます。
しかし、もしも粒子が真空中を飛翔するなら、残される衝突痕跡の分布はかならずランダムになるはずです。
このゆえ、二重スリトゥ実験の結果は、自然科学の観点から見て、きわめて不合理です。そして、その不合理さの原因は、粒子が飛翔しているという想定です。
しかし、もしも、この想定を取り消し、干渉縞から示唆されるように、波動が飛翔していると考えるなら、その不合理さは即座に解消します。
このため、自然科学の平易な観点から見れば、干渉縞が形成されるという実験結果だけで、飛翔しているものが何らかの波動であると、直接に実証されしようなもの、と言えます。(その波動が物理的であることは言うまでもありません)。
粒子様の痕跡が残されることは問題ではありません。なぜなら、そのことは、飛翔しているものも粒子であることは、必ずしも意味しはしないからです。衝突の瞬間に、波動の様相が粒子様の様相に切り替わる可能性を否定するものは、なにもありません。
物質は無数のエナァジの統合的集合体ですが、それらは堅く糊づけされているわけではありません。(そもそも、エナァジは、体積なくて非物質的なので、糊づけすることは不可能です)。物質の形態的様相が、場合におうじ、波動の様相と粒子様の様相のあいだで互いに切り替わる可能性は、じゅうぶん考ええます。
逆に、この実験結果は、物質がそういうものであることを明らかにしつ、とも言えます。物質の形態的様相の切り替わりに理由は必要ありません。物質はそういうものであり、それが現実です。
こういう次第で、先入観を排するならば、二重スリトゥ実験の結果は、飛翔しているものが物理的な波動であることを直接に実証していると、評価できます。
4) そのほかの二重スリトゥ実験
二重スリトゥ実験の変形として、以下の2種類の実験も実施されています。それらの結果も自然科学の観点から簡潔に評価できます。
a) (1個の)検出器つき二重スリトゥ実験
b) ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの二重スリトゥ実験
検出器つき二重スリトゥ実験では、検出が計数されようとされまいと、干渉縞は完全に消失ししそうです。
しかし、もしも粒子が飛翔するなら、この結果は不合理です。なぜなら、もしも粒子なら、粒子と検出器が相互作用をする頻度におうじ、干渉縞はすこしおぼろになるだけと、予想されるからです。このゆえ、その前提は事実に反している、と判断されます。
逆に、もしも波動が飛翔するなら、その結果に不思議はありません。なぜなら波動なら必ず検出器と相互作用すると、予想されるからです。
波動は、検出器と相互作用をすると、一瞬だけ粒子様様相に切り替わる、と推測されます。そして、その直後、ふたたび波動様相に戻りますが、その時はもう2つに分割されてはいないので、もう干渉を起こすことはないのです。
また、ディコウヒヤレンスを発生させるタイプの二重スリトゥ実験では、形成される干渉縞はおぼろになりしそうです。
この結果は合理的です。なぜなら、ディコウヒヤレンスが発生するばあい、真空中を飛翔する波動とディコウヒヤレンスの原因のあいだの相互作用の頻度は僅かだからです。(もしも粒子が飛翔しているならば、そもそも干渉縞は形成されません)。干渉縞は、その頻度におうじ、おぼろになります。
そして、ディコウヒヤレンスが発生するタイプの実験の結果は、物質の粒子様の様相と波動の様相が相互に切り替わりうることを、間接的ながら端的に実証しつ、と評価されます。(間接的なのは、粒子様の様相であれ、波動の様相であれ、エナァジで直接に体現されると推測されるものを直接観測することは、不可能だからです)。
干渉縞がおぼろになりつのは、波動が、飛翔の途中、真空中にごく微量に混入されし他の物質と相互作用をし、そして、その瞬間、波動の様相が粒子様の様相に切り替わりしためと、解釈できます。そして、その直後、物質は再び波動の様相に戻りますが、そのときに、波動は、もう2つに分割されてはいないので、もはや干渉を起こすことはないのです。
こういう解釈が、いちばん簡素でありて、かつ、合理的です。そしてオカムの剃刀の指針にも適合します。
粒子様の様相と波動の様相の切り替わりは驚くべきことですが、実験結果はそれを明確に示唆しています。そして、物質は無数のエナァジの統合的集合体なので、それは可能と予想されます。それが現実かも知れません。それ以上の難解な解釈をする必要はない、と思われます。
5) 二重スリトゥ実験の変形の提案
物質の構成的な様相を明らかにするための試みの一つとして、次のような、二重スリトゥ実験の変形も考えられます。(この実験は、干渉縞を観測することは目的とはしないです)。
二重スリトゥ実験におき、スリトゥの向こうの左の空間と右の空間を完全に遮断して、二つに別れし波動がもはや一つに合流できないようにする。
結果は予測がつきませんが、物質の存在につき、なんらかの新しい知見が得られるかも知れません。
《 二重スリトゥ実験の変形の提案 》
物質の形態的で構成的な存在様相を明らかにするための試みの一つとして、次のような、二重スリトゥ実験の変形が考えられます。
二重スリトゥ実験におき、スリトゥの向こうの左の空間と右の空間のあいだをマイナスに帯電させし板などで完全に遮断する。(この実験は、干渉縞を観測することは目的とはしない)。
電子の波動が、二つに分割されしまま、再び一つに融合することができなくなるかも知れません。そして、左と右のそれぞれで、半分の電子の痕跡が残される、かも知れません。しかし、1個の電子は、左右の波動を合わせし全体で構成されます。そして、電子が素粒子であるという点で、この存在様相はきわめて強い、と思われます。このゆえ、そういうことは起こりえない、とも思われます。このため、どのような結果が得られるのかは、予想がつきません。さらに、実験結果は、実験装置での、左右の半波動の再融合を阻止する仕方にも、おおきく影響されるかも、知れません。
それでも、結果については、次のように、いくつかの可能性は考えられます。
i) もしも遮断が物質的に弱ければ、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、左右どちらかの半波動が、遮断を突き抜けて、もう一つの半波動に合流する。そして、左右どちらかの板に、衝突痕跡が1個のこされる。
ii) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、遮断の隙間をとおり、もう一つの半波動に合流する。
iii) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、電子の衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、二重スリトゥの位置まで瞬時にもどり、そこから、もう一つの半波動に合流する。
iv) なにごともなかりしように、左右どちらかの板に、電子の衝突痕跡が1個のこされる。左右どちらかの半波動は、二つの半波動が板に衝突する瞬間に、テリポートゥ(瞬間移動)して、もう一つの半波動に合流する。
v) 二つの半波動は、分割されしまま、左右それぞれで板に衝突し、それぞれで痕跡をのこす。
vi) 二つの半波動は、再融合できないゆえに、電子という素粒子としては崩壊し、電子としての結合エナァジを放出しながら、エナァジに還元してしまう。左右それぞれの板に、衝突の痕跡は残るかも知れない。
そして、得られる結果は、電子の形態的で構成的な様相がどのようなものであるかをより詳しく推測するための一助にはなるかも知れません。
この実験は、電子(物質)の存在そのものを扱うゆえに、素粒子物理学の分野での実験になるよう思われます。それでも、電子の形態的で構成的な存在様相を見極めるための手がかりを齎してくれるかも知れないゆえに、量子力学にも深く関係していると、思われます。
実証科学としての物理学にとり、この実験は決して無意味ではない、と思われます。どこかでこの実験が実施され、結果の出されることが、つよく望まれます。
《 (余談) 観測問題はもう二重スリトゥ実験により解決している 》
二重スリトゥ実験では、物質の波動がほかの物質--実験装置の二重スリトゥの部分--と相互作用をしうる物理的実体であることが実証されました。
しかし、この実験結果は、そもそも観測問題が存在しなかりしことも含意していると、思われます。
なぜなら、観測問題は、波動関数の収縮についてのものとのことだからです。そして、波動関数は、物理的実体としての波動でなくて、抽象的な波動についてのものだからです。
(そもそも、波動関数は物理的な実体としては存在しないので、その収縮という物理事象も発生しえないのです。発生するのは、物理的相互作用の発生による、波動モウドウから粒子様モウドウへの切り替わりという、単純な事象にすぎないのです)。
物質の波動は物理的実体なので、正体のよく分からない抽象波動を定式化する波動関数はそもそも必要ないのです。このゆえ観測問題が問われる必要もなくなります。(むしろ、波動関数とは一体ぜんたい何なのか、が問題になる、と思われます)。
そして、観測問題への答えとして提唱されているコウペンハーゲン解釈や多世界解釈などの解釈も必要なくなると、思われます。
《 観測という物理事象 》
1) 意識は物理的である -- 意識から物理学への贈り物のようなもの
2) エナァジと固形物
3) 観測問題
4) 意識が波動関数を崩壊させることはない
5) 観測という物理事象
................
1) 意識は物理的である -- 意識から物理学への贈り物
発話の筋肉運動はかならず意識に形成される思考にもとづき生じます 。
そして、このことは、思考(観念)と物質のあいだに接点あることを、直接に意味します。しかし、そもそも、物質と思考が形成される場所である意識とのあいだに接点があります。
(もっとも、これは、意識の出力面でのことです。自分の身体感覚や外界を感知できるという点で、意識の入力面にも接点はあります。これは明らかです)。
そして、このことからは、以下のことが判断されます。
i) 意識・思考・身体感覚などは物理的である。
ii) 少なくとも細胞・組織・器官・体全体などの生体内におき、物質は観念(思考・設計・意識)にもとづき動きうる。(これは、生物学的必然です。さもなくば、私たち人間は、まともに話すことは決してできず、体を動かすこともできません。(体の動きも、ほぼ全て、意識に形成される思考にもとづき生じている、と推測されます))。
(素粒子から始まり、この宇宙に存在する全ての事物は、エナァジで体現される物理現象であり、時間の関数です。そして、意識も、この宇宙に生起しており、片時も休まず変化する物理現象です。そして、意識が物理現象ならば、それは端的に物理的、ということになります。意識がこの宇宙に生起する物理現象であるという点で、意識は、そもそもの最初から、物理的なりしわけです。ただ、このことは、なぜか説得力が薄いです。あまりにも当たりまえだからでしょうか?)
(こういうことは意識から物理学への贈り物のようなものと言えます)。
つまり意識は物理的です。
(詳細はここでは説明できませんが、意識・思考・身体感覚などはエナァジで体現される物理的実体です。エナァジは、素粒子・粒子・固体のような物質的なものだけを形成できる、とは限らないです。エナァジは、意識・思考・身体感覚のような、観念的なものも形成しうる、と予測されます)。
2) エナァジと固形物
ちなみに、エナァジは、物理性の源ですが、ビグ バン理論によれば、体積なくて、非物質的です。
そして、厳密な意味で、この宇宙には、そういうエナァジだけが存在します。固形物や固体は存在しないです。
ビグ バンで、固形物や固体は少しも噴出しなかりきです。しかも、固形物が、エナァジと同じレヴェルで、宇宙の原初から存在することに理由はありません。固形物は、存在しえず、一切どこにも存在しないです。
物質は、体積なくて非物質的なエナァジの統合的集合体です。素粒子や粒子は、実際には、そういうエナァジの、粒子様の集合体と予測されます。そして、物質は、状況におうじ、波動の様相か粒子様の様相のどちらかを取る、と予測されます。
この宇宙に存在するものは、すべて、物理的であり、エナァジで体現されます。エナァジで体現されないものは、この宇宙には存在しないです。
そして、空間をふくめ、この宇宙に存在するもの--物質・物理的実体--は、全て、厳密な意味で、完全に真空です。なぜなら、この宇宙に存在するものは、全て、体積ないエナァジで形成される、エナァジの統合的集合体だからです。(体積ないものを幾ら結集させようと、それは決して固形物にはならないです。しかも、固形物は、根本的に存在しえないです)。
物質は、エナァジの本性である一人称の主体の物理的作用の働きの写像のようなものです。
(例えば、私たち人間は、エナァジや素粒子に較べ、サイズのとても大きな世界に住みています。そういう私たちは、物質を直接見ているわけではありません。私たち人間は、光を通し、物質の写像を見ているのです。しかも、私たちの意識は、最終的に、脳におき様ざまに加工されし写像を知覚するのです)。
(ちなみに、この宇宙だけには限らなく、無条件に存在しうるのは真理という観念だけと予想されます。真理の存在には、それは必ずそうであるという点で、妙な強制が感じられます。しかも、真理の存在は、場所や時間に拘束されぬです。なんらかの真理が存在の原点かも知れません。
そして、存在を物質的なものだけに限定する必要はない、と思われます。なぜなら、この宇宙や物質はエナァジからの派生物だからです。(物質は、エナァジの本性である一人称の主体の物理的作用の働きの写像のようなものです)。しかも、そのエナァジも、なんらかの真理からの派生物かも知れません。
さらに、エナァジは振動していると推測されますが、振動することが物理的存在の要件かも知れません。
さらに、この宇宙に存在するものには、意識・思考・身体感覚なども含め、すべて、時間と空間という座標が付随します。つまり、この宇宙という物質的な世界に存在するものは、全て、時空に拘束されているのです。これは、この宇宙での存在の、避けえない特徴です。このゆえ、この宇宙に存在するものは、全て、時間の関数です。エナァジ・素粒子・原子などを例外として、すべての存在は、遅かれ早かれ、いずれは消滅(崩壊)します。
(その最たるものが意識と生命です。これらは高度な物理的秩序ですが、高度な秩序ほど消滅しやすいのかも知れません))。
3) 観測問題
観測問題とは、量子力学における、どのように波動関数の収縮が起きるのか、という問題だそうです。あるいは、それは、観測過程を量子力学の演繹体系のなかに組みいれる問題と言い換えることもできる、とのことです。むずかしい問題です。
電子の二重スリトゥ実験では、背後の感光板に、粒子様の衝突痕跡による、波動の干渉縞が形成されます。このことから、真空中を電子が飛翔しているあいだ、その電子が波動の状態になりているか、または、その電子に何らかの波動が付随していることが、推測されます。
しかし、干渉縞が形成されるためには、波動は2つに分割されなくてはならず、そして、波動が2つに分割されるためには、波動は二重スリトゥの部分と物理的相互作用を果たす必要があります。
そして、波動が二重スリトゥと物理的相互作用を果たすということは、その波動が物理的であることを端的に意味します。
または、このようにも考えられます。二重スリトゥ実験におき、物質的な実験結果として、波動の干渉縞が形成されるということは、実験過程のどこかに、物質と波動の接点があることを意味します。これは必然です。そして、物質とのあいだに接点あるならば、このことから、直ちに、その波動は物理的、と判断されます。
(恐らく、二重スリトゥ実験では、電子の構成要素である無数のエナァジが、1個の電子としての統合性を維持ししままで、自分らで、直接、波動の状態になる、と予測されます。つまり、二重スリトゥ実験で、波動は無数のエナァジにより形成されるです。恐らく、物質--量子--というものは、ほかの物質とのあいだの相互作用の発生の有無にしたがい、粒子様の状態と波動の状態を切り替える、と推測されます)。
つまり、二重スリトゥ実験の結果から推測される波動は、物理的であり、エナァジで体現される物理的実体です。それは、シュローディンガーによる波動関数で定式化されて、量子状態で形成される抽象的なものではないのです。
このゆえ、二重スリトゥ実験では、飛翔する電子に抽象的な波動が付随するのでなくて、単独で真空中を飛翔する電子そのものが(エナァジで形成される)波動の状態になる、と判断されます。
粒子様の痕跡が残されることに関しては、物質--量子--の波動が他の物質と相互作用を果たすとき、それは粒子様の状態に切り替わる、と解釈すれば、それで済みます。この解釈は物理的であり、かつシンプルです。
そしてこれらのことは実験事実です。(物質とはそういうものなのでしょう)。このシンプルな事実を飛びこえて、量子状態という不思議なものや波動関数という抽象的なものをいきなり想定することは、難しいです。
そして、こういう簡潔な解釈を採用するならば、観測問題という未だに決着のついていぬ難しい問題はなくなります。
4) 意識が波動関数を崩壊させることはない
意識は、観念的な機能を果たしますが、物理的です。意識・思考・身体感覚などは、観念的ですが、エナァジで体現される物理的実体です。(この意味で、「観念的」も「物質的」とともに「物理的」に含まれます)。
このゆえ、もしも物理的である意識が波動関数を収縮させるなら、波動関数も物理的でなくてはなりません。しかし、波動関数は、いまだに実証されていず、抽象的であり、物理的ではありません。(つまり、波動関数は、この宇宙という物理世界に物理的実体として存在しないです)。このゆえ、意識が波動関数を収縮させることは有りえないです。(なぜなら、物理的なものが抽象的で非物理的で存在しないものと相互作用を果たすなど、有りえないからです)。
しかも意識はレイダァでもありません。もしも意識が波動関数を収縮させるなら、意識は波動関数を収縮させうる何らかの抽象的なものを放射しなければなりませんが、そのようなことは決してありません。(物理的にありえないです)。この点でも、意識が波動関数を収縮させることはないのです。
5) 観測という物理事象
二重スリトゥ実験では、エナァジで体現される電子の波動は、感光板の物質と物理的相互作用を果たすことで、粒子様の状態に切り替わります。(これは実験事実でありて、物質が無数のエナァジの統合的集合体であるということと矛盾はしないです。(この宇宙には、厳密な意味で、体積なくて非物質的なエナァジだけが存在します。固形物は一切どこにも存在しないです))。
ひるがえり、エナァジでは体現されず物理的実体として存在しない波動関数が、物理的実体である意識や感光板の物質と物理的相互作用を果たすことは有りえないです。
波動関数という想定上の関数が物理的に収縮するということは有りえなく、それを問題にすることに意味はないのです。
厳密な意味で、観測とは、物質と物質のあいだの物理的相互作用を意味すると思われます。