5 エナァジ・物質・作用 (1)
5 エナァジ・物質・作用 (1)
(ちらし) エナァジと物質についての新しい見方の必要性
(ちらし) 固体である物質的なものが存在することは不条理と思われる
(ちらし) 観測という物理事象
(ちらし) 物質に固体の印象の感じられる理由
(ちらし) 厳密な意味で、この宇宙は完全に真空である
(ちらし) エナァジと物質は作用そのものである
(ちらし) エナァジ・自己創発作用・意識
物質的でないものを直接実証することはできかねる
《 (ちらし) エナァジと物質についての新しい見方の必要性 》
たとえば、単細胞生物には、脳がありません。単細胞生物は、言わば、無数の物質の濃密な塊です。それなのに、単細胞生物は、自発的・主体的・能動的に活動できて、かつ、その全体的な動きは、なぜか、統合されており、辻褄が合いています。
しかし、冷静に評価するなら、これは極めて不思議なことと思われます。
なぜなら、脳のない単細胞生物は基本的に無数の物質の塊であり、そして、物質は、巨視的には三人称の客体であり、みずから対外的に能動的に動くことは決してできないからです。(単細胞生物の構成要素である物質にとり、単細胞生物の内部空間での動き--空間移動・自転(姿勢制御)・化学反応--でありても、対外的な動きです)。物質が対外的に動くには、かならず、なんらかの相互作用に受動的に巻きこまれる必要があります。
このゆえ、単細胞生物の能動的な動きには、それを可能ならしめる何らかの物理的な根拠--メカニズム・枠組--が不可欠と、思われます。
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詳しいことはここでは説明できないですが、単細胞生物の能動的な動きをふくめ、以下の事柄などが説明されるためには、エナァジや物質についての新しい見方が物理学に導入されるのが望ましいと、思われます。
A) 物質システム意識または意識の形成
B) (物質や)意識における、測定(現在の状態についての観測・情報収集)や測定にもとづく演算(つぎの瞬間の状態や働きの設計)による測定値(言わば、身体感覚)や設計内容(言わば、思考の感覚)の観念の発生
C) 各種の物質の見事な結晶の塊の形成
D) 生物の発生(原初の生物の形成)
E) 生物(または、生体)の自発的・主体的・統合的・能動的な動き--植物や動物の体の見事な部品(細胞や葉・花びら・花などの組織)の設計と製造もふくむ活動--
F) 生物の進化(体の(部品の)適応や変化)
これらには共通点があります。それは、これらは、どれも、ダイナミクなプロセスである、ということです。そして、それらは、無数の物質の統合的かつ協調的な動きにより実現される、ということです。言わば、これらのプロセスでは、無数の物質が組織化されて、それらの動きが制御されているのです。(それは現実に実現されている、と思われます)。
そして、そのことは、それらのプロセスが極めて高い物理的秩序であることを、意味します。
しかし、エントゥロピーは増大するという熱力学第二法則ゆえに、高い物理的秩序が自然に形成されることはありません。つまり、それらのプロセスは、見掛けじょう、熱力学第二法則に違反しているのです。
このため、もしも高い物理的秩序が自然に形成されるなら、熱力学第二法則に違反することなしに、それを可能ならしめる物理的原因が必要と、思われます。無数の物質の動きが組織化されて制御される物理的なメカニズムないし枠組の解明されることが、望まれます。
そして、その解明は物理学の担当になる、と思われます。
ちなみに、物質の動きの組織化と制御については、物理学にとり深刻な問題が予想されます。しかし、前向きに考えるなら、それは、物質の対外的な動きについての考えかたなどを活性化する契機となるかも知れません。(力学や化学反応などにに新しい視点が導入されるかも知れません)。その取りくみは興味ぶかいものになる、と思われます。
《 (ちらし) 固体である物質的なものが存在することは不条理と思われる 》
小石を手にとり、じっと眺めていると、この石はどこから遣りてきつのだろう、この石はどうしてここに存在するのだろうと、不思議な思いに捕らわれることがあります。
しかし、石の源は溶岩です。溶岩が、その形態を変えながら、巡り巡りてここに存在するのです。なので、地球上に無数の岩や石が存在することは、さほど不思議でもありません。
しかし、それでも、私にとりて、不思議さは残ります。そして、どうも、その正体は、固体で堅固で硬直せし石や物質がこの世に存在することのようです。(石や物質は、表面的(巨視的)には、そのように見えます。液体や気体も固体です。なぜなら、その構成要素である原子や分子は、外的(巨視的)には粒子だからです。そして、粒子が、私たちの普通の感覚で固体です)。私にとりて、固体である物質的なものが存在することは、不条理なのです。物質的なものが存在することは不条理です。
そして、固体である物質的なものが存在することは、実際、不条理と思われます。
かりに固体である物質的な物質が永劫の昔から存在するとして、それには理由(または、根拠)がありません。
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ビグ バン理論によれば、この宇宙は、およそ138億年ほどまえにビグ バンにより誕生しつそうです。
そして、そのビグ バンでは、この宇宙を形成する無限のエナァジだけが噴出しつそうです。そして、その噴出直後、インフレイション膨張直前の、1ミータァほどの大きさの初期空間は、その、無限の、超高密度で、超高温のエナァジだけで満たされていつそうです。
つまり、エナァジは、ほぼ無限に重なりあえるです。すると、エナァジは、決して物質的ではないことになります。エナァジは、物質的な実体でなく、体積がなく、物質的に空ぽなのです。
そういうエナァジはとても不思議ですが、すると、エナァジは、むしろ、(ひろい意味での)観念のようなものと見なすほうが相応しいかも知れません。
そもそもエナァジの存在様相を的確に表現できる言葉はありません。しかし、物質的でないとするなら、観念的と見なさざるを得ないです。観念の存在面にかんし詳しいことはまだ不明です。しかし、観念の存在様相には複数の種類があるかも知れません。そして、エナァジの存在様相は、その一つかも知れません。
つまり、エナァジは、観念の一種かも知れません。
ただし、エナァジは、振動している観念かも知れません。振動が、エナァジの観念を物理的な実体に昇格させているのかも、知れません。
エナァジの本体はそういう種類の観念なのかも知れません。
《 (ちらし) 観測という物理事象 》
素粒子にくらべ、人間はきわめてサイズの大きな世界に生きています。そして、外界や物質についての人間の感覚の解像度は、大きなサイズに適合するものであり、きわめて荒いです。
(私たち人間は、物質の表面に露出している分子や原子の一つ一つを細かく感知しているわけではありません。私たち人間の感知の解像度では、1ドトゥの情報--0または1--に、無数の分子や原子の情報が集約されているのです)。
このゆえ、素粒子は、あまりに小さすぎるので、人間には、一般に、粒子--固体--と理解されます。(ただし、このことは、見極められていず、一つの解釈にすぎません)。
ただし、素粒子などの物質を直接に感知(検出)する方法は、この宇宙には存在しなく--もしもそういう方法があるとするなら、それは超能力のようなものです--、人間は、物質を、観測媒体などの観測手段をかいし間接的に観測するほかはありません。(たとえば、明かりを消すと、ものは見えなくなります。この場合、光が観測媒体です)。
さらに、観測には必ず観測媒体が必要なので、観測媒体と観測対象のあいだには必ず相互作用が発生します。
つまり、観測対象と観測媒体とのあいだに物理的な相互作用の発生することが、観測という物理事象の根本的な意味、と思われます。早い話、物質の接触がそのまま観測に当たるです。物質は常に互いに観測しあいている、とも言えます。
そして、人間にとりての観測とは、観測対象とのあいだで生じし相互作用によりて押しかえされし観測媒体を得ることなのです。そして、得られし媒体は、観測対象とのあいだで生じし相互作用の痕跡ないし写像です。
つまり、観測とは、観測対象の痕跡ないし写像を得ることです。よしんば観測対象を(観測媒体を経由して)ちょくせつ観測するにせよ、得られるのは、精ぜい、跳ねかえりてくる媒体でしかありません。観測におき観測対象そのものをちょくせつ観測(知覚)することは原理的に不可能なのです。
《 (ちらし) 物質に固体の印象の感じられる理由 》
ふつう、私たち人間は、物質を固体または粒子と理解しています。
しかし、まず、私たちは、物質を直接に感知しているわけではありません。たとえば、視覚には、少なくとも光という媒体が介在します。(明かりを消すと、物は見えなくなります)。
物質の固体性は、人間が、物質と人間の意識のあいだで発生する無数の物理的な相互作用の果てに感知する、物質についての感覚的で大まかな痕跡・投影・写像・推測・解釈・印象のようなものにすぎないと、思われます。
なによりも、まず、素粒子が、ほかの素粒子を直接に見る--検出する--ことが、できません。素粒子が検出できるのは、自分の状態や、それに生じる変化だけです。なんらかの主体が知る--検出する--ことができるのは、根本的に、自分の状態や自分の変化だけなのです。よしんば、2つの素粒子のあいだに相互作用が発生し、それらが接触しようとも、それぞれの素粒子におき検出されるのは、自分における力やエナァジの授受や、それにより引き起こされる自分の状態の変化などだけなのです。ここが、他者の存在の検出の最前線であり、かつ、限界です。(よしんば測定器のプロウブであろうとも、測定対象の状態は、じぶんの側に生じる変化によりて推測するほかはないのです)。
このゆえ、素粒子が、ほかの素粒子の存在を検出することはありえません。(なぜなら、検出しうるのは、自分についてのことだけなので)。
ここで、比喩的に考えて、かりに素粒子に知性が具わりている、と想定してみましょう。そして、その知性が、自分がやどる素粒子の状態の変化の原因を考察し、他者の存在の可能性と、その他者とのあいだで相互作用が生じつかも知れないという考えに、思いいたりつと、しましょう。
しかし、そういう考えは、あくまで、時間の経過のなかで思考を巡らせることで得られる推測でしかありません。しかも、その推測を実証することもできません。なぜなら、百聞は一見にしかずですが、他者の存在を直接に見る手段--他者の存在を直接に示せる手段--は、根本的に存在しないからです。
もう少し即物的に考えるなら、素粒子に生じる変化は、他者の存在--または、他者とのあいだで生じる相互作用--の痕跡・投影・写像のようなもの、と評価することは、できます。
もっとも、それが痕跡や写像でありても、そのデイタ量は、普通は、恐らく、1ビトゥでしかありません。それは点の痕跡・投影・写像でしかないのです。(もっとも、複数の相互作用が同時に発生することはありうると思われます)。
そして、こういうことは、素粒子レヴェルでの話です。しかし、たとえば、単細胞生物のように、大きな体積ある生物では、話は異なります。
その体積に一致して、単細胞生物の意識は形態的には大きいと推測されます。しかもその意識は統合的です。さもなくば、その意識は、無数の身体感覚や思考の感覚を同時に感じることはできません。そして、1個の生物として、それ(を構成する無数の物質)が統合的かつ協調的に動くことができなくなります。
このゆえ、単細胞生物にては、他者の存在に起因する痕跡・投影・写像は、1個の点でなく、形を構成しうるです。そして、その形は、時間の流れのなかで動きえます。
このゆえ、他者の存在--固体としての物質など--は、むしろ、生物におき、より容易に推測されうると、予想されます。(なぜなら、じぶんの意識のスクリーンに投影される形が、自分とは関わりなしに、なぜか勝手に動くので)。
そして、物質の固体性は、無数の相互作用に起因する無数の痕跡を同時に感知できる意識の大きな統合性ゆえに感じられてしまう大雑把な推測・解釈・印象のようなものと、思われます。
人間の意識は、脳を形成する無数の物質を基盤として形成されるので、形態的には、きわめて巨大と思われます。そして、人間の身体感覚の解像度は荒いです。人間の意識が身体感覚を感知する(巨大な)枠組に、素粒子レヴェルの極小の物理事象を見分けられるだけの解像度は具わりてはおりません。視覚や触覚におき、人間は、決して、素粒子の一つ一つを検出しているのではないのです。(人間の意識は、素粒子レヴェルの物理事象を感知する--見分ける--必要は少しもなくて、ある意味、かなり荒いわけです)。
これは、画像の解像度を下げてゆくと、デイタ量がどんどん減少し、複数の点が1個の点に集約されて、その画像が荒くなりてしまうのと、同じです。言わば、固体性や固体の印象は、解像度を著しく落としし画像のようなものなのです。
以下のことが、物質が固体であるという印象を私たち人間が持つ理由と思われます。
a) 客体をちょくせつ知覚(観測・測定)する手段は存在しなく、知覚には媒体が不可欠である。たとえ知覚対象をちょくせつ知覚するにせよ、得られるのは、知覚対象とのあいだでの相互作用によりて跳ねかえされる又は押しかえされる媒体である。(この場合、力も媒体と位置 づけられる)。そして、これは、知覚対象そのものでなく、知覚対象の痕跡ないし写像のようなものでしかない。
b) 人間は、大きなサイズの世界に生きており、個この素粒子をこまかく知覚しているわけでなく、人間の知覚の解像度はきわめて荒い。これは、画像のデイタ量を減じると、画像のきめが荒くなるようなものである。
つまり、人間の身体感覚により感じられるものは、デイタ量(情報量)の激減せし、極めてきめの荒い痕跡ないし写像のようなものにすぎないのです。
そして、物質が固体であるという理解は、人間による知覚についての、こういう枠組をとおして得られる印象によると、思われます。上位の大まかな感知レヴェルで稼働している生物の意識には、そのように、物質が固体という確かな存在であると感じられてしまうのが、自然です。
ただ、人間が物質に固体の印象を持つにせよ、それは、必ずしも、物質そのものが固体であるということは意味しないです。物質の存在そのものが、そういう推測・解釈・印象のとおりのものとは、限りません。
この宇宙のあらゆる物質におき、その表面には、その物質を形成するエナァジが剥きだしになりています。そして、そのことは、エナァジで体現されるダイナミクな作用群が物質の表面に剥きだしになりていることも、意味します。それらの作用群の極めて活発な働きと、それらが動作する大きく大まかな感知の枠組が、(相互作用での押しかえす働きの結果として)、サイズの大きな世界にすむ人間には固体と感じられる感覚的で荒い 痕跡・投影・写像・推測・解釈・印象をもたらすと、思われます。
ただし、それらの痕跡などは、決して幻想ではありません。なぜなら、それらの感覚が私たち人間の意識に感じられる根本原因である作用は、エナァジで体現される物理的な実体として、しっかり存在するからです。感覚は言わば写像です。しかし、その原因である(物質に具わる、非物質的な)作用は、しっかり存在するのです。
そしてこの宇宙に固体は存在しないです。存在するのは、(物質ではない、非物質的な)エナァジと、そのエナァジで体現される(物質ではない、非物質的な)作用だけです。物質は、実際には、無数のエナァジの統合的な集合体--融合体--であり、それらのエナァジで体現される作用--たとえば、押しかえす作用--です。物質は作用そのものです。この宇宙に、(堅固なものである)物質は存在しなく、(物質的な体積のない)非物質的なものだけが存在するのです。
《 (ちらし) 厳密な意味で、この宇宙は完全に真空である 》
わたしはもう固体にはこだわりてはいないのですが、成りゆきで、この宇宙が完全に真空であるという考えを持つようになりました。自分ですこし呆れています。
なぜなら、それは、ひと言で言えば、この宇宙の全てのものの源であるエナァジに体積がないからです。
そして、真空は、その、体積ないエナァジで満たされています。
そして、物質内部も真空ですが、そこも体積ないエナァジで満たされているのです。
物質に見掛けじょう体積があるにせよ、そのことは、その体積に固形物が詰まりていることは必ずしも意味しないです。
要点は、エナァジが物理的作用そのものということです。そこに物理的作用があれば、それは物質として振るまうのです。
体積などの物理性質は、観測媒体を経由して、作用の働きによりもたらされる静的な結果(効果)にすぎません。物理性質は作用の働きの写像のようなものと思われます。物質性質そのものは、エナァジで体現される物理的実体としては存在しないです。
「物質」は物理的作用の別名のようなものと思います。
そして、物理的作用は、意識の正体でもあります。
これで繋がります。なんと、意識の形成とビグ バンのあいだには、妙な関係がありきです。
ビグ バンにおき、無限のエナァジが瞬時に噴出できつのは、エナァジが体積なくて非物質的だからかも知れません。これは合理的です。
(ビグ バンにおき、体積ある固形物の量子は噴出しはしませんでした。固形物の量子はこの宇宙のどこにも存在しないです)。
おそらく、体積あるもの--固体・物質的なもの・その内部がエナァジ以外の固形物で満たされているもの--は、根本的に存在できないのかも知れません。この宇宙に存在するのは、体積ないエナァジだけなのです。
《 (ちらし) エナァジと物質は作用そのものである 》
ビグ バン理論から、エナァジは体積なくて非物質的と判断されます。つまり、エナァジは、この宇宙の物理性の源であるにせよ、物質ではないのです。
(このゆえ、ビグ バンにおき、この宇宙を形成する無限のエナァジが、極微の点から瞬時に噴出することができつのでしょう。これは合理的です。また、体積あるものが先験的に存在することは不条理です。理由がありません)。
そして、物質(素粒子)は、無数のエナァジの融合により形成されました。そして物質には体積があります。
しかし、無数のエナァジが、幅のある空間に散在し、1個の統合的な集合体(= 素粒子)を形成しようとも、厳密な意味で、その集合体に体積は発生しないです。なぜなら、0の体積のもの(= エナァジ)を幾ら加算しようとも、真正な意味での体積は決して発生しないからです。
つまり、いくら物質に見掛けじょう体積あろうとも、その内部空間は真空なのです。これは驚くべきことです。物質内部は、厳密な意味で完全に真空です。
物質に見掛けじょう体積があるにせよ、そのことは、その体積に固形物が詰まりていることは必ずしも意味しないです。
(それでも、その真空は、体積ないエナァジで満たされています)。
すると、物質をふくめ、この宇宙は完全な真空ということになります。(空間はヒグズ粒子で形成されるそうですが、そのヒグズ粒子の内部空間も真空です)。
(しかしこれはもっともなことです。なぜなら、(これはとても説明しづらいことですが)、固形物(固体)--体積があり、その内部が真空以外の物質的なもので満たされているもの--の存在に理由や根拠なく、その存在は不条理と思われるからです。たとえ何かが存在できるにしても、それは、(たとえば観念のような)、体積ないものでなくてはならないのかも知れません。(そして、実際、固形物はこの宇宙のどこにも存在しないです))。
では、厳密な意味では体積ない物質に体積が生じるのは何故でしょうか? それは、なんらかの物理的働き(メカニズム・枠組)によらざるを得ない、と思われます。そして、エナァジに、そういう働きを果たす作用が具わりている、と推測されます。なぜならエナァジのほかには何も存在しないからです。つまり、物質に体積が生じるためには、エナァジにそれを果たすための作用が具わりていなくてはならないのです。
それは、体積を構成する作用と、構成されし体積表面でほかの物質を押し戻す作用、と思われます。
この二つの作用さえあれば、真空である物質にも見掛けじょう体積が生じます。そして物質は固体のように振るまうことができます。
体積は、言わば、作用の働きによりもたらされる結果(効果)でありて、静的な物理性質です。
つまり、そこに物理的作用さえあれば、見掛けじょうのものである静的な物理性質--各種の素粒子や物質にそなわる各種の物理性質--はもたらされるです。物理性質は、観測媒体を経由して得られる、作用の働きの写像のようなものです。
さらに、エナァジは、体積なくて非物質的という点で、作用そのものと思われます。そして、物質の物質性は、作用の働きによりもたらされる静的な見掛けじょうの結果--効果・投影・写像--なので、物質も作用そのものと思われます。
「物質」は、物理的作用の別名のようなものです。
厳密な意味で、この宇宙に物質的なもの(= 固形物・固体・体積あるもの)は存在しなく、この宇宙は完全に真空です。この宇宙には、(体積ない)エナァジ(とそのエナァジで体現される物理的作用)だけが存在するのです。
《 (ちらし) エナァジ・自己創発作用・意識 》
エナァジには自己創発作用(または、自己融合作用)が具わりています。これは、可能なら、自分らを素材として使い、物理的秩序を形成しようとするものです。
意識は、無数のエナァジの巨大な融合体であり、エナァジそのものと思われますが、エナァジの自己創発作用によりて自動的に形成されるです。つまり、エナァジの自己創発作用が、意識形成の直接の原動力です。そして、環境のエントゥロピー生成速度の低下が、この作用を活性化させる、と推測されます。
物質は無数のエナァジの統合的な集合体です。そして、物質の表面には構成要素のエナァジが剥きだしになりています。さらに、生体内では、無数の物質がたがいに接触しあいています。これは、生体内で、無数の物質の構成要素のエナァジが、直接、接触しあいていることを、意味します。
このゆえ、生体内におけるそれらのエナァジは、条件さえ満たされるなら、自己創発作用によりて、ある意味、容易に融合し、意識を形成しうる、と思われます。
(それぞれの脳細胞の活動は、構成要素の物質とその細胞に発生している(細胞)意識の協働と思われます。このゆえ、脳細胞の活動度は変化するにせよ、細胞意識は、その細胞が形成されし当初から持続しつづけている、と推測されます。さもなくば、その細胞は速やかに死亡します。
そして、私たちが眠りから目覚めると、私たちの主観の意識は即座に発生しますが、これは、下位の細胞の活動度の増加とともに、それらの意識が、エナァジの自己創発作用によりて即座に容易に融合し、大きな主観の意識を形成することを意味すると、思われます。
(私たちや脳を有する動物(そして植物)の主観の意識は、きわめて巨大です。そして、実は、脳のない、細胞・組織・器官などの生体の意識も、巨大です。つまり、意識というものは、本質的に巨大です))。
《 物質的でないものを直接実証することはできかねる 》
この宇宙にはさまざまな物理現象が生じます。そして、エナァジが、それらの根本原因・根本的原動力と想定されます。
そして、エナァジには、熱エナァジ・運動エナァジ・位置エナァジ・電気エナァジなど、多様な種類があります。
しかし、エナァジそのものや個別的形態のエナァジの別を問わなく、それらのエナァジが直接実証されしことは、これまで一度もない、と思われます。
エナァジが、存在し、さまざまな物理現象の原因として、自発的・主体的・能動的に動作していることは間違いないですが、事実上、エナァジは、さまざまな物理現象の原因として推測されて想定されるばかりのものです。
ちなみに、ビグ バン理論によれば、エナァジは体積なくて非物質的と評価されます。(そして、そのゆえ、不可視です)。エナァジは、さまざまな物理現象の原因として間違いなく存在するのに、(私たち、サイズの大きな、静的かつ受動的な写像ないし投影の世界に住む人間にとり)、そういう不思議なものなのです。(しかし、観点を変えるなら、エナァジは、そういう体積なくて非物質的で不思議なものであるゆえにこそ、多様なかたちで動作できるかも知れません)。
このゆえ、エナァジが直接実証できないことは、不思議ではありません。それはむしろ合理的です。(なにしろ体積なくて非物質的なので)。
つまり、存在するのに、直接それを実証することのできぬもの、なんらかの物理現象の発生をとおし間接的にその存在(または、発生)を推測する以外にないものは、実際あるのです。(まずエナァジがそれに該当します)。