3 存在と観念
3 存在と観念
無は存在しない
この宇宙の元と実体
存在・観念・時間 -- その源・質・意味・区分けなど
《 無は存在しない 》
無は存在しません。このことは、フランスの哲学者のベルクソン(Henri-Louis Bergson)により表明されました。真と思われます。
もっとも、ホランドゥの哲学者のスピノウザ(Baruch De Spinoza, Benedictus De Spinoza)も類似する意味のことを表明していたようです。スピノウザは次のように書いています。
無からは何も生じない。これと、そして、同様の命題は、絶対的な意味で永遠の真理と呼ばれている。
そして、無が存在しないことは、次のように説明できます。
説明1:
無という言葉は、存在しないものを意味します。それは、同時に、なにも存在しないという状態をも意味します。しかし、そのようなものは体現できません。そのようなものを自ら体現できるものは存在しないです。このため、そのようなもの、つまり、無は、存在しないです。
説明2:
もしも、なにかが、無ではないなら、つまり、有ならば、その何かは存在します。なにかは、無ではない限り、つまり、有である限り、かならず存在しています。つまり、なにかが存在するなら、その何かは決して無ではないのです。なにかは、なにかとしては存在するにせよ、無としてだけは断じて存在できません。
説明3:
無という言葉は、存在しないものを意味します。それは、同時に、なにも存在しないという状態をも意味します。ここで、無が存在できると仮定してみます。しかし、こう仮定すると、その仮定は、その場で、無の意味に背くことになります。そして、ただちに、最初の仮定が虚偽なりきということになり、無は存在できないことになります。
つまり、無は、存在できないのです。存在しないという概念をひと言で表現できる無という便利な言葉があるだけなのです。無は存在しないです。無はパラドクスです。無が存在しはじめし途端、その無はパラドクスになります。なぜなら、無は体現できないものだからです。
《 この宇宙の元と実体 》
仏国の哲学者のベルクソン(Henri-Louis Bergson)と、蘭国の哲学者のスピノウザ(Baruch De Spinoza, Benedictus De Spinoza)によれば、無は存在しません。真と思われます。
このゆえ、無は何事も果たすことできません。(なぜなら存在しないので)。
さらに、それが何であるかは分からないにせよ、なにかが存在する必要があります。(なぜなら無は存在しないので)。
そして、ビグ バン理論によれば、ビグ バンでは、エナァジだけが噴出しつそうです。物質(素粒子)そのものは噴きだしてはいないです。
さらに、アインシュタインによれば、物質はエナァジと等価だそうです。
つまり、この宇宙には、根本的に、エナァジだけが存在するのです。エナァジが、この宇宙の唯一の元です。このエナァジが、それ自身が物理的実体であると同時に、そのほかのあらゆる物理的実体--空間をふくめ、いわゆる物質--の源であり構成要素です。
そして、エナァジ以外のあらゆる物質は、(きわめて高い温度の低下による)エナァジの凝縮または融合により形成されしエナァジの統合的な集合体です。(エナァジには、自分を素材として使う内因的な創発の傾向が具わりている、と思われます)。
そして、元であるエナァジで形成されるものは、すべて、物理的であり、実体です。(エナァジで形成されることが、「物理的」と実体の本質と思われます)。エナァジで形成される微視的な作用も実体です。空間を形成し物質に質量をもたらすと言われるヒグズ粒子も実体です。空間は実体です。この宇宙に存在するものは、ほぼ全て、実体です。
《 存在・観念・時間 -- その源・質・意味・区分けなど 》
観念には複数の種類があるよう思われます。これは、それらの観念と存在というものの概念(と時間)を簡単に概観することができるようするための、ひとつの便宜的で暫定的な想定です。明解な根拠はありませんが、「無は存在しない」という真の命題が、その根拠のようなものかも知れません。
ちなみに、存在・観念・時間は、どれも、意識と関係ありますが、特に観念は意識と関係ふかいです。なぜなら意識は観念体とも言えるからです。
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1) この宇宙の源
2) 存在は論理により求められている
3) 物質的で具体的な固体が存在することは不条理と思われる
4) 観念の存在 -- 観念的なものなら無条件に存在できるかも知れない
5) 真理が存在の原点かも知れない
6) エナァジの正体は、物質的でなく、むしろ、観念のようなものかも知れない
7) 観念の区分け (暫定的な想定)
A) 潜在的存在
B) 顕在的存在についての基礎命題
C) 顕在的なものの存在を要求する命題
D) エナァジを体現する観念、そして、そのエナァジ観念が顕在化せしのちのエナァジ
E) 物理的観念
F) 生物の意識に生じる感覚 -- クワリアをともなう感覚的観念
G) 物質システム意識に生じる感覚的観念
8) 時間
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1) この宇宙の源
ビグ バン理論によるなら、この宇宙はビグ バンから始まりつ、そうです。つまりこの宇宙は元もと存在してはいなかりきです。
しかし、元もと存在してはいなかりしものがいきなり存在しはじめるというのは不条理です。そのようなことは有りえないです。このゆえ、この宇宙の存在は、ある意味、不条理です。
しかし、それでも、この宇宙は、その存在の不条理さを押して、存在しはじめました。
また、ビグ バンでは、エナァジだけが噴出しました。エナァジ以外のもの、たとえば、物質は、噴出してはおりません。素粒子は噴出してはいないです。つまり、この宇宙は、実質的に、エナァジだけを素材として形成されつです。
しかし、存在しなかりしものがいきなり存在しはじめるのは不条理なので、エナァジも、無からいきなり噴きだし、いきなり存在しはじめつのではないのに、違いありません。恐らく、この宇宙とは別に、存在のいちばん下の基盤である世界がどこかに存在し、エナァジは、そこに存在し、そこからこの宇宙に噴出しつのかも、知れません。
2) 存在は論理により求められている
ところで、スピノウザとベルクソンによるなら、無は存在しないです。真と思われます。このゆえ、論理的に見て、なにかが存在する必要があります。「無は存在しない」という論理は、「なにかが存在する必要がある」ということを含意しているのです。
しかしこれは一種めまいのするようなことです。論理が存在を求めているからです。しかも、それは、単なる希望でなくて、言わば、強制です。なにかは必ず存在しなくてはならないのです。それは義務であり、絶対です。驚くべきことに、存在は、論理により求められているのです。
もしかして、「無は存在しない」という論理が、(観念的な)論理と(物理的な)存在の接点かも知れません。そして、この論理は、存在についての基礎命題とでも見なされるべきかも知れません。
3) 物質的で具体的な固体が存在することは不条理と思われる
存在しなかりしものが存在することは端的に不条理です。しかし、(素粒子レヴェルでの固体ないし粒子の意味は明解ではありませんが)、物質的で具体的な固体が存在することは、なぜか、さらに不条理と思われます。
無は存在しなく、論理がなにかの存在を求めているにせよ、具体的なもの--たとえば、石ころ--がいきなり存在することに、理由はないのです。根拠が見当たりません。具体的なものは、存在する理由または根拠がないのです。
むしろ、なにも存在しないほうが自然です。無は存在しないので、なにも存在しないことも論理的に不条理ですが、しかし、なにも存在しないほうが、不条理さの度合いは低いよう思われます。
そして、この宇宙には、実際には、エナァジが存在します。なにも存在しないわけではないのです。少なくともエナァジは存在するのです。
(この宇宙には、実質的に、エナァジだけが存在します。(なぜなら、ビグ バンではエナァジだけが噴出しつゆえに)。そして、エナァジは存在するので、「なにかが存在する必要がある」という強制的な論理は、じつは、もう満たされているのです。そして、強制的な論理がもう満たされているゆえに、さらにエナァジ以外のものまで存在する必要はさらさらない、と思われます。論理は余計なものは求めておらず、余計なものは必要ないのです。このことは、エナァジ以上の物質的な固体ないし粒子が実際には存在しないことの(消極的な)理由になるかも知れません)。
4) 観念の存在 -- 観念的なものなら無条件に存在できるかも知れない
存在というものにつききちんと説明することは恐らくできないと思われます。それでも、もしかして、真理・論理などの観念的なものなら、無条件に存在できるか又は潜在できるかも、知れません。
「物質的」という言葉の意味は必ずしも明解ではありません。しかし、少なくとも、観念的なものに物質的な質は具わりてはいない、と思われます。「観念的」という言葉の主要な意味は「非物質的」ということかも知れません。さらに、「非物質的」には、「物質的に空ぽである」、「物質的な実体でない」という意味も含まれます。物質的な実体でなく、物質的に空ぽなものが、ひろい意味では観念なのかも知れません。
そして、(物質的な質の具わらぬ)観念的なものは、普通、(物理的・物質的に)存在するとは見なされません。しかし、観点を変えるなら、真理や論理などの観念的なものは、物質的ではないゆえ--物理的な実体ではないゆえ--、ある意味、どこにでも遍在する又は潜在する、と見なせるかも、知れません。それらは、物質的には空であり、物質的な実体ではないゆえ、存在しやすいのです。
そしてこういうことが存在のキーかも知れません。
5) 真理が存在の原点かも知れない
たとえば「無は存在しない」という真の命題は、だれに意識されずとも、そして、この宇宙の時間の流れとは丸きり関わりなしに、普遍的な真理として常に存在する、と見なさざるを得ない、と思われます。真理には、それは必ずそうであるという点で、不思議なもの、たとえば、それの存在についての不思議な強制力が、具わりている、と言えるかも知れません。論理的な真理(とそれに具わる不思議な強制力)が、存在の根本的な源かも知れません。そして論理的な真理は観念です。
すると、数学的な真理をはじめとして、(論理的な)真理は、一般に、(物理的または物質的ではないにせよ)、不思議なかたちで存在する又は潜在することになるかも知れません。
つまり、存在に関しては、まず、論理的な真理が無条件に存在するかも知れません。
6) エナァジの正体は、物質的でなく、むしろ、観念のようなものかも知れない
これは言語道断な考えかも知れません。
ビグ バンでは、この宇宙を形成する無限のエナァジだけが噴出しつそうです。そして、その噴出直後、インフレイション膨張直前の、1ミータァほどの大きさの初期空間は、その、無限の、超高密度で、超高温のエナァジだけで満たされていつそうです。
しかし、エナァジにそういう芸当ができつとするなら、エナァジは物質的ではありえません。エナァジは、物質的でなく、物質的な体積がなく、物質的に空ぽなのです。
(このゆえ、ビグ バンにおき、この宇宙を形成する無限のエナァジが、極微の点から瞬時に噴出することができつのでしょう。これは合理的です。また、体積あるものが先験的に存在することは不条理です。理由がありません)。
では、エナァジはどういう存在なのでしょう?
そういうエナァジはとても不思議ですが、エナァジは、物質的ではないゆえ、むしろ、(ひろい意味での)観念のようなものと見なすほうが相応しいかも知れません。エナァジは観念の一種かも知れません。
とにかく、エナァジは物質の構成要素であるにせよ、エナァジ自身は物質的ではないのです。むしろ、物質の究極の構成要素であるゆえ、エナァジ自身は物質的ではありえない、と考えられるかも知れません。
物質的でなく、物質的に空ぽであるものが、(ひろい意味での)観念に該当するかも知れません。そもそも、エナァジのような、物質的でなく、物質的に空ぽであるものの存在様相を表わす適切な言葉はありません。このゆえ、むしろ、観念には複数の種類があると想定するほうが、前向きで建設的、と思われます。エナァジの本体は、その一つかも知れません。
つまり、物質的でなく、物質的に空ぽであるゆえ、エナァジは、非物質的な観念のようなもの、と考えられます。つまり、エナァジの究極的な正体は、観念の一種かも、知れません。この観念は言わばエナァジ観念です。
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ただ、このエナァジ観念の詳細は少しも分かりません。
エナァジは、この宇宙での物理的実体の原点であり、この宇宙に存在する全ての実体の構成要素でありて、源です。
そして、エナァジは、この宇宙の絶えまない活動の原動力です。この宇宙での全ての物理事象は、エナァジにそなわる自発的・主体的・能動的な作用によりて駆動されもたらされます。
たとえば、エナァジは、ほかのエナァジや物質と物理的相互作用を果たすことができます。もしもエナァジが相互作用を果たすことできないならば、それは、その結果として、透明になり、実質的に存在しないことになります。
(ちなみに、エナァジの作用には、一般的な外的な働きとともに、内的な作用も含まれる、と思われます。なぜなら、エナァジの働きが物理的に厳密に果たされるには、内的な作用の働きが欠かせない、と思われるからです)。
エナァジは、物質的ではないのに存在する、不思議な物理的作用そのものと、思われます。
しかし、エナァジが、非物質的な観念のようなものであり、かつ、作用そのものであるにせよ、物質的に空ぽであるゆえ、その作用が物質的--機械的--に実現されることは有りえません。
このゆえ、その作用はまず観念として表現されるかも知れません。その表現は、言わばアルゴリズムです。アルゴリズムは、なんらかの働きの方法や手順を表現するものであり、非物質的--非機械的--な観念です。
エナァジの本体は、エナァジの機能を表現するアルゴリズムのような観念かも知れません。
そして、このアルゴリズムのような観念が何故か振動することで、それで表現される作用が、物理的に存在しはじめ、ひとつの物理的な実体のインスタンスとして、作用の働きをみずから遂行するようなるのかも知れません。
このゆえ、エナァジの源が、エナァジの機能を表現するアルゴリズムという観念であることは、ありそうなことと予想されます。
(物質的なものは、言わば固体です。しかし、固体は、硬直しており、いかなる作用も果たせません。このゆえ、巨視的なレヴェルで物質がどれだけ固体に見えようと、微視的なレヴェルで、固体は、実際には存在しないことになります。そして、この宇宙には無限の物質が存在しておりますが、それは、物質が実際には固体でないからです)。
エナァジ観念はそういう種類の観念かも知れません。エナァジの機能のアルゴリズムを表現(体現)し、かつ、振動することで、そのアルゴリズムそのものが稼働しはじめ、エナァジという物理的実体に昇格するような、そういう種類の観念です。(こういう観念は、私たちが普通にイメジする観念とは、その質が丸きり異なります)。
つまり、振動することが、潜在的存在である観念が顕在的存在として存在できることの要件の一つかも知れません。(ほかのエナァジや物質と相互作用のできることも、エナァジの要件の一つ、と思われます)。
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空間をふくめ、この宇宙に存在する全てのもの--いわゆる、物質--は、実際には、エナァジの統合的な集合体です。つまり、すべての物質の正体はエナァジです。
しかし、そのエナァジの正体は(振動している)観念かも知れないのです。
すると、この宇宙に存在する全てのものの究極の正体は、振動している観念である、ということになります。固体や粒子--物質的な実体--は、この宇宙には、実際には、どこにも存在しないです。この宇宙の究極的な正体は、物質的な実体でなく、振動している(エナァジ)観念なのです。
(詳しいことは、ここでは説明できませんが、実際のところ、この宇宙に固形物は存在しない、と思われます。なぜなら、根本的に、物質の構成要素であるエナァジは、体積なくて非物質的だからです。そして、エナァジがどれだけ沢山結合しようとも、それは決して固形物(固体・粒子)にはなりません。なぜなら、そもそも、エナァジに体積はないからです。
存在するのは、エナァジで体現される一人称の主体の物理的作用だけであり、その働きが、見掛けじょうでの物質の固体性をもたらすと、思われます。(たとえば、物質に押し戻し作用が具わりていれば、その働きの結果は見掛けじょうで固体と解釈されえます)。言わば、物質の固体性は、物理的作用の働きの投影ないし写像のようなものなのです。また、エナァジ観念は、エナァジの機能を表現するアルゴリズムのようなものと思われますが、それが物理的作用に該当する、と思われます。
さらに、物質が固体や粒子であるということは、サイズの大きな世界にすむ人間のいだく印象や解釈のようなものにすぎません。なせなら、私たち人間の感知は大きなサイズに適合するものであり、その解像度はきわめて粗いからです。私たちはエナァジや素粒子の一つ一つを細かく感知しているわけでは決してないのです。たとえば、画像の解像度を落とすと、その画像は荒くなります。固体性や固体の印象は、解像度を著しく落としし画像のようなものなのです)。
そして、この宇宙は無限のエナァジから形成されますが、その宇宙は、エナァジ観念から派生して実現される無数の宇宙--言わば、物理的な実体--のうちの一つの実例にすぎないかも知れません。
エナァジをふくめ、特定の場所や時間に拘束されて存在する物理的実体は、(遍在しうる)観念--言わば、設計--を元にして製造される製品(実例)のようなものかも知れません。
この宇宙は物理世界でありて、この宇宙に存在するものは、すべて、物理的です。しかし、その物理性や物理的な実体は、観念から派生するインスタンスにすぎないかも知れません。製品が設計という観念を元に製造されるように、物理性は観念からの派生物かも知れません。観念が物理性の基盤かも知れません。つまり、観念が、実体や物理的なものに先立つのかも知れません。
(以下のことがそれの理由になるかも知れません。
a) エナァジは体積なく非物質的である。
b) 物質をふくめ、エナァジで形成されるこの宇宙は完全に真空であり、固形物--固体・粒子--は、この宇宙のどこにも存在しない。
c) 物質の固体性などは、物質の本体である物理的作用の働きの結果としてもたらされる静的な物理性質であり、作用の働きの写像のようなものである。このゆえ、固体性などの物理性質は、エナァジで体現される物理的実体としては存在しない。つまり、物質の固体性などは見掛けじょうのものであり、体積あるものは実際には存在しない。
d) このゆえ、物質や空間の本体である、エナァジで体現される物理的作用も、エナァジ同様、体積なくて非物質的である。
もしもこの宇宙の全てのものが厳密な意味で体積なくて非物質的ならば、それはむしろ観念的と考えられます。
こういう次第で、観念性が物理性の基盤になりているかも知れません)。
7) 観念の区分け (暫定的な想定)
観念にかんする状況を概観しやすくするために、観念は、大まかに、次のように区分けできるかも知れません。
A) 潜在的存在
B) 顕在的存在についての基礎命題
C) 顕在的なものの存在を要求する命題
D) エナァジを体現する観念、そして、そのエナァジ観念が顕在化せしのちのエナァジ
E) 物理的観念
F) 生物の意識に生じる感覚 -- クワリアをともなう感覚的観念
G) 物質システム意識に生じる感覚的観念
A) 潜在的存在
物理的でなく(物質的でなく)、観念的な真理でありて、ある意味、どこにでも遍在できることが、存在のキーかも知れません。
そして、真理と判断される全ての観念は潜在的存在と位置づけられるかも、知れません。
そもそも観念を存在すると見なすのは難しいですが、もしもそれが真理なら、必ずそうであるという点で、観念は、無時間のうち、かつ、不思議なかたちで存在する又は潜在する、と評価できるかも知れません。そして、真理の観念は、物理的なものとして顕在しはしないので、潜在的存在と言えるかも知れません。そして、潜在的存在である真理が存在の原点かも知れません。
スピノウザは次のように表明しました。
無からは何も生じない。これと、そして、同様の命題は、絶対的な意味で永遠の真理と呼ばれている。
スピノウザは、真理は、無時間のうち、(無条件に)存在する--潜在する--、と考えていつのかも、知れません。
そして、真理空間ないし観念空間とでも呼べるような不思議で超越的な世界がありて、真理はそこに存在する、と想定することも、可能かも知れません。
B) 顕在的存在についての基礎命題
顕在的存在とは、潜在的で非物質的(非物理的)な観念から派生する物理的な存在である、と想定できるかも知れません。
そして、「無は存在しない」という観念が、顕在的存在についての基礎命題に該当するかも知れません。
この命題は、潜在的存在である真理の一つです。この命題は、端的に、存在についての根本的な状況を表現しており、かつ、真です。この命題は、客観的なものであり、いかなる強制力も有しておりません。しかし、「なにかが存在する必要がある」という命題を含意しています。
C) 顕在的なものの存在を要求する命題
「無は存在しない」という命題には「なにかが存在する必要がある」という命題が含意されています。この命題が、顕在的なものの存在を要求する命題に該当します。
この命題も存在についての状況を客観的に表現するものですが、しかし、不思議に、存在についての強制を表現しています。
「無は存在しない」という観念と「なにかが存在する必要がある」という観念のペアァは、(潜在的存在である)真の観念と、顕在的存在--いわゆるエナァジや物質--とのあいだの、(意味上の、または、観念側の)接点かも知れません。
D) エナァジを体現する観念、そして、そのエナァジ観念が顕在化せしのちのエナァジ
ビグ バンでは、エナァジだけが噴出しましつ。そのエナァジは、元もと、物理的存在の基盤である別の世界--言わば、エナァジ世界--に存在していつに違いありません。そして、その基盤の世界は、(この宇宙という、物理的世界のひとつのインスタンスに生きる私たち人間にとり)きわめて特異な世界なのに、違いありません。
まず、「無は存在しない」という観念と「なにかが存在する必要がある」という観念に強制されるように、その別の世界--エナァジ世界--に、無時間のうち、エナァジを体現する無限の観念--言わば、エナァジ観念--が形成されつかも知れません。無時間なのは、観念は時間とはいっさい関わりないと、思われるからです。
ところで、エナァジは物理的作用そのものです。このため、エナァジを体現する観念は、エナァジの物理的作用を表現するアルゴリズムのような観念かも知れません。
そして、そのあと、その、アルゴリズムであるエナァジ観念に、ただちに、なんらかの動き--たとえば、振動--が生じつのかも知れません。言わば、エナァジのアルゴリズムが稼働しはじめつです。そして、その稼働はじめしアルゴリズムが、いわゆるエナァジになりぬかも、知れません。
つまり、エナァジが物理的な実体(の源)として顕在化しつのは、エナァジの働きを規定するアルゴリズムに、動きや振動のような、なんらかの不思議な実効性が具わりしためかも、知れません。
サイズの大きな物理世界にすむ私たち人間には、物理的な動きというのはごく当たりまえのものです。しかし、観点を変えるなら、物理的な動きというのは、ある意味、不思議なものかも知れません。
または、そうでもないかも知れません。単に、エナァジ観念が振動しはじめしだけのことかも知れません。エナァジ観念は振動してはいけない、という決まりはない、と思われます。
それでも、もしも、エナァジ観念が、振動しはじめ、それでエナァジとして顕在化しつのであれば、観念という非物理的・非物質的なものが振動しはじめる部分は、きわめて不思議です。
そして、稼働しはじめしエナァジ観念(= エナァジ)の(時間の経過のなかでの)動きが、物理性の本質かも知れません。
そして、そういう本質を具えているエナァジが、物理性の源です。
さらに、エナァジは、また、プロセスと言えます。
つまり、なにかが、(時間の経過のなかで)動いていること、動きつづけるプロセスであることが、その何かが物理的であり、その何かが物理的な存在であり、そして、その何かに物理的な実効性の具わりていることの、要件かも知れません。
ひと言でいえば、動きが物理的な存在を出現させているのです。恐らく、動きが停止するなら、その存在--究極的には、エナァジ--は、ただちに観念に還元されて、この宇宙からは消滅するに違いありません。
また、物理的な実効性には、ほかの存在と相互作用のできることも含まれます。物理的な存在に自発的・主体的・能動的に動作する作用の具わりていることも、物理性ないし物理的な実効性の要件かも知れません。
そして、この宇宙に存在するものは根本的にエナァジだけであり、全てのものはエナァジで構成されるです。
このゆえ、この宇宙の全てのものが、プロセスであり、物理的であり、物理的実効性(= 作用)を具えているのです。作用が具わりていず、ほかの存在と相互作用を果たすことのできないものは、この宇宙には存在できないのです。
エナァジとは、稼働しているエナァジ観念かも知れません。エナァジは、このような形で、潜在的存在である観念が、顕在的存在である物理的な実体のほうに飛躍せしあとの観念かも知れません。
エナァジは、この宇宙という物理的存在の源ですが、そのエナァジの源は、観念かも知れません。信じがたいですが、観念が、実体に先立つかも知れません。(遍在しうるものである)観念が、物理的なものに先立つかも知れません。物理性の根底には観念が存在するかも知れません。論理をふくめ、観念が、物理性の基盤になりているのかも、知れません。
そして、物理性は、観念からの派生物かも知れません。実体は、観念から派生せし実例なのかも知れません。
(物理的な動きの厳密さ--言わば、物理法則にしたがう物理的な動き--は、観念的な働き--自分自身についての測定と演算--に基づかないかぎり決して達成されえない、と思われます。このゆえ、それは、それほど的外れとも思われません)。
そして、稼働しはじめしエナァジ観念(= エナァジ)で充満せし超越的な世界が、始まりなしに、永劫の昔から存在していつのかも、知れません。(なぜなら、真理という観念は、(物理的実体として存在しない)時間とは、関わりないと、思われるので)。
さらに、エナァジは、(潜在的存在である)エナァジ観念と、顕在的な存在--いわゆるエナァジや物質--とのあいだの、(顕在側、または、実体側の)接点かも知れません。
E) 物理的観念
物質の本体はエナァジで体現される物質作用でありて、物質は物質作用そのものです。物質作用が物質の本質であり、物質作用が物質に先立つのです。
しかし、そもそも、エナァジに、自発的・主体的・能動的な作用が具わりており、エナァジが物理的な作用そのものと、思われます。さもなくば、エナァジは、ほかのエナァジや物質と相互作用を果たすことできず、存在できないからです。この意味で、ほかのエナァジや物質と相互作用を果たせることが、物理的実体の根本要件の一つ、と言えます。
(物質作用は、エナァジ作用からの継承です。物質作用の本体はエナァジ作用です)。
そして、相互作用を果たすには、(時間の経過のなかで)動けることも欠かせないです。エナァジは、硬く硬直している固体でありてはいけないのです。エナァジは、作用として、いつまでも動きつづけていることができなくてはいけません。このことも、エナァジの要件の一つです。
そして、エナァジや物質に物理的に厳密な動きが生じるためには--言わば、エナァジや物質の動きが物理法則に厳密に従うためには--、それらの現状についての測定と、その測定にもとづく、つぎの瞬間の状態についての演算が、不可欠です。測定と演算という観念的な働きだけが、物理的な厳密さの根拠になりうると、思われます。(物理的な動きの厳密さは、観念的な測定と演算に基づかないかぎり、決して達成されえない、と思われます)。
このゆえ、エナァジや物質では、測定結果と演算結果という観念が、瞬間的に(ほぼ無時間のうちに)形成されつづけている、と想定せざるを得ないです。
(これも信じがたいかも知れませんが、この意味で、エナァジや物質には無生物の知性が具わりている、と評価できます。(知性は無生物でありえます。知性は基本的に無生物です。AIやコムピュータァがいい例です)。そして、このことも、観念が物理性に先立つことの根拠ないし実例と、言えるかも知れません)。
さらに、エナァジや物質に生じる測定結果と演算結果という観念には、発生し消滅するというダイナミズムが具わりています。そして、エナァジや物質に具わる作用の(働きの)動きが、このダイナミズムに対応する、と思われます。このゆえ、作用の動きそのもの、または、動きの状態そのものが、測定結果と演算結果という観念になる、と推測されます。ほかには見当たりません。
ただし、この観念は、潜在的存在である真理や論理の観念とは、質が丸きり異なると、思われます。エナァジや物質に生じるこの観念は、物理的観念と呼ぶのが相応しい、かも知れません。
それでも、もしも真理や論理の観念が存在の原点ならば、エナァジや物質に(物理的)観念の生じることにそれほど無理はないのかも知れません。(そもそも、物理性の根底には観念が存在するかも知れないゆえに)。
むしろ、エナァジや物質に具わる物質的な働きが、(物理的実効性を帯びし)観念により果たされる、かも知れません。
物質は対外的には三人称の客体であり、空間移動や自転などの動きは力学により説明されます。
それでも、それらの動きの根底に観念が関与している可能性は、考えられないでもありません。
そして、もしもそれが事実なら、結晶の形成プロセスや生物の、物理法則に違反しているよう見える動きも説明されうると、予想されます。なぜなら、それらの動きは、統合的かつ包括的な演算ないし思考という観念にもとづき生じると、推測されるからです。(それらでの物質の動きには統合性と協調性が具わりており、それらでは物質の動きが組織化されて制御されている、よう見えます)。早い話、生物の活動は、意識に形成される思考にもとづき実現されるです。
このことは、少なくとも、自分自身にかんし、主観的かつ即値の事実です。体(の筋肉)が動きしのちに意識に思考が生じるのではありません。意識に生じし思考にしたがい体が動くです。
(人間や動物の体に生じる自律的な動きは、その動きの制御を担当する部位の意識で果たされる演算にもとづき生じます)。
(ちなみに、これは、結晶の形成プロセスや生体での物質の動きに観念がふかく関与していることを、意味します。このゆえ、ここには物理学にとり深刻な問題が潜在しています。なぜなら、現在の物理学では、物質と観念のあいだに接点はなく、それらのあいだは切れているからです。しかし、もしも物理学によりその問題の解決が取りくまれるなら、それは興味ぶかいものになるだろう、と予想されます。
もっとも、エナァジや物質に無生物の知性が具わりているという点で、そもそも、それらの内部空間が、物質と観念のあいだの接点ですが、細胞・組織・器官などの生体の内部空間も、物質と観念のあいだの接点と、予想されます。結晶の塊の形成プロセスもそうです)。
F) 生物の意識に生じる感覚 -- クワリアをともなう感覚的観念
意識は、生物の細胞・組織・器官などの生体に発生する、と推測されます。意識は、それらの構成要素の物質に具わる物質作用のうちの、観念的な働きをはたす物質作用--測定作用と演算作用--から形成される巨大かつ統合的な物質作用(= 巨大な物理現象)、と推測されます。これは、言わば、物理的意識です。そして、物理的意識にそなわる観念的な物質作用の動き(の状態)は、物理的観念です。
大きな物理現象は一般に残響しますが、巨大な物理的意識としての物質作用の動き(= 物理的観念)も残響する、と思われます。
そして、この物理的観念の残響が、クワリアをともなう感覚的観念になる、と予想されます。
または、この残響が、物理的意識のうちの巨大な測定作用--言わば、身体感覚作用・感知作用・情報収集作用・究極のわたし--によりて、クワリアをともなう感覚として感知される、と思われます。
巨大な測定作用に生じる残響は身体感覚という感覚的観念であり、巨大な演算作用--言わば、思考作用・設計作用--に生じる残響は思考の感覚という感覚的観念です。(身体感覚作用は、要するに、感知作用なので、思考の感覚も感知します)。
残響としてのこの感覚的観念は、感覚的意識--非物理的意識・いわゆる、生物の意識--に写る、物理的観念の(動きの)影ないし投影のようなもの、と思われます。
このゆえ、私たち人間や生物の感じるクワリアをともなう感覚のみは、物理的でない、と推測されます。
動的に発生し消滅するものであれ、この宇宙という物理世界に、感覚という非物理的なもの(非実体)が発生するとは、ある意味、驚きです。しかも、信じられないかも知れませんが、私たちそのものである感覚的意識(= 究極のわたし)も、物理的意識の(動きの)影のようなものであり、非物理的であり、物理的実体としては存在しないです。
G) 物質システム意識に生じる感覚的観念
これは荒唐無稽な推測かも知れません。
ある物質システム内部で発生する熱が外部に排出されたり、ある物質システム内部に存在する熱が外部に流出したりすると、そのシステム全体のエントゥロピー生成速度は減少します。
そして、システム全体のエントゥロピー生成速度の減少は、エナァジにそなわる自己創発作用を活性化させる、と推測されます。(ビグ バンのインフレイション膨張での、エナァジの固化の相転移による素粒子の形成が、その好例です)。
(熱は品位が悪く使いづらいエナァジですが、予想外なことに、外部に流出することで、系のエントゥロピー生成速度を減少させて、逆説的に、系を構成するエナァジの自己創発作用を活性化させる働きを果たすのだろう、と推測されます)。
ただ、エナァジの自己創発作用が活性化されるにしても、それだけで、そのシステムを構成する物質のレヴェルで創発が生じることは、ふつうは不可能です。それらの物質が融合することは、普通はありえません。
それでも、エントゥロピー生成速度の減少により、エナァジにそなわる自己創発作用が活性化され、エナァジにそなわる作用の一部は融合しうるかも、知れません。もしも、それらが、測定作用や演算作用などの観念的な作用なら、物質的な動きが必要ないので、融合しうるかも、知れません。
実際、生物(生体)の意識は、この枠組により形成される、と推測されます。生体の意識はエナァジにそなわる測定作用と演算作用の巨大な融合体と推測されます。意識はエナァジそのものです。
そして、エントゥロピー生成速度の減少するシステムは、生体だけには限られません。そして、エントゥロピー生成速度が減少してさえいれば、無生物の物質システムにても、(無生物の)意識は発生しうる、と推測されます。
そして、エントゥロピー生成速度の減少する環境や物質システムは、地球上に無数に存在する、と思われます。熱の発生する場所なら、どれもが該当します。雪の結晶の形成プロセスや、各種の物質の結晶の塊の形成プロセスも、該当します。海底の熱水の噴出口のあたりも該当します。(ここは生物のふるさとの一つ、と予想されています)。
ただ、それが一つの物質システムであるためには、構成要素の物質が互いに接触していることが不可欠と、思われます。なぜなら、物質の本体であり、表面に露出しているエナァジが、接触をとおし、融合しないといけないからです。
(私たちの体そのものが途轍もない量のエナァジの集合体ですが、私たちが何に触るにしても、私たちは、物質の表面に露出しているエナァジに直接さわりているのです)。
またそれらは宇宙にも存在します。恒星や惑星などの天体では、核反応により内部で発生する熱が宇宙空間に放射されます。このゆえ、それらの内部空間でもエントゥロピー生成速度は減少していると、推測されます。
このため、とても信じられませんが、地球上の熱の発生する色いろな場所・惑星内部・恒星内部でも、無生物の意識が発生しているに違いないと、自然に予想されます。
さらに、意識は、根本的に巨大な物理現象なので、その動きは残響し、その残響が、クワリアをともなう感覚的観念になる、と推測されます。
つまり、驚くべきことに、物質システムに発生する無生物の意識にも、感覚が感じられているかも知れないのです。
しかも、その感覚の質は、私たち生物の感じる感覚と、本質的に違いはない、と思われます。なぜなら、感覚は、意識の作用の残響に起因してもたらされる影のようなものだからです。
ただ、それは、生物の意識でないゆえ、生物が感じるような苦楽の感覚になりてはいないであろう、と思われます。
また、測定作用により得られる情報におうじ演算作用が働きて、物質のつぎの瞬間の状態が演算されますが、その演算結果も、クワリアをともなう感覚的観念--言わば、思考の感覚--になりているだろう、と予想されます。
つまり、それぞれの物質システムに生じる無生物の意識は、その物質システムの大きさにおうじ、途方もない量の身体感覚と思考の感覚を、苦楽の感覚なしに、同時に感じているかも知れません。
しかも、その状況は、その物質システムが稼働しはじめしのち、崩壊するまで、果てしなく続くです。
結晶の形成プロセスならば、さほどの時間でもありませんが、海底の熱水噴出口のあたりの物質システム意識の持続時間は相当ながい、と思われます。地球内部の超巨大な物質システム意識に至りては、およそ45億6千7百万年も継続しているのです。
では、それぞれの物質システム意識はなにをしているのでしょか? 人間の脳と意識で果たされる高度な情報処理ではありえません。恐らく、物質システム意識では、構成要素の物質とそれらの組みあわせで可能な次の瞬間の状態--物理的秩序--が、果てしなく演算(設計)されつづけているだけだろう、と推測されます。しかし、一般に物質システムは固いので、事実上、なにもできません。現状維持の演算結果が出されつづけるだけだろう、と推測されます。そして、見掛けじょう、その物質システムに変化は生じないです。
それでも、海底の熱水噴出口のあたりは物質的な可塑性に富むゆえに、そこでの物質システム意識の働きに基づき、生物の形成が自然に進められつかも、知れません。そして、新種の生物の形成は今も進められているかも知れません。
ただ、エントゥロピー生成速度の減少する物質システムに意識が発生するか否かを確かめる術はほとんどないだろう、と思われます。
それでも、各種の物質の結晶の塊の形成プロセスでの物質の動きには統合性と協調性が具わりているよう見えるです。言わば、そこでは、物質の動きが組織化されて、制御され、たかい物理的秩序が形成されているのです。
そして、そういうことは、物質システム全体にわたり形成される大きな意識--大きくダイナミクな物理的秩序--の働きなしには達成されえない、と予想されます。(物質システム全体の広範な状況を、一度に感知でき、かつ、設計できるのは、そのシステムに発生している大きな意識だけと推測されます)。
しかし、エントゥロピーは増大するという熱力学第二法則ゆえに、たかい物理的秩序が自然に形成されることは有りえません。
このゆえ、たかい物理的秩序が自然に形成されているよう見えることが、その物質システムに意識が発生しているに違いないと推測されることの根拠ないし証拠のようなものになる、かも知れません。
コムピュータァなどの電子機器なら、それを冷却する--エントゥロピー生成速度をより減少させる--ことは、なんらかの違いをもたらすかも知れません。たとえば、デイタの誤りが減少するかも知れません。もっとも、それを、そのシステムに形成される意識の働きと評価することは難しいですが。
8) 時間
ところで、動き--振動や変化--が生じるためには、時間の経過が欠かせないです。そして、時間も、不思議なものに思われます。
私たち人間の意識は、エナァジそのものです。意識は、エナァジの、巨大な創発体ないし融合体であり、物理的です。意識は、巨大な物理現象であり、時間の経過のなかで動作する巨大なプロセスです。
そういう意識は、根本的に、時間の経過のなかにのみ存在(発生・生存)しえます。意識が先に存在するのでなくて、そもそも時間が先に流れているのです。意識は、そういう、先験的に時間が経過している枠組のなかで生きています。
この枠組が、意識に、時間が経過するという印象を不可避的にいだかせる、と推測されます。
たとえば、意識は、時間の経過のなかで生きているゆえ、様ざまな物理的変化を嫌でも意識せざるを得ないです。
そして、変化は、かならず時間の経過のなかで生じます。
この、時間の経過のなかで生きているゆえ、時間の経過にともない必ず生じる変化をいやでも意識せざるを得ないという枠組が、意識に、時間の経過の印象をいだかせるのでしょう。(なぜなら、変化は、かならず時間の経過のなかで生じるゆえに)。
そして、その印象が、経過するものとして何か--つまり、時間--が存在するよう思われることの理由かも知れません。
しかし、時間は、物質的なものとしては存在しないよう(無意識的には)感じられます。
そして、冷静に評価するなら、時間は、エナァジで体現される物理的実体--つまり、ひろい意味での物質--としては存在しない、と思われます。
時間は物質的なものとしては存在しないです。そして、この宇宙という物理世界において、エナァジで体現される実体--物質--でないものは、存在しないです。つまり時間は存在しないです。
たとえば、時計は、長針・短針・秒針などの動きをとおし--根本的にはエナァジの振動に駆動され--、数を数えているだけです。時計は時間そのものを測定しているわけでは決してないのです。
時間は(物理的実体としては)存在しなく、あるのは、エナァジの動き--振動--です。エナァジという物理的実体の出現せし世界において、時間が先験的に経過していしわけではないのです。時間とは関わりなしに、単に、エナァジが、独自に振動しはじめつだけのことです。
そして、その振動が、見掛けじょうでの時間の流れを作りだし、その時間の流れ--言わば、エナァジの振動の枠組--のなかにしか存在しえぬ私たちの意識に、時間の経過の印象をもたらすと、思われます。
時間はエナァジの振動の別名のようなもの、と言えるかも知れません。
それでも、物理的な実体としては存在しないものが、あたかも存在するもののごとくに経過しているよう感じられるゆえに、時間は不思議に感じられるのでしょう。