2 意識の特徴や手がかり
2 意識の特徴や手がかり
意識の特徴や手がかり
意識はエナァジにより動作するわけでない (重要)
意識は一人称をとる主体(私)である (超重要)
生体の動きはオートポイエシスに該当する (超重要)
知性の発生の間接的ながら客観的な証拠・観念と物質のあいだの接点 (超重要)
《 意識の特徴や手がかり 》
意識は掴みどころなく不思議なものですが、探す手がかりになりそうな特徴が全然ないわけでもありません。
他者に意識が具わりているか否かは実証できません。それはほぼ不可能と思われます。しかし、じぶんの主観にとりて、じぶんに意識が具わりていることや、じぶんが意識そのものであることは、自明です。(私たちの一人一人にとりて、その判断は否定しがたいです)。さらに、意識についての物理的な観測や測定はほぼ不可能と思われますが、じぶんの意識は自分で主観的には観測できます。
なので、それがどういうものかは今はまだ分からないにせよ、(目覚めて、意識が発生しているあいだ)、じぶんの意識はこの宇宙という物理世界に存在している――または、物理現象として一時的に形成されている――と、判断されます。
たとえば、風という物理現象は空気で形成されますが、意識がそういう受動的で動的で一時的なものとして形成されて存在することは、考ええます。
(主観にもとづく)意識の特徴や手がかりは次のとおりです。
................
A) 表面的な印象
B) おそらく、意識は、物理的
C) 意識は物理現象
D) 意識はなんらかの物理的秩序
E) 主観の意識は脳という物質に発生するよう思われる
F) 意識は生物に発生するよう思われる
G) 意識は物理的
H) 意識は二面性を帯びている
I) 感覚
J) 思考
K) 意識は統合的・包括的で大きい (重要)
L) 意識の質は微視的 (重要)
M) 意識は作用と思われる (重要)
N) 人間や動物は思考にもとづき動いているよう見える (重要)
O) 意識はエナァジにより動作するわけでない (重要)
P) 意識は一人称をとる主体(私)である (超重要)
Q) 生体の動きはオートポイエシスに該当する (超重要)
R) 知性の発生の間接的ながら客観的な証拠・観念と物質のあいだの接点 (超重要)
................
A) 表面的な印象
- 意識は、感覚的で精神的。
- 意識は、掴みどころない。
B) おそらく、意識は、物理的
- 主観的な事実として、じぶんの意識は地球上――この宇宙という物理世界――に発生している。
このことから、意識がこの宇宙の物理学の枠内で発生していることと、そして、意識がおそらく物理的であることが、憶測されます。おそらく、意識は、物理学の視野のうちにあります。
C) 意識は物理現象
- 意識は、目覚めると発生し、眠ると消える。
- 意識は、発生しているあいだ、時間の流れのなかで持続する。
- 意識は、発生しているあいだ、片時も休むことなく変動する。
この宇宙において、時間の流れのなかで持続しながら変化するものは物理現象です。意識は(きわめて特異な)物理現象かも知れません。
D) 意識はなんらかの物理的秩序
- 意識はなんらかの物理的秩序と思われる
これはうまくは説明できませんが、意識はなんらかの物理的秩序と思われます。意識は決して無秩序やケイオスではありません。しかも、意識は、高度な物理的秩序、と思われます。そして、エントゥロピは増大するという熱力学第二法則のため、高度な物理的秩序は、なんらかの物理的な根拠のないかぎり、自然には決して発生できません。(高度な)物理的秩序が発生できるためには、なんらかの物理的な条件が満たされる必要があります。それで、意識も、なんらかの物理的な条件が満たされることで発生する、と思われます。
E) 主観の意識は脳という物質に発生するよう思われる
- 医学・神経科学・薬学などの知見や研究から、少なくとも、主観の意識は、脳という物質に発生するよう判断される。
たとえば、病気や怪我で脳が損傷を受けると、それは直接に人の意識(人格)に影響します。また、脳に作用する向精神薬によりても、人の意識は影響をうけます。このことから、人の主観の意識はまちがいなく脳という物質に発生するよう思われます。
F) 意識は生物に発生するよう思われる
- (根拠はないが)、意識は生物に発生するよう思われる。
- (根拠はないが)、意識は、まず、微生物・単細胞生物・細胞などの1個の統合的な生体に発生するよう、思われる。
根拠はありませんが、微生物・単細胞生物・細胞のなか、酸素を使うことで果たされる何らかの生化学的なプロセスのなかに、生命と意識が発現する鍵がある、と推測されます。そして、エントゥロピの生成と、エントゥロピ生成速度の減少が、その鍵と思われます。なぜなら、エントゥロピは、物理的な秩序とふかい関わりがあるからです。
G) 意識は物理的
- 意識は五感を感じることができる。
- 意識は、体や外部世界を感知できる。
- 意識は三次元空間を理解できる。
- (意識は時間の流れを感じることができる)。
- (人間や動物は思考に基づき動いているよう見える)。
これらは、意識と(ひろい意味での)物質のあいだのどこかに接点があることと、意識が物理的であることを、意味します。
(意識が物理的であることは、思考と筋肉運動からも導けますが、簡単ではありません)。
H) 意識は二面性を帯びている
- 物理的であることから、意識は精神性と物理性の二面を帯びている、と思われる。
なので、意識を探すには物質から始めるのがいいと思われます。
I) 感覚
- 意識は五感を感じることができる。
感覚は観念です。なので、意識を探すには、観念である感覚・感覚機能をもたらせそうなものを、(物質のなかに)探せばいいかも、知れません。
しかし、ふつうの(巨視的な)物理法則が適用される巨視的な世界でそういうものを見つけることは難しいかも知れません。なぜなら、巨視的な世界での物質は、根本的に、痕跡であり、静的な物理性質であり、三人称の客体でしかないからです。巨視的な世界は完全に三人称の客体の世界です。
そして、感覚は、一人称の主体にそなわる機能です。(ちなみに、物質とは異なり、巨視的な世界にて、意識は一人称の主体です)。痕跡であり、三人称の客体でしかない物質が、感覚という主観的なものを感じることは、不可能と、思われます。三人称の客体の巨視的な世界に意識という不思議なものがただで発生するのを期待するのは、困難です。
なので、意識は、物質のなかの微視的な世界にて探せばいいかも、知れません。
J) 思考
- 意識は思考を感じることができる。
思考は観念であり、感覚も観念です。様相ないし質は根本的に異なりますが、五感(身体感覚)と同様、思考も意識に感じられる感覚と思われます。(そして、(おそらく意識に具わりている)思考作用の動きそのもの、ないし、その影のようなものが、意識には思考の感覚として感じられるのだろう、と思われます。(ちなみに、(作用の)動きというものは、時間の経過のなかにのみ出現します。妙なものです)。なので、動きが終息すれば、思考の感覚も消えるのだろう、と思われます)。
意識を探すには、観念である思考・思考機能をもたらせそうなものも、物質の微視的な世界のなかに探せばいいかも、知れません。
ところで、プロウグラムは、デイタの入力・変換・出力にて、意味的には観念を扱うものであり、意識は、ある意味、プロウグラムにとても似ています。感覚がデイタ入力に該当し、思考が変換処理に該当します。そして、思考に基づき人間や動物が動いていると推測されることから、もしかすると、意識からの出力――生体を構成する物質群への思考結果(観念・情報)の伝達――もあるのではないか、と思われます。(もっとも、これは、意識が直接に生体(の物質群)を動かすことまでは、必ずしも意味していません。情報の伝達だけを意味します。そして、情報の伝達は、物質的でなく、観念的な物理事象です)。
K) 意識は統合的・包括的で大きい (重要)
- 意識は、脳のひろい範囲で発生する多数の感覚(身体感覚)や思考(思考感覚)を一度に感知することができる。
これは、主観的ないし経験的な事実でしかありませんが、意識が統一的・統合的・包括的で大きなものかも知れないことを、意味します。
ちなみに、なにかが1個の量子として形成されることが、統合性・包括性の証しです。この宇宙では、1個の物理的な実体としての統合性・包括性を有するものは、量子だけです。なので、意識は、(きわめて特異な)量子のようなものである可能性が、あります。これは大きな手がかりかも知れません。
L) 意識の質は微視的 (重要)
- 意識の存在様相は、きわめて特異。
- (おそらく)、意識は、無形で、触れない。
- (おそらく)、意識を観測したり測定したりすることは困難ないし不可能。
- 意識はふつうの物理法則では捉えることができないよう思われる。意識はふつうの物理法則の埒外にあるかも知れない。
しかし、ふつうの物理法則が通用しない(と言われる)ものは、現実に存在します。それは、素粒子の微視的な世界です。
すると、そういうことだけに限定すれば、意識と素粒子(量子)の存在様相は似ていると、思われます。つまり、意識は、物理的であると同時に、その質は微視的かも知れません。
これも大きな手がかりかも知れません。なにしろ、意識の存在様相はきわめて特異でありて、量子を除外し、そういうものが他に見当たらないからです。
M) 意識は作用と思われる (重要)
- 意識には、身体感覚作用と思考作用が具わりている、と思われる。
- 意識は、身体感覚作用と思考作用から成るよう、思われる。
- 意識は、大まかには、作用と思われる。
身体感覚作用と思考作用は、実体を操作する作用でなく、観念的な働きをはたす作用です。なので、意識は、大まかには、観念的な働きをはたす作用と思われます。
そして、作用は、無からは形成されえません。作用は、かならず、なんらかの実体――物理的なもの、ないし、物質的なもの、究極的にはエナァジ――から形成される必要があります。
そして、身体感覚作用・思考作用・意識は作用なので、これらは、エナァジで体現される、なんらかの実体であるよう、思われます。意識は、少なくとも、物質的なものから形成される必要がある、と推測されます。
N) 人間や動物は思考にもとづき動いているよう見える (重要)
- 人間や動物は(五感と)思考にもとづき動いているよう見える
自分が意識であることは、自分にとりては否定のできない主観的な事実です。そして、自分が、自分の意識に生じる思考にもとづき活動しているように思われることも、自分にとりては否定のできない事実です。
そして、このことを単純に解釈するなら、考えることや思考と、自分の体という物質のあいだには、接点があることになり、(意識の出力面におき)、意識や、考えることや、思考は、物理的、ということに、なります。(もっとも、思考は、物理的な思考作用の動きの影のようなものにすぎなく、物理的でなく、観念的かも、知れません)。
しかし、このことは、慎重に検討する必要があります。なぜなら、脳に出現する主観の意識に生じる思考と、体の動きのあいだの隔たりは、とても大きいからです。また、思考が、意識のなかで果たされるのではなく、脳という物質によりごく物質的に果たされる可能性も、あるからです。(この場合、意識に思考が感じられることは付随現象になります)。
しかし、いきなり、脳という途轍もなく大きい器官に出現する意識をことを考えるのは、無謀かも知れません。むしろ、細胞から検討を始めるのがいいのかも、知れません。なぜなら、細胞には脳がないにも拘わらず、細胞はオートポイエシスを果たしているからです。そして、オートポイエシスには、包括的な情報収集や設計や通信が欠かせないからです。これらは観念的な事象でありて、身体感覚や思考に相当します。
《 意識はエナァジにより動作するわけでない (重要) 》
O) 意識はエナァジにより動作するわけでない (重要)
これはとても納得しづらいことですが、これも意識の特徴や手がかりの一つです。
- 意識はエナァジにより動作するわけでない、よう思われる。
- 意識は物質作用と同質かも知れない。
これは明解には言えませんが、ふつうの事物とは異なり、私たちの意識はエナァジにより動作するわけでない、よう思われます。そして、エナァジにより動く普通の(巨視的な)物理事象は普通の物理法則に律せられるので、この点でも、私たちの意識は、普通の物理法則が適用されないもののように、思われます。(つまり、意識は、やはり、微視的かも知れません)。
................
1) 意識の(巨視的な)変化は動画の再生のようなもの
2) 意識の瞬間的な身体感覚や思考感覚は静止していて、意識の巨視的な動きの原動力は意識の外にあり、意識は、巨視的には、じぶんで動くわけでない、受動的な物理現象
3) 意識の瞬間的な感覚はエナァジを消費することなしに生じている
4) 物質にそなわる内的な作用群はエナァジを必要とはしない
5) 物質にそなわる内的な作用群が物質の正体
6) 物質作用の働きと同様、意識にしょうじる感覚は瞬間ごとに生成される
7) 動きには二種類がある
8) 物質作用の動き(働き)は瞬間的
9) 時間の経過のなかでの(巨視的なレヴェルの)あらゆる動きは、外的な力やエナァジに駆動され、つねに動作している瞬間的な物質作用を構成要素として、受動的かつ連続的に形成される
10) 物質にそなわる瞬間的な作用群はつねに動作している
11) 意識の作用には時間も(エナァジも)必要はない
12) アイドゥル状態にある意識は空である
................
1) 意識の(巨視的な)変化は動画の再生のようなもの
まず、意識に感じられる身体感覚や思考などの観念は、つねに変化している(動いている)ように見えます。しかし、これは、動画の再生と同じである可能性が、あります。
動画を形成する沢山のコマのそれぞれは静止していますが、それらも連続的に再生されるなら、そこには動きが生じます。そして、この動きは、コマ群がみずから生じさせるのではなく、再生装置により齎されます。つまり、動画の動きの原動力は、コマ群ではなく、(エナァジにより動作する)再生装置に具わりているのです。
2) 意識の瞬間的な身体感覚や思考感覚は静止していて、意識の巨視的な動きの原動力は意識の外にあり、意識は、巨視的には、じぶんで動くわけでない、受動的な物理現象
そして、意識において、瞬間瞬間の身体感覚や思考感覚は、(時間を要することなく)、その形成が瞬間瞬間に完成していて、瞬間瞬間の感覚や思考は静止していることが、考えられます。そして、動きは、意識を形成する基盤である生体における巨視的な物理事象が齎している可能性が、あります。それは、瞬間瞬間のものは静止していても、それらが連続的に形成されるなら、その全体は自発的に動いていると、主観の意識には錯覚されえると、思われるからです。
(ちなみに、時間の経過のなかでの、こういう動き(変化)が、一人称の主体である意識による感覚の自覚をもたらすのかも、知れません。または、そういうことそのものが、一人称の主体である意識による自分自身の自覚になる、かも知れません)。
つまり、意識(= 身体感覚作用 + 思考作用)が常に動いているという巨視的な印象をもたらす原動力は、意識そのもののなかに蔵されているわけでない、可能性が、あるのです。意識の巨視的な動きの原動力は、新陳代謝などの、意識の基盤である生体での物理事象で消費されるエナァジ――意識の外における外的なエナァジ――なのかも知れません。
これは、一人称の主体である大きな(巨視的な)意識が、みずから、自発的に動くわけでない、ということを、意味します。(根本的には、物質にそなわる作用群が、一人称の主体です)。意識は、時間の経過のなかでは、受動的なものかも知れません。意識は、生体のなかでの、エナァジにより駆動される巨視的な物理事象の遂行をとおし、付随的で副次的な結果として、自然に、他律的に形成されて、そして、受動的に動かされるだけなのかも、知れません。わたしたちの意識は、被造物であり、かつ、自分で動いているわけでない、可能性が、あるのです。
(これは、自由意志がないことも、暗に示唆しています。みずからは動けない被造物でしかないのなら、自由意志は根本的に持ちえないからです)。
つまり、時間の経過のなかでの意識の巨視的な動きは、(動画の再生のように)、生体という基盤でのごく物理的な事象の動きにともない受動的に生じているだけなのかも、知れません。これは分かりづらいですが、意識は、巨視的には、受動的な物理現象なのかも、知れないのです。
(ちなみに、このことからは、随伴現象説(Epiphenomenolism)が思われます。随伴現象説は、どことなく当たりているよう感じられますが、部分的には、その通りかも知れません)。
3) 意識の瞬間的な感覚はエナァジを消費することなしに生じている
しかし、ここで、では、意識の、個この静止している瞬間的な身体感覚や思考感覚はどのように生じるか、が問われることに、なります。これは極めて重要です。なぜなら、感覚は、根拠なしに発生できるわけでは決してない、と思われるからです。感覚(観念)という不思議なものが発生できるためには、それ相当の根拠が必要と、思われます。
そして、新陳代謝などの、生体での巨視的な物理事象には、感覚という不思議なものを発生させる能力は、具わりていない、と思われます。巨視的な事物は、基本相互作用などの、物質にそなわる微視的な作用により齎される結果でありて、形態的な痕跡であり、静的な物理性質であり、スケイラァであり、硬直しています。信じがたいことですが、あらゆる巨視的なものは、じつは、硬直しているのです。そして、こういうものには、感覚という不思議なものは決して生みだせない、と思われます。感覚は、硬直している巨視的な結果群により生みだされるのではなく、そして、そういう枠組においてではなく、まさに、意識のなかで、エナァジを消費することなしに生じているに、違いないのです。
4) 物質にそなわる内的な作用群はエナァジを必要とはしない
そして、エナァジにより動作するのではないものは、現実に存在します。それは、基本相互作用などの、物質にそなわる内的な作用群です。物質にそなわる内的な作用群は、物質内部の微視的な空間におき、外部からエナァジの供給を受けることなしに、そして、片時も休むことなしに、完全に自発的・主体的・能動的に働きつづけています。
5) 物質にそなわる内的な作用群が物質の正体
そして、それらの物質にそなわる内的な作用群が、物質のほんとうの正体です。それらの作用群が、物質を物質たらしめています。そして、物質作用群はエナァジにより直接に体現される、と思われます。言わば、物質作用群はエナァジそのものであり、エナァジが、物質内部で直接に働きて、物質を物質たらしめている、と言えます。それで、物質作用群そのものはエナァジを消費しないかも知れません。
(どのような作用であるにせよ、そして、創発によりどのような作用が新規に現われるにしても、エナァジの本質は、なんらかの動的な働きをはたす作用なのかも知れません)。
そして、作用群を直接に観測することは決してできないと、思われます。なぜなら、観測しようとしても、作用群が働く結果としての、物質の形態的な痕跡(静的な物理性質・スケイラァ)が得られるばかりだからです。
巨視的なレヴェルでの物質、いわゆる物質は、物質の内部で物質作用群がはたらく結果として得られる形態的な痕跡なのです。いわゆる物質は、じつは、観測――観測とは、ひろい意味では、見たり触りたりすることです。この意味で生物はつねに観測しつづけています――におき観測される静的な物理性質であり、硬直せしスケイラァです。
(物理的に観測されるものは、すべて、痕跡です。なんらかの基本相互作用をとおし、物質作用群(= 物質の正体)の働きにより残される痕跡だけが、物理的に観測されえます)。
ひるがえり、物質内部で自発的・主体的・能動的に働きつづけている物質作用は、ヴェクタァである、と言えます。
つまり、物質には、「(巨視的なレヴェルでの)スケイラァと(微視的なレヴェルでの)ヴェクタァの二重性」や「(巨視的なレヴェルでの)受動性と(微視的なレヴェルでの)能動性の二重性」が具わりている、と言えます。
6) 物質作用の働きと同様、意識にしょうじる感覚は瞬間ごとに生成される
そして、物質作用と同様、意識そのものでもナァジは消費されなく、感覚の一コマ一コマは、瞬間ごとに、エナァジを消費することなしに、即座に生成されている、と思われます。
つまり、まず、「エナァジを供給するので、動いてくれ」、と意識に頼むことは、原理的に不可能です。意識そのものではエナァジは消費されないからです。それ以前に、(巨視的に)形成されて、そこに存在している意識は、それ自体が自発的かつ主体的に作用するエナァジそのものであり、内部的(微視的)には、つねに、瞬間瞬間、自発的・主体的・能動的に動作しているのです。意識の動作は、時間を要するものでなく、瞬間瞬間に完了します。
7) 動きには二種類がある
つまり、動きには二種類がある、と思われます。一つめは、時間を要さず、かつ、エナァジも要さない、瞬間的(微視的)な動きです。二つめは、時間の経過のなかでの、エナァジにより駆動される、通時的(巨視的)な動きです。
8) 物質作用の動き(働き)は瞬間的
まず、物質作用の動作(働き)が、一つめの動きに該当します。物質作用の動作には、おそらく時間は必要ない、と思われます。(そして、エナァジも必要ありません)。物質作用は、(エナァジを消費することなしに)、まさに瞬時に完了するのです。(または、プランク時間(5.4 * 10**(-44) 秒)くらいの時間は必要かも知れません)。
物質作用の動きは、物質の、物質内部の微視的なレヴェルでの瞬間的な動きです。
そして、物質作用の動きは瞬間的に完了してしまうので、時間の経過のなかで評価するなら、写真、または、動画の一コマのようなものです。
9) 時間の経過のなかでの(巨視的なレヴェルの)あらゆる動きは、外的な力やエナァジに駆動され、つねに動作している瞬間的な物質作用を構成要素として、受動的かつ連続的に形成される
そして、時間の経過のなかでの、巨視的なレヴェルの、(エナァジにより駆動される)、あらゆる動きが、二つめ動きに該当します。時間の経過のなかでのあらゆる動きは、(エナァジにより駆動され)、(エナァジを消費することなしに)瞬時に完了する物質作用の連続的な発生により、受動的かつ連続的に形成されます。
これは、たくさんのコマで形成される動画の再生のようなものです。
この二つめ動きは、時間の経過のなかでの、エナァジにより駆動される、通時的(巨視的)な動きです。
10) 物質にそなわる瞬間的な作用群はつねに動作している
そして、物質作用は、停止することなしに、動作しつづけます。つまり、瞬時に完了する物質作用の動作は、(物質に具体的(巨視的)な動きを齎すか否かにかかわらず)、時間の経過のなかで、決して停止することなしに、果てしなく繰りかえされるのです。
物質作用が動きつづけている――または、常に生きている――ことは、電気機器の電源が入れられていて、各種の機能がスタンドゥバイの状態にあるのと、すこし似ています。
そういう電気機器では、人間により何らかの機能が始動されれば、その機能は即座に具体的な処理を開始します。
こういう形は、ゲイジ粒子の交換が成立して、初めて、基本相互作用が物質の具体的(巨視的)な動きをもたらすのに、似ています。
しかし、例えば、ゲイジ粒子の放射や熱放射のように、その他の物質作用の多くは、その瞬間的に完了する働きを常に継続している――繰りかえしている――、と思われます。
11) 意識の作用には時間も(エナァジも)必要はない
そして、意識は時間の経過のなかで動いていると判断されますが、時間の経過のなかでの(巨視的なレヴェルの)あらゆる動きは、瞬間的な物質作用の連続的な発生により、受動的かつ連続的に形成されます。なので、物質作用と同様、意識の作用――身体感覚作用と思考作用――の遂行にも、時間は、おそらく、必要ないと、思われます。そのため、意識が形成されているあいだ、感覚――身体感覚と思考――の一コマ一コマは、瞬間ごとに、その生成と同時に、即座に上映(感知)される、と思われます。
(意識の巨視的な動きをもたらす根本原因は、生体での物理事象――各種の新陳代謝――の断続的な発生の持続(による熱の発生とその生体外への排出)と、思われます)。
なので、もしも何らかの外部の物理事象に起因する外因的な入力が入るなら、それに相応しい感覚のコマ群が、暫時、即座に形成されて上映されます。しかし、もしも入力が入らないなら、新しい画用紙のような、しみ一つない感覚が次つぎに生成されて上映されつづけるのです。
(意識の、時間の経過のなかでの巨視的な動きの原動力は、生体における巨視的な物理事象の通時的な発生と、思われます。巨視的な物理事象が意識の再生装置です。この宇宙には時間が流れておりて、生体のなかでも、巨視的な物理事象は、力とエナァジと基本相互作用に駆動され、時間を消費しながら――時間を要しながら――、発生しつづけざるを得ないです)。
(この点で、意識には、「(内的で瞬間的な動きの)微視性と(通時的で大きな動きの)巨視性の二重性」や「能動性と受動性の二重性」が具わりている、と言えるかも、知れません)。
対外的(巨視的・通時的)には受動的であり、内部的(微視的・瞬間的)には自発的・主体的・能動的という点で、物質と意識は似ていると、考ええます。意識は物質作用と同質かも知れません。
12) アイドゥル状態にある意識は空である
ちなみに、電気機器のアイドゥル状態のように、(形成されていながら、外因的入力が入りていないあいだ)、(身体感覚や思考感覚などの、作用の働きからの出力にかんし)、(自然科学の観点から見て)空であること(Emptiness)が、意識の本質の一つ、と言えないことも、ありません。
(意識(や感覚)が空であることについては二つのケイスがありますが、これはその内の一つです)。
《 意識は一人称をとる主体(私)である (超重要) 》
P) 意識は一人称をとる主体(私)である (超重要)
これも意識の特徴や手がかりの一つです。しかも、意識の正体や源を探索するための決定的な手がかりです。
- 意識は一人称をとる主体(私)である (超重要)
................
a) 感覚を感じるとは、なんらかの観念を感じること
b) 感覚には身体感覚と思考感覚がありて、これらはそれぞれ観念である
c) 感覚(観念)は、じぶんで感じるものであり、伝達されえない
d) 自発的に行為できる自分は一人称の主体である
e) 一人称の主体の行為は、その主体の内部で静かに動作する
f) 一人称の主体の内部で自発的に動作するものは、作用である
g) 自発的に動作する作用が、一人称の主体または主体性の本質である
h) 私たちの主観の意識は一人称の主体である
i) 「私」が一人称の主体であることは、かなり妙なことである
j) 内部観測と主体と客体の二重性・能動性と受動性の二重性
................
a) 感覚を感じるとは、なんらかの観念を感じること
感覚を感じるとは、なんらかの観念を感じること、と思われます。つまり、私たちの意識に感じられる(感知される)ものが、観念です。
b) 感覚には身体感覚と思考感覚がありて、これらはそれぞれ観念である
そして、感覚には、身体感覚(五感)と思考感覚がある、と思われます。思考も感覚と思われます。(なので、観念には、身体感覚の観念と、思考の観念の、二種類があることに、なります)。
c) 感覚(観念)は、じぶんで感じるものであり、伝達されえない
そして、感覚は、自分で感じなくてはなりません。もしも感覚を他者に感じてもらうなら、それは、他者が感じる感覚であり、自分が感じる感覚にはなりません。自分が感じる感覚は、他者に感じてもらうことはできないのです。(つまり、複数の実体のあいだで感覚を伝達することはできないのです。感覚は伝達されえないのです)。
(感覚や観念については別記します)。
d) 自発的に行為できる自分は一人称の主体である
そして、自分が身体感覚や思考を感じるということは、自分が、感覚を感じる一人称の主体である、ということです。一人称の主体とは、それ自身が感覚を感じる当の行為体である、ということです。それが何であれ、自発的・主体的・能動的に行為できるものが、一人称の主体たりうるのです。
e) 一人称の主体の行為は、その主体の内部で静かに動作する
しかも、感じるとは、対外的で運動的な動きでなく、内的な動きです。なので、一人称の主体の行為とは、究極的には、その主体の内部で静かに動作するものなわけです。
f) 一人称の主体の内部で自発的に動作するものは、作用である
そして、こういうものは、作用と呼ばれます。なので、感じるとは内的な作用なわけです。
g) 自発的に動作する作用が、一人称の主体または主体性の本質である
そして、(実体の対外的な運動の遂行は問わなく)、内的に、静かに、自発的かつ主体的に動作することが、一人称の主体または主体性の究極的な本質と、思われます。(その動作により他者が影響を受けるとしても、それは別の話です)。
h) 私たちの主観の意識は一人称の主体である
そして、他者のことはいさ知らず、私たちが自分自身の主観の意識の存在を認めるのなら、「私は、感じる主体である、考える主体である」という点で、私たちの主観の意識が一人称をとる主体――私――であることは、私たちの一人一人にとりては自明です。否定できない主観的な事実です。
i) 「私」が一人称の主体であることは、かなり妙なことである
しかし、「私」が、「自分は、感じる主体である、考える主体である」という主体性を感じられていること・持てていること・気づけていることは、かなり妙なことであり、そうとう稀有なこと、と思われます。
なぜなら、いわゆる物質は、徹底的に三人称の客体だからです。
物質は、なんらかの基本相互作用に受動的に巻きこまれないかぎり、対外的に動くことは決してできません。ここで、自転や空間移動が対外的な動きに該当します。また、根本的に基本相互作用により生じる素粒子の合成や分解、核融合、化学合成や化学分解、温度の変化、そして、熱放射なども、対外的な動きに該当します。言わば、可能なら物理的な観測手段により観測されうるものが、物質の対外的な動き、と言えるかも、知れません。
なので、なにかが、自力では対外的に動くことできず、なんらかの基本相互作用に受動的に巻きこまれて、初めて、対外的に動くことができる、ということが、三人称の客体――いわゆる物質――の本質と、思われます。
そして、物質で形成されるこの宇宙は徹底的に三人称の客体の世界です。(空間も、ヒグズ粒子で形成されるので、物質の仲間です)。この宇宙には、基本的に、一人称の主体は存在しないです。
つまり、一人称の主体というものは、非凡なものであり、ただでは存在できないと、思われます。なので、私たちの主観の意識にとりては自明である意識と呼ばれる一人称の主体も、それが存在できるためには、それ相当の根拠ないしメカニズムが必要と、思われます。
j) 内部観測と主体と客体の二重性・能動性と受動性の二重性
しかし、じつは、一人称の主体は、この宇宙にあまねく存在します。なぜなら、じつは、物質が、内的には一人称の主体だからです。
そして、このことに関し、生物物理学者の松野孝一郎先生により「内部観測」という概念が提唱されています。その主旨は次のようなものと思われます。
物質は、対外的には三人称の客体でありながら、内的には、エナァジを消費することなしに、自発的・主体的・能動的に動作しつづけている一人称の主体・一人称の行為体です。(主体と客体の二重性・能動性と受動性の二重性)。
そして、物質は、外部から働きかける力学的な相互作用や基本相互作用をとおし、外因的な影響――外部から働きかける力やエナァジ――をつねに受けていますが、その影響を受けての物質側の応答――物質の自発的で主体的な動作――は、外因的な影響の観測と、観測にもとづく動作の決定(演算)と、決定にもとづく動作の実施――物質による自分の状態の変更や何らかの働きの実施――から成りたちていて、これらの一連の動きが果てしなく繰りかえされつづけることで、外因的な影響をうける物質の状態――物理的秩序――がつねに最新のものに更新(維持)されつづけます。
(ちなみに、これは、動的な自己形成(または、自己維持、または、自己組織化)と見なせます。なので、物質は、内部的にはオートポイエシス――自己制作・じぶん自身の高度な物理的秩序の自発的・主体的・能動的な生産――のシステムと言えます。物質がオートポイエシスの原型です)。
このため、内部観測は複合的な作用と思われます。
つまり、物質の内部では、各種の作用群が自発的かつ主体的に働きつづけているのです。そして、その、物質にそなわる内的な作用群が、一人称の主体・一人称の行為体の本体です。そのゆえにこそ、たとえば、基本相互作用も実現されます。そして、物質とこの宇宙が存在できます。
(基本相互作用が発生するには、二つの物質のあいだで、基本相互作用を媒介するゲイジ粒子が交換される必要がありますが、このゲイジ粒子はそれらの物質から放射されます。たとえば、このゲイジ粒子の放射が、物質に密かに具わる内的な作用の一つです。また、熱放射も物質にそなわる作用です。
つまり、物質には、内的・自発的・主体的・能動的に作動しつづけている内的な作用群が間違いなく具わりているのです。説明することは難しいですが、これはほぼ自明です。基本相互作用が現実に実現されるためには、それと対になる作用群が物質のがわにも具わりている必要があるのです。外部から働きかける基本相互作用を受けとめて、それに応ぜし応答――自転や空間移動をはじめとする対外的な動き――を物質が現わす必要があるのです。物質がそうすることで、初めて、基本相互作用が全うされます。そして、そういう内的な作用群は、ゲイジ粒子の放射や熱放射のほかにもある、と思われます)。
物質には、「粒子と波動の二重性」が具わりていますが、さらに、こういう二面も具わりているのです。言わば、「主体と客体の二重性」・「能動性と受動性の二重性」です。
(この辺りのことについては別記します)。
そして、こういうことは、意識を探索するための決定的な手がかりと思われます。ほとんど(主観的な)証拠である、と言えます。なぜなら、一人称の主体である主観の意識はただでは存在できないと思われますが、物質が内的には一人称の主体であることが判明しつからです。物質にそなわる何らかの内的な作用群が意識の根源であること、意識をもたらしうるものは物質にそなわる内的な作用群であることに、間違いはない、と思われます。
《 生体の動きはオートポイエシスに該当する (超重要) 》
Q) 生体の動きはオートポイエシスに該当する (超重要)
生物の細胞・組織・器官などの生体は自発的・主体的・能動的に動きていて、その動きはオートポイエシス――自己制作・じぶん自身の高度な物理的秩序の自発的・主体的・能動的な生産――に該当します。
そして、物理的秩序は無数の構成要素の物質群から形成されますが、高度な物理的秩序は、エントロピーは増大するという熱力学第二法則ゆえに、自然には形成されえません。
このため、もしも生体におき高度かつダイナミクな物理的秩序が形成されるなら――オートポイエシスが果たされるなら――、その形成には、なんらかの明確な物理的要因が必要と思われます。そして、その要因とは、生体全体を見わたし、かつ、全体の物理的秩序を設計する大きな包括性や、全体の物質的な動きを制御する大きな統一性や統合性と、強く推測されます。(物理的秩序は、無数の構成要素から形成されるので、必然的に大きいのです)。
生体での包括性とは、詳しくは、A) 生体全体の物理的な状態についての包括的な観測(情報収集)と、B) その観測にもとづく、生体全体のつぎの瞬間の物理的な状態の包括的な設計(思考)を、合わせしものです。
さらに、生体での統一性や統合性とは、B)の設計にもとづき――影響されて――、C) 生体の構成要素の物質群が外的かつ協調的に動くこと、です。(もっとも、包括性が物質群を直接に操作する必要はない、と思われます。設計にもとづき、物質群に外的かつ協調的な動きが生じれば、いいのです)。
そして、A)の観測(情報収集)とB)の設計(思考)を合わせしものは、知性です。
つまり、生体の動き――オートポイエシス――に、知性の働きは欠かせないのです。そして、ここでは、まだ、知性の働きが物質的になされるか、それとも、非物質的(観念的)になされるか、は、問われません。いずれであろうとも、生体の動きに知性の働きは欠かせないのです。生体の動きは知性に基づきているのです。生体の動きは知性の存在の証拠です。(これは避けがたい必然です)。
さらに、知性は、無数の構成要素の物質から形成される生体の全体についての観測(情報収集)と設計(思考)を果たすゆえ、大きくなくてはなりません。観測の働きと、設計の働きは、本質的に大きいのです。
そして、この知性――観測(情報収集) + 設計(思考)――が、意識に該当する、と思われます。意識とは、簡単には、知性のことなりきです。意識が知性を体現するのです。そして、「意識」は、むしろ、客観的な用語であり、やや理解しづらいですが、「知性」なら分かりやすいです。
なので、生体の動きは、意識の存在の証拠でもあります。
そして、生体の動きに知性――意識――の働きが欠かせないということは、非物質的(観念的)と推測される意識と、物質のあいだの、接点です。意識と物質を関係づけるものは、ちゃんとありきです。生体の動き――オートポイエシス――が、意識と物質のあいだの接点なりきです。(なぜなら、オートポイエシスに知性は欠かせないからです)。これはとても重要なことです。
すると、ここを足掛かりとして、観念的なものや意識を物理学の視野のうちに取りこむことのできる可能性があることに、なります。
そして、「意識」だと茫漠とせし感があり探しづらいですが、細胞などの生体での「知性」の働きならば、探す範囲は限られていて、探しやすいに違いありません。(それでも、途方に暮れてしまう感はあります)。意識を探索するには、生体でのオートポイエシスを追及するに、如くはない、と思われます。
《 知性の発生の間接的ながら客観的な証拠・観念と物質のあいだの接点 (超重要) 》
R) 知性の発生の間接的ながら客観的な証拠・観念と物質のあいだの接点 (超重要)
様ざまな物質が、固体の状態では、おなじ結晶構造が延えんと連なるかたちで結晶を形成します。そして、それらの結晶は、それらの物質のプロパァティだけで形成されるかも知れません。(普通はこのように考えられています。しかし、実証されているわけでなく、確かなことは言えません。ほかにも何らかの要因の働きている可能性は、考えられないでもありません。
しかし、様ざまな物質が、固体のなかでの同一の結晶構造の連なりのレヴェルには留まらず、さらに、たとえば、雪の結晶のように、1個の固体の全体的な形のレヴェルでも、形態的に高度な形――形態的に高度な結晶・形態的に高度な物理的秩序――を形成します。(表面も、凸凹していず、滑らかであり、ばらつきがありません。しかし、むしろ、表面は、多かれ、少なかれ、凸凹しているのが自然、と思われます)。そういう結晶は、同一の結晶構造の単純な連なりに比して、構成要素群の全体で形成されるものであるゆえ、一段、次元の競りあがりし結晶――物理的秩序――です。
また、形態的に高度な形――物理的秩序――は、植物をふくめ、様ざまな生体にても形成されます。
しかし、エントゥロピは増大するという熱力学第二法則により、形態的に高度な物理的秩序(形)が自然に形成されることは、ありえないです。(単純には、雪の結晶を始めとする、様ざまな物質の形態的に高度な結晶は、熱力学第二法則に違反しているのです。固体は、むしろ、様ざまな風化作用の影響をうけてバラバラになる、のが自然です)。
したがい、様ざまな物質の形態的に高度な結晶(形)の形成は、かならず、熱力学第二法則に制限されない何らかの物理的な要因ないし枠組の働きに依らざるを得ない、と判断さます。そういう要因の働かないかぎり、物質の形態的に高度な形(結晶)は、決して形成されないのです。
そして、形態的に高度な結晶(形)の重要な特徴の一つは、それが無数の構成要素の物質で形成されているにも拘わらず、全体として統合性を帯びている、ということです。(しかし、誰かまたは何かの働きにもとづき形成されないかぎり、三人称の客体にすぎない無数の物質群が1個の物理的秩序としての統合性を帯びることは、ありえません)。
そして、無数の物質に、1個の高度な物理的秩序としての統合性をもたらしうるものは、事前の設計という包括的で観念的な働きだけです。大きく高度な物理的秩序は、包括的な設計という観念的な働きなしには形成されえません。1個の物質にそなわる物理的なプロパァティだけでは、その物質の境界をこえて、無数の物質群で形成される、1個の大きな形態的な物理的秩序(形)は、決して形成されえないのです。
これは論理的ないし合理的な事柄です。なぜなら、1個の大きく形態的な物理的秩序(形)は、1個の物質で体現される物理的秩序に比して、次元が高いからです。1個の物質の物理的秩序を点と見なせば、それは0次元です。しかるに、1個の大きく形態的な物理的秩序(形)は3次元でありて、大きな体積を有しています。このゆえ、なんらかの外的な要因の働かないかぎり、0次元の物理的秩序の集合体から、3次元の物理的秩序が出現することは、ありえません。
つまり、様ざまな物質での、大きく形態的に高度な結晶の形成プロセスでは、かならず、観念的な働きである設計が果たされているのです。
そして、設計という観念的な働きを果たしうるのは、(それがどういうものなのか、ここではまだ不明であるにせよ)、知性だけです。つまり、様ざまな物質での、形態的に高度な結晶の形成プロセスには、必ず、なんらかの知性が発生しており、その知性によりて、1個の物理的秩序にかんする全体的で包括的な設計が果たされるです。(その知性がどういうものなのか、それはまた別の事柄です)。
こういう次第で、形態的に高度な物理的秩序(形)は、なんらかの知性の発生の客観的ながら間接的で理解しづらい証拠と見なすことができる、と思われます。
さらに、様ざまな物質や生体における大きく形態的に高度な物理的秩序の形成は、観念と物質の接点である、とも思われます。よしんば、知性の発生の客観的な証拠が間接的で理解しづらいにしても、観念と物質のあいだに接点はありしわけです。
ちなみに、物質は、外的(巨視的)には、三人称の客体であり、完全に不活性です。(物質は、なんらかの力学的相互作用や基本相互作用に受動的に巻きこまれて、初めて、外的に動くこと――空間移動や自転――ができます)。このゆえ、よしんば、そのような物質がどれだけ高度に組織化されようと、そこに、大きく包括的かつ観念的な設計を果たしうる(不思議な)知性は決して発生しない、と予想されます。
ちなみに、また、知性は、意識の同義語です。意識の働きが、知性の働きです。