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(付録) 意識の概要  作者: 安田孫康
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1 意識を発生させるための戦略

1 意識を発生させるための戦略


  (脱線) 意識の究明にかんし前向きで生産的な方向でできること


  意識を発生させるための戦略






  《 (脱線) 意識の究明にかんし前向きで生産的な方向でできること 》


1) エナァジを直接実証することは不可能である


2) 物質や生物での物理的秩序の形成は、意識の働きなしには果たされない


3) 生物はその意識の働きに基づき活動している


4) 地球上に物理的秩序はありふれている


5) 高度な物理的秩序の形成に意識の働きが必要であることは、合理的である


6) 高度な物理的秩序の形成には、根拠が必要である


7) 一般に、物理的秩序は大きい


8) 無数の物質にわたる統合性・包括性・協調性は、ただではもたらされない


9) 高度な物理的秩序の形成に必要なもの


  ................


1) エナァジを直接実証することは不可能である


エナァジを客観的かつ直接に実証することはできないと思われます。


ビグ バン理論によれば、エナァジは体積なくて非物質的と評価されます。そして不可視です。つまりエナァジは物質ではないのです。


このゆえ、エナァジが客観的かつ直接に実証できないことは、不思議ではありません。それはむしろ合理的です。(なにしろ体積なくて非物質的なので)。


つまり、存在するのに、直接それを実証することのできぬもの、なんらかの物理現象の発生をとおし間接的にその存在(または、発生)を推測する以外にないものは、実際あるのです。(まずエナァジがそれに該当します)。


2) 物質や生物での物理的秩序の形成は、意識の働きなしには果たされない


意識は、客観的には決して観測できないと、推測されます。意識にかんし客観的にできることは、精ぜい、物質や生物での高度な物理的秩序の形成は、(本質的に大きなものである)意識(= 知性)の働き(= 物質群の状況についての情報収集・設計・思考)なしには決して果たされえない、という方向で、追いつめてゆくことくらいです。意識にかんし客観的に観測できることは、外的な物理的秩序の形成くらいだからです。(高度な物理的秩序は、意識の観念的な働きに基づかないかぎり、決して形成されえない、と強く推測されます)。


3) 生物はその意識の働きに基づき活動している


じぶん(私)が、じぶんの意識の働き――情報収集・設計・思考――にもとづき生きている(活動している)ことは、(私にとりては)紛れもない事実です。そして、生物の働きは、ほぼ、全て、高度な物理的秩序の形成に当たります。(ちなみに、動物の自律的な器官では、それに発生する意識によりその働きが制御されているのに違いありません)。


4) 地球上に物理的秩序はありふれている


ちなみに、また、地球上に、高度な物理的秩序はありふれています。たとえば、雪の結晶を始めとする、各種の物質の見事な結晶の塊――たくさんの物質が結晶化します――や、様ざまな生体での形態的に高度な組織(形)などが、それに該当します。植物をふくめ、生物の活動さえも、高度かつダイナミクな物理的秩序の形成にあたります。生物の活動は原則的に首尾一貫しておりますが、それは、きわめて高度な動的物理的秩序の形成なのです。


5) 高度な物理的秩序の形成に意識の働きが必要であることは、合理的である


しかし、高度な物理的秩序の形成に意識の働きが必要であることは、証明することも実証することも難しいと思われます。しかし、それでも、それが合理的です。


6) 高度な物理的秩序の形成には、根拠が必要である


まず、てごわい熱力学第二法則――エントゥロピは増大する。物理的秩序は崩壊する。物事は時間の経過とともに乱雑になるのが自然である。より高度な物理的秩序は、なんらかの根拠のないかぎり、自然には決して形成されない――ゆえに、物質や生物での高度な物理的秩序の形成には、確かな根拠が必要です。


7) 一般に、物理的秩序は大きい


つぎに、一般に、物理的秩序は大きいのです。そして、大きいということは、その秩序がたくさん(無数)の物質(量子)から形成されるということを、意味します。


8) 無数の物質にわたる統合性・包括性・協調性は、ただではもたらされない


しかし、物理的秩序秩序が形成される物質の外的(巨視的・物質的)なレヴェルには、無数の物質の全体にわたり、それに大きな1個のまとまりある秩序としての統合性・包括性・協調性をもたらしうるものは存在しません。


物質は、外的には、完全に三人称の客体であり、完全に不活性です。(物質は、なんらかの力学的相互作用に受動的に巻きこまれて、初めて、外的に動くことが、できます)。このため、そういうものがその辺りにいくら無数に集合していようとも、それはまさに無数の物質からなる1個の(完全に不活性な)集合体でしかありません。それに統合性・包括性・協調性をもたらしうるものは、それ自身の外的な面には存在しない――または、創発しない――です。


9) 高度な物理的秩序の形成に必要なもの


以下の3つのものが必要です。


A) その場に存在する無数の物質の物質的な状態や状況についての(観念的な)情報収集


B) 収集しし情報にもとづく、物理的秩序の(観念的な)設計


C) 設計にもとづく、無数の物質の(外的かつ協調的な)空間移動と自転


この三つの要件が満たされないかぎり、高度な物理的秩序は自然には決して形成されません。


つまり、本質的に大きな(巨大な)ものである物理的秩序の形成には、構成要素の物質群の物質的な動きの他に、それらに秩序としての統合性・包括性・協調性をもたらしうる観念的な働きも欠かせないのです。(形成される秩序に、1個の秩序としての統合性・包括性・協調性をもたらしうるものは、大きな観念的な働きだけです。よしんば、どれだけ高度に組織化されていようとも、三人称の客体にすぎない物質群の集合体に、統合的な物理的秩序は決して設計できません。その集合体の外的な面に、設計という観念的な機能を果たしうる主体は存在しないです)。


そして、A)の(大きな)情報収集と5-B)の(大きな)設計の観念的な働きを果たしうるのは、知性だけです。(ちなみに、知性も、本質的に、大きくなくてはなりません)。そして、大きな知性たりうるのは、(やはり大きなものである)意識だけです。


ただし、C)の空間移動と自転には極めて深刻な問題があります。(または、それは、前向きに考えるなら、物理学の視野を拡張することのできる重要なイシューです)。なぜなら、それらは外的な動きでありて、物質の外的(巨視的)な動きは、力学的相互作用に支配されているからです。つまり、物質や生物での高度な物理的秩序の形成での物質群の動きは、見掛けじょう、それらの相互作用に違反していると、つよく推測されるです。もっとも、相互作用は複数の物質のあいだで外的(巨視的)に作用するものなので、秩序を形成する物質群の存在する空間が、もしも微視的(内的)なものになりているなら、必ずしも違反しないことが期待されます。






  《 意識を発生させるための戦略 》


1) 意識の掴みどころのなさと特異性


2) 私たちの主観の意識の明白さ


3) 自分の意識と他者の意識


4) 自分の意識による認定や判断、そして、客観性


5) 意識を究明するには、私たちの主観の意識による報告しか依拠できるものはない、と思われる


6) 意識を発生させるための方針


  ................


1) 意識の掴みどころのなさと特異性


主観的または経験的な印象として、意識は、掴みどころがありません。また、無形で、触ることができないよう、思われます。そして、ふつうの物理的な手段では、観測したり測定したり――意識そのものを捕まえること――が難しいか不可能なように、憶測されます。このため、他者にほんとうに意識が具わりているか否かは、決して判断できないに違いありません。


そのうえ、意識は、もしかして、ふつうの物理法則が適用されないかも知れないという風にも、感じられます。物理法則が適用されないなどとは、妙なことです。


しかし、こういうことのため、意識の存在様相はきわめて特異なのだろう、と推測されます。


2) 私たちの主観の意識の明白さ


他方、私たちの主観の意識は、私たち一人一人にとりては、自明でありて、確かなものであり、(目覚めているあいだ)、間違いなく存在(発生)しているよう、判断されます。私たちの主観の意識は、客観的な証拠にはなりませんが、自分にとりては否定のできない主観的かつ即値の事実です。


フランスの数学者・物理学者・哲学者であるダランベールは、次のように表明しましつ。


私たちの感覚の存在ほど議論の余地のないものはない。


そして、私たちの活動は、すべて、その意識(による情報収集と思考と判断)に基づきています。


つまり、意識の観測にかんしては、他者の意識そのものを客観的に観測することはほぼ不可能と思われますが、かろうじて、自分の主観の意識だけは、じぶんで、ある程度、(定性的に)観測することが可能です。(ごく大雑把には、定量的にも観測できます)。


自分の主観の意識に関係すること、たとえば、主観・主観の意識・五感・身体感覚・思考・感じること・考えること・認知すること・観念・知性などは、言わば、実証不要の即値でありて、少なくとも、自分では、観測し、判断し、究明することが、可能です。私たちはとても錯覚しやすいですが、それでも、わたしたち一人一人の主観の意識による自らの観測・判断・究明などだけは可能です。


3) 自分の意識と他者の意識


そして、じぶんの意識につき自分で認知する事柄は、少なくとも、自分にとりて、否定できない、そして、最早それ以上に実証する必要のない、事実です。


他方、他者が、じぶんの意識につき何を表明しようとも、その真偽は決して判定できません。


こういう状況はどうしようもありません。意識とはそういうものです。しかし、じぶんの意識についての事柄だけは、自分にとりてだけは事実たりえるのです。


4) 自分の意識による認定や判断、そして、客観性


ただし、もしも人が自分の主観の意識による認知や判断を自分で認めることができないならば、最早それまでです。全てのことが無意味になります。


物理的な観測結果や、測定結果、そして、一般的な証拠は、外的です。外的であり、他者とその認知を共有できることが、客観的な事物の特徴です。


他方、意識についての事柄は内的です。じぶんの意識についての主観的な認知は決して他者と共有できないのです。


しかし、外的な証拠であるにせよ、内的なものであるにせよ、あらゆることは、最終的に、私たちの意識という一人称の主体によりて認知され判断されます。


しかし、私たちの(主観の)意識についての事柄を実証すること――自分に主観の意識が具わりていること、自分が主観の意識であること、自分の主観の意識による認知や判断が錯覚でなく真であることなど――は、恐らく、不可能です。つまり、最終的に認知し判断する意識や、その意識による認知や判断は、他者にたいし、根本的に、実証できず、他者にとりては決定的に不確かなのです。


つまり、結局のところ、認知や判断の末尾に位置する意識が他者にたいして実証できないゆえに、外的な事柄についての、私たちの主観の意識による客観的な認知や判断さえもが、じつは不確かなのです。


このため、どのような証拠であろうと、客観的であるはずの証拠の認定は、自分にとりては証拠でありても、他者にとりては必ずしも証拠たりえません。客観性には暗にこういう制限があるのです。


しかし、じぶんの本質が意識であることは自明でありて、それをわざわざ実証する必要はありません。じぶんの主観の意識が、内的な事象でありて、他者と共有できず、かつ、他者にたいして実証できないにしても、それが、時間の経過のなかで発生しそして消滅するものとして、そして、身体感覚と思考などの観念を感知しうるものとして、存在するということは、自分にとりては確かな即値の事実(証拠)です。


そして、外的な事柄についての客観性がふつうに受け入れられているのは、他者にも意識が具わりており、他者もじぶんと同じように物事を認知し判断しているはずである、ということが、暗黙的な前提になりているからと、思われます。実証できないながら、この前提に立脚し、私たちは生きてゆかざるを得ないです。


これは原理、ないし公理、または合意のようなもの、と言えます。物理的な客観性さえ、じつは、こういう前提のうえでのものなのです。


このゆえ、意識は、他者にたいしては実証できないながら、自分の主観の意識を信頼し、それに依拠しつつ、究明するほかは、ありません。


5) 意識を究明するには、私たちの主観の意識による報告しか依拠できるものはない、と思われる


そして、主観の意識による自分自身についての報告は、(それを客観的に実証することは決してできないにしても――つまり、他者にとり、その報告の真偽は、究極的には決して判断できないにしても――)、実用的にはしっかり役に立ちています。さもなくば、神経学・麻酔学・医学・精神医学・心理学・脳科学などの学問は、成立しません。


そもそも、あらゆるものが客観的に観測できるわけではないのです。客観的に観測することが不可能なものは、現実にたくさん存在します。(内的な作用の働きの結果として残される痕跡でなく、ゲイジ粒子の放射の作用そのもの・力学的相互作用そのもの・基本相互作用そのもの・熱放射の作用そのものなどの、物質に本質的にそなわる内的な作用そのものや、意識は、その白眉です。作用そのものや意識そのものを捕まえることは不可能と思われます)。客観的な観測結果さえ、物質にそなわる内的な作用の働きの結果--形態的な痕跡・静的な物理性質・スケイラァ--として得られるものでしかないのです。


そして、客観的な観測と見なせるものも、(光や音などの)観測媒体・感覚器官・神経システム・脳でのデイタの変換を長ながと経しうえで、最終的に、わたしたちの主観の意識によりて判断されます。そして、もしも途中の観測媒体や私たちの主観の意識が信頼性に乏しいものなら、客観的な観測すらもが信用できないものになりてしまいます。


こういうことのため、意識を究明するには、私たちの主観の意識による報告しか依拠できるものはない、と思われます。意識の正体や、意識が発生する仕組みなどは、私たち自身の主観の意識に立脚し、そして、それを信頼し、それにより判断される様ざまな特徴や手がかりなどから、推測するしかないのです。


もっとも、生物・無生物の別を問わなく、地球上には、形態的に高度な様ざまな物理的秩序が形成されて、それらは客観的に観測できるです。しかし、それらの形成が、構成要素群の物質的な性質やその場の物理的な状況だけで果たされることは困難だろうと、推測されます。そして、それらの形成には、大きな(物質システム)知性(= (物質システム)意識)による統合的・包括的・観念的な働き――情報収集・設計・思考――が欠かせない、と思われます。合理性に照らし、それはほぼ間違いないと思われますが、しかし、これらのことは実証が困難とも思われます。(たとえば、結晶学では、様ざまな結晶の構造は詳細に解明されているようですが、それらが物質的で物理的な要因だけで形成されうるか否かには、まだ答えが出されていぬようです)。特に、知性――それが現実に発生していると想定して――やその観念的な働きは根本的に観測できません。このゆえ、高度な物理的秩序の形成に知性が関与しているか否かは客観的に判定できないのです。困りしことです。


6) 意識を発生させるための方針


それでも、意識を究明するには、以下のようにすればいいと、思われます。


a) 意識についての特徴や手がかりなどをできるだけ集める。


b) 集めし特徴などに基づき、意識のありそうな物理的様相を描きだす。


c) そういう意識を実現してくれそうな自然科学的な事物をできるだけ探す。


d) 探せし事物を組みあわせ、意識が発生しそうな物理的な枠組を組む。


e) 発生すると期待されるものが意識であることを説明する。発生するものの中に精神性が発現すると推測されることを可能なかぎりに説明する。


a)からd)の作業は、発生させるものが意識かどうかは明解ではないにせよ、物理学(自然科学)の視野に収まりています。


しかし、e)の精神性の発現は、意識がまさに物理学の手から擦りぬけてゆく最前線です。(そもそも、意識は、無形で、観測できません)。なので、e)の作業は難しいと思われますが、しかし、d)で発生すると期待されるものの物理的な特性などから、多少のことは推測できるかも知れません。






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