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(付録) 意識の概要  作者: 安田孫康
19/23

18 空 (1)

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18 空 (1)


  (脱線) 色即是空






  《 (脱線) 色即是空 》


1) 「色即是空」についての解釈


2) 言葉の意味づけについての評価


3) 仏教による「色即是空」についての解釈の評価


4) 仏教の解釈によれば、「色即是空」では当たりまえのことが表明されている


5) 「色即是空」で当たりまえのことが表明されている理由


6) 事物が変化することは、事物に執着すべきでないことの根拠になりうるか?


7) 執着しないことは、まともなことである


8) 言葉に仏教特有の意味づけがされている理由


9) 一度には扱えない複数の事柄が一度に扱われ、混乱が生じている、よう思われる


10) また別の解釈


  ................


1) 「色即是空」についての解釈


仏教には「色即是空」という言葉(熟語)があります。


「色」は、(意識に感知される感覚――たとえば、色――の源ないし原因である)この世のすべての事物や現象を表わし、「空」は、すべての事物は、(恒常的な実体がなく)、空であることを、表わすそうです。


そして、この熟語には、いくつかの解釈があるようですが、おおよそは以下のように解釈されます。


a) この世のすべての事物や現象は、恒常的な実体はなく、空である。


b) この世のすべての事物や現象は、恒常的な実体はなく、因果関係により存在する(だけである)。原因が失われれば、それらはたちまち消えさる。


c) 目に見えるもの、形づくられしものは、実体としては存在しなく、時々刻々変化する。不変なる実体は存在しない。


いずれの解釈も、好意的なものであり、言葉が追加されています。


2) 言葉の意味づけについての評価


仏教による「色即是空」の解釈では、「色」は、(意識に感知される感覚――たとえば、色――の源ないし原因である)この世のすべての事物や現象を表わすそうです。


しかし、そもそも、「色」という言葉にそのような意味はありません。(もしもその意味がそれらなら、この標語は「事物即是空」ないし「物即是空」とすれば、それで済みます。宗教の教えは平易であるべきです。わざわざ意味の異なる文字を使いて、教えを難解なものにする必要はありません)。


なので、この意味づけは、端的に誤りです。この意味づけは、おおきな誤解の元であり、人を混乱させます。この熟語のほんとうの主旨が正確には読みとれなくなりてしまいます。


また、「空」は、すべての事物は、(恒常的な実体がなく)、空であることを、表わすそうです。


この意味づけは、すべての事物が、不変の実体でなく、変化するものであることを、「空」と表現しています。しかし、「空」という言葉にそのような複雑な意味はありません。(「空」の原義は、むしろ、「無」です)。このため、この意味づけは、きわめて紛らわしく、おおきな誤解の元であり、人を混乱させます。


(ただし、変化する実体が、物質的に空ぽであるか否かについては言及されてはおりません)。


こういう次第で、仏教独自の言葉の意味づけをされている、この熟語の解釈は、言葉の意味の段階で、もう、無茶苦茶なものになりてしまうだろうと、思われます。


3) 仏教による「色即是空」についての解釈の評価


a) この世のすべての事物や現象は、恒常的な実体はなく、空である。


(もしも仏教による言葉の意味づけを受けいれるなら)、この解釈は、基本的には、この世のすべての事物が、不変の実体でなく、変化する、と表明しています。


これは、その通りでありて、真です。


そして、このことは、仏教のべつの熟語であり、かつ、教えの主要な基盤の一つである、「諸行無常」によりて、簡潔明解に表現されています。


しかし、他方、すべての事物が、恒常的な実体でなく、変化することが、「空」と表現されています。しかし、「空」という言葉にそのような複雑な意味はありません。このゆえ、すべての事物が変化するゆえ空である、という表明は、曖昧であり、主旨が理解しづらいです。


このため、この解釈は、部分的には真であるにせよ、全体として、人を混乱させます。


b) この世のすべての事物や現象は、恒常的な実体はなく、因果関係により存在する(だけである)。原因が失われれば、それらはたちまち消えさる。


この解釈は、a)の解釈の真の部分とほぼ同じです。そして、事物が、(変化し)、発生(し、消滅)することに関して、因果性が追加されています。しかし、その反面、変化が空であるという表明はありません。


なので、この解釈は、全体として真です。


ちなみに、事物の生起(変化)についての因果性は、仏教の基本的な考えと、言われます。


c) 目に見えるもの、形づくられしものは、実体としては存在しなく、時々刻々変化する。不変なる実体は存在しない。


この解釈は曖昧です。「実体」の意味が明確ではありません。そして、物理的にみて、虚偽です。


4) 仏教の解釈によれば、「色即是空」では当たりまえのことが表明されている


仏教の解釈によれば、熟語「色即是空」では、基本的に、この世のすべての事物は、不変の実体でなく、変化する、ということが、表明されています。


(変化する実体が、物質的に空ぽであるか否かについては言及されてはおりません)。


これは、言わば、当たりまえのことであり、仏教のべつの熟語である、「諸行無常」によりて、簡潔明解に表現されています。


ただし、仏教の解釈では、「空」という言葉に仏教独自の意味づけがされており、その当たりまえの事物が「空」である、とも表明されています。これは、誤解の元であり、人を混乱させます。


5) 「色即是空」で当たりまえのことが表明されている理由


しかし、言葉に仏教独自の意味づけがされしうえで、なぜこの当たりまえの事がわざわざ表明されるのでしょうか?


それは、どうも、べつの教えの根拠とするためらしいです。それは何かと言えば、「執着するな」という教えのようです。仏教による解釈のほんとうの主旨は、どうも、これのようです。「色即是空」という極めて難解で人を混乱させやすい熟語が、「執着するな」という簡潔な教えを表明するために、わざわざ使われているのです。


詳細は次のようになります。


すべての事物は、時間の経過のなかで眺めるならば、空――(物質的(物理的)な存在として)不変でなく、変化(し、消滅)する――なので、執着することは望ましくない。


つまり、すべての事物は、因果性により、変化し(、遂には消滅し、存在しなくなり)ますが、そのことが、事物に執着すべきでないことの根拠になりているのです。


しかし、それは本当に根拠になりうるでしょうか? 検討する必要があります。


6) 事物が変化することは、事物に執着すべきでないことの根拠になりうるか?


残念ながら、すべての事物が、変化(し、遂には消滅)することは、執着すべきでないことの、根拠には、ならないと、思われます。


「色即是空」を根拠とする「執着するな」という教えの根本的な根拠は、「変化するものは、執着の対象には成りえない」ということです。


しかし、この命題は、端的に真ではありません。そのような論理的必然性はありません。なぜなら、変化するものであろうとも、それが時間の流れのなかにて執着の対象たりうるあいだ、執着の対象たりうるからです。


もっとも、人は十人十色です。そして、執着はきわめて感情的で主観的なものです。このため、なにかが執着の対象になるか否かの判断は、人により大きく異なります。


しかし、たとえば、ここで、「執着する」という主観的な精神状態を、「有用と判断する」という客観的な事象に置き換えてみます。


すると、この命題は、次のようになります。


「変化するものは、有用とは判断されない」。


これは端的に真ではありません。なぜなら、変化するものであろうとも、それが時間の流れのなかにて有用であるあいだ、有用と判断されうるからです。


もっとも、この命題は、部分的には合理的です。それは、「もしも、事物が変化して、もはや有用とは判断できないものになりしのちも、それを有用と判断するなら、それは不合理である」ということです。


つまり、事物が変化するということだけでは、有用性の判断という客観的な判断におき、その根拠たりえないのです。場合分けする必要があります。


いわんや、執着という感情的で主観的な精神状態の可否については、事物が変化することは、より一層、その根拠たりえないです。


(もしも、ここで、仏教による「色即是空」についての解釈の論理がこころに無理強いされるなら、その心は、その中途半端さに困惑し混乱するばかりであろう、と思われます)。


このため、執着にかんしても場合分けする必要があります。「もしも、事物が変化して、もはや執着の対象にはなりえなくなりしのちも、それに執着するなら、それは不合理である」という場合を追加する必要があります。


しかし、それでも、感情が合理性や論理に従わなくてはならないという決まりはありません。元来、感情は、不合理であり、しかも、きわめて強力です。合理性や論理がどうであろうと、感情は、発生するときには発生します。とにかく、感情は、合理性や論理には縛られないのです。


しかも、理論というものは、一般に、限定的です。ある理論が現実の事象に適用できるケイスは、一般に、限られています。それなのに、ある一つの理論が現実の様ざまな事象に無条件で適用できると考えるなら、それは強引すぎます。論理の飛躍です。


しかも、感情は、意識の身体感覚作用のパタァン群や思考作用のパタァン群から形成されますが、これらパタァン群の物質的な基盤である脳のニューラル ネトゥワークは、簡単には変化しません。そして、たとえ、それが変化するにせよ、どのように変化するかは、決して予測がつきません。(自由意志は存在しなく、ニューラル ネトゥワークの変化は、完全に、(それら自身の物理的秩序を形成し維持しつづけようとする)ニューラル ネトゥワーク自身に委ねられています)。


物質的な現実はとても手強いのです。「色即是空」という熟語の論理的に中途半端な解釈がなにを主張しようとも、物質は、あらゆる偶然に曝されながら、物質みずからに発生する論理にしたがい変化するのです。


このため、執着がもはや客観的に不合理になろうとも、執着は持続しえます。さらに、執着の対象が実現される前であろうと、執着は生じえます。


こういう次第で、「色即是空」(= 事物が、変化し、遂には消滅すること)は、執着すべきでないことの、根拠には、なりえない、と思われます。


かりにそういう方法があるとして、もしも執着を落とすとするなら、もっと現実的な方法が望ましいです。


仏教は論理的と言われます。それはたいへん結構なことです。しかし、「色即是空」の解釈にてのみは論理的ではありません。むしろ、論理が中途半端なままに飛躍しています。(こういう論理の飛躍は、穏やかでなく、仏教の主要な教義の一つである「中道」にも反するかも知れません)。なので、この解釈のみは論理的な誤りと言えます。


この解釈は、また、「執着すべきでない」という教えを導くための好意的なものかも知れませんが、その教えを導くための強引なこじつけとも言えます。


  ................


あるいは、この熟語の仏教による解釈では、すべての事物が、変化し、結局は消滅することが、当てにはならず、信頼できず、空しい(無用・無益)などと、暗黙的に感じられていることも、考ええます。そして、そのゆえ――すべての事物が消滅し結局は無駄であるゆえ――、すべての事物は執着の対象たりえないのです。これは、一つの論理ですが、客観的には真でなく、虚無主義です。


ある事物が因果性により別の事物に変化することは、客観的に評価するなら、「変化」です。


そして、ある事物が別の事物に変化し結局は消滅することを空しいなどと評価することは可能です。(いずれにしても消滅するからです)。しかし、それは、感情的な評価にすぎません。


現在、現存するものは、因果性により、将来的には必ず消滅します。しかし、事物が将来に消滅するからと言いて、現存する事物を空しいなどと評価することは、尋常な判断ではありません。


(むしろ、すべての事物が将来に消滅することは、当たりまえです。事物の存在とはそういうものです。事物の存在に根本的には(絶対的な)目的はなく、事物の存在は空しい(無用・無益)などという人間的で狭い観点から評価されるようなものではありません。


物質の存在は、根本的には、物質にそなわる、みずからの物理的秩序を形成し維持しようとする作用に基づきています。そして、生物の活動――高度で動的な物理的秩序――も、根底では、その作用により駆動されています。ここには根本的に目的はありません。作用の働きがあるばかりです。


たとえば、地球では、今からおよそ35億年まえに、最初に単細胞生物が発生しつそうですが、その発生いらい、今からおよそ10億年まえに多細胞生物が発生するまでの25億年ものあいだ、無限の単細胞生物だけが来る日も来る日もあくせくと発生と消滅を果てしなく繰りかえしつのです。25億年。2千500万世紀。気が遠くなるほどの時間です。そして、その期間のあいだ、地球には、無限の単細胞生物だけが生息していつのです。(単細胞生物のそういう状態は現在も継続しています)。そこには、単に、(根底では物質にそなわる作用に駆動され)、みずからの活動――動的で高度な物理的秩序――を維持しつづけようとする現実的な意図以上の目的はありません。


(ちなみに、この宇宙は何ひとつ必要とはしておりません。この宇宙は生物になにも求めておりません。いかなる結果になるにせよ、この宇宙はなるがままになるばかりです。ちなみに、超弦理論では、現在のこの宇宙は50回めの宇宙と言われています。再生を繰りかえすに連れて、宇宙の寿命はどんどん長くなるらしいです。現在の宇宙はおよそ137億歳です)。


目的は、価値と同様、絶対的なものでなく、個別的なものにすぎません。目的は、個人や人間の集団や社会が置かれている状況や状態にしたがい、そして、都合にしたがい、個別的に立てられるばかりです。


そして、人間がおかれている状況にもさほど違いはないと、思われます。根本的に、人間や生物の存在には、みずからの物理的秩序を形成し維持しつづけようとする物質作用に起因する現実的な意図以上の目的はないのです。もちろん、(人間であることの枠組のなか)、なんらかの(人間的な)考えに基づき主体的な目的や高い目的を抱くことは、いくらでも可能です。


そして、すべての事物はいずれは消滅するのです。そういうものなのです。人間的な感情は生じますが、それに強く影響されるべきではないのです)。


食品は、食べればなくなります。しかし、現存する食品は、決して空しく(無益では)ありません。それは、十分、わたしたちの役に立ちます。


現存する事物は、もしもそれが役に立つなら、リアルタイムの現在におき役に立つのです。それを、将来に出現する(変化せしあとの)状態により(感情的に)評価することは、正しいことではないのです。(論理的にも、無茶苦茶です)。今、ここに、この瞬間を生きる、現在を生きる、という考えかた、ないし、立場では、事物は、現在の状況におき評価すべきでありて、将来の状態にもとづき評価すべきでは決してありません。


さらに、事物が変化するには、変化する主体としての事物は、(エナァジで体現される)実体として必ず存在しなければなりません。それにも拘わらず、その変化の主体たる現存する事物を空であると見なすことは、完全に間違いています。辻褄が合いてはおりません。


とにかく、事物は、決して、空ぽでも、空しくも(無用でも・無益でも)ないのです。変化は、正しく、客観的、かつ、率直に、変化と評価されるべきです。


  ................


仏教による「色即是空」の解釈ゆえに、これまで多くの人が混乱させられてきつかも知れません。この解釈は取り消すべきと思われます。(「執着すべきでない」という教えは、ごく一般的な合理性に基づけば簡単に得心できます。しかし、理論的に導くことはとても難しいと思われます)。もっとも、この熟語そのものを取りけす必要はありません。その本当の主旨は異なるかも知れないからです。


7) 執着しないことは、まともなことである


もっとも、執着しないということは、なかなかまともなことと思われます。なぜなら、事物への執着は、私たちに苦しみをもたらす大きな原因の一つだからです。苦しみを免れるには、執着を落とすことは大切なこと、と思われます。(もっとも、深い執着を落とすことは容易でないと思われます。その実際的な方法が、より重要です)。


どうも、仏教は、その主旨が字面からは読めない難解な熟語によりて、まとも、かつ、とても単純な教えを表明しているようです。


8) 言葉に仏教特有の意味づけがされている理由


仏教による「色即是空」についての解釈では、次のように、言葉に仏教特有の意味づけがされています。


まず、「色」は、この世のすべての事物や現象を表わします。もしも「色」が「感覚」の意味で使われるなら、それは直感的に自然です。しかし、それを超え、わざわざ、「色」の原義にはない「事物」の意味で使われています。


しかし、このことは、熟語の解釈に「事物」を持ちこむための意図的なものと推測されます。なぜなら、観念的(でかつ非物理的・非物質的)な「感覚」に比して、「事物」は具体的でありイメジしやすいからです。


つぎに、「空」は、すべての事物は、(恒常的な実体がなく)、空であることを、表わします。しかし、この「空」はまだ曖昧です。より詳しくは、事物の変化と消滅が「空」の意味とされています。しかし、「空」に「変化」と「消滅」の意味はありません。


「空」が、その原義にはない、事物の「変化」と「消滅」の意味で使われるのは、それらの事象が具体的でイメジしやすいためと、思われます。


9) 一度には扱えない複数の事柄が一度に扱われ、混乱が生じている、よう思われる


執着については、それは一般的な意味で苦しみの元なので、執着することは望ましくない、とはっきり言えば、それで済みます。わざわざ論理的に中途半端な解釈をこじつける必要はありません。


どうも、仏教による熟語「色即是空」の解釈にては、同時には扱えない複数のものが一度に扱われ、混乱が生じているよう、思われます。そのゆえ、「色即是空」が難解なのに違いありません。


複数のものとは、大まかには、つぎの三つです。


A) 「執着するな」という、ごく宗教的な教え


B) 因果性により生起する事物の空性 (発生し、存在し、変化し、消滅し、存在しなくなること)


C) (非物質的で、物理的には空ぽなのかも知れない)自己・自我・感覚・意識・自己の存在などについての根本的な問い


そして、この熟語の本義は、C)に関するものなりしかも知れません。自己などについての問いは、必ずしも宗教的なものではありませんが、宗教的な関心でありうるからです。


10) また別の解釈


もしも、「色」が、意識に感じられるものである感覚やクワリア――感覚にともなう質感――を、素直に表現しているならば、この熟語の解釈は、「感覚は空ぽである」という簡潔なものになります。そしてそれは真です。なぜなら、感覚やクワリアは、意識の作用の働き(動き)の影ないし痕跡のようなものであり、エナァジでは体現されず、エナァジで体現される実体ではないからです。それらは、物質的に空ぽだからです。(感覚は、直感的にも、物質的でない、物質的には空ぽである、と感じられます)。


この熟語の元もとの主旨はこちらなりきかも知れません。(こちらがありそうです)。もしもそうなら、この熟語は、宗教的な教えを表現していつのではなく、むしろ、ごく物理的な事実を表明していつ、ということになります。意識や自己や自我についてのものなりき、ということになります。そして、こちらも、ある意味、重要です。


しかし、その場合、かりに、感覚には、物理的な実体がなく、物質的に空ぽであるとして、そのことが如何に重要なのか、なにか宗教的な意味があるか、ということが、問われます。


なぜなら、「空」は、仏教の教えの主要な基盤の一つ、ということなのですが――もっとも、なぜそうなのか、その理由はあまり明確ではありません――、その場合、「空」には、なんらかの意味が求められるからです。


さらに、このことは、仏教だけには限りません。感覚や意識が空かも知れないことは、仏教以外でも想定されていて、宗教一般で関心を持たれているよう、思われます。さらに、自分の存在・自己・自我などに関心を抱いている一般の人も少ないかも知れません。


身体感覚や思考の感覚が(物質的には)空ぽであることから、さらに、なんらかの考え・自覚・認識・教えなどが展開されるでしょうか? こういう問いに、もう答えは出されているのでしょうか? (もっとも、「執着するな」が、この熟語についての仏教の公式的な解釈・教えのようではありますが)。


ちなみに、(観念的な)感覚(の質)が(物質的かつ物理的に)空ぽであるにせよ、その感覚をもたらす原因は、事物(実体)として、物理的意識の内外に現に存在します。(物質的かつ物理的に空ぽなのは、感覚のほうであるのに過ぎません。しかし、これは、測定作用――情報収集作用――をはたす感覚作用の本質です)。


この状況で、もしも原因を存在しないと見なすなら、それは、現実をありのままに見ようとしない自己欺瞞になります。もしも生きつづけてゆくとするなら、むしろ、現実の事物はきちんと認識し、必要ならば、対処するのが望ましい、と思われます。


しかし、それに対してどのように対処するかに決まりはありません。仏教(宗教)は、このあたりに関与するのかも、知れません。







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