14 思考と合理性
14 思考と合理性
(参考) 生物の動きはかならず意識に形成される思考にもとづき生じる
言語の生物学的基盤
生物の体に関わるほとんどの動きは合理的
合理性の源
思考の形成
《 (参考) 生物の動きはかならず意識に形成される思考にもとづき生じる 》
詳細はここでは説明できませんが、人間のほとんどの動作は、意識に形成される思考(観念)にもとづき生じます。たとえば、発話の動作がそれに該当します。これは分かりやすいです。
そして、このことからは、意識と物質のあいだに接点があり、意識・思考・観念が物理的であることが分かります。意識は、物理的であり、かつ、観念的(知的・非物質的)機能を果たすです。
(素粒子から始まり、この宇宙に存在する全ての事物は、エナァジで体現される物理現象であり、時間の関数です。そして、意識も、この宇宙に生起しており、片時も休まず変化する物理現象です。そして、意識が物理現象ならば、それは端的に物理的、ということになります。意識がこの宇宙に生起する物理現象であるという点で、意識は、そもそもの最初から、物理的なりしわけです。ただ、このことは、なぜか説得力が薄いです。あまりにも当たりまえだからでしょうか?)
ちなみに、生物の意識は細胞の段階から形成されます。(たとえば、単細胞生物が知性と記憶つまり意識を有することは、もう実証されています)。このゆえに、植物をふくめ、生物の体には大きさの異なる沢山の意識が形成されます。そして生物に生じる意識は多層です。最上位の意識は体全体に生じる巨大な意識ですが、これは、体の複数の部位にかかわる変化を司る、と予測されます。進化もこの変化に該当します。
さらに、発話の動作をふくめ、人間(動物)のほとんどの動作は筋肉運動により形成されます。つまり、ほとんどの動作の元である筋肉はかならず思考(観念)にもとづき動くです。
このことからは、少なくとも細胞・組織・器官・体全体などの生体内におき、物質が意識(思考・観念)にもとづき動きうることも看取できます。
(こういうことは意識から物理学への贈り物のようなことです)。
《 言語の生物学的基盤 》
1) 普遍文法 -- 言語の生物学的基盤
2) 言語における合理性
3) 言語の合理性からもたらされる長所
4) 合理性が言語の生物学的基盤であるよう思われる
5) 言語に関係するその他の合理性
................
1) 普遍文法 -- 言語の生物学的基盤
言語学には、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)により提唱されし「普遍文法」という理論があるそうです。見出しだけを見ると、それがどういうものかはさっぱり分かりませんが、すべての人間が生まれながらに普遍的な言語機能を具えてい、すべての言語が普遍的な文法で説明できる、とする理論、とのことです。幼児は、言語を問わなく、比較的短期間で初歩的な言語を習得します。普遍文法はこういうことに端を発して展開されしようです。
2) 言語における合理性
ここに動詞が1つあるとします。すると、その動詞にたいし、それとは別に、その動詞の意味する動きの生じる主体がありえます。それは合理的です。そして、その主体にたいし主語が割り当てられて、その主語とその動詞が組み合わされて、文が1つ形成されえます。
また、動詞が目的語をとらずに使える場合や、目的語を1つか2つ取る動詞のあることは、合理的です。
さらに、名詞が形容詞で修飾されることや、形容詞が名詞の述語になりうることや、動詞や副詞が副詞で修飾されることも、合理的です。
つまり、1つの文には、単語や句の組み合わせなどについての機能的・意味的・構成的な合理性が具わりているのです。
そして、1つの文につき、単語や句の順序や文の構成の形に格別の決まりはありません。文の意味がきちんと表現されるなら、個別的な言語の実装におき、単語や句の順序や表現の形は異なりえます。必要なのは、文の構成要素としての単語や句が組み合わさることに内在する機能的・意味的・構成的合理性です。その組み合わせの状況が合理的でさえあれば、同じ意味を表現しながら、個別的な言語のあいだで見掛けじょうの差異は生じえます。
3) 言語の合理性からもたらされる長所
文の構成要素の組み合わせが機能的・意味的・構成的に合理的であることは、言語の形成におき本質的と思われます。それには次のような長所があります。
A) もしも文における単語や句の組み合わせなどが機能的・意味的・構成的に合理的に設計されるなら、(それは人間の合理性の感覚に合致するので)、そういう言語は実装しやすい。
B) もしも文における単語や句の組み合わせなどが機能的・意味的・構成的に合理的ならば、(それは人間の合理性の感覚に合致するので)、文法を知らずとも、意味を推測することが容易になる。このゆえ、そういう言語は受けいれやすく、かつ、習得しやすい。
そして、見掛けじょうは異なるにしても、たくさんの多様な言語が人間により実際に形成されました。これはA)の長所によると思われます。
また、幼児は、言語を問わなく、比較的短期間で初歩的な言葉を覚えます。これはB)の長所によると思われます。
4) 合理性が言語の生物学的基盤であるよう思われる
こういう次第で、文における単語や句の組み合わせなどに具わる機能的・意味的・構成的な合理性が、言語の生物学的基盤である、よう思われます。
つまり、人間(の意識(脳))に具わる合理性の感覚ないし合理性を評価できる能力が、言語の生物学的基盤である、と思われます。そして、それが、普遍文法に該当するよう思われます。なぜならそれは人類に共通するからです。
ちなみに、その感覚ないし能力がどういうものかは興味ぶかいです。しかし、それは意識(脳)に関係することゆえに、ここまで来ると、その解明は、もう言語学の範疇を超えていて、脳神経学の担当になる、と思われます。
5) 言語に関係するその他の合理性
赤ん坊は泣いたり喃語をつぶやいたりします。これは、口で音をだす行為なので、言語形成のヒントゥと捉えることができるかも知れません。
さらに、人間は、口から音を出すことで、なにかを表現できることに直ぐに気がつくはずです。(こういうことは、無意識的であれ、動物にも当てはまります)。こういう自覚が言語の形成を導きつのだろう、と推測されます。
赤ん坊が泣くのはどうしてでしょう? それは、彼または彼女に何らかの必要が生じ、まわりの人間の援助を求めているためと、推測されます。
(赤ん坊が泣くのは根本的なことです。そのための思考(観念)が意識に形成されるメカニズムは、もう赤ん坊の脳に先天的にプロウグラムされているのだろう、と予想されます)。
そして、赤ん坊の動作のそういう枠組は完全に合理的です、その合理性を赤ん坊が意識することは決してないにせよ。
また、赤ん坊が喃語を話すのはどうしてでしょう? それは、単に、まわりの人間の真似をして、じぶんも口で音をだしてみたい、という無意識的な欲求(目的)が生じしためかも知れません。そしてそれに従いているだけかも知れません。または、口から何らかの音をだし、まわりの人に気づかれたい、という無意識的な欲求が生じているのかも知れません。しかし、いずれにしても、欲求にしたがい、喃語を話すことも、合理的です。
いずれにしても、赤ん坊の段階でもうその動作に合理性が具わりているのです。(より詳しくは、その動作の原因となる思考が赤ん坊の意識に形成される部分に合理性が具わります)。もっとも、実際には、赤ん坊のほぼ全ての動作が合理的だろうと推測されます。
《 生物の体に関わるほとんどの動きは合理的 》
生物の体に生じる動きは意識に形成される思考(観念)にもとづき生じます。
すると、赤ん坊の体の動きも意識に形成される思考にもとづき生じていることになりますが、赤ん坊は体を合理的に動かそうと特に考えているわけではありません。(体を動かすための思考、つまり運動の思考は、無意識的かつ自動的に形成されます)。それでも、どういう動作をしようとも、赤ん坊の動作には必ず合理性が具わるのです。
そして、実際のところ、人間・動物・植物の物質的な体のほとんどの動きが合理的かつ目的的だろう、と推測されます。
さらに、生物や人間にかかわる物理的(物質的)な事柄--体における物質的な動きや進化--のほとんど全てに合理性と目的は染みとおりているよう思われます。
進化には、体の形態的進化とともに、細胞・組織・器官・細胞内の物理事象の進化もあります。すべてが合理的で目的的です。
(これまで進化は暗黙的に目的的と感じられてまいりました。しかし、進化が目的的であるとあからさまに形容することはなぜか躊躇されました。しかし、進化が合理的であると評価できしことから、進化が目的的であると評価することもできる気がします。そして、三人称の客体にすぎぬ物質に、たくさんの(無数の)物質の動きにわたる設計を果たすことは不可能です。こういうことが、進化が、無数の物質にわたり形成される意識により果たされる目的的で合理的な設計に基づくことを強く示唆しています。(そもそも、設計は、目的の実現に向けて合理的でなくてはなません)。それは生物の体全体にわたり形成される最上位の意識です。設計は、この体の意識に記憶され、長大な時間をかけて実現される、と予想されます。この点で、進化が、(目的的な設計の実現に向けて)合理的であると評価できしことは幸いでした。(そして、それは、言語の生物学的基盤が合理性であると評価できしことに端を発しています))。
そして進化は多様です。これは、なぜなら、同じ目的に関しても、異なる実装が実現されうるからです。そして進化の多様性は言語の多様性と似ています。合理性にもとづく限り、多様なものが実現されうるのでしょう。(ちなみに、人間により作りだされるほとんどのもの--物品や芸術--も、有形・無形をとわなく多様です)。
なぜ生物のほとんど全ての物質的な動き--実際には、その動きの元である、意識に形成される思考--に合理性が具わるのでしょうか? その起源は興味ぶかいです。
《合理性の源》
A) 合理性の源はエナァジの物理的作用と推測される
B) 物質の固体性はエナァジの物理的作用の写像である
C) 意識はエナァジの観念的作用の巨大な融合体である
D) 意識はエントゥロピー生成速度の減少に起因して形成される
E) 知性と意識の違い
F) エナァジの自己創発作用は物理的秩序を形成しようとする作用である
G) エナァジの自己創発作用がすべての合理性の源かも知れぬ
H) 思考にもとづく物質の動きには必ず合理性が具わるのかも知れぬ
I) 合理性と真理
................
A) 合理性の源はエナァジの物理的作用と推測される
合理性の源は、エナァジに具わる物理的作用の1つと推測されます。(エナァジは体積なくて非物質的です。そういうエナァジの本性は物理的作用です)。それは自己創発作用(または、自己融合作用)です。
素粒子は、ビグ バンにおき、この作用によりて、無数のエナァジから形成されました。原子・分子・重合体・結晶もこの作用によりて形成されます。
B) 物質の固体性はエナァジの物理的作用の写像である
つまり、物質は、体積ないエナァジの融合体です。このゆえ、厳密な意味で、物質やこの宇宙は完全に真空です。固形物は一切存在しないです。なぜなら、体積ないエナァジをどれだけ沢山結合させようと、それは決して固形物や固体にはならないからです。そもそも固形物の存在は不条理です。私たちが見たり触りたりしている物質--固体性--は、エナァジの物理的作用の働きに起因する写像です。たとえば、私たち生物は、光をとおして物を見ています。(ちなみに、素粒子とは別に、仮になんらかの固形物が存在するとして、なにがその固形物の構成要素なのでしょう?)
C) 意識はエナァジの観念的作用の巨大な融合体である
そして、意識も、エナァジの自己創発作用によりて、エナァジの観念的作用--自己状態測定作用・自己次期状態&操作演算作用--から形成されます。意識は、ひと言で言えば、エナァジの観念的作用の巨大な融合体です。
D) 意識はエントゥロピー生成速度の減少に起因して形成される
ちなみに意識は生物・無生物を問いません。そして、無生物の意識は、この宇宙や地球上や私たち人間のまわりにありふれている、と予想されます。なぜなら、エントゥロピー生成速度の減少している系ならば、無生物の意識は形成されうるからです。
(この意味で、コムピュータァ・CPU・DSPなどでも無生物の意識は形成されうると予測されます。ただ、それは、人間の意識のように高い知性は有していないです)。
エントゥロピーは乱雑さのようなものです。乱雑さの指標になります。
そして、エントゥロピー生成速度は、系内に発生する熱が系外に流出することで減少します。すると、系内のエントゥロピー生成速度が減少し--乱雑さの増加速度が減少し--、エナァジの自己創発作用が活性化されます。そして、その作用の働きにより、物理的秩序が創発します。ただ、物質が融合できない状況では--たとえば、化学合成が起きない状況では--、エナァジの知性(観念的作用)が融合し、より大きな知性が創発しえます。
E) 知性と意識の違い
それの観念的物理的作用が、単一の物質(量子)に閉じているか、たくさんの(無数の)物質にまたがりて形成されているかが、知性と意識の違いです。
つまり、知性と意識は、それらが形成される物質の範囲が異なります。意識が単一の物質の内部に形成されることはありません。それは知性です。加えて、知性は、単一の物質が形成される最初から、その物質に具わります。
さらに、意識は、おおむね、液状の柔らかい環境で形成されます。そこで化学反応が起きることは必須ではありませんが、おおよそ、意識が形成される環境で化学反応は生じます。
(たとえ、コムピュータァ・CPU・DSPなどにても意識が形成されうるにしても、そこで化学反応が起きることはなく、それらはほとんど変化しえないゆえに、その動き(働き)は極めて固定的で限定的です。(しかしCPUやDSPは一種の量子かも知れません。この場合、それらには最初から知性が形成されます)。なぜなら変化するのは電子の動きだけだからです)。
さらに、意識が形成される環境でエントゥロピー生成速度はかならず減少しています。
(ちなみに、熱水の氷結速度が速いというムペンバ効果がありますが、これは冷えてゆく熱水に無生物の意識が形成されうることを暗黙的に示唆していると予測されます。なぜなら、氷結速度が速いのは、形成される意識の活性が高いことの影響による、と推測されるからです。こういうことは、調理直後の料理・溶岩・高温に熱せられし後に冷えつつある金属などにも該当するかも知れません。溶岩では様ざまな結晶が形成されえますが、それは意識の働きにもとづくと予測されます)。
F) エナァジの自己創発作用は物理的秩序を形成しようとする作用である
また、物質の知性や生物の意識は観念的な物理的秩序です。知性や意識は秩序です。さらに、意識や知性に形成される思考(観念)も物理的秩序です。
つまり、エナァジの自己創発作用は、物質的であると観念的であるとを問わなく、物理的秩序を形成し維持しようとする作用です。この宇宙に存在する全ての物質は、この作用の働きにより持続しています。エナァジは一人称の主体ですが、その本性である物理的作用は常に動作しているのです。
G) エナァジの自己創発作用がすべての合理性の源かも知れぬ
そして物理的秩序は合理的と思われます。むしろ、物質的であると観念的であるとを問わなく、エナァジで形成される物理的秩序は、すべて、合理的、と見なすのが、いいかも知れません。なぜなら合理的でない物理的秩序は考えづらいからです。
ただ、合理的であることの意味は明解ではありません。なにかが合理的であるか否かは評価しづらいです。たとえば、最初の物理的秩序である素粒子が合理的であるか否かは判定しがたいです。
このゆえ、むしろ、エナァジの自己創発作用によりて形成される物理的秩序は、すべて、合理的、と見なすべきかも知れません。エナァジの自己創発作用は、物理的秩序を形成し維持しようとする作用ですが、かならず合理的なものを形成する特性があるのかも知れません。そしてエナァジの自己創発作用がすべての合理性の源かも知れません。(知性・意識・思考(観念)などもエナァジの自己創発作用によりて自動的に形成されます)。言わば、エナァジの自己創発作用が、この宇宙における全ての合理性を規定しているのです。
H) 思考にもとづく物質の動きには必ず合理性が具わるのかも知れぬ
思考は観念的な物理的秩序です。
そして、動物・植物を問わなく、生物という生体の内部にて、物質は思考(観念)にもとづき動きえます。(たとえば、発話の筋肉運動において)。このゆえ、思考にもとづく物質の動き--生物の動作--には必ず合理性が具わるのかも知れません。
(ちなみに、言語における単語や句の合理的な組み合わせなども、根本的には思考の合理性にもとづきますが、機能的・意味的・構成的な秩序と言えます)。
ただ、動物の主観の意識に形成される思考は例外です。なぜなら、このレヴェルの思考は、大きく複雑であるゆえに、矛盾を含みうるからです。私たち人間はいくらでも不合理なことを考ええます。
I) 合理性と真理
合理性についての私たちの感覚や評価は、根本的には、エナァジの自己創発作用に基づくと、思われます。
たとえば、真理や論理学の規則は、私たち人間には合理的と感じられます。しかし、なぜそれらが合理的なのか、どうもうまくは説明できないようです。それでも、そういう評価は、恐らく、エナァジの自己創発作用に根ざしているのだろう、と予想されます。
真理があります。真理は、観念的であり、非物質的で、体積がありません。しかも真理は場所や時間に拘束されることもありません。そのうえ、真理は、(私たち人間の合理性の感覚で判断し)それは必ずそうである、という点で、それが存在することには妙な強制が感じられます。
このゆえ、一つの想定として、もしかして、真理が存在の原点かも知れない、ということが考ええます。
(体積があり物質的なものである固形物が存在することに理由はありません。その存在は不条理です。このゆえ、なにかが存在できるとすれば、それは少なくとも非物質的なものでなくてはなりません。真理や体積なくて非物質的なエナァジはこれに該当します。そして、この宇宙に存在する全ての物質や空間は、エナァジで形成されます。(これは「合理的」です。なぜなら、ビグ バン理論によれば、この宇宙には厳密な意味でエナァジだけが存在するからです)。このゆえ、全ての物質や空間は、厳密な意味で、完全に真空です。そして、私たちが感知する物質性は、エナァジの物理的作用の働きの写像です)。
しかし、私たち人間は、そういう真理さえ、エナァジの自己創発作用に根ざす合理性の感覚で評価するのです。私たちはそうする以外ありません。
このゆえ、真理が本当に合理的であり真理であるか、私たちに確かなことは言えません。私たち人間にとり、真理や合理性は相対的であらざるを得ないです。(私たちの宇宙のエナァジや物質に具わる合理性は、1つの実例かも知れません)。(ゲーデルの不完全性定理は、こういうことも意味しているかも知れません)。
それでも、私たち人間は、真理や論理的な規則を評価するため必ず私たち自身の合理性の感覚に基づかざるを得ない、という点で、合理性が、(存在の原点と想定される)真理に先立つのかも知れません。私たち人間にとり、合理性さえ相対的であり不確かですが、それを認識ししうえで、合理性が存在の基盤である、と言えるかも知れません。
それにつけても、合理性は不思議です。(私たち人間のレヴェルでの合理性は、エナァジの自己創発作用の特性に根ざすのですが)。
《 思考の形成 》
意識の思考能力の源は、エナァジの演算作用--自己次期状態&操作演算作用--という観念的作用と思われます。
エナァジには観念的作用が具わりています。(これは論理的必然です。そしてそれは合理的です)。それらを合わせしものは、言わば、無生物の知性です。そして、エナァジには、観念的作用として、この演算作用の他に、自己状態測定作用も具わりています。この作用は、要するに、じぶんの状態についての情報収集のための作用です。
この演算作用は、エナァジの自己創発作用(または、自己融合作用)によりてより大きな作用に昇格します。これが、植物をふくめ、生物におき、意識の思考能力(演算能力)になります。植物でも意識は形成されます。
ちなみに、エナァジの自己創発作用は、温度の低下--熱の系外への排出--による、系のエントゥロピー生成速度の減少--乱雑さの発生の減少--により活性化されます。
生物にては、融合ししあとの大きな演算作用が意識の思考能力に昇格しているのです。
ここで、エナァジの自己創発作用は、自分らを素材として使い、より大きな物理的秩序を形成したり維持したりする作用です。創発は、温度の低下--熱の系外への排出・エントゥロピー生成速度の減少--にともない、水蒸気が水滴になりたり凍りたりするようなことを指します。融合し、より大きな物質になりしものは、より大きな物理的秩序です。水や氷の物理的秩序は、水蒸気より高く大きいです。また、素粒子の物理的秩序は、エナァジより高く大きいです。
つまり、意識の思考能力は、大きな物理的秩序です。(エナァジや物質の無生物の知性の演算作用も物理的秩序です)。
そして、エントゥロピー生成速度が減少している限り、意識の思考能力は形成されつづけます。そして、思考能力が形成されつづけるということは、実際のところ、思考が形成されつづけるということを、意味します。
つまり、意識が形成されている限り、思考作用は常に動作しつづけているのです。ただ、意識に思考が形成されるためには、思考の種が欠かせないです。思考の種が入力されない限り、思考作用は、電源が入れられているにせよ、アイドゥル状態です。
しかし、意識の測定作用--情報収集作用--も常に動作しています。この作用は、身体感覚・先行する思考・浮かんできし記憶などを入力し認知する作用ですが、この認知が思考の種になります。
このゆえ、思考の種が生じている限り、思考は、片時も休むことなく、次つぎ変化しつづけるです。
ただ、体が動いておらず、気持ちも静まりていれば、入力は少なくなるゆえ、さほどの思考も生じないです。身体感覚に起因する微かな思考が無意識的に生じるばかりです。
さらに、思考は、物理的秩序であるゆえに、おおよそ合理的です。しかし、エナァジは、(意図的に)合理的な思考を形成してはいないです。エナァジは、単に、自己創発作用によりて、物理的秩序を形成しているだけなのです。エナァジ自身、どういう物理的秩序(思考)が形成されるのか、少しも知らないのです。つまり、どういう思考が形成されるのか、一切だれも知らないのです。
思考は、脳に形成されている思考パタァンに基づき、そして、情報収集されし物質的な状況にしたがい、完全自動で形成されるばかりです。脳のない物質(量子)・細胞・組織・器官などでは、思考(演算結果)は、情報収集されし物質的状況にしたがい、完全自動で形成されます。
しかし、その物理的秩序が、結果として、おおよそは、合理的思考になりているのです。
なぜなら、物理的秩序は必ず合理的でなくてはならないからです。合理的でないものは、物理的秩序たりえないです。もちろん、人間の主観の意識のレヴェルでは、不合理な思考はいくらでも形成されえます。
しかも、思考という物理的秩序の形成は、エナァジの自己創発作用によりて完全自動で為されます。
なぜなら、エナァジの自己創発作用の働きは物理現象であり、かつ、物理現象はかならず完全自動で生起するからです。意識の形成や動きをふくめ、この宇宙に生起する全ての事象は物理現象であり、物理現象は完全自動で生起するのです。細胞などの生体内部での物質の動き(物理現象)を除外して、なにか意識のようなものが物理現象--意識の形成や動きも物理現象です--の生起に介入することは、決してないのです。(たとえば、発話の筋肉運動は、かならず、意識に形成される思考(観念)に基づき生じます。これは、生体内においてだけは、物質が観念(意識)にもとづき動きうることを、意味しています)。つまり、厳密な意味で、自由意志はないのです。