12 意識は物理的で微視的
12 意識は物理的で微視的
意識は物理的
思考作用と意識は物理的
意識の質は微視的 -- 意識の働きは物質的には果たされない (予想)
《 意識は物理的 》
(他者のことはいさ知らず)、もしも、人が、じぶんの主観の意識は自分にとりては自明である、と認めるならば、その主観の意識が外界や外界の物質を認知できていることからは、外界や物質とじぶんの主観の意識のあいだには何らかの接点がある、と判断されます。そして、接点があるならば、少なくとも自分の主観の意識の入力面にて、じぶんの主観の意識には物理的な面が具わりていることに、なります。つまり、もしも人がじぶんの主観の意識の存在を認めるならば、主観の意識が物理的であることは認めざるを得ないです。つまり、意識は物理的です。
しかし、もしも人が自分の主観の意識による認知や判断を自分で認めることができないならば、最早それまでです。全てのことが無意味になります。なぜなら、あらゆることは、最終的には、私たちの意識という一人称の主体によりて認知され判断されるからです。
意識には身体感覚能力――五感――が具わりていて、意識は体や外部世界を感知することができます。
そして、この経験的または主観的な事実からは、ただちに、意識は物理的、と判断できます。なぜなら、他者を直接に同定(または感知)することはできず、かつ、感知は、意識のなんらかの自己状態――究極的には、意識をもたらす物質群における何らかの外因的な影響――の測定(の変化)に基づくからです。そして、意識のなんらかの自己状態の測定に変化が生じるならば、それは、意識と脳の物質――または、もっと一般的に、外界――のあいだに何らかの接点のあることを、意味するからです。そして、脳の物質とのあいだに接点があるならば、必然的に、意識も物理的、ということになります。
また、神経科学や脳科学での脳作用局在論(Theory of localization of brain action)や脳作用マピン(Actional brain mapping)などから、脳の状態と意識の状態はたがいに深く関係しあいていることが分かりています。また、脳になんらかのトゥラブルが発生すると、意識も悪影響をうけます。さらに、意識は薬物(化学物質)の影響もしっかり受けます。この場合、まず、脳細胞群が薬物の影響をうけ、それが意識の状態に反映される、と推測されます。これらのことからも、脳という物質と意識のあいだには何らかの接点がある、と判断されます。そして、意識も物理的、ということになります。
つまり、意識は、(微視的であると同時に)、物理的でもあるのです。意識が物理的であることは、明白です。
ちなみに、この判断は、意識の入力側での判断です。
(意識の出力側で判断することもできます。意識の思考作用にもとづき体の物質の動き――たとえば、筋肉運動――の引金が引かれるケイスです。(もっとも、意識は、観念だけを扱うので、思考結果を外部に能動的に出力する――ほかの作用に能動的に働きかける――ことは、実際にはありません。意識での思考結果は他の物質作用にたんに伝わるばかりです)。このケイスについては別記します)。
《 思考作用と意識は物理的 》
私たちは、自分が、毎日、じぶんの考えに基づき生きている、と思いています。これは、私たちが、無意識のうち、ごく普通にもつ印象です。
たとえば、話す・書くなどの行為は、あきらかに脳での思考作用に基づいています。これらの行為は、それらの行為の元になる思考作用が働かないかぎり、決して果たされません。これは否定しがたい経験的事実です。
また、人間の体には、話す・書くなどの行為だけには限定されなく、様ざまな巨視的な動作が生じます。
そして、人間にしょうじる巨視的な動作は、ほぼ、すべて、筋肉運動により形成されます。
そして、もしも脳や運動神経になんらかのトゥラブルが発生すると、からだの動きにも支障の生じることがあります。これは、話す・書くなどの行為だけには限らず、ほとんどの巨視的な動作をけいせいする筋肉組織の動きの発生が、脳での思考作用に依存していることを、あきらかに意味しています。これも否定しがたい経験的事実です。
つまり、人間の巨視的な動作は、ほぼ、すべて、筋肉運動であり、その発生は、脳での思考作用に依存しているのです。ここまで来るとやや奇異に感じられるかも知れませんが、人間の動作は、思考作用に基づき発生しているのです。
すこし詳しく表現すると、次のようなことになります。
まず、話を簡単なものにするため、次のように仮定するものとします。
人間の体には、筋肉運動を制御するための思考パタァンや各種の新陳代謝などのように、動作を効率的に起こすための各種の動作パタァンや動作メカニズムがしっかり実装されていて、脳・運動神経・筋肉組織における一連の動作パタァン・動作メカニズムで構成される筋肉運動も、物質的(機械的)に、全自動で実現される。
しかし、具体的な筋肉運動を実現する一連の動作パタァン・動作メカニズムが動くためには、少なくとも、(脳のどこかに実装されている)その先頭のパタァンないしメカニズムの動作が思考作用によりトゥリガァを引かれなくてはなりません。なぜなら、筋肉運動は、根本的に、動くことを筋肉に静的に求める思考作用に基づかないかぎり決して発生しないからです。
そして、一旦、起動されてしまえば、その後、筋肉運動は、めでたく、全自動で実現されます。
つまり、たとえ人間の体の巨視的な動きがいかに自動化されてようが、その動作が実際に起きるためには、基盤の部分で、先頭の動作パタァンないしメカニズムが、かならず、思考作用により始動されなくてはならないのです。
そして、このことは、先頭の動作パタァンないしメカニズムを担当する物質群の最初の動きをもたらす基本相互作用が、思考作用にもとづき発生する、ということを、意味します。(または、基本相互作用までは発生しなく、たんに、物質群のなか、運動量・角運動量・エナァジなどが不自然に発生する、だけかも、知れません)。
なぜなら、物質は、完全に受動的なものであり、対外的に動くためには、かならず、基本相互作用に受動的に巻きこまれないといけないからです。物質は、基本相互作用に受動的に巻きこまれて初めて対外的に動けるのです。なので、物質が動くということは、その物質には何らかの基本相互作用が働くということを意味します。
そして、思考作用ににもとづき物質が動くということは、その物質を動かす何らかの基本相互作用が、脳または意識により果たされる思考作用にもとづき発生することを、意味するのです。(または、たんに、物質のなか、運動量などが不自然に発生するだけかも、知れません)。
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ただし、たとえ物質群の動きが思考作用にもとづき発生するにせよ、必ずしもそれが不自然とは限りません。
なぜなら、思考作用が、私たちが感じているように感覚的(精神的)なものでなく、脳という物質におき完全に物質的(機械的)に果たされていることも、考えられるからです。この場合、思考作用の動きの結果として、物質群の動きはごく自然に発生しえます。
それでも、もしも思考作用が物質的ではないのなら、物質群の動きが微視的な思考作用にもとづき不自然に発生する可能性はあります。
a) もしも思考作用が物質的であるのなら、生物の体の動きとそれをもたらす基本相互作用――または、基本相互作用のあたりの何らかの物理的な作用――は自然に発生できる。
b) もしも思考作用が物質的ではないのなら、生物の体の動きとそれをもたらす基本相互作用――または、基本相互作用のあたりの何らかの物理的な作用――は不自然に発生することになる。
なので、思考作用が、物質的であるか、微視的であるかは、重要な問いです。
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これから先は、問いは大きく次の二つのケイスに分けられます。
1) 思考作用が物質的である場合。これは私たちの普通の感覚ではとても有りそうには思えません。しかし、この場合、わたしたちの大事な基本相互作用――または、そのあたりの何らかの物理的な作用――は安全で損なわれないままに留まります。しかし、思考作用が物質的であることから考えられる問題については、厳密に説明されないといけません。
2) 思考作用が微視的である場合。これは有りそうです。しかし、これだと、基本相互作用――または、そのあたりの何らかの物理的な作用――がトゥラブルに巻きこまれることになります。それが微視的な思考作用にもとづき(不自然に)発生する枠組ないしメカニズムが解明される必要が生じます。
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そして、思考作用が具体的にはどういうものか、ここでは丸きり分からないにせよ、前記のことからは次のことも分かります。これらは明解です。
c) 思考作用と物質のあいだには何らかの接点がある。
d) 思考作用は物理的なものである。
なぜなら、物質の動きのトゥリガァを引くかたちで、思考作用が物質となんらかの形で相互作用をしているからです。また、物質とのあいだに接点があるのであれば、思考作用はかならず物理的でなくてはならないからです。
それで、上記の二点も、(経験的な事実から導かれる更なる)否定しがたい経験的な事実――間接的な経験的な事実――になります。
《 意識の質は微視的 -- 意識の働きは物質的には果たされない (予想) 》
意識の質が微視的であることは、意識(知性)の働きが物質的には果たされないことと、等価です。
(ちなみに、意識の働きは、生体の全体についての、身体感覚の包括的な働き――観測の働き・情報収集――と、思考の包括的な働き――設計・演算――から、構成されます)。
そして、意識の働きが物質的には果たされないことは、その働きが、脳などの生体の物質的――巨視的・外的――な面では果たされないことを、意味しています。意識は微視的――非物質的――であり、感覚や思考の働きは、脳という物質そのものでなく、まさに意識という脳に重なり発生する非物質的なものにおき果たされます。
意識の働きが物質的には果たされないことについては、節「意識(知性)は、生体の物質的(外的・巨視的)な面にては発生しない (予想・とても重要)」も参照してください。
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意識が、その入力面にても、その出力面にても、物理的であることは、もう判明しています。
しかし、意識の存在様相または質が、物質的――巨視的・外的――であるか、微視的――内的・無形で、触れず、観測や測定が困難で、既知の普通の物理法則が通用しない――であるかは、まだはっきりしていません。
そして、このことは、重要な問題です。なぜなら、意識の質が微視的なばあい、力学的相互作用と基本相互作用のあたりに問題が予想されるからです。その問題が回避されるには、意識が物質的であることが明確に示される必要があります。
可能性は二つあります。
a) 脳という物質そのものや、脳に発生する電磁場などの、物質的(巨視的・外的)なものが、意識である。(意識の質は、物質的)
b) 意識は、脳や電磁場などの物質的なものとは別の妙な実体として、脳に重なり発生する。(意識の質は、微視的)
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ちなみに、普通、なにかの存在は、その存在を示すことで実証されます。なにかの存在は、一度、それが示されれば、それで、十分、実証されるのです。
他方、なにかが存在しないことを実証することはできません。なぜなら、その何かが、どこにも、そして、どのような大きさでも、存在しないことを、実証しなくてはいけないからです。
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そして、意識の質が、物質的であるか、はたまた、微視的であるかの問いは、これに似ています。なぜなら、意識の質が微視的なばあい、意識は、無形で、観測できず、存在しないも同然であり、実証できないからです。
なので、この問いに関しては、意識の質が物質的であるという想定のうえで、物質的なもののなかに意識を探すという、現実的な方法を採用するものとします。そして、もしもどれもが意識でありえなければ、その時には、意識は微視的なものとして発生する他はなかろう、という予想が得られます。幸い、探す場所は限定されています。当面は、脳だけで探せばいいのです。
1) 1個の実体としての統合性を帯びれるものは、量子だけである。
この宇宙では、1個の実体としての統合性を帯びれるものは、唯一、量子だけです。
2) 脳の作用は細かく細分されており、脳の様ざまな部位が個別にそれらの小さな作用を担いている。
脳作用局在論(Theory of localization of brain action)や脳作用マピン(Actional brain mapping)などから、脳の作用は細分されていて、個この部位が個別にそれらの小さな作用を担いていることが、分かりています。
(ただし、それらの作用が脳という物質だけで果たされているか否か、は、ここでは定かではありません。むしろ、脳の働きは、脳という物質と意識の協働と思われます。どちらかが失われても、脳は決して動作しない、と思われます)。
3) 脳は、1個の量子ではなく、統合体でない。
しかし、いかに高度に組織化されて階層化されていようとも、物質としての脳は、無数の脳細胞群の集合体であり、1個の量子では決してありません。そして、量子でなければ統合性は帯びれないので、脳という物質は、1個の統合体でない、と判断されます。
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そして、(説明の方向が少しずれますが)、このことは、決定的です。なぜなら、身体感覚や思考の働きは大きなものであり、その働きを果たすものも、必然的に、大きく、かつ、包括的、かつ、統合的なものでなくては、ならないからです。
つまり、脳などの1個の生体が量子のような統合体でなく、物質のレヴェルでそれに統合性や包括性が具わりてはいないという事実だけから、脳などの生体の物質そのものの面――物質的、巨視的、外的な面――では、(生体の全体にわたる包括性の欠かせない)感覚や思考の働きは果たされえない、と判断されます。
脳は量子のような統合体ではないので、大きな包括性の不可欠な思考(や感覚)の働きが脳という物質そのもので果たされることは、有りえないのです。
思考は、脳という物質そのものでは果たされえません。
(このゆえ、それらの働きは、まさに非物質的な意識におき果たされる、と推測されます)。
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4) 意識は大きな統合的なものである。
脳の作用は細かく細分されていて、個この部位が個別にそれらの小さな作用を担いています。
他方、主観の意識は、脳のひろい範囲で担当される沢山の身体感覚を同時に知覚することができます。たとえば、視覚には多量のデイタが含まれます。また、音の情報量も多量と思われます。さらに、無数の身体感覚と同時に、主観の意識は、複数の思考(思考感覚)も知覚できます。そして、思考は決して単純なものではありません。思考は、たくさんの小さな観念により形成される、と思われます。
すると、主観の意識は、1個の量子ではない脳の無数の脳細胞群で発生する沢山の感覚を同時にすべて知覚していることに、なります。そして、こういう芸当ができることから、意識は大きく統合的なものと、判断されます。
すると、1個の量子ではなく統合体でない脳という物質は、統合的なものと判断される意識では有りえないことに、なります。つまり、脳という物質そのものは、意識ではないのです。
(そして、思考などの意識の働きは、脳という物質そのものでは果たされえないです)。
すると、意識は、なんらかの形で脳に重なりている、ことに、なります。
5) 脳という物質は意識に変化するわけでなく、また、あらたな物質が意識として脳にいきなり出現するわけでもない。
そして、意識は発生したり消滅したりします。これは否定しがたい経験的事実です。
そして、意識は、脳という物質に重なるものなので、発生するさい、脳を構成する物質群(の一部)が、いきなり意識という物質に変化することは、ありません。逆のケイスもありません。脳の物質群(の一部)が、意識という物質に、化学的に変換される、わけでは決してないのです。
また、エナァジ(または、質量)保存の法則により、意識という新たな物質が、脳に、いきなり出現したり消滅したりすることも、ありません。
脳という物質は意識に変化しないし、あらたな物質が意識として脳にいきなり出現するわけでもないのです。
6) 電磁場は意識ではない。
また、脳では、その活動にともない電磁場が発生するそうです。
しかし、電磁場(= 光子)は、ゲイジ粒子の一種です。そして、電磁場は、(他者にたいする根本的な働きかけである)基本相互作用のうちの電磁相互作用をもたらします。電磁場が働くことで、電磁気力が現われます。
そして、それぞれの基本相互作用は、この宇宙が外的にダイナミクに動く根本的な原因であり、それ以上に細かな作用に細分することはできません。不可分なのです。それぞれの基本相互作用は、複合的な作用では決してないのです。
なので、電磁場が、そのまま意識であることや、電磁相互作用のほかに思考作用も有することは、ありえません。脳に生じる電磁場は意識では決してないのです。
7) 脳には、脳という物質と、脳の活動により生じる電磁場のほかに、巨視的なものは存在しない。
そして、脳には、脳という物質と、脳の活動により生じる電磁場のほかに、巨視的(物質的)なものは存在しません。
そして、脳に存在する物質や物質的なものが意識でなく、かつ、ほかに物質的なものが存在しない、という状況で、意識が脳という物質に重なるかたちで発生するなら、意識は、むしろ、微視的なものとして脳に発生する、と判断する他はありません。
つまり、意識(の質)は、微視的なのです。
すると、意識に実装されている身体感覚作用と思考作用(の質)も微視的、ということに、なります。
(身体感覚や思考は、身体感覚作用と思考作用の動きの影のようなものであり、複数の実体――たとえば、脳という物質と意識――のあいだで伝達されることはありません。それはできません。なので、それらが意識に感じられるなら、それらを齎す作用は意識のうちに実装されていなくてはならないのです)。
以上のことから、意識は、無数の脳細胞群の集合体(物質群)に重なるかたちで、1個の、質が微視的な統合体として創発する、妙なものであることが、推測されます。
(物質的な)脳細胞群は、たがいに(物質的な)化学結合をして、1個の大きな量子を形成するわけではありません。それなのに、その全体に重なるかたちで、意識が1個の統合体として創発するなら、それは、(物質性を離れし)奇妙な量子のようなものではないか、と推測されます。そういうものなら、なんらかの物理的な条件が満たされることで、基盤の物質群の化学結合なしに、発生できるかも、知れません。(これは、従来の量子の概念には適合しません。新しい種類の量子になるかも知れません)。
理由の説明を省略すると、主旨は次のようなものになります。
脳は、無数の脳細胞群の集合体であり、量子のような1個の統合体でない。なので、脳という物質そのものは、統合的なものである意識ではありえない。また、脳に発生する電磁場は、基本相互作用の一種である電磁相互作用をもたらすものであり、意識ではありえない。さらに、脳の物質(の一部)が意識に変化する事実なく、あらたな物質が意識として脳にいきなり出現する事実もない。そして、脳には、脳という物質と電磁場以外、物質的(巨視的)なものは存在しない。すると、意識は、物質的でない妙なものとして脳に発生する、と判断される。ゆえに、意識(の質)は微視的である。
(そして、思考などの意識の働きは、脳という物質そのものでは果たされえないです)。
ちなみに、ここまでの検討により、意識(の質)が微視的であることはほぼ確実になりました。なので、力学的相互作用と基本相互作用のあたりに予想される問題は回避されえない、と思われます。詳細については別記します。